第三十話 《奈落の姫》
四人を北部聖療院へ帰したあと、私は空になった治療室を片づけた。
処置台に残った血を拭き取り、使用した器具を洗浄槽へ入れる。再利用できない布は炉工守へ運ばせ、減った薬と循環維持液の数を確認した。
患者が帰れば終わりではない。
次の誰かを受け入れるために、治療室を元へ戻すところまでが必要だった。
《現在の受入患者数:0》
《重篤患者用処置台:3床使用可能》
《軽症治療用寝台:8床使用可能》
《緊急予備寝台:4床使用可能》
《主要医療物資残量:推定7.8日分》
《広域緊急救命転送網:停止中》
「まだ止めておいて」
《指示を受理しました》
北部巡回隊の救助では、二十三人へ同時に手を入れた。
そのうち四人を第七層へ連れ帰り、三日かけて治療した。
魔力には余裕がある。
けれど、自分の血と集中力は減っていた。
眠気も強い。
以前なら、助けを求める反応があるかもしれないと思うと、救命転送網を止めたまま休むことが怖かった。
今は違う。
疲れたまま患者を受け入れる方が危険だと分かっている。
助けるためには、助けない時間も必要だった。
食事を作り、湯を張る。
血に汚れた白い服を脱いで洗浄槽へ入れ、新しいものへ着替えた。湯へ身体を沈めると、肩と指先へ残っていた力がようやく抜けた。
浴槽の中で目を閉じそうになり、身体を洗うだけで上がる。
寝台へ入ると、ほとんど何も考えないまま眠った。
次に目を覚ました時、二十時間が過ぎていた。
銀色の接触印には、眠っている間にいくつもの通信が届いていた。
最初はセラフィナからだった。
《北部巡回隊および避難民、計23名の生存を確認》
《第七層へ収容された4名についても、北部聖療院への帰還を確認》
《中央教会との仮接触規約は継続中》
次はエドガー。
《北部巡回隊の救助に感謝する》
《現地の証言が急速に広がっている》
その後に続いていたのは、知らない送信者からのものだった。
《奈落の姫へ》
《北部聖療院の負傷者を救っていただいたことに、村を代表して感謝いたします》
最初から呼び方がおかしい。
《奈落の姫に救助を求めます》
《西街道で荷車が横転し、三名が負傷しています》
《奈落の姫様》
《病に伏した父を治していただけないでしょうか》
《奈落の姫へ》
《行方不明になった巡礼者をお探しください》
「全部、姫になってる」
接触印には、送信された場所と短い情報が残っている。
救命転送網へ照合すると、西街道の負傷者はすでに近くの町へ運び込まれていた。三人とも生命の危険はない。
病気の男性には現地の治療師がついている。
行方不明者は位置も状態も分からず、救難対象として特定できなかった。
《外部救助要請3件を照合》
《緊急救命対象:0》
《通常医療機関および捜索部隊による対応を推奨します》
「それでいい」
頼まれたからといって、すべてを私が引き受ける必要はない。
ほかの人が助けられるなら、任せればいい。
救命転送網は、町の治療師や神官の仕事を奪うためのものではなかった。
誰にも見つけてもらえず、助ける手が届かず、このままでは死ぬ人を連れてくるためにある。
接触印が再び光った。
《送信者:セラフィナ・レイヴェル》
《対話を要請》
承認すると、待機区画の壁へ薄い光が広がり、セラフィナの上半身が映った。
左脚にはまだ固定具がついている。
背後には記録板が積まれ、治療室ではなく執務室にいるようだった。
『休んでいたのか』
「寝てた」
『二十時間以上、応答がなかった』
「疲れてたから」
『異常がないなら構わない』
以前より声が少しだけ柔らかい。
けれど、表情はいつもとあまり変わらなかった。
「奈落の姫って何?」
セラフィナが黙る。
『もう届いたのか』
「いっぱい来た。全部、私のこと?」
『北部聖療院へ帰還した者の証言から広がったらしい。正確な発生源までは特定できていない』
「消して」
『噂を消す権限は私にもない』
「教会の記録から消せる?」
『公式記録では通称として併記されている』
「もう書いたの?」
『正式な識別名を知らない者同士で情報を共有するには、その方が早い』
「エルセリアでいい」
『お前の名を一般へ公開してもよいのか』
少し考える。
エルセリアは、レオンがくれた名前だった。
知らない人間が勝手に呼ぶことより、知らない文書へ大量に書かれる方が少し嫌だった。
「やっぱり待って」
『ならば、通称が使われる』
「姫じゃない」
『私もそう思う』
「じゃあ止めて」
『私が否定すれば、余計に広がる可能性がある』
「なんで?」
『人間は、本人が嫌がる呼び名ほど面白がることがある』
「よく分からない」
映像の端から、灰色の髪が見えた。
エドガーがセラフィナの横へ顔を出す。
『諦めた方がいい』
「嫌」
『黒い翼で奈落から現れ、大型魔獣を一人で倒し、二十三人を救った。連れ去った四人も三日後には治療されて戻ってきた。普通の治療師では済まない』
「治療する人って言った」
『現地の報告にも、そのまま記録されている』
「なら、それで呼べばいい」
『《奈落の治療する人》では長い』
「治療師」
『地下の吸血種治療師では、別の意味に取られる』
「エルセリア」
『名を公開するのか』
「やっぱり待って」
エドガーが笑った。
面白くない。
セラフィナが記録板を持ち上げ、話を戻す。
『呼び名より重要な報告がある』
「何?」
『第一級収容命令の執行停止が、中央教会の審査を経て正式に承認された』
「前も止まってた」
『あれは交渉担当者へ与えられた一時的権限によるものだ。今回は中央教会の決定として記録された』
「もう捕まえに来ない?」
『現在の条件が維持される限り、中央教会の正規部隊がお前を強制収容することはない』
「研究する人たちは?」
セラフィナの表情が僅かに硬くなる。
『すべての者が決定に納得したわけではない。命令へ従わず、独自に動く者が現れる可能性は残っている』
「来たら止める」
『先に警告しろ』
「一回だけ」
『それでいい』
教会全体が味方になったわけではない。
私も、教会を信用したわけではなかった。
それでも、教会の紋章を見た瞬間から戦う必要はなくなった。
助けを求められれば、応じることもできる。
救った患者を、安全な場所へ帰すことも認められた。
それで十分だった。
『もう一つ確認する』
「何?」
『今後も、中央教会以外からの救助要請を受けるつもりか』
「助けられるなら」
『盗賊でもか』
「患者なら」
『罪人でも?』
「患者なら」
『お前を殺そうとした者でも?』
「セラフィナも治した」
『そうだったな』
セラフィナはそれ以上聞かなかった。
通信が終わる前に、エドガーがもう一度画面へ顔を出す。
『またな、奈落の姫』
「姫じゃない」
『なら、次に会うまでに別の呼び名を決めておけ』
「エルセリア」
『公開してよいのか』
「待って」
通信が切れた。
誰も訂正を聞いてくれなかった。
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広域緊急救命転送網を再開したのは、その日の夜だった。
食事を取り、自分の血液量と反応速度を確認する。
処置台は空いている。
寝台もすべて使える。
水、薬、清浄布、循環維持液も補充した。
《マスターユーザーの身体状態を確認》
《血液量:安全域》
《判断能力:正常》
《反応速度:正常》
《治療継続可能時間:基準値以上》
《現在の重篤患者数:0》
《広域緊急救命転送網の再起動が可能です》
「再開」
《広域緊急救命転送網を起動します》
《救難対象の探索を開始》
第七層の各所へ、淡い光が戻る。
診工守が処置台の横へ移動し、薬工守が薬品棚を確認する。搬工守は空いている寝台の脇へ、患者用の布と水を運んだ。
私は治療室を出て、自分で整えた生活区画へ戻る。
椅子。
机。
食器。
調理台。
湯を沸かす設備。
最初に目覚めた頃には何もなかった。
水も、食べ物も、服もなかった。
自分が誰なのかも分からず、石棺のような設備から出て、魔物の血を飲んで生き延びた。
あの頃は、第七層の外へ出られるとも思っていなかった。
今は、第六層へ続く道を知っている。
黒い翼で飛べる。
二十四時間だけなら、外の世界へ行ける。
死にかけた人を見つけ、ここへ連れて帰れる。
外の人間から助けを求められることもある。
知らない誰かに、変な名前をつけられることもある。
「奈落の姫……」
声に出してみる。
やっぱり、自分の名前には聞こえなかった。
姫になった覚えはない。
国もない。
城もない。
従う人もいない。
あるのは、第七層と治療室だけだった。
《救難対象候補を検出》
表示が開く。
《個体数:1》
《種族判定:人間種》
《自力離脱:不能》
《同行者による救助行動:継続中》
まだ収容条件は確定していない。
誰かが助けようとしている。
《推定死亡まで》
00:43:18
同行者の反応は二つ。
負傷者を挟み、ゆっくりと安全な場所へ進んでいた。
「頑張って」
私が行かなくても助かるかもしれない。
その方がいい。
救助可能性が少しずつ上昇する。
四十二パーセント。
五十三パーセント。
六十八パーセント。
七十九パーセント。
《対象は同行者によって危険区域から離脱しました》
《救難対象候補から除外します》
「よかった」
患者は来なかった。
それでも、一人が助かった。
私が何もしなくても、誰かの手で。
少しすると、別の表示が開く。
《救難対象候補を検出》
《個体数:3》
《自力離脱:不能》
《同行者による救助可能性:0%》
《周辺環境の致死性:確定》
《救難対象として認定します》
三人分の生命反応が並ぶ。
場所も、名前も、所属も違う。
共通しているのは、このままなら死ぬということだけだった。
私は椅子から立ち、治療室へ戻る。
《救難対象3名を収容しますか?》
「受け入れて」
処置台の上へ白い光が集まった。
最初に現れたのは、背中を大きく裂かれた男性だった。
続いて、片腕を失った若い女性。
最後は、全身を火傷した老人。
「診工守、全員見て」
《患者3名の診断を開始します》
男性の出血を止め、女性の切断部へ血糸を通す。老人の焼けた皮膚を冷やし、呼吸を確保する。
三人分の心拍を同時に捉える。
返せる血を分け、本人へ戻す。
傷を閉じ、汚れを洗い、失われた循環を支える。
治療には一日近くかかった。
三人とも元通りにはならなかった。
女性の腕は戻せず、老人の皮膚にも広い傷痕が残った。
それでも、全員の命は残った。
二日後、移送に耐えられるまで回復した三人を、それぞれ安全な場所へ帰す。
最後の一人が光の中へ消える。
《帰還対象の安全を確認》
《転送経路を切断します》
治療室へ静けさが戻った。
私は処置台へ残った器具を集めようとする。
その時、第七層にいる作業個体が一斉に動きを止めた。
診工守。
薬工守。
搬工守。
掃工守。
管路守。
炉工守。
縫工守。
架工守。
別々の場所で作業していたはずのすべてが、同じ方向へ身体を向けている。
「何?」
返事はない。
作業個体は会話をするためのものではない。
けれど、その動きは明らかに普段とは違っていた。
治療室の照明が一度消える。
暗視へ切り替わるより早く、床の奥から低い振動が伝わってきた。
これまで動かしてきたポンプや炉とは違う。
もっと遠く。
もっと大きい。
第七層そのものより深いところで、長い間眠っていた何かが、わずかに身じろぎしたような揺れだった。
壁の表示板へ、見たことのない情報が流れ始める。
《広域緊急救命転送網――安定化》
《救難対象検出機能――正常稼働》
《医療区画受入機能――正常稼働》
《救難管制機能――正常稼働》
《第七主層主要機能の復旧を確認》
「第七主層?」
表示が切り替わる。
《区画情報を更新します》
《第七主層》
《生体兵装維持・広域救難医療区画》
《主層管理権限をマスターユーザーへ移譲》
今まで第七層と呼んでいた場所の、正式な名前。
治療施設だったことは分かる。
広域救難も、今まで使ってきた機能と一致している。
けれど、最初の言葉だけが分からなかった。
「生体兵装って、何」
《照会に必要な上位管理情報が欠損しています》
《該当情報を取得できません》
説明はなかった。
代わりに、床の振動がもう一度強くなる。
壁の一部が淡く発光し、第七層の簡易図が広がった。
治療室。
救難管制区画。
隔離病棟。
薬材製造設備。
生命維持区画。
私が目覚めた石棺のような設備も、一つの小さな記号として表示されている。
その図の外側へ、新しい線が伸びた。
《第七主層の復旧に伴い、上位管理系統との接続を再開します》
《艦内統合管理系統へ接続中》
「艦内?」
聞き返しても、処理は止まらない。
《接続率:4%》
《11%》
《19%》
途中で何度も表示が乱れる。
壊れた文字と読めない記号が流れ、接続率が下がり、また上がる。
《残存管理系統への接続を確認》
《艦籍情報を照合します》
《艦種情報を復元》
長い空白のあと、一つの名称が表示された。
《終末対処戦略兵装運用母艦》
「母艦……」
施設ではない。
建物でもない。
表示がさらに乱れ、黒く消えかける。
最後に残った文字だけが、ゆっくりと形を取り戻した。
《艦名――レムナ》
「レムナ」
初めて聞く名前だった。
壁の簡易図がさらに広がる。
今まで第七層だと思っていた区画が、図の最下部へ縮んでいく。
その上には、閉ざされた六つの巨大な区画が連なっていた。
一つ上にある第六層でさえ、全体の一部にすぎない。
さらにその上へ、暗い区画が五つ。
多くは情報を失い、形さえ崩れている。
けれど、全体が一つの構造としてつながっていた。
第七層は地下深くに造られた治療施設ではなかった。
私が直し、掃除し、食事を作り、患者を連れ帰ってきた場所。
私が家だと思っていた場所は、一隻の船だった。
第三部《二十四時間の境界》 完




