第二十七話 《境界の約束》
セラフィナとユリウスが第七層へ収容されてから、五日が過ぎた。
二人とも生命の危険からは離れている。
セラフィナの腹部は閉じ、傷ついた肝臓と右腎にも新しい出血はない。骨盤の亀裂は安静が必要だが、左脚の骨も正しい位置で固定されていた。
まだ自力では歩けない。
それでも寝台の背を起こし、自分で水と食事を取れるまでには回復している。
ユリウスの右腕には、深血因子によって黒く変質した筋が残っていた。
一度にすべて取り除けば、筋肉や神経まで傷つける可能性がある。そのため毎日少しずつ、活動性のある因子だけを血管へ集め、血糸を通じて体外へ排出していた。
「指、動かして」
私が告げると、ユリウスは右手を持ち上げた。
最初に親指。
続いて人差し指から小指まで、一本ずつ曲げていく。
動きは遅いが、すべて本人の意思に従っていた。
「痛みは?」
「肩の奥に、引かれるような感覚があります」
「手は?」
「少し痺れていますが、触れられていることは分かります」
ユリウスの指先へ布を当てる。
目を閉じさせ、触れる位置を何度か変えたが、すべて正しく答えた。温度の違いも判別できている。
診工守の光が肩から指先までを走査する。
《患者ユリウス・ハーゼン》
《右上肢運動機能:維持》
《末梢感覚:軽度低下》
《活動性深血因子:検出限界以下》
《定着済み因子:2.1%》
《血統変質再開予測:低》
「残っているのではないか」
隣の寝台にいるセラフィナが尋ねた。
「もう増えないところだけ。無理に取る方が腕を傷つける」
「教会の検査で汚染と判断される可能性がある」
「なら、この記録も持っていって」
診工守が作成した診断記録を、外で使われている文字へ変換する。
深血因子の量。
活動性。
血液、筋肉、骨、神経への影響。
処置前と処置後の比較。
以前、ミレアたちの治療記録を作った経験があるため、読める形へ変える作業はすぐに終わった。
記録板を受け取ったセラフィナは、内容を何度も読み返していた。
「ここまで詳細な血統検査を行える設備は、中央聖療院にもほとんどない」
「診工守が調べた」
「この作業個体を教会へ貸し出す意思は?」
「ない」
「即答か」
「ここからいなくなったら、次の患者を診られない」
「複製するための構造調査は」
「壊されるかもしれないから嫌」
セラフィナは何も言わず、記録板へ視線を戻した。
教会へ戻ったあとに聞かれる質問を、先に確かめているのだと思う。
ユリウスは自分の右手を握り、ゆっくり開いた。
「切断されるものと考えていました」
「切らなくても治せた」
「教会の標準処置では、胸部へ達した深血変質は感染拡大を防ぐため切断対象になります」
「もう感染しない」
「その判断を信じるかどうかは、戻ったあとの審査次第です」
「腕を切ろうとされたら?」
ユリウスは答えなかった。
代わりに、セラフィナが記録板を置いた。
「私が止める」
「第一審問官であっても、血統審査局の決定へ無条件に介入はできません」
「この記録と、私自身の証言がある。少なくとも検査もせず切断させるつもりはない」
「任務への復帰を妨げる可能性があります」
「右腕を失えば、復帰そのものが難しくなる」
二人の話し方は固い。
けれど、セラフィナの言葉を聞いたユリウスは、それ以上反論しなかった。
私は診工守へ最終診断を命じる。
二人の身体へ光が走り、傷の状態が順番に表示された。
《患者セラフィナ・レイヴェル》
《腹部臓器損傷:安定》
《左大腿骨:固定状態良好》
《転送耐性:充足》
《現在の設備で実施可能な治療を完了しました》
《患者ユリウス・ハーゼン》
《右肺損傷:閉鎖》
《右上肢血統変質:停止》
《転送耐性:充足》
《現在の設備で実施可能な治療を完了しました》
《新規患者2名の治療完了を確認》
《個別治療報酬:SP+4》
《保有SP:4》
二人分の報酬が入った。
今すぐ技能へ使うつもりはない。
影蔵を広げるには足りるかもしれないが、次に必要なものが分かるまで残しておく。
「治療、終わった」
私が伝えると、ユリウスは寝台の上で姿勢を正そうとした。
右腕は動くが、胸部の傷と肋骨はまだ完全に治癒したわけではない。無理に身体を起こそうとしたため、肩へ血糸を巻いて止める。
「帰れるだけ。治ったから動いていい、ではない」
「承知しています」
「今、動こうとした」
「挨拶のためです」
「寝たままでいい」
ユリウスはしばらく迷ったあと、頭だけを下げた。
「セラフィナ様と私を救命し、右腕まで残していただいたことには、感謝します」
「うん」
「しかし、中央教会からの任務が消失したわけではありません」
「帰ったら、また捕まえに来る?」
「命令が維持されていれば、審問官として従う義務があります」
セラフィナが横から口を挟む。
「ユリウス。対象を無条件で収容することには、私が反対する」
「ですが、第一級敵性指定は」
「指定の根拠となった記録に不足がある。危険性の評価そのものをやり直すべきだ」
ユリウスは驚いたように上官を見た。
「深血心核へ適合し、これだけの血液操作能力を持つ個体です。危険性がないとは」
「危険性がないとは言っていない」
セラフィナの右目が私へ向く。
「強い力を持ち、教会の管理外にいる。危険性だけで見れば、収容を求める意見は理解できる」
「じゃあ、やっぱり敵?」
「話を最後まで聞け」
「聞いてる」
「お前は、我々を殺せる状況で治療した。収容命令を持っていると知ったあとも、処置を中止せず、ユリウスの右腕も残した。その事実を無視して、既存の吸血種と同じ基準で処分することには反対する」
味方になったわけではない。
私の力を危険だと思う気持ちも変わっていない。
それでも、最初から捕まえることだけを考えていた時とは違っていた。
「教会へ入る意思はないのか」
セラフィナが改めて尋ねた。
「ない」
「保護と監督を受け入れる意思も?」
「保護はいらない。監督も嫌」
「施設の一部を共同管理することは」
「ここは私の家」
「教会が安全を保証すると言ってもか」
「武器を持って捕まえに来た人の保証は、まだ信用しない」
セラフィナは反論しなかった。
「では、教会が再び武力を向けた場合はどうする」
「止める」
「抵抗者を殺すのか」
「殺さなくていいなら殺さない。影縛で止める」
「殺す必要があると判断した場合は?」
「患者を殺そうとしたら、止められる方法を使う。それで死ぬかもしれない」
嘘をついて、絶対に殺さないと言うつもりはなかった。
魔物と戦った時も、患者を守るために殺した。
教会の人間でも同じことをすれば、戦うことになる。
セラフィナは私の答えを聞き、静かに頷いた。
「その内容も含めて報告する」
「悪く書く?」
「事実をそのまま書く。教会全体がどう判断するかは約束できない」
「それでいい」
「ただし、第一級収容命令の即時執行には、私の名で異議を申し立てる」
ユリウスが何かを言いかけたが、セラフィナは視線だけで止めた。
「次に来る時は、捕らえるためではなく話すために来る」
「武器なしで」
「交渉役へ伝える」
「セラフィナも?」
「必要なら同行する」
「ユリウスは?」
右腕を見た。
感覚も動きも残っているが、しばらく安静が必要だった。
「彼は治療記録の検証を受ける。すぐには任務へ戻せない」
ユリウスは不満そうだったが、今度は反論しなかった。
帰還先は、中央教会が管理する聖療院の中庭を指定した。
武装した人間の反応は多い。
けれど、治療設備と神官の生命反応も確認できる。転送直後に二人を処刑しようとする動きがあれば、経路を切る前に分かるよう監視を残す。
《任意集団帰還》
《帰還対象:2》
《目的地:中央聖療院・西中庭》
《転送耐性:充足》
セラフィナは移動用の椅子へ座り、ユリウスも胸部を固定した状態で隣へ並んだ。
二人の武器は返さない。
銀の命令板だけは、セラフィナの要求に従って戻した。
「剣は?」
ユリウスが尋ねる。
「次に武器なしで来る約束だから、いらない」
「帰還先で自衛する必要があります」
「教会の中で襲われるの?」
「可能性は低いですが、審問官は常に武装する規定です」
「別のを借りて」
ユリウスは納得していなかったが、セラフィナは何も言わなかった。
代わりに、私へ一枚の小さな銀板を差し出す。
「接触印だ。教会側からお前へ一方的に転移する機能はない。こちらから対話を求める意思だけを送る」
診工守に調べさせる。
《外部通信術式》
《位置追跡機能:検出なし》
《転移経路形成機能:なし》
《短文情報の受信が可能》
危険なものではないらしい。
銀板を受け取り、治療室の作業台へ置く。
「勝手に来ない?」
「その印だけでは不可能だ」
「なら置いておく」
帰還を実行する。
白い光が二人を包み始めた。
ユリウスは最後までこちらを警戒していたが、以前のように剣へ手を伸ばすことはなかった。
セラフィナは光の中で、もう一度私を見た。
「次は話をする」
「武器なし」
「分かっている」
「怪我もなしで来て」
わずかな間が空いた。
「努力する」
エドガーと同じ返事だった。
「教会の人、そればっかり」
セラフィナの口元がほんの少しだけ動く。
笑ったのかもしれない。
二人の姿が消えた。
監視映像には、中央聖療院の中庭へ現れた二人と、慌てて駆け寄る神官たちが映っていた。
武器を向ける者はいない。
セラフィナは治療記録と命令板を掲げ、集まった者たちへ何かを命じている。ユリウスの右腕を見て驚く者はいたが、その場で切断しようとする動きもなかった。
《帰還対象の安全を確認》
《転送経路を切断します》
二人がいた寝台だけが治療室へ残る。
「患者、ゼロ」
《現在の受入患者数:0》
今度はすぐ救命転送網を停止する必要はない。
身体は疲れているが、判断力も血液量も基準を下回っていなかった。寝台を整え、使った器具を洗浄すれば、次の患者を受け入れられる。
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銀色の接触印が光ったのは、二人を帰してから四日後だった。
《外部接触要請を受信》
《送信者:セラフィナ・レイヴェル》
《要請内容:中央教会代表との対話》
《同行希望者:1》
「二人で来る?」
《接触希望者情報を確認します》
最初に表示されたのはセラフィナだった。
腹部と脚はまだ治療中のはずだが、生命状態は安定している。歩行補助具を使っている反応もある。
同行者はエドガー・ローディス。
以前助けた聖堂騎士隊長だった。
「偉い人じゃない」
《エドガー・ローディス》
《中央教会聖堂騎士団所属》
《地下聖堂調査隊生還者代表》
《中央教会臨時交渉権限を保有》
正式な権限は与えられているらしい。
二人とも武器を持っていない。
追跡術式も検出されなかった。
ただし、セラフィナの脚はまだ完全には治っていない。ここへ呼ぶなら、帰還後も無理に歩かせない方がいい。
「待機区画へ。椅子も用意して」
《接触を承認します》
治療区画ではなく、隣の待機区画を使う。
長机を挟んで椅子を三つ置き、水も用意した。武器を持っていないため、影縛を使う必要はない。
白い光の中から、セラフィナとエドガーが現れた。
セラフィナは左脚に固定具をつけ、杖を使っている。エドガーも腹部へ帯を巻いていたが、自分で歩ける程度には回復していた。
「また怪我してる」
「新しい傷ではない」
セラフィナが椅子へ座る。
「外部の聖療院へ移った時点で、お前の治療は完了している。今は回復期間だ」
「なら歩かない方がいい」
「交渉のために来た」
「座って話せる」
エドガーは以前と同じ灰色の目で、拡張された治療区画を見回していた。
「寝台が増えたな」
「十一人来た時に足りなかったから」
「そのために、これだけ整えたのか」
「次も来るかもしれない」
二人へ水を出す。
セラフィナは以前のように毒を疑わず、一口飲んだ。エドガーもそれを見てから器を取る。
「交渉の内容は複雑ではない」
セラフィナが銀の記録板を机へ置いた。
「互いに、最低限守る条件を確認する。今の段階で同盟や正式な協力関係を結ぶつもりはない」
「教会に入る話なら断る」
「その話ではない」
記録板には、教会側が求める三つの条件が書かれていた。
一つ目。
人間種に対する無差別な捕食、殺傷、血統変質を行わない。
「してない」
「確認のための条件だ」
二つ目。
深血心核を利用し、新たな血統個体や眷属を作らない。
「作らない。あれは患者へ使うものじゃない」
三つ目。
救助した教会関係者を、治療と安全確認が完了したあとに帰還させる。
「帰りたくない人は?」
「本人の意思を無視して引き渡せとは書いていない。ただし、教会側へ生存と意思を伝える手段は必要になる」
「無理に帰さなくていいなら分かった」
教会側の条件は、それだけだった。
代わりに、私の条件を尋ねられる。
難しく考える必要はなかった。
「私と第七層を、教会のものにしない」
セラフィナが記録へ書き込む。
「所有権および強制管理権を主張しない、でよいか」
「たぶん」
「意味を理解しているのか」
「私の家に勝手に入って、私へ命令しないこと」
「十分だ」
「治療する場所へ武器を持ち込まない。外で持ってても、ここでは置く」
エドガーが確認する。
「患者の護衛が必要な場合は?」
「患者を守るためでも、治療区画では使わせない。危ないものが来たら私が止める」
「施設の防衛を信用することが条件になるな」
「信用できないなら外で待って」
三つ目は、深血因子を受けた患者についてだった。
「変わりかけてても、調べずに殺さないで」
セラフィナの手が止まる。
「活動性の深血因子が確認された者は、周囲へ被害を広げる危険がある」
「だから調べる。戻せるなら戻す。ユリウスも戻せた」
「お前の治療をすぐ受けられない場合もある」
「その時は閉じ込めてもいい。でも、最初から腕を切ったり殺したりしないで」
エドガーとセラフィナが視線を交わした。
すべての患者を必ず助けられるとは限らない。
暴れて周囲を襲う者も出るかもしれない。
それでも、調べる前から魔物として処分することだけはやめてほしかった。
「教会の全規定を即座に変えることはできない」
セラフィナは正直に答えた。
「しかし、深血汚染者の処分前に検査と治療可能性の判定を行うことは、今回の記録を根拠に提案できる」
「セラフィナとユリウスを見せれば?」
「すでに検査は行われた。ユリウスの活動性因子が消失していることも確認されている」
「腕、切られてない?」
「残っている」
「よかった」
エドガーが記録板をまとめる。
「要するに、お前の条件は三つだ」
「うん」
「所有しない。治療区画へ武器を持ち込まない。血統汚染者を調査せず処分しない」
「あと、患者は助ける」
「それは条件ではなく、お前自身の方針だろう」
「同じじゃない?」
「少し違う」
よく分からない。
けれど、書かれた内容は間違っていなかった。
記録板へ双方の承認を入れる。
私が手を触れると、施設の表示にも内容が登録された。
《外部組織との仮接触規約を登録します》
《対象組織:中央教会》
《相互敵対行動:一時停止》
《第一級収容命令:執行停止を確認》
《救助対象の安全帰還:相互保証》
《治療区画への武装持込:禁止》
《第七層に対する所有権および強制管理権:承認せず》
《必要時の接触経路を仮登録》
「収容命令、なくなった?」
「撤回ではなく、執行停止だ」
セラフィナが答える。
「お前が条件へ違反した場合や、新たな危険性が確認された場合は再審査される」
「教会が破ったら?」
「こちらとの接触を拒否して構わない。武力侵入を受けた場合は、自衛権も否定しない」
「殺してもいい?」
「可能な限り殺すな」
「私もそのつもり」
完全に信用されたわけではない。
私も教会を信用していない。
それでも、次に顔を合わせた瞬間から戦う必要はなくなった。
それだけで十分だった。
話が終わると、エドガーはすぐには帰還を求めず、空になった寝台の列を眺めていた。
「外では、お前についていくつか噂が広がっている」
「吸血鬼?」
「それもある。地下聖堂から十二人を生還させ、異端審問官二人まで治療したからな。教会が情報を隠し切るのは難しい」
「何て言われてる?」
「血を奪わず、死にかけた者へ返す吸血鬼」
それは間違っていない。
「ほかには、黒い翼で奈落から負傷者を運ぶ女。死者が落ちる前に連れ去る地下の治療者」
「死者は治せない」
「噂に正確さを求めるな」
「変な名前もある?」
エドガーは少し考えた。
「いくつか聞いたが、まだ定まってはいない」
「なら、そのままでいい」
名前が増える必要はない。
エルセリアだけで十分だった。
帰還準備を始めようとした時、机の上に置いていた接触印とは別の表示が開いた。
《外部救助要請を受信》
自動的に死にかけた生命を見つける救命転送網とは、反応が違う。
誰かが、こちらへ向けて意図的に助けを求めている。
《送信元:中央教会北部巡回隊》
《負傷者:推定23名》
《周辺に大型魔獣群を確認》
《救助要請者は仮接触規約を参照しています》
エドガーとセラフィナも、私の表情が変わったことへ気づいた。
「何か起きたのか」
「教会から、助けてって来た」
ついさっきまで、私を捕らえようとしていた組織だった。
その教会から、初めて正式な救助要請が届いている。
《現地派遣による介入が可能です》
《推定救命可能数:18から23》
《現地派遣を実行しますか?》
私は拡張した治療区画を見る。
寝台はある。
水も薬も食料もある。
受け入れる場所は、もう作ってある。
「行く」




