第二十話 《十一人の患者》
六台の移動台を連れて最深部を出ると、内陣へ続く通路の傾斜がすぐに問題になった。
車輪は平らな床を移動するためのもので、石段を上るようには作られていない。無理に引けば患者の身体が大きく揺れ、せっかく安定した心拍が再び乱れる。
私は移動台へつないでいた血糸を天井と左右の壁へ張り直した。
「少し浮かせる」
「六人を同時にですか?」
空になった移動台へ横たわるミレアが、上半身だけを僅かに起こした。
「引くだけなら平気」
魔力は十分に残っている。
血糸を増やすために使う自分の血も、先ほど魔獣の血を飲んだことである程度は補えていた。
問題は患者を揺らさないことだった。
血糸を一本ずつ収縮させ、六台の前輪を石段から数センチ浮かせる。後輪だけを床へ触れさせたまま、一段ずつゆっくり引き上げた。
患者たちの呼吸と心拍を《血液感知》で追いながら進む。
深血心核の補助から離れたばかりの若い男は、今も心拍が弱かった。少し揺れるだけで間隔が崩れ、そのたびに血糸を止めて安定するのを待たなければならない。
六台を運び終えるまでに、内陣を抜けた時より長い時間がかかった。
礼拝室の扉が見えると、内側からセイルの声がした。
「合図を」
「私。患者が六人増えた」
返事が途切れた。
やがて扉が開き、弩を構えていたセイルが移動台の列を見て目を見開いた。
「本当に全員を連れてきたのですか」
「一人目も入れたら七人。全員生きてる」
礼拝室の中では、ガルドが入口に近い壁へ背中を預けていた。折れた左腕は固定したままだが、右手には剣が握られている。
私の後ろに並ぶ患者を数え、剣を床へ置いた。
「十一人か」
「うん。狭い」
「問題はそこなのか?」
「治療する場所が足りない」
礼拝室は一時的に休むだけなら広かったが、十一人の負傷者を寝かせ、処置するには狭すぎる。
長椅子をすべて壁際へ動かし、中央の床へ清浄布を敷いた。移動台から下ろせる者は布の上へ移し、循環が不安定な若い男と、腹部に深い傷を負ったルークだけは台の上へ残した。
最初に救出した女性は、私たちが戻る直前に意識を取り戻していた。
六台の中から息子を見つけると、床へ手をつきながら近づこうとする。
「動かないで」
「息子は……」
声は掠れ、身体を支える腕も震えている。
私は彼女の息子を乗せた台を近くへ移した。
「生きてる。心臓も自分で動いてる」
女性は手を伸ばし、息子の頬へ触れた。
目を覚ます気配はなかったが、弱い呼吸が続いていることを確かめると、張り詰めていた力が抜けたように額を台へ押しつけた。
泣く声はほとんど出なかった。
「名前は?」
私が尋ねると、女性は何度か息を整えてから答えた。
「私はエナ……息子は、ニルスです」
「分かった。エナも寝てて」
「ほかの方々は」
「今から見る」
七人の状態を並べて確認する。
エナと、定着率の低かった男女二人は、自発呼吸も循環も維持できている。血液の中には深血因子が残っているが、すぐに変質が再開する様子はなかった。
筋肉が硬く変化していた男は、全身へ小さな痙攣を繰り返している。
残る二人も意識はなく、血液量と体温が低下していた。
最も危険なのは、ニルスとルークだった。
《現地救難対象群》
《重篤:2》
《中等症:5》
《経過観察:4》
《現地治療の継続を推奨します》
帰還まで三十三時間。
診工守も薬工守もいない状態で、全員を生かさなければならない。
「二人を優先する」
ルークの腹部から、新しい出血は感じない。
それでも傷の内側には炎症が始まっていた。完全に洗浄できておらず、腸管にも小さな損傷が残っている可能性が高い。
今ここで腹部を開くのは危険だった。
診断設備のない場所で見えない傷を探せば、治せるものまで傷つけるかもしれない。薬を入れ、体温と循環を保ち、施設へ戻れるまで悪化を遅らせる方がいい。
ニルスには、心臓の働きを補助する必要があった。
自発的な鼓動は戻っているが、全身へ十分な血を送れる強さではない。胸元へ手を当て、血液感知で心臓の動きを追う。
一度打つ。
長い間が空く。
次の鼓動も弱い。
私は指先から細い血糸を伸ばし、胸部と首、手首へ触れさせた。
血管の中へは入れない。
皮膚の上から流れを感じ、心臓が打つたびに血糸を僅かに締め、身体の末端から戻る血を補助する。
「ずっと続けるのですか?」
ミレアが横になったまま尋ねた。
「心臓が強くなるまで」
「あなたは眠れません」
「寝なくても二日くらいなら平気」
実際に試したことはない。
それでも、今は交代できる者がいなかった。
セイルが入口から離れ、ニルスの近くへ座る。
「合図を決めてください。あなたがほかの処置をしている間、私が糸の動きを数えます」
「血は動かせない」
「異常に気づくことはできます」
ニルスの胸元へ触れる血糸は、心拍に合わせて僅かに赤く光っている。
止まったり、間隔が大きく変わったりすれば、セイルにも分かる。
「光らなくなったら呼んで」
「分かりました」
ガルドには入口を任せるつもりだったが、彼も患者だった。
「ガルドは寝て」
「見張りが必要だ」
「肋骨がずれたら、治す人が増える」
「すでに十一人いる。今さら一人増えても変わらないだろう」
「変わる」
「冗談だ」
顔は笑っていなかった。
それでも剣を手放し、壁へ身体を預け直した。
警戒を解いたわけではなく、今は私の指示に従う方が全員のためになると判断しただけだと思う。
最初の数時間は、ほとんど休む時間がなかった。
ニルスの循環を補助しながら、ルークの熱と呼吸を確認する。痙攣を起こしている男へ薬を入れ、エナたちの血液から残った深血因子を少しずつ分離した。
一度に大量の血を抜くことはできない。
少量を回収し、本人の血だけを《返血》で戻す。
黒い因子は別の容器へ残す。
深血心核から切り離されても、黒い血はしばらく動き続けていた。
容器の中で細い筋へ分かれ、人間の血へ戻ろうとするたび、血糸で押さえて分離する。
三人目の処置をしている最中、視界へ表示が現れた。
《外部血統因子の再解析を完了しました》
《排除率:99.72%》
《微量血統因子の残留を確認》
「残ってる?」
自分の足へ意識を向ける。
深血心核の血が触れた場所には傷も変色もない。血液感知で全身を確かめても、異物らしい流れは見つからなかった。
《残留因子:0.28%》
《マスターユーザー血統との自発的結合を確認》
《敵対的変質:現時点で確認なし》
《血統適合を開始します》
「いらない」
体内に残っているなら、返血で深血心核へ戻せるかもしれない。
自分の血へ意識を向け、異物だけを探す。
けれど、反応はなかった。
《残留因子はマスターユーザー血統により分解・再構成されています》
《現在、外部血液として識別できません》
「勝手に混ざった」
私の言葉に、ミレアが顔を向けた。
「どうしました?」
「心臓の血が少し残ってる。でも、もう私の血になってるみたい」
「身体に異常は?」
「今はない」
正確には、以前より深血因子の位置が分かりやすくなっていた。
容器へ残された黒い血を見るだけで、どの因子が人間の身体へ定着しやすく、どの部分がすでに力を失っているのかを感じ取れる。
それまで黒い塊にしか見えなかったものが、いくつもの異なる流れへ分かれていた。
「処置がしやすくなった」
「それは、その血の影響ですか?」
「たぶん」
「危険ではないのですか」
「分からない。だから増やさない」
深血因子を取り込んで力を得るつもりはない。
残ってしまった分が害を及ぼさないなら、今は患者の処置を優先する。
血統適合の表示を閉じ、四人目の血液分離へ移った。
帰還可能まで二十四時間を切った頃、十一人の状態は少しずつ安定し始めていた。
ニルスの心臓は、補助を弱めても一定の間隔で動くようになっている。
血糸を完全に外すことはできないが、私が一度ごとの鼓動を作る必要はなくなった。流れが弱くなった時だけ補えばいい。
ルークの熱は上がっていたものの、呼吸と血圧は維持できている。
筋肉が変質していた男の痙攣も薬によって治まり、黒く変色していた爪と血管は少しずつ本来の色へ戻っていた。
ミレア、セイル、ガルドの傷も悪化していない。
エナは眠っている息子の手を握りながら、時折目を覚まして呼吸を確かめていた。
《現地救難対象群》
《重篤:2》
《中等症:3》
《経過観察:6》
《死亡予測:全対象で一時解除》
「全員、生きてる」
まだ治療は終わっていない。
施設へ戻り、診工守による検査と正式な処置を行う必要がある。特にルークとニルスは、帰還までに一度でも状態が崩れれば危険だった。
それでも、十一人全員が今すぐ死ぬ状況からは離れた。
私は壁へ背中を預け、血糸の感覚を保ったまま座った。
眠りはしない。
目を閉じ、礼拝室にある心拍だけを数える。
一つ。
二つ。
三つ。
十一。
それに自分を加えて、十二。
重なった心音の中へ、新しい表示が現れた。
《血統適合率:3.46%》
《深血因子の従属化が進行しています》
《血統汚染耐性:上昇》
《異種血統因子識別精度:上昇》
敵対的な変質は起きていない。
逆に、私の血統が深血因子を自分の下へ組み込み、使える形へ変えているらしい。
「私の血の方が強い?」
答えは表示されなかった。
ただ、身体を変えようとしていたはずの因子は、今では私の血へ従うように静かになっている。
このまま適合が進めば、何か新しい力になるかもしれない。
今は必要なかった。
強さより、十一の心音を帰還までつなぐ方が先だった。
《帰還可能まで》
23:41:08
深血心核の部屋を出てから、十時間以上が過ぎている。
残りは、ほぼ一日。
私は目を開き、弱くなったニルスの鼓動へ血糸を合わせた。
「まだ帰れない。もう少し頑張って」
眠っている彼から返事はない。
それでも次の鼓動は、さっきより少しだけ強かった。




