第十九話 《深血心核》
最深部へ戻ると、深血心核の鼓動は先ほどより強くなっていた。
巨大な心臓が収縮するたび、天井から垂れた鎖が一斉に震え、床を走る赤い溝へ波紋が広がる。私が生命維持に必要な量まで抑えたはずの流れも少しずつ増え、残された六つの容器へ赤黒い液体が注ぎ込まれていた。
《深血心核制御維持予測》
1:18:43
《自律抵抗により制御可能時間が短縮されています》
「さっきより早い」
最初に救出した女性が入っていた空の容器の近くへ、ミレアを座らせる。折れた左脚が動かないよう血糸で固定すると、彼女は中央に吊られた心臓を見上げ、首から下げた銀の印章を強く握った。
「これが古い教会の術式……」
「止め方、分かる?」
「少し時間をください。今の教会で使われているものとは形が違いますが、基本となる文字は読めます」
ミレアは床へ右手を触れ、赤い溝の周囲へ刻まれた文字を目で追い始めた。
私はその間に、六つの容器を順番に確認する。
一人目を外してから、残された者たちの血統因子定着率は僅かに上昇していた。深血心核から送られる量は抑えていたが、すでに体内へ入り込んだ因子が自力で組織へ広がっている。
《対象二》
《血統因子定着率:24%》
《対象三》
《血統因子定着率:61%》
《対象四》
《血統因子定着率:19%》
《対象五》
《血統因子定着率:72%》
《循環補助依存:極めて高い》
《対象六》
《血統因子定着率:46%》
《対象七》
《血統因子定着率:33%》
五番目の容器に入った若い男性だけは、自分の心臓で循環を維持できていない。
深血心核から送り込まれる血を止めれば、数十秒も持たない可能性があった。
「一人ずつ外すのは危険かもしれません」
床の術式を調べていたミレアが顔を上げた。
「どうして?」
「七つの器で一つの儀式を構成しています。すべてを均等に満たしたあと、中央へ力を戻す仕組みです。一つの器が外れれば、その分が残った器へ分配されます」
だから一人目を助けたあと、残る六人の変質が僅かに早まった。
「先に言ってほしかった」
「私も今、初めて読み解いたところです」
「ミレアにじゃない。これに」
深血心核へ視線を向ける。
巨大な心臓は変わらず脈打っていたが、床を走る赤い光が一度だけ強くなった。こちらの言葉へ反応したようにも見えた。
「残りを一人ずつ外したら、最後の人へ全部流れる?」
「おそらく。六つ分の流れが一つへ集中します」
最後に五番目の男性が残れば、確実に耐えられない。
けれど、今の状態で先に外すこともできない。
「全員まとめて止めるしかない」
ミレアは中央から枝分かれする七本の溝を指でなぞった。
「血統因子を注入する術式と、生命を維持する循環術式は別になっています。こちらを反転させれば、深血心核から送るのではなく、器の中にある異物を中央へ返す流れを作れるかもしれません」
「人間の血も持っていかれる」
「そこを、あなたの力で分けられませんか」
できる可能性は高い。
《返血》は、血が誰のものなのかを判別できる。
一人目の処置でも、女性自身の血だけを身体へ戻し、深血心核の血は回収容器へ残せた。
問題は六人を同時に処理することだった。
魔力の量なら足りている。
血糸を何十本使っても、魔力が尽きる心配はほとんどなかった。
けれど、血糸そのものは私の血から作られる。数を増やし、太さを維持するほど、身体の中にある血液は確実に減っていく。
さらに、六人分の心拍と血流を同時に区別し続けなければならない。
一人の血を別の人間へ戻せば、それだけで治療ではなくなる。
「ミレアは流れを反対にして。私は血を分ける」
「分かりました。ただ、術式を反転させれば深血心核が抵抗するはずです」
「もう狙われてるから同じ」
「同じではない気がしますが……」
ミレアは不安そうな表情を残したまま、銀の印章を床の窪みへ押し当てた。
白い光が印章から広がり、赤い術式の一部へ重なっていく。
「始めます」
床の溝を流れていた液体が一瞬だけ止まった。
ミレアが古い言葉で祈りを唱えると、赤い光が中央から容器へ向かう流れをやめ、反対方向へ揺れ始める。
巨大な心臓が強く収縮した。
鎖が一斉に鳴り、部屋全体へ低い振動が広がる。
《外部操作を検知》
《深血心核の自律防衛が起動しました》
床の溝から赤黒い液体が溢れ、細い触手のように持ち上がった。
一本がミレアへ向かう。
私は彼女の前へ影を広げ、伸ばした右手から血糸を放った。赤い糸が液体へ巻きつき、床へ押しつける。
触れた部分から、冷たい異物が血糸を遡ろうとした。
身体へ届く前に糸を切る。
「止めなくていい。続けて」
「ですが、あなたが」
「これは何本来ても平気」
魔力には余裕がある。
必要なら影も血糸も、さらに増やせる。
問題は、深血心核へ触れた血を身体へ戻さないことと、血糸の材料を使いすぎないことだった。
私は六つの容器へ左手を向けた。
指先から伸ばした血糸を細く分け、容器へつながる管へ一本ずつ接続していく。流入と排出を合わせれば、必要な本数は三十を超えた。
六人分の血へ意識を向ける。
それぞれ違う。
温度も、濃さも、流れる速さも、心臓が打つ間隔も異なっていた。
「《返血》」
六つの容器の中で、血が同時に揺れた。
《複数対象を確認》
《返血対象:6》
《同時処理により識別精度が低下します》
《実行を継続しますか?》
「続ける」
まずは自発循環が安定している二番目と四番目から始めた。
管を通じて少量の血を取り出し、所有者本人の血だけを選別して戻す。黒い血統因子は途中で分かれ、ミレアが反転させた術式を通って中央の心臓へ戻っていった。
《対象二》
《血統因子定着率:24%》
《20%》
《対象四》
《血統因子定着率:19%》
《15%》
血糸を操作すること自体は難しくない。
ただし、一人目の血流を見ながら二人目の心拍を追い、その間にも残る四人の循環を維持しなければならない。
六つの心音が重なり、意識の中で鳴り続ける。
少しでも集中を崩せば、誰の血を扱っているのか分からなくなる。
右手では深血心核から伸びる液体を押さえ、左手では六人分の血を分ける。魔力はほとんど減っていなかったが、血糸を増やすほど、自分の身体から使える血液が削られていった。
「顔色が悪くなっています」
ミレアが術式を維持したまま、こちらを見た。
「血を使ってるだけ。まだ足りる」
「魔力ではなく?」
「魔力は大丈夫。血の方」
「それは大丈夫と言わないのでは」
「終わってから飲む」
魔獣の血は《影蔵》に残っている。
今すぐ飲めば補えるが、六人分の血を識別している途中で集中を切りたくなかった。
二番目と四番目の因子を、一人目と同じ程度まで下げる。
《対象二》
《血統因子定着率:9%》
《容器外での生命維持:可能》
《対象四》
《血統因子定着率:8%》
《容器外での生命維持:可能》
「開ける」
二つの容器の固定具を同時に外した。
透明な壁が左右へ開き、内部の液体とともに二人の身体が前へ倒れる。血糸で受け止め、床へ敷いた清浄布の上へゆっくり降ろした。
身体へ刺さっている管は一本ずつ外す。
急にすべて抜けば、血圧が変化する可能性がある。
二人とも自力で呼吸していた。
心拍も弱いが安定している。
しかし、二つの器が空になった瞬間、残る四人へ向かう流れが強くなった。
《深血心核出力上昇》
《残存対象への転写圧力が増加しています》
「押し返しています!」
ミレアの印章から放たれる白い光が、赤い術式へ押され始めた。
手は震え、額には汗が滲んでいる。
彼女の魔力は尽きかけていた。
「次を早くする」
六番目と七番目へ意識を移す。
二人とも先ほどより定着率が高い。
少量を回収し、本人の血だけを戻す。
黒い因子は中央へ返す。
同じ処理を何度も繰り返すほど、容器の底へ暗い沈殿が増えていく。
深血心核は、返された因子を取り戻すように床の液体を動かした。
赤黒い触手が今度は私の足首へ絡みつく。
影で押さえたが、液体は影へ沈まず、そのまま皮膚へ触れた。
冷たいものが血管の中へ入り込む。
《外部血統因子の侵入を確認》
《血統捕食が自動反応しています》
《摂取による適応を開始しますか?》
「しない」
魔力が不足しているわけではない。
それでも、身体はこの因子を求めていた。
取り込めば、今より強く血を操れる。
さらに多くの血糸を生み、もっと遠くの血液まで支配できる。
そんな確信が、異物と一緒に流れ込んでくる。
「私の血じゃない」
足から入り込んだ血統因子へ《返血》を向けた。
この血が帰るべき場所は、私ではない。
中央に吊られた深血心核だった。
「戻って」
赤黒い血が皮膚から押し出され、床の溝へ落ちる。
深血心核が激しく脈打った。
《外部血統因子を排除》
《返血対象:深血心核》
《血統適合を拒絶しました》
身体の奥にあった誘惑が僅かに弱くなる。
「今のは何ですか?」
「心臓の血。入れられたから返した」
ミレアは驚いた様子だったが、術式から手を離さなかった。
「あとで詳しく聞きます」
「忘れてなかったら」
六番目と七番目の処置を続ける。
《対象六》
《血統因子定着率:13%》
《11%》
《対象七》
《血統因子定着率:12%》
《9%》
二つの容器を開き、患者を外へ出す。
残るのは三番目と五番目。
三番目は血統因子の定着率が高いが、自分の心臓で循環を維持できている。
五番目は深血心核の補助がなければ生きられない。
《深血心核制御維持予測》
0:22:17
「二十二分です」
ミレアの声にも余裕がなくなっていた。
銀の印章を押さえる腕が震え、白い光が何度も弱くなる。
「三番目を先に出す」
同時に扱う人数が減ったことで、血液の識別はかなり楽になった。
三番目の血を少しずつ回収し、本人のものだけを返す。定着した因子が多いため、黒い血を分離するたびに心拍が乱れた。
弱くなれば止める。
安定したら再開する。
魔力には余裕があっても、患者の身体は無限に耐えられない。
《対象三》
《血統因子定着率:61%》
《47%》
《35%》
《循環状態:不安定》
「まだ外せない」
深血心核からの流れを一部だけ残し、心臓へ負担をかけない速度で処理を続ける。
赤黒く変色していた血管が、少しずつ本来の色へ戻った。
《血統因子定着率:19%》
《14%》
《自発循環:安定》
容器を開く。
中にいた男性を受け止め、床へ寝かせる。全身の筋肉が不自然に硬くなっていたが、呼吸も心拍も維持されている。
残るのは一人。
五番目の容器に入った若い男性だった。
《血統因子定着率:79%》
《循環補助依存:極めて高い》
《深血心核からの供給停止時、生存予測:18秒》
「止めたら十八秒」
ミレアの顔から血の気が引いた。
「生命維持だけを残し、因子を抜くことはできませんか」
「流れてくる血そのものが、心臓の代わりになってる。止めないと黒い血を分けられない」
「では、どうすれば」
代わりに血を送るものが必要だった。
診工守も薬工守もいない。
循環を補助する装置もない。
けれど、血液を動かすことならできる。
返血を行う時にも、患者の心拍へ合わせて血を送っている。
本人の心臓が動かないなら、再び動き始めるまで、外から血を循環させればいい。
「私が心臓の代わりをする」
ミレアが容器と私を見比べた。
「そんなことが可能なのですか」
「やったことない」
「できるとは言わないのですね」
「分からないことは言えない。でもやる」
五番目の男性へつながる管を、一本ずつ血糸へ置き換えていく。
心臓から全身へ血を送る流れ。
身体から心臓へ戻る流れ。
必要な箇所へ血糸を通し、男性自身の血液へ接続した。
深血心核からの流量を少し下げる。
男性の心拍が弱まった。
すぐに血糸を収縮させ、血を全身へ送る。
一度押し出す。
緩めて、戻ってきた血を受ける。
もう一度収縮させる。
「流れを止めて」
「止めます」
ミレアが反転術式へ最後の魔力を注いだ。
深血心核から男性へ向かう赤黒い流れが途切れる。
同時に、男性の心拍も止まった。
《心拍停止》
《自発循環:消失》
「続けて」
「うん」
血糸で循環を維持する。
一度送る。
戻す。
また送る。
魔力は十分にある。
血糸を動かし続けることに不安はなかった。
難しいのは、送り込む血液の量だった。
強すぎれば血管を傷つける。
弱すぎれば脳と臓器へ届かない。
自分の心拍とは異なる速度で、もう一つの身体の循環を維持しなければならない。
その状態で、男性の血を少量ずつ回収する。
本人の血と、深血心核から注入された血統因子を分ける。
「《返血》」
本人の血を戻す。
黒い血は深血心核へ返す。
一度送る。
戻す。
また送る。
《対象五》
《血統因子定着率:79%》
《68%》
《57%》
男性の身体が大きく痙攣した。
循環を止めず、送る量だけを僅かに減らす。
《血統因子定着率:41%》
《29%》
視界の端が薄暗くなった。
魔力の消耗ではない。
戦闘から続けて大量の血糸を作り、六人分の処置を行ったことで、自分の血液量が低下している。
指先は冷たくなり、心拍も普段より速い。
《影蔵》には魔獣の血がある。
けれど、片手を離して容器を取り出す余裕はなかった。ミレアも術式の維持で動けない。
「エルセリア」
「まだ大丈夫」
「また、それを言うのですね」
大丈夫ではない。
それでも、魔力は残っている。
意識さえ保てば、血糸は動かし続けられる。
一度。
戻す。
また送る。
《血統因子定着率:18%》
《13%》
深血心核の補助が完全に消えたことで、男性自身の心臓が僅かに震えた。
鼓動とは呼べないほど弱い動きだった。
次の瞬間、一度だけ自力で収縮する。
「動いた」
まだ全身へ血を送る力はない。
血糸の循環を続けながら、自発的な鼓動へ速度を合わせていく。
二度目。
三度目。
少しずつ、心臓の動きが強くなった。
《自発心拍:再開》
《循環補助依存:高》
すぐには任せられない。
私が送る量を少しずつ減らし、その分だけ本人の心臓へ働かせる。
十回。
二十回。
百回を超える頃には、血糸を緩めても心拍が途切れなくなっていた。
《自発循環:維持》
《外部補助の段階的解除が可能です》
血糸を一本ずつ外していく。
最後の一本を抜いても、心臓は止まらなかった。
「出す」
容器を開く。
液体とともに倒れてきた男性を抱き止め、床へ横たえる。唇は青く、呼吸も弱いが、自分の心臓で生きている。
《対象五》
《血統因子定着率:11%》
《容器外での生命維持:可能》
六人全員が容器の外へ出た。
《血統転写対象:0》
《転写処理の継続が不可能になりました》
《七脈聖成式:中断》
床の赤い光が一斉に消える。
深血心核が大きく収縮し、そのあとで鼓動を弱めた。七本の管を流れていた赤黒い液体が逆流し、すべて中央の心臓へ戻っていく。
天井から垂れた鎖も動きを止めた。
《深血心核:休眠状態へ移行》
《血統転写の停止を確認》
「終わったのですか」
ミレアの声が震えていた。
私は床へ膝をついたまま、六人の心拍を一人ずつ確認する。
弱い。
呼吸が不安定な者もいる。
それでも、すべての心臓が動いていた。
「全員、生きてる」
ミレアは銀の印章から手を離した。
白い光が消え、身体が横へ傾く。伸ばした血糸で肩を支え、折れた左脚が床へ当たらないよう引き寄せた。
「魔力を使い切りました」
「私は血が減った」
「どちらも休むべき状態ですね」
「先に運ぶ」
「六人もいます」
「容器を使う」
開いた血統転写器は、下部に車輪のついた移動台として利用できた。固定具を解除し、患者を一人ずつ清浄布で包んで乗せる。
ミレアも空いている台へ寝かせた。
六台へ血糸をつなぐ。
魔力には十分な余裕があるため、引く力に問題はない。ただ、自分の血をこれ以上大量に使うのは避けたかった。
糸を可能な限り細くし、切れない範囲で本数を減らす。
深血心核の部屋を出ようとした時、視界へ新しい表示が現れた。
《深血心核との接触記録を解析しました》
《マスターユーザーの血統内に共通因子を確認》
足が止まる。
《共通因子の詳細:識別不能》
《深血心核はマスターユーザーを高位適合個体として認識しています》
「エルセリア?」
ミレアに呼ばれ、表示から視線を外した。
「何でもない」
何を意味するのか分からない。
分からないことを、今考えても仕方がない。
深血心核と私の血には、何か共通するものがある。
それだけだった。
《影蔵》から魔獣の血を取り出し、容器の中身を一気に飲む。
冷たくなっていた指先へ血が戻り、速くなっていた心拍も少しずつ落ち着いた。完全に補えたわけではないが、礼拝室まで患者を運ぶには十分だった。
「戻る」
六台の移動台を血糸で引き、最深部の扉を抜ける。
《帰還可能まで》
33:54:12
四人の聖堂騎士を見つけ、七人の行方不明者を容器から救い出した。
それでも、施設へ戻れるまでには三十三時間以上残っている。
礼拝室へ戻れば、負傷者は十一人になる。
全員を帰還まで生かし続けるための治療は、まだ始まったばかりだった。




