第十八話 《七つの棺》
七つの容器へ流れ込む赤黒い液体は、血によく似ていた。
けれど、人間の血ではない。
中央に吊られた巨大な心臓が収縮するたび、床の溝を通った液体が透明な管へ押し出され、容器の中にいる七人へ少しずつ注ぎ込まれている。
中の人間たちは全員、衣服を剥がされていた。
腕や脚には細い管が何本も刺さり、胸元には赤黒い線が血管に沿って広がっている。爪が黒く変わり始めている者もいれば、額や肩の皮膚が硬く盛り上がっている者もいた。
一番手前の容器には、壮年の女性が入っていた。
閉じていた瞼が僅かに動く。
「聞こえる?」
容器へ手を当てると、女性の目がゆっくり開いた。
瞳の色が左右で違っている。
右は茶色のままだが、左は血のような暗い赤へ変わっていた。意識は残っているらしく、私を見つけると指を動かし、透明な壁を内側から弱く叩いた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
声を出せる状態ではない。
それでも、助けを求めていることは分かった。
「今出す。でも先に調べる」
返事の代わりに、指先が壁へ触れたまま止まった。
容器へ《鑑定》を使う。
《血統転写器》
《対象個体へ指定血統因子を定着させます》
《転写元:深血心核》
《処理対象:人間種》
《現在の処理段階:血液および造血器官の置換》
《強制停止時、対象個体の循環機能が失われる可能性があります》
中央の巨大な心臓は、単に異物を注ぎ込んでいるだけではなかった。
すでに傷つけた造血器官や心臓の働きを補い、七人を生かしている。何も考えずに管を切れば、変質は止まっても、その場で死ぬ者が出る。
七人それぞれの状態を確認する。
《対象一》
《血統因子定着率:34%》
《自発循環:維持》
《対象二》
《血統因子定着率:21%》
《自発循環:維持》
《対象三》
《血統因子定着率:57%》
《循環補助依存:中》
《対象四》
《血統因子定着率:16%》
《自発循環:維持》
《対象五》
《血統因子定着率:68%》
《循環補助依存:高》
《対象六》
《血統因子定着率:42%》
《循環補助依存:低》
《対象七》
《血統因子定着率:29%》
《自発循環:維持》
五番目の容器だけは、すぐに開けられない。
中にいる若い男性の心臓は動いているものの、その力が弱く、深血心核から送られる血液によって循環を保っていた。
先に転写を止め、身体が自分で動ける状態へ戻す必要がある。
「心臓を止めないで、注ぐ方だけ止める」
床を走る溝を確認する。
中央の心臓から出た液体は、一度大きな円形の装置へ集められ、そこから七本へ分かれていた。装置の周囲には文字と複雑な術式が刻まれている。
施設の管理表示とは違う。
それでも、血の流れを制御する構造なら理解できる部分もあった。
私は右手を装置へ置き、《領域同化》を広げた。
冷たい金属の感覚が掌から腕へ入り、その奥にある血の流れまで意識へ重なる。
一度の鼓動で、七本へ送る。
戻ってきた液体を中央へ集める。
変質した血液から人間の成分を取り除き、再び深血心核へ戻す。
それを繰り返している。
《未知領域への接続を確認》
《血統適合性を照合します》
《照合失敗》
《深血因子との部分的親和性を確認》
《代替操作権限を検索します》
巨大な心臓の鼓動が、一度だけ強くなった。
喉の奥が熱を持つ。
《血統捕食》が、目の前にあるものを取り込めと強く訴えてきた。
人間の血を前にした時とは違う。
空腹ではなく、これを食べれば自分がもっと強い存在へ変われるという、身体の奥から湧き上がる確信に近かった。
「食べない」
掌へ意識を集中させる。
ここへ来たのは力を得るためではない。
七人を助けるためだった。
《代替操作権限を取得》
《転写流量の変更が可能です》
「維持に必要な分だけ残して、変質を止める」
流量を一気にゼロへはしない。
七人の心拍を《血液感知》で捉え、それぞれの身体が耐えられる範囲まで少しずつ下げる。
容器へ流れる赤黒い液体が細くなった。
中央の心臓は変わらず動いているが、血統因子の注入速度が大きく落ちていく。
《血統転写速度:低下》
《変質予測時間を再計算します》
《推定完全変質まで:算出不能》
《転写処理:一時停止状態》
七人を蝕んでいた時間が止まった。
けれど、これで終わりではない。
すでに体内へ入った血統因子を取り除かなければ、変質はゆっくりと進み続ける。
一番手前の女性へ戻る。
容器の下部にある排出口を開き、内部の液体だけを少しずつ外へ出す。水ではなく、血液に近い液体だった。
女性の身体へ刺さっている管を確認し、血液回収容器へ接続する。
「少し血を抜く。あなたの血だけ戻す」
理解できたかは分からない。
それでも、女性は目を閉じずに私を見ていた。
管を通して、体内の血液を少量だけ回収する。
赤い血へ、黒い筋が混ざっている。
人間の血と深血心核の血が、一つの容器の中で絡み合っていた。
そのまま戻せば意味がない。
私は容器へ両手を添えた。
「《返血》」
血が小さく揺れる。
《返血対象:確認》
《対象固有血液を識別します》
管へ流れ始めたのは、女性自身の赤い血だけだった。
黒い血統因子は所有者として認識されず、容器の底へ残されている。
「分けられる」
すべてを一度に抜けば、血液量が足りなくなる。
少量を回収し、自分の血だけを返す。
再び回収し、また返す。
何度も繰り返すたび、女性の血液へ混じる黒い筋が減っていった。
代わりに、容器の底には深血心核の血だけが溜まっていく。
《対象一》
《血統因子定着率:34%》
《29%》
《23%》
《18%》
完全には消えない。
すでに骨髄や組織へ定着した分は、血液を入れ替えるだけでは取り除けなかった。
それでも、進行を大きく遅らせられる。
《血統因子定着率:12%》
《自発循環:安定》
《容器外での生命維持:可能》
「出す」
容器の固定具を外す。
透明な壁が左右へ開くと、中の液体と一緒に女性の身体が前へ倒れてきた。
私は両腕で受け止め、清浄布の上へ寝かせる。
女性は自分で呼吸している。
赤黒く変色していた血管も薄くなり、右目とは違う色へ変わっていた左目も、少しずつ本来の茶色へ戻り始めていた。
腕や脚へ刺さっていた管を抜き、傷を塞いでいく。
女性は唇を動かしたが、最初は息しか出なかった。
水で口元を濡らすと、ようやく掠れた声が漏れた。
「ほかの……人は」
「六人いる。今から助ける」
女性は容器の列へ視線を向けた。
「息子が……」
「どれ?」
震える指が、五番目の容器へ向けられる。
循環補助への依存が最も高い、若い男性だった。
「最後にしない。準備が必要なだけ」
女性は弱く頷いた。
意識を保つのも限界だったらしく、そのまま目を閉じる。心拍と呼吸は安定しているため、眠らせておいても問題はない。
《帰還可能まで》
37:21:08
礼拝室を出てから一時間近く経っていた。
二時間で戻ると約束している。
七人全員をここで解放する時間はない。ほかの六人へ同じ処置を行えば、何時間かかるかも分からなかった。
先に礼拝室へ戻り、ミレアたちへ状況を伝える必要がある。
その間に再び変質が進まないよう、転写流量を最低限へ固定する。中央の心臓が勝手に設定を戻さないよう、《領域同化》で操作権限を封じた。
《血統転写処理:停止》
《生命維持流量のみ継続》
《操作権限:代替管理者エルセリア》
《警告》
《深血心核の自律抵抗を確認》
《現在の制御維持予測時間:約3時間》
三時間しか持たない。
それまでに戻らなければ、深血心核が再び七人への転写を始める。
「急いで戻る」
救出した女性を抱き上げる。
一人増えたため、礼拝室にいる負傷者は五人になる。それでも、ここへ置いておくよりは安全だった。
扉へ向かおうとした時、背後で巨大な心臓が強く収縮した。
床の赤い溝が一斉に光る。
血液感知の中へ、自分以外の意識が触れてきた。
言葉ではない。
命令でもない。
長い眠りから目を覚ました何かが、私の血を嗅ぎつけ、こちらを見た感覚だった。
《深血心核の覚醒率が上昇しています》
《原因:高適合血統個体との接触》
《対象個体を新たな転写先として認識しました》
床の溝を流れていた赤黒い液体が、容器ではなく私の足元へ集まり始めた。
「私は患者じゃない」
血糸を床へ伸ばし、流れを押し返す。
赤黒い液体は止まらず、私の血糸へ絡みついてきた。触れた部分から冷たい力が入り込み、血糸の色が一瞬だけ黒く変わる。
私はすぐに糸を切った。
落ちた血糸は石床の上で蠢き、細い指のような形へ変わってから崩れた。
《警告》
《外部血統因子による侵食を確認》
《領域同化により排除可能》
《長時間接触時の影響:不明》
七人を助けるためには、この心臓へ何度も近づかなければならない。
けれど、心臓の方も私を新しい入れ物として認識していた。
私は女性を片腕で抱え、もう片方の手を深血心核へ向けた。
「待ってて。あとで止める」
理解したのかは分からない。
巨大な心臓は、返事の代わりにもう一度強く脈打った。
私は扉を抜け、内陣へ戻る。
葬殿守の横を通り過ぎ、礼拝室へ向かって走った。狭い階段では飛行を使えないため、女性の身体が揺れないよう血糸で支えながら急ぐ。
約束した二時間を僅かに過ぎた頃、礼拝室の扉が見えた。
内側ではセイルが弩を構えていたが、私の姿と、腕に抱えた女性を認めてすぐに下ろす。
「戻りましたか」
「遅れた」
扉を開けると、ガルドとミレアが同時にこちらを見た。ルークもまだ眠っているが、呼吸は保たれている。
私は救出した女性を清浄布の上へ寝かせ、七つの容器と巨大な心臓について説明した。
行方不明者は七人全員が生きていること。
正体不明の血を入れられ、身体を変えられようとしていること。
一人は救出したが、残り六人のうち一人は心臓の補助なしでは生きられないこと。
そして、転写を止めていられるのは残り二時間ほどしかないこと。
ミレアは女性の変色した血管と瞳を確認し、首元に残った赤黒い術式へ触れた。
「この印は……古い教会のものです」
「知ってる?」
「形だけです。現在は使用を禁じられています」
ミレアは印章を握り、記憶を探すように目を閉じた。
「教会がまだ一つではなかった時代、人間へ神聖な血を与え、上位の存在へ変える研究があったとされています。成功した者は聖人となり、失敗した者は魔物になったと」
セイルが表情を曇らせた。
「教会の昔話ではありませんか」
「そう教えられています。ですが、あの印が実在するなら、話だけではなかったのかもしれません」
「神聖な血じゃない」
私が訂正すると、ミレアは顔を上げた。
「あれは人を変えて、食べる側の血。放っておいたら戻れなくなる」
ガルドは動かせる右手で剣の柄を握った。
「心臓を破壊すれば止まるのか」
「今壊したら、中の人が死ぬ。特に一人は心臓に頼ってる」
「なら、一人ずつ救い出すしかないか」
「うん。自分の血だけ戻して、混ざった血を減らす」
ガルドたちには、《返血》の仕組みを完全には理解できない。それでも、目の前の女性が容器から出たあとも生きていることが、その方法の証明になっていた。
「私も行きます」
ミレアが長椅子から身体を起こそうとした。
折れた左脚へ力がかかる前に、肩を押さえる。
「歩けない」
「転写を止める術式が教会のものなら、私にも読める部分があるかもしれません」
「運ぶ人が増える」
「彼女は正しい」
ガルドが私を見た。
「心臓を壊せず、制御する必要があるなら、古い教会術式を読める者がいた方がいい。私は動けないが、ミレアならお前が運べる」
「脚が折れてる」
「歩かせる必要はありません」
ミレアは痛みに耐えながら、左脚の固定具を確認した。
「あなたが一人で七人を治し、心臓まで制御するよりは、負担を減らせるはずです」
残された時間は二時間。
迷っている時間はない。
私はミレアを見た。
「痛くても途中で降ろせないかもしれない」
「構いません」
「心臓が私を狙ってる。近くにいたら危ない」
「それでも行きます。あの場所を封じたのが教会なら、私たちにも責任があります」
私はすぐには答えなかった。
教会が何百年前にしたことを、ミレアの責任だとは思わない。
けれど、術式を読める者が必要なのは事実だった。
「分かった。連れていく」
ミレアを抱き上げる前に、ガルドとセイルへ残る患者の状態を説明した。
ルークの呼吸が弱くなった場合。
救出した女性の血管が再び黒く変わった場合。
魔物が罠を越えた場合。
必要な対処を伝え、使える薬と循環維持液を手の届く場所へ並べる。
ガルドは私の説明を最後まで聞いたあと、短く頷いた。
「ここは守る。残りを頼む」
「全員連れて戻る」
今度は、そう言い切った。
ミレアを両腕で抱え、礼拝室を出る。
《帰還可能まで》
36:43:51
《深血心核制御維持予測》
1:47:26
帰還までは三十六時間。
心臓が再び動き始めるまでは、二時間も残っていない。
私はミレアを抱えたまま、七つの棺が並ぶ最深部へ走った。




