第十六話 《内陣の番人》
階段を下りるほど、石を引きずる音が近づいてきた。
壁に刻まれた爪痕は途中から床にも広がり、通路そのものが何度も削られている。裂口骸よりもはるかに大きな何かが、狭い地下道を無理やり通った跡だった。
《血液感知》の先には、二つの人間の心拍がある。
一つは強いが速い。
もう一つは弱く、間隔も乱れていた。
「まだ生きてる」
私は右手へ血刃を作り、左手の指先から血糸を伸ばした。
階段の天井は低く、《飛行》を使えば翼が壁へぶつかる。広い場所へ出るまでは、地上で進むしかなかった。
最後の段を下りると、暗闇の先が円形に開けた。
そこは、かつて内陣だったらしい。
中央には半ば砕けた祭壇があり、その周囲を太い石柱が囲んでいる。天井の一部は崩れ、上層から落ちた瓦礫が床へ積み重なっていた。
広間の最奥には、巨大な扉がある。
そして、その前に爪痕の主が立っていた。
四本の太い脚。
暗い灰色の甲殻。
前方へ長く伸びた胴体の上から、人間の腕に似た細い肢が何十本も垂れ下がっている。
目はない。
首から胸にかけて並ぶ六つの口だけが、呼吸に合わせてゆっくりと開閉していた。
《鑑定》
《葬殿守》
《旧地下聖堂封印守護個体》
《汚染状態:深刻》
《現在の敵対対象:内陣へ侵入したすべての生命》
《脅威度:高》
魔物として生まれた存在ではない。
内陣を守るために置かれていたものが、長い時間と奈落の汚染によって壊れている。
葬殿守の向こうに、探していた二人がいた。
一人は大柄な男で、片膝をつきながら大盾を構えている。左肩から腕にかけて甲冑が潰れ、隙間から血が流れていた。
もう一人は若い男だった。
祭壇の残骸へ背中を預け、両手で腹部を押さえている。足元には折れた剣と、広がり続ける血溜まりがあった。
大柄な男が、階段から現れた私に気づく。
「誰だ!」
盾から視線を外せないまま、鋭い声を向けてきた。
「エドガーに頼まれて来た」
「隊長は生きているのか」
「治療して置いてきた。ミレアとセイルも見つけた」
男の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
それでも盾は下ろさない。
「あなたがガルド?」
「そうだ」
「後ろがルーク?」
ガルドが答える前に、若い男が僅かに顔を上げた。
唇が動いたが、声は出ない。
腹部から内側へ血が流れ続けている。太い血管まで傷つき、心拍は今にも消えそうなほど弱かった。
先にルークを治療しなければならない。
葬殿守が六つの口を同時に開いた。
広間を揺らす低い音が鳴り、背中から垂れていた腕が一斉に持ち上がる。
新しく現れた私を、侵入者として認識したらしい。
「ガルド、横へ」
私は右手を葬殿守へ向け、指先から十本の血糸を放った。
赤い糸が太い前脚の関節へ巻きつく。
指を握り、全身の力で引いた。
止まらない。
逆にこちらの足が石床を滑り、葬殿守の方へ引き寄せられる。
私は血糸を切って横へ跳んだ。
直後、前脚が振り下ろされる。
石床が砕け、衝撃で身体が宙へ浮いた。
着地するより先に血刃を甲殻の隙間へ突き込んだが、刃は浅く食い込んだだけで止まる。
「硬い」
《血液感知》を向けても、体液の流れがほとんど分からない。
甲殻の内側には、血管や臓器の代わりに黒い泥のようなものが満ち、それ自体が全身を動かしている。
葬殿守の背中から、細い腕が何本も伸びてきた。
私は床を蹴り、間を抜ける。
一本を避けても次が来る。
狭い地上で避け続ければ、いずれ捕まる。
天井の崩れた場所を見上げた。
広間全体で翼を広げるのは難しいが、中央の吹き抜けなら飛べる。
「《飛行》」
背中へ黒い翼が形成された。
翼の先が石柱へ触れたものの、そのまま強く羽ばたいて上昇する。葬殿守の腕が足元を通り過ぎ、背後の壁へ突き刺さった。
ガルドが一瞬だけこちらを見上げた。
「翼……?」
「あとで」
翼を傾け、葬殿守の背後へ回り込む。
上から見ると、甲殻の中央に円形の窪みがあった。古い術式が刻まれているが、その大半が黒い汚れに覆われている。
《鑑定》
《制御核接続部》
《封印命令の破損を確認》
《外部からの停止操作:可能性あり》
殺さなくても止められるかもしれない。
私は窪みへ向かって降下した。
葬殿守が身体を大きく振り、背中の腕をまとめてこちらへ伸ばす。
翼を畳んで腕の間を抜け、右手を窪みへ伸ばした。指先から放った血糸を術式の溝へ押し込むと、視界へ管理表示に似た文字が浮かんだ。
《守護個体制御系統》
《登録施設との規格差異を確認》
《侵食により命令経路が破損しています》
《停止命令を送信できません》
「汚れを取れば?」
《制御核の汚染除去後、再試行可能》
黒い汚れは、表面へ付着しているだけではなかった。
術式の奥まで染み込み、命令そのものを書き換えている。
血ではないため、《血液操作》では動かせない。
それでも、《領域同化》なら触れられるかもしれなかった。
葬殿守が再び身体を揺らした。
血糸が切れ、私は背中から放り出される。
翼を広げて姿勢を戻した時、ガルドの盾が砕ける音が響いた。
葬殿守の前脚を受け、大柄な身体が祭壇の近くまで弾き飛ばされる。ガルドはすぐに起き上がろうとしたが、傷ついた左腕へ力が入らない。
六つの口が、倒れたガルドへ向いた。
「こっち」
私は掌を浅く切り、空中へ血を撒いた。
飛び散った血を何十本もの針へ変え、開いた口へ一斉に撃ち込む。内部の黒い肉が裂け、葬殿守の注意が私へ戻った。
伸びてきた腕を避け、もう一度背中の窪みへ向かう。
翼を大きく広げると、葬殿守の甲殻全体へ私の影が落ちた。
石柱と瓦礫の影までつなぎ、背中の腕や脚の関節へ絡ませる。
完全には止められない。
それでも、動きが僅かに遅くなった。
制御核へ両手を押し当て、《領域同化》を広げる。
冷たいものが、腕から身体へ流れ込んできた。
意味の失われた命令。
長い時間の中で積み重なった汚染。
扉を守り続け、近づくものを敵として殺し続けた記憶。
守れ。
侵入者を殺せ。
扉を開けるな。
敵を殺せ。
守れ。
同じ命令だけが、何度も意識へ流れ込んでくる。
「もう壊れてる」
汚染を自分の領域から押し出す。
取り込まず、制御核の外へ逃がすため、両手から伸ばした血糸を排出口のようにつないだ。
黒い泥が術式から剥がれ、血糸を伝って石床へ流れ落ちる。
葬殿守が激しく暴れ始めた。
影の拘束が破られ、背中の腕が脇腹へ当たる。
骨が軋み、身体が制御核から引き剥がされそうになった。
「まだ」
翼の片方を甲殻へ押しつけ、両手を離さない。
別の血糸を周囲の石柱へ伸ばし、自分の身体を葬殿守の背中へ固定した。
《制御核汚染率:73%》
《64%》
《51%》
背中の腕が翼の膜を貫いた。
鋭い痛みとともに飛行が不安定になる。それでも技能を解除すれば、制御核から離れてしまう。
血糸を締め、残った翼を甲殻へ押しつけた。
《制御核汚染率:36%》
《21%》
《9%》
最後の汚染を引き抜いた瞬間、制御核の術式が白く光った。
《制御核の浄化を確認》
《停止命令を送信できます》
「止まって」
《守護個体停止命令を送信》
葬殿守の身体が大きく震えた。
振り上げられていた脚が途中で止まり、背中の腕も力を失って垂れ下がる。六つの口が一つずつ閉じ、巨大な身体がゆっくりと石床へ沈んだ。
《葬殿守:機能停止》
《再起動には制御核の修復が必要です》
私は血糸を解き、動かなくなった背中から飛び降りた。
《飛行》を解除すると、傷ついた黒い翼は跡を残さず消える。脇腹には打たれた痛みが残ったが、骨は折れていなかった。
ガルドが砕けた盾を支えに立ち上がろうとしている。
「ルークを先に見る」
ガルドは一度だけ頷き、再び膝をついた。
「頼む」
ルークは祭壇の残骸へ倒れたまま、意識を失っていた。
腹部を押さえていた手はすでに力を失い、指の間から流れた血が衣服を広く濡らしている。
刃は左脇腹から入り、腹部を斜めに切り裂いていた。太い血管の一部が傷つき、内側への出血も続いている。
心拍は弱い。
呼吸も浅かった。
「聞こえる?」
瞼が僅かに動いたが、返事はない。
私は《影蔵》から血液回収容器と止血器具、清浄布を取り出した。
近づこうとしたガルドを手で止める。
「座ってて。左腕も折れてる」
「私はあとでいい」
「だから待ってて」
ガルドは一瞬だけ反論しそうになったが、ルークを揺らす危険を理解したのか、近くの瓦礫へ身体を預けた。
私は傷を押さえていた手を外し、流れ出す血を容器で受ける。
石床へ落ちた血は戻せない。
けれど、今から流れる分なら汚染される前に回収できる。
伸ばした指先から血糸を出し、傷の奥へ進めた。
最も太い血管を見つけ、一時的に圧迫する。
その奥にもう一本あった。
二本目を閉じると、外へ流れる量は大きく減った。それでも、腹部の内側へ細い出血が残っている。
血液感知を一点へ集中させる。
腸管の位置。
脾臓。
周囲を巡る血流。
細い漏れを一つずつ追い、脾臓に近い場所で裂けた血管を見つけた。
血糸を深く通し、周辺の組織ごと支える。
一度目は緩く、血が滲んだ。
二度目は強すぎ、正常な血流まで弱くなったため、すぐに緩める。
三度目に糸を二本へ分け、傷の両側から面を支えるように引くと、ようやく漏れが止まった。
「止まった」
容器に溜まった血を確認する。
魔物の体液や石の粉は混じっていない。凝固もほとんど始まっていなかった。
「《返血》」
ルーク自身の血が、管を通じて身体へ戻っていく。
名前はガルドの言葉で分かっている。
けれど《返血》に必要なのは名前ではなく、血の持ち主が目の前にいることだった。
《返血対象:一致》
《循環状態に合わせて還流します》
弱かった心拍が、僅かに強くなる。
一度打てば少し流し、次の鼓動を待つ。
血圧が上がっても閉じた場所が再び開かないことを確認しながら、回収分を戻した。
《返血完了》
《循環反応:改善》
腹部の傷を洗い、清浄布と固定具で覆う。
完全な治療ではない。
診工守のいない場所では、見つけられていない損傷が残っている可能性もある。それでも、今すぐ失血で死ぬ状態からは離れた。
ガルドが、処置の終わったルークを見た。
「助かるのか」
「まだ分からない。でも今は死なない」
「それで十分だ」
ガルドは長く息を吐き、砕けた盾から手を離した。
私は次に彼の左腕を確認する。
肩に近い骨が折れ、潰れた甲冑の破片が筋肉へ刺さっていた。脇腹にも強い打撃を受けており、肋骨が二本折れている。
命に関わる出血はない。
甲冑を血刃で切り開き、食い込んだ破片を取り除く。骨の位置を戻し、左腕を胸の前へ固定した。
ガルドは処置中も、ルークから視線を外さなかった。
「隊長は、本当に生きているのか」
「生きてる。腹を杭で貫かれてたけど、抜いて閉じた」
「よく生きていたな」
「血も戻したから」
「戻した?」
「本人の血を回収して、本人へ返した」
ガルドはそこで初めて、私の顔を正面から見た。
戦っていた時は翼や動きへ意識を向けていたのだろう。今度は赤い目から白い肌へ視線を移し、最後に唇の間から覗く牙で止まった。
「その目と牙……お前、吸血鬼か」
「うん。でも魔物じゃない」
ガルドの身体が僅かに強張った。
武器へ手を伸ばそうとはしなかったが、警戒が戻ったことは分かった。
「吸血鬼が、聖堂騎士を助けたのか」
「患者だったから」
「ミレアとセイルも?」
「治療した。二人とも生きてる」
私の返答を聞いても、すぐには納得しなかった。
それでも、横たわるルークと、自分の固定された左腕を見れば、今ここで敵だと決めつけることもできなかったらしい。
「名前を聞いていなかった」
「エルセリア」
「エルセリア……」
ガルドは一度だけ名前を繰り返した。
「私はガルド・ヴェインだ。今さらだが、助力に感謝する」
「まだ終わってない」
「そうだな」
ルークをミレアたちのいる礼拝室まで運ばなければならない。
私は《飛行》を使って一人ずつ運ぶつもりだったが、ガルドは右腕でルークを背負おうとした。
「腕も肋骨も折れてる」
「右腕は動く」
「途中で倒れる」
「お前一人で二人を運べば、戻るまでに消耗する」
それは正しかった。
帰還まで、まだ四十時間近く残っている。
飛行も血糸も治療も、使い続ければ自分の血を消費する。ここで無理をすれば、礼拝室へ戻ったあとに全員を守れなくなる。
「無理になったら言って」
「分かった」
ガルドは右腕だけでルークの身体を支える。
私は腹部へ力がかからないよう、血糸を胸と腰へ回し、ガルドの背中へ固定した。脚も揺れないように留めれば、傷口への負担は減らせる。
その時、内陣の奥から低い音が響いた。
停止した葬殿守の背後で、巨大な扉の術式が変化している。
白い線が中央から左右へ広がり、閉じていた扉に細い隙間が生まれた。
《内陣封鎖機構:停止》
《最深部への経路が開放されました》
隙間の向こうから、冷たい風が流れ込む。
同時に、強い血の匂いがした。
人間のものではない。
裂口骸や葬殿守とも違う。
もっと古く、濃く、私の身体の奥へ直接触れるような匂いだった。
喉が熱を持つ。
《血統捕食》が反応した。
《未知の高位血統因子を感知》
《摂取による適応可能性:不明》
《危険度を判定できません》
地下聖堂から魔物が溢れ、人間が消えていた原因は、あの扉の向こうにあるのかもしれない。
ガルドも隙間を見ていた。
「何かいる」
「分かるのか」
「血の匂いがする」
ガルドの表情が険しくなる。
「今は入らない方がいい」
「うん。先に戻る」
負傷者を連れたまま、正体の分からない場所へ進むつもりはなかった。
扉の向こうを調べるとしても、四人を安全な場所へ集めてからになる。
私たちは来た通路へ向かう。
ガルドはルークを背負い、私は血糸で二人の身体を支えながら、その隣を歩いた。
振り返ると、停止した葬殿守が巨大な扉の前へ横たわっている。
その奥から流れる血の匂いは、離れても消えなかった。
《帰還可能まで》
39:07:26
四人全員を見つけた。
全員、まだ生きている。
けれど、施設へ帰れるまでには三十九時間以上残っていた。




