第十五話 《あと二人》
退路へ続く通路は、祭具保管区画よりさらに狭かった。
ミレアを抱えたまま飛べるほどの高さはなく、私は《飛行》を解除し、彼女を背負う形へ変えた。折れた左脚が揺れないよう血糸で固定し、両手を使えるよう身体を背中へ留める。
「苦しくない?」
「大丈夫です。それより、あなたの方が」
「軽いから平気」
「先ほども隊長に同じことを言ったのですか?」
「言ったかもしれない」
ミレアは小さく息を吐いた。笑ったようにも聞こえたが、疲労が強く、それ以上は話さなかった。
通路には、聖堂騎士たちが通った痕跡が残っていた。
壁へ引かれた白い線。
床に置かれた小さな金属片。
崩れた場所には、進める方向を示す矢印が刻まれている。
「セイルの印です」
背中からミレアが教えてくれた。
斥候として先行したセイルは、仲間が退路を見失わないよう、一定の間隔で目印を残していたらしい。
白い線を追いながら進むと、血の跡も見つかった。
古いものではない。
石床へ落ちたあと、何かを引きずるように奥へ続いている。
「セイルの血?」
「分かりません。あの時は全員、多少の傷を負っていました」
私は指先で乾きかけた血へ触れ、《血液感知》を伸ばした。
持ち主はまだ近くにいる。
血の痕跡が消えず、細い道のようにつながっていた。
「生きてる」
その言葉に、ミレアの腕へ僅かに力が入った。
血を追って進む。
途中から目印が途絶え、代わりに通路の床へ細い糸が張られていた。暗闇の中では見落としそうな高さにあり、その先には天井から石材を落とす仕掛けが作られている。
足を止める。
「罠がある」
「セイルです。魔物に追われた時、後方へ仕掛けながら退く癖があります」
糸を切れば作動する可能性があるため、触れずに跨いだ。
その先にも罠が続いていた。
壁から刃を出すもの。
床板を踏むと杭が飛び出すもの。
小さな鈴を鳴らし、侵入者の接近を知らせるだけのもの。
壊れた祭具や魔物の骨を利用し、短い時間で作られている。セイルは傷を負いながらも、追ってくるものを止めようとしていたらしい。
血の跡が、半壊した礼拝室の前で消えた。
扉は閉じている。
内部から生命反応が一つ伝わってきたが、心拍は低く、ほとんど動いていない。
「セイル」
ミレアが呼びかけた。
返事はない。
扉へ近づいた瞬間、内側で弦が弾ける音がした。
私は反射的に右手を上げる。
開いた扉の隙間から飛んできた矢を、指先から伸ばした血糸が空中で絡め取った。鏃は私の顔の直前で止まり、赤い糸の中で小さく震えている。
「敵じゃない」
そう伝えても、二本目の矢が放たれた。
今度はミレアへ当たりそうだったため、身体を横へ向けて背中を庇う。矢は肩へ浅く刺さったが、骨までは届かなかった。
「セイル、やめなさい!」
ミレアが声を強めると、礼拝室の中で人影が揺れた。
「神官長……?」
男の声は掠れ、呼吸も乱れている。
私は肩へ刺さった矢を抜き、血を止めながら扉を押し開けた。
中には壊れた長椅子が積まれ、入口を塞ぐ壁のように組まれていた。その奥に、黒い外套を着た細身の男が座り込んでいる。
右脚には折れた槍が突き刺さり、布を巻いた脇腹からも血が滲んでいた。左手には小型の弩を持っているが、次の矢を装填する力は残っていない。
「隊長は」
セイルは私ではなく、背中のミレアへ尋ねた。
「生きています。この方が救助して、治療してくださいました」
「この方?」
セイルの視線が私へ移る。
赤い目と牙を確認し、最後に肩の傷が塞がり始めているのを見て、弩を握る指へ力が入った。
「吸血鬼ではありませんか」
「吸血鬼。でも敵じゃない」
「その説明で納得する人間は少ないと思います」
「私もそう思う」
ミレアを近くの長椅子へ降ろし、左脚を床へ触れさせない姿勢で座らせる。
セイルは弩を向けたままだったが、腕が震え、照準は定まっていなかった。
「隊長は本当に無事なのですか」
「腹を杭で貫かれてた。抜いて治した。今は私の家で寝てる」
「私の家、という部分が最も不安なのですが」
「診工守と薬工守が見てる。四十八時間は戻れないけど、急に悪くなる可能性は低い」
「待ってください。なぜ四十八時間も戻れないのですか」
「無理やり転送を使って来たから」
セイルはミレアを見た。
ミレアが静かに頷くと、彼はようやく弩を下ろした。
「状況は理解できませんが、神官長まで生きているなら、少なくとも今すぐ私たちを殺すつもりではなさそうですね」
「最初からない」
「吸血鬼の言葉としては信用しづらいものです」
「でも治療はする」
私はセイルの右脚へ近づいた。
突き刺さっているのは槍の穂先ではなく、折れた柄の方だった。肉を深く抉っているが、太い血管は外れている。
「触る。槍を抜く」
先に伝えると、セイルは僅かに目を見開いた。
「確認を取るのですね」
「前に怒られたから」
「誰にですか」
「リノ」
知らない名前だったらしく、セイルは困惑したが、今は説明しなかった。
止血用の布と薬を用意し、血糸を傷の周囲へ通す。槍をそのまま引けば、割れた木片が中へ残るため、表面を少しずつ削って細くした。
「痛いと思う」
「すでに十分痛いので、遠慮なくどうぞ」
槍を抜くと、セイルの身体が強張った。
声は上げなかったが、額から汗が流れ、弩を握っていた手が床を強く掴んでいる。
血糸で傷を広げ、残った木片を取り除く。
洗浄し、薬を入れ、裂けた筋肉を寄せる。骨は折れていなかったため、傷を閉じれば脚そのものは残せそうだった。
脇腹の傷も確認した。
爪で切られたような三本の裂傷があり、一番深いものは筋肉まで届いている。幸い腹部の内側までは達していない。
「歩けるようになる?」
ミレアが尋ねた。
「今すぐは無理。治っても、しばらく走れない」
「足手まといですね」
セイルが自分で口にした。
「二人とも運ぶ」
「一人ずつでも大変でしょう」
「血糸で固定すれば背負える。広い場所なら飛ぶ」
セイルは私の背中を見た。今は翼が存在しないため、何を言っているのか分からなかったらしい。
「この方は翼を出せます」
ミレアが説明すると、さらに理解できないという顔になった。
「吸血鬼には翼があるのですか」
「私にはある。使ってる時だけ」
「教会の資料で読んだどの種とも一致しませんね」
「エドガーも似たこと言ってた」
処置を終え、セイルの右脚を固定する。
自力で歩かせることはできないが、心拍は安定し、すぐに死ぬ状態ではなくなった。
《帰還可能まで》
43:18:26
ミレアの救助から、さらに三時間以上経っている。
残る二人は内陣にいる可能性が高い。
「ガルドとルークはどこ?」
尋ねると、セイルは礼拝室の床へ指を向けた。
そこには地下聖堂の簡単な地図が描かれている。
「内陣へ向かったのは間違いありません。ただし、通常の通路は崩れています。私が退路を確保していた時、地下から大きな振動がありました」
「大きい魔物?」
「見ていません。ただ、裂口骸は何かから逃げるように上層へ押し寄せてきました。あれらを追い立てる存在が、内陣側にいるのでしょう」
セイルは地図の中央へ印をつける。
正面から内陣へ入る通路は崩落している。残っているのは、祭壇の裏から地下へ下りる細い階段だけだった。
「そこから入った場合、聖堂の最深部を通ることになります」
「危ない?」
「教会の記録では、封印区画です。何が封じられているかは、隊長にも知らされていませんでした」
調査隊なのに、調べる場所の中身を知らされていない。
「どうして入ったの?」
「数日前から、地下聖堂の周辺で人が消えていました。聖堂そのものは二百年以上前に閉鎖されていますが、内部から魔物が出ている可能性があると判断されたのです」
「教会が封印したのに、何がいるか知らない?」
「記録が失われています。教会にも、すべてが残っているわけではありません」
第七層と似ている。
施設にも多くの記録がなく、自分の正体さえ分からない。
昔に作られた場所は、残っている方が少ないのかもしれない。
「二人を探す。その前に、休める場所を作る」
ミレアとセイルの二人を連れたまま、危険な封印区画へ入ることはできない。
礼拝室は入口が一つしかなく、セイルの罠も残っている。天井と壁に大きな崩れはなく、一時的な拠点として使えそうだった。
倒れた長椅子を搬工守の代わりに血糸で動かし、入口へ防壁を作る。セイルが残していた罠も、私が戻る時に踏まない位置へ調整した。
二人分の水と食料を置き、薬の使い方をミレアへ伝える。
「私も治癒術を使えます」
「今は魔力がない。使わないで」
「少しくらいなら」
「防壁で倒れかけた。駄目」
強く言うと、ミレアは反論せずに頷いた。
セイルへは予備の弩と矢を手の届く場所へ置いた。右脚は動かせないが、礼拝室の中へ侵入した魔物を迎撃することはできる。
「私が戻るまで、ここから出ないで」
「戻らない可能性は?」
セイルが尋ねた。
「ある」
嘘は言えなかった。
「それでも行くのですか」
「二人が残ってるから」
「あなたにとっては、会ったこともない人間でしょう」
「患者になるかもしれない」
セイルはしばらく私を見たあと、弩の弦を確かめた。
「隊長があなたをどう判断するか、少し楽しみになってきました」
「もう警戒された」
「それでも仲間を探しに来たのですね」
「頼まれたから」
「頼まれれば、誰でも助けるのですか」
少し考える。
頼まれなくても、死にそうな者を見つければ助けていた。
「たぶん」
「答えが曖昧ですね」
「まだ三人しか人間を治してないから、分からない」
エドガーを含めれば三人だ。
ミレアとセイルの治療が完了すれば、さらに増える。
セイルは何も言わず、私から視線を外した。疑いが消えたわけではないが、最初に矢を撃った時ほど強い警戒は感じなかった。
私は礼拝室を出る前に、《影蔵》の中身を確認した。
循環維持液は残り三本。
返血用の容器もある。
魔獣の血と食料は、二人へ分けても十分に残っている。
血糸と飛行を使い続けたため、身体の中の血は少し減っていた。保存していた魔獣の血を飲み、空になった容器を戻す。
「行ってくる」
ミレアが長椅子へ身体を預けたまま、こちらを見た。
「ガルド副隊長は、誰かを守るためなら自分を後回しにします。ルークは若いですが、逃げるような騎士ではありません」
「分かった。二人とも連れてくる」
約束できるかは分からない。
それでも、今はそう答えた。
礼拝室の扉を閉め、外側へ血で小さな印をつける。戻る場所を見失わないための目印だった。
祭壇裏へ続く通路を進むと、空気が少しずつ冷たくなった。
白い線も、セイルの残した金属片も、途中で完全に途切れる。
代わりに、壁へ深い爪痕が増えていった。
裂口骸のものではない。
幅も深さも、現地派遣の直前に見た裂口母骸より大きかった。
暗闇の奥から、何か重いものが石床を引きずる音がする。
一度ではない。
一定の間隔で、何度も近づいてきていた。
《血液感知》を広げる。
大きな生命反応が一つ。
その向こうに、人間の心拍が二つあった。
どちらも、まだ動いている。
「見つけた」
私は右手へ血刃を作り、左手の指先から血糸を伸ばした。
狭い階段では、まだ翼を出さない。
巨大な生命反応との距離が縮まる中、私は内陣へ続く暗闇を下り始めた。




