第十三話 《聖堂騎士 エドガー・ローディス》
診工守が示した傷は、現地で感じ取ったものより深かった。
黒い杭は肝臓の端を裂き、その奥で腸管まで傷つけている。血糸で主要な出血は止めたが、杭に付着していた汚れと魔物の体液が腹部へ入り込み、放置すれば高い確率で炎症を起こす状態だった。
《腹腔内汚染を確認》
《損傷腸管:二箇所》
《肝裂傷:閉鎖状態不完全》
《緊急洗浄および再閉鎖処置を推奨します》
「始める」
薬工守が麻酔薬を調整し、男の呼吸へ補助を入れる。現地で返した血だけでは循環が足りず、血圧は危険な値のままだった。
第六層から回収した循環維持液の基材は、すでに一本分だけ再精製が終わっている。
本当なら、次の重度失血患者へ備えて保存しておくはずだった。
今使わなければ、その次まで残る患者がいない。
「使って」
《循環維持液を投与します》
透明な液体が管を通じて体内へ入り始める。
心拍は速いままだが、一度ごとの動きが僅かに強くなった。
診工守が腹部の位置を示し、薬工守が洗浄液を準備する。私は現地で閉じた傷をもう一度開き、血糸を細く分けて内部へ進めた。
最初に見つかったのは、杭の突起によって裂かれた腸管だった。
傷口の周囲は押し潰され、強く寄せれば組織そのものが破れそうになっている。汚染された部分を取り除き、残った端を縫い合わせなければならない。
縫工守が医療用の糸と針を差し出す。
血糸は傷を探り、位置を支えるために使う。身体へ残す縫合は、時間が経っても安定する医療用の糸へ任せた。
切除する範囲を診工守と確認し、傷んだ部分だけを取り除く。
男の心拍が僅かに乱れた。
「まだ大丈夫」
聞こえているはずはない。
それでも、手を止めないために口にした。
一箇所目を閉じ、洗浄する。
二箇所目は細い傷だったが、見落とせば腹部の中へ内容物が漏れ続ける。診工守の表示を何度も確認し、血糸で傷の両端を持ち上げてから縫工守へ位置を渡した。
《腸管損傷部:閉鎖》
《漏出反応:なし》
次は肝臓だった。
現地で血糸を使って寄せた場所は出血を抑えていたものの、急いで処置したため一部へ力が偏っている。血圧が戻れば、また裂ける可能性が高かった。
血糸を一本ずつ緩め、診工守が示す血流を見ながら位置を変える。
流れを残す。
漏れだけを止める。
リノの脾臓を閉じた時と似ていたが、傷の範囲はこちらの方が広かった。
一度目は端から血が滲んだ。
二度目は強く締めすぎ、周囲の血流が低下したためやり直す。
三度目に太い糸と細い糸を組み合わせ、傷全体を面で支えるように固定すると、外へ逃げていた血が止まった。
《肝血流:維持》
《活動性出血:停止》
《閉鎖状態:安定》
腹部の中を洗浄し、汚染された液体を薬工守へ吸引させる。
一度では足りない。
透明になるまで何度も繰り返し、炎症を抑える薬を入れた。最後に体内へ残る血液と異物を確認し、外側の傷を閉じていく。
現地で回収できなかった血は多い。
施設へ転送されたあと、衣服や布へ染み込んでいた血の中から、まだ返せるものだけを薬工守が選別していた。
《回収血液:少量》
《汚染部分を除外》
《返血可能量:全血液量の3.8%》
少なくても、戻せるものは戻す。
「《返血》」
血が細い管を通って男の身体へ戻る。
循環維持液と合わせても、本来の血液量には届かない。それでも、身体が自分で血を作り直すまで生き延びるための時間は得られる。
返血を終える頃には、治療を始めて八時間以上が経過していた。
頭部の傷を閉じ、全身の擦過傷を洗い、長時間杭へ固定されていたことで傷んだ背中と肩へ処置を行う。
男は一度も意識を戻さなかった。
呼吸は補助され、心拍は診工守の管理下で一定の範囲に保たれている。
《主要損傷への処置を完了》
《感染予防薬を投与》
《自発呼吸回復まで経過観察を継続します》
私はようやく医療台から離れた。
両手に付着した血を洗う。
この男の血も、人間らしい強い匂いがした。
現地では考える余裕がなかったが、治療室へ戻り、出血が止まったことで渇きが遅れて意識へ上がってきている。
飲みたいとは思う。
けれど、それ以上に眠かった。
「魔獣の血、持ってきて」
搬工守へ頼むと、保存容器が運ばれてきた。
男から離れた場所で器へ注ぎ、一度に飲み干す。人間の血の匂いが消えるわけではなかったが、自分の身体が求める量は少し落ち着いた。
そのまま椅子へ座り、診工守の表示を見続ける。
一時間。
二時間。
補助呼吸を弱めても、男の胸は自分の力で動き続けた。
血圧も少しずつ上がっている。
《自発呼吸:安定》
《循環状態:危険域を離脱》
《腹腔内出血:再発なし》
《感染兆候:現時点で確認なし》
夜か昼かも分からない施設の中で、さらに時間が過ぎた。
収容から十五時間後、診工守が治療完了の判定を出した。
《腹部貫通創:閉鎖》
《肝損傷:処置完了》
《腸管損傷:処置完了》
《腹腔内汚染:洗浄済み》
《重度失血:循環維持状態へ移行》
《頭部裂傷:閉鎖》
《現在の設備で実施可能な治療を完了しました》
《患者治療完了》
《SP+2》
《同一患者に対する治療報酬を確定しました》
《保有SP:2》
治療は終わった。
だからといって、すぐに帰せる状態ではない。失った血を自分で補い、腹部の傷が転送へ耐えられるようになるまで、数日は必要になる可能性があった。
私は男の金属札をもう一度確認する。
《エドガー・ローディス》
《聖堂騎士》
教会から来るかもしれない人間へ備えるため、飛行を取得した。
その直後に助けたのが、教会の騎士だった。
「起きたら面倒そう」
リノより警戒されるかもしれない。
武器を探して暴れる可能性もある。
それでも、杭に貫かれたまま置いてくるという選択はなかった。
私は医療台から少し離れた場所へ椅子を移し、壁へ背中を預けた。
短く休むつもりだった。
目を閉じると、意識はすぐに途切れた。
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金属が医療台へ当たる音で目を覚ました。
顔を上げると、エドガーが左手で身体を起こそうとしていた。右手には治療器具が握られているが、武器として持ち上げるだけの力は残っていない。
「起きた?」
声をかけると、灰色の目がこちらへ向いた。
瞳の焦点は戻っている。
私の顔を見たあと、エドガーは治療室を確認し、自分の腹部へ視線を落とした。
杭はなく、身体は清潔な布と固定具で覆われている。
「ここは……」
「私の家。治療室」
腹部の痛みが強いのか、エドガーは息を止めるようにして身体を医療台へ戻した。握っていた器具も指から落ちる。
「杭は抜いた。傷も閉じた。動くとまた開く」
エドガーはすぐには答えなかった。
自分の呼吸と身体の状態を確かめるように目を閉じ、数秒後に再び私を見る。
「魔物は」
「倒した。大きいのからは逃げた」
「私を運んだのか」
「ここまで転送した」
記憶を探しているのか、エドガーの眉が寄った。
「翼……」
「見た?」
「黒い翼があった」
「今は出してない」
エドガーは私の背後へ目を向けた。
翼は完全に消えている。白いシャツの背中にも、何かが生えていた痕跡はない。
「あれも吸血鬼の力か」
「最近覚えた」
「最近というのは、どの程度だ」
「昨日」
エドガーは目を閉じた。
痛みに耐えているのか、聞かなければよかったと思っているのかは分からない。
「教会の人?」
首元に置いていた銀の印章を指すと、エドガーは左手でそれを確かめた。
取り上げられていないことに気づき、僅かに表情が変わる。
「聖堂騎士だ。エドガー・ローディス」
「知ってる。札に書いてあった」
「お前は」
「エルセリア」
名前を伝えると、エドガーは黙って私を見た。
赤い目。
牙。
白い肌。
首元から見える黒い刻印。
順番に確認している。
「私を殺すつもりなら、とっくに死んでる」
「その判断は正しい」
「なら武器探さないで」
「習慣だ」
「治るまで禁止」
エドガーは反論しようとしたが、腹部へ力がかかる前に諦めた。
今の身体では、医療台から降りることもできない。
「血を飲んだか」
「飲んでない」
「私の血はかなり失われていた」
「拾える分は返した」
「返した?」
「あなたの血を、あなたに戻した」
エドガーは理解できないという顔で腕を見た。
返血用の管はすでに外しているため、傷跡が僅かに残っているだけだった。
「吸血鬼が血を返したのか」
「うん」
「なぜだ」
「治療だから」
「なぜ私を治療した」
リノにも似たことを聞かれた。
同じように答える。
「死にそうだったから」
エドガーは私の言葉を聞いたあと、しばらく何も言わなかった。
嘘を探しているのかもしれない。
「お前は、自分を魔物ではないと考えているのか」
「考えてるんじゃない。魔物じゃない」
「吸血鬼は教会の分類では魔物だ」
「リノにも言われた」
「リノ?」
「前に治した人」
エドガーの目が僅かに細くなる。
「人間をほかにも収容したのか」
「二人。二人とも帰した」
「眷属にしたのではなく?」
「してない」
「魅了は」
「できない。たぶん」
「たぶんで答えるな」
「使ったことないから分からない」
エドガーは疲れたように息を吐いた。
長く話せる状態ではない。声は保てているが、呼吸が少しずつ浅くなっている。
「もう寝て」
「まだ確認していないことがある」
「起きてから聞く」
「仲間がいる」
その言葉で、私は診工守へ向けていた視線を戻した。
エドガーは痛みに耐えながら、白い外套の一部を左手で握った。
「私を含めて五人で地下聖堂へ入った。裂口骸の巣を調査していたが、内部で分断された」
「ほかの四人は?」
「分からない」
声が弱くなる。
エドガーは続けようとしたが、診工守から警告が出た。
《患者疲労度:上昇》
《心拍数:増加》
《会話を中断し、休息させてください》
「今は探せない。転送網も使ったばかり」
「時間がない」
「エドガーも死にかけてる」
「私は助かった」
「まだ治りきってない」
エドガーは私を睨んだが、起き上がる力はない。
薬工守が睡眠を促す薬を準備する。
「薬を入れる。眠くなる」
先に伝えると、エドガーは僅かに眉を動かした。
「拒否したら?」
「話を続けて傷が開く」
「答えになっていない」
「寝て。仲間は起きてから一緒に探す」
エドガーはすぐには了承しなかった。
けれど、私が仲間を探さないとは言っていないことに気づいたのか、握っていた外套から指を離した。
「約束できるのか」
「見つけられるなら探す。でも、生きてる保証はできない」
「それでいい」
薬工守が管から薬を入れる。
エドガーの呼吸が少しずつ緩やかになり、警戒を残していた灰色の目も閉じていった。
眠りへ落ちる直前、彼は小さな声で尋ねた。
「エルセリア。お前は教会を恐れないのか」
「少し怖い」
「それでも、聖堂騎士を助けたのか」
「患者だったから」
それ以上の返事はなかった。
エドガーは眠りに落ち、心拍も安定した範囲へ戻る。
私は医療台の横で、残された銀の印章を見た。
教会の人間。
地下聖堂。
行方の分からない四人の仲間。
救命転送網の再充填には、まだ二十時間以上かかる。
それまでに、エドガーの記憶と現地派遣の記録から、四人の生命反応を探す必要があった。
私は治療室の管理表示へ、先ほどの派遣地点を呼び出した。
崩れた石室の周囲に、地下へ続く通路が何本も伸びている。
その一つから、弱い反応が返ってきた。
《現地派遣記録を再解析》
《人間種と推定される生命反応:1》
《生死判定:不能》
《位置:地下聖堂深部》
四人ではない。
一人だけだった。
私は眠っているエドガーへ視線を向けた。
「生きてるかもしれない」
次に転送網が使えるようになるまで、残り二十時間。
それまで、その反応が消えずに残っている保証はなかった。




