第十二話 《現地派遣》
足元の感覚が消え、次の瞬間には冷たい空気と濃い血の匂いが全身を包んだ。
視界が戻るより早く、右側から硬いものが風を切る音が聞こえた。私は展開したままの黒い翼を強く振り、床へ降りる前に身体を横へ逃がす。
直後、細長い腕が転送地点を薙いだ。
先端についた三本の爪が石床へ食い込み、深い亀裂を残す。腕の持ち主は人間より頭二つほど大きく、白い外殻に覆われた身体を不自然に折り曲げていた。顔に目や鼻はなく、縦に裂けた口だけが頭部の中央で開いている。
《鑑定》
《裂口骸》
《奈落生物》
《脅威度:中》
《敵対性生命反応:7》
一体ではない。
崩れた壁の亀裂や天井の梁、倒れた柱の陰から、同じ形をした魔物がこちらを見ていた。視覚器官がないにもかかわらず、七体すべての口が私の位置へ向いている。
石室の奥には、救難対象の人間がいた。
白い外套を着た男が石柱へ背中を預け、腹部を黒い杭で貫かれている。杭は身体を通り抜け、そのまま背後の柱へ深く食い込んでいた。
足元には大量の血が溜まっている。
心臓は動いているが弱い。呼吸も浅く、今にも途切れそうだった。
《救難対象》
《生命危険度:極めて高い》
《循環血液量:著しく低下》
《死亡予測:継続》
裂口骸の一体が、柱へ縫い止められた男へ腕を伸ばした。
「触らないで」
私は男と魔物の間へ降下し、伸ばした右手から三本の血糸を放った。
赤い糸が裂口骸の腕へ絡みつく。指を握る動きに合わせて血糸を引くと、長い腕が進行方向から逸れ、爪が男ではなく柱の側面を削った。
そのまま翼を広げ、魔物の頭上へ回り込む。
口の内側へ血針を撃ち込んだが、裂口骸は止まらなかった。首を大きく反らし、牙を閉じて針を噛み砕こうとする。
《血液感知》を広げる。
人間と同じ位置に心臓はない。黒い体液は胸部をほとんど通らず、腹部の奥にある複数の器官から全身へ送り出されていた。
狙いを下へ変え、外殻の隙間へ血針を三本続けて撃つ。
赤い針が黒い肉を貫き、体液を送り出していた器官を破壊した。裂口骸の身体から力が抜け、そのまま柱の横へ崩れ落ちる。
一体目を倒した直後、左右から二体が跳びかかってきた。
私は翼を上へ振って高度を上げ、伸ばされた爪を避ける。二体が空中で交差した瞬間、床へ落ちた自分の影を広げた。
黒い翼によってできた影が、石室の床を大きく覆う。
裂口骸たちが着地した位置へ影を集め、足元を暗くする。強く拘束できるわけではないが、着地する場所を見失わせるには十分だった。
一体が姿勢を崩し、もう一体へ衝突する。
私は翼を畳んで急降下し、すれ違いざまに腹部の外殻へ血刃を差し込んだ。刃を横へ引くと、黒い体液が石床へ飛び散り、二体が重なるように倒れた。
残り四体。
そのうち三体は私へ向かい、最後の一体だけが柱の男へ近づいている。
私は左手を男へ向けた。
指先から伸びた血糸が魔物の脚へ巻きつく。地面を蹴る勢いごと横へ引くと、裂口骸は男の直前で転倒した。
「先にそっち」
翼を一度強く振り、床すれすれまで降下する。
転倒した裂口骸が口を開いたため、その内側へ血刃を突き入れ、腹部まで一気に引き裂いた。
背後から三つの生命反応が近づく。
振り返る時間はなかった。
私は飛行を解除した。
背中から黒い翼が消え、支えを失った身体が床へ落ちる。頭上を三本の腕が通過し、互いの外殻へ爪を打ちつけた。
着地と同時に、再び《飛行》を起動する。
黒い翼が一気に形成され、羽ばたきの風が三体の身体を押し返した。
翼を展開したことで、床にはさらに大きな影が広がる。
三体の足元へ影を集め、動きが鈍ったところへ血針を放った。一本では足りない。外殻の隙間を狙い、それぞれの腹部へ五本ずつ撃ち込む。
一体目が倒れた。
二体目は器官を外れたのか、身体を揺らしながらも進み続ける。私は右手を伸ばし、指先から血糸を放った。
五本の糸が裂口骸の両腕と首へ絡む。
一度に引き寄せるのではなく、腕を左右へ開かせたまま固定し、露出した腹部へ血刃を突き込んだ。
最後の一体は壁を蹴り、天井へ逃れようとした。
翼を傾けて追う。
天井へ張りつく直前、伸ばした手から放った血糸を片脚へ巻きつける。糸を縮めると、裂口骸の身体が天井から引き剥がされ、石床へ向かって落下した。
私は落下地点へ血刃を構えた。
魔物の腹部が刃へ突き刺さる。
黒い体液が降りかかったが、すぐに血糸で弾き、白いシャツへ触れさせなかった。
《敵対性生命反応:消失》
《直接的捕食危険:解除》
《救難対象の死亡予測:継続》
安全になったとは言えない。
魔物を倒している間にも、男の血は減り続けていた。
飛行を解除し、柱へ駆け寄る。
男は成人で、短い淡褐色の髪をしていた。金属製の胸当てと白い外套を身につけているが、どちらも血と埃に汚れている。
左のこめかみから頬へ深い傷が走り、唇にはほとんど色が残っていなかった。
黒い杭は腹部の右側から入り、背中側へ抜けている。
単なる武器ではない。
表面には青白い文字が流れ、床や壁へ伸びる術式とつながっていた。患者の転送を妨げていた空間固定術式の中心が、この杭なのだと思う。
《鑑定》
《封界杭》
《空間および生命力を固定する術具》
《刺入対象の治癒・再生を阻害します》
《破壊または抜去時、固定されていた損傷が進行します》
「抜いたら、一気に血が出る」
杭が傷を塞いでいる。
けれど、このままでは柱から離せず、治癒も始まらない。現地で処置するには、抜くしかなかった。
私は《影蔵》から清浄布、回収容器、止血素材、細い器具を取り出した。
診工守も薬工守もいない。
身体の内部を表示してくれる設備はなく、危険な変化を警告してくれるものもない。血液感知と鑑定、それからこれまでの治療経験だけで判断しなければならなかった。
男の胸当てを血刃で切り開き、杭の周囲を露出させる。
外側へ流れている血は多くない。
その代わり、腹部の中へゆっくりと血が溜まっていた。杭の近くでは太い血管が傷つき、肝臓の一部も裂けている。
男の頬へ触れる。
「聞こえる?」
瞼が僅かに動いた。
灰色の目が薄く開き、焦点の定まらないまま私の顔へ向く。赤い目と牙を認めたのか、男の左手が腰へ動こうとしたが、途中で力を失った。
「吸血……鬼……」
「うん。今は動かないで」
「近づく……な」
掠れた声が途切れ、その動きだけで杭の周囲から新しい血が滲んだ。
私は肩を押さえ、身体が捩れないように固定する。
「動くと死ぬ。治すから寝てて」
男は何かを言おうとしたが、声にはならなかった。首元の銀色の印章へ伸ばしかけた指も途中で止まり、そのまま瞼が閉じる。
《血液感知》から伝わる心拍が、さらに弱くなった。
「話はあと」
杭を抜いた直後に血を受け止められるよう、傷の下へ回収容器を置く。伸ばした両手の指先から血糸を出し、杭の周囲にある血管へ一本ずつ巻きつけた。
太い血管は一時的に圧迫する。
肝臓の裂傷には止血素材を当てられる位置を確保し、抜去後すぐに傷口を寄せられるよう器具を差し込む。
準備を終え、封界杭へ両手をかけた。
「抜く」
返事はない。
男は意識を失っている。
杭をそのまま引けば、内部の組織をさらに傷つける。鑑定で形を確かめると、刺さっている部分にも細かな突起があり、抜去を妨げる構造になっていた。
血糸を杭の表面へ沿わせ、内部の突起を一つずつ折る。
青白い文字が激しく明滅した。
床の術式も反応し、石室全体へ低い振動が広がる。
「動かないで」
杭ではなく、自分へ言い聞かせる。
最後の突起を折り、身体の軸と同じ方向へ杭をゆっくり引く。
最初は動かなかった。
吸血鬼の力を腕へ集め、僅かに捻りながら引き続ける。杭が数センチ動いた瞬間、男の身体が大きく震えた。
心拍が乱れる。
それでも止めれば、傷だけが広がった状態で杭が残る。
私は一気に引き抜いた。
黒い杭が腹部から離れた直後、押さえられていた血が勢いよく噴き出した。
血糸を締める。
最も太い血管の流れを一時的に止め、回収容器へ血を受けながら、空いた器具を傷の奥へ進める。
一本目の血管を挟む。
その奥にもう一本。
肝臓からも血が滲み続けている。
男の心拍がさらに速くなり、一度ごとの力が弱まっていく。
「まだ死なないで」
返事はない。
血糸を傷の内側へ通し、裂けた肝臓の両端を支える。強く締めれば組織が崩れるため、血の流れを感じながら少しずつ寄せた。
外へ漏れる量が減る。
残っていた細い血管も塞ぎ、止血素材を傷の形へ合わせて固定する。
《血液感知》の中で、新しい漏れがほとんど消えた。
「止まった」
回収容器には、杭を抜いた直後に流れた血が溜まっている。石床や魔物の体液へ触れていない分だけを選び、汚染を抑える薬を加えた。
この血が帰る身体は、目の前にある。
「《返血》」
容器の中の血が揺れ、確保した管を通じて男の身体へ戻り始める。
名前はまだ知らない。
それでも、《返血》は血液の所有者を正しく認識していた。
《返血対象:一致》
《還流経路:確保》
《循環状態に合わせて速度を調整します》
弱った心臓へ一度に流さず、心拍に合わせて少しずつ戻す。
一度打てば送る。
次の一度を待ち、また送る。
血圧が上がると、閉じた肝臓の傷から僅かな血が滲んだ。血糸の位置を少し調整し、臓器へ流れる血を残したまま外へ漏れる部分だけを塞ぐ。
《返血完了》
《回収率:78%》
すべては戻せなかった。
それでも、何もしないよりは明らかに心拍が強くなっている。
床と壁を走っていた青白い術式が点滅し、端から崩れ始めた。
《封界杭の抜去を確認》
《空間固定術式:崩壊中》
《救難対象への収容経路を再検索します》
「連れて帰れる?」
《空間接続を試行します》
石室の中央へ淡い光が生まれた。
完全な転送光ではない。
空間固定術式の残りが接続を妨げ、何度も光が揺れている。
《収容経路:不安定》
《術式崩壊完了まで推定4分》
《対象の生命状態を維持してください》
「四分」
今の心拍なら耐えられる可能性はある。
私は男の腹部を清浄布で強く固定し、柱から身体を離した。自分で立てる状態ではないため、背中と脚へ腕を回して抱き上げる。
成人男性の身体は重い。
吸血鬼の力があれば持ち上げられるが、腹部を揺らせば傷が再び開く。
翼を使って姿勢を安定させようとした時、崩れた壁の向こうから低い音が響いた。
石が砕け、白い外殻に覆われた巨大な腕が室内へ伸びてくる。
先ほど倒した裂口骸とは比べものにならない生命反応だった。
《新規敵対性生命反応》
《裂口母骸》
《脅威度:高》
壁が内側へ崩れ、巨大な頭部が現れる。
縦に裂けた口だけで、私の身体を丸ごと飲み込めそうだった。倒した裂口骸たちと同じ白い外殻を持つが、その隙間からは黒い肉だけでなく、いくつもの細い腕が伸びている。
術式が崩れるまで、まだ三分以上ある。
男を床へ戻すことはできない。
私は左腕で身体を抱えたまま、右手を母骸へ向けた。
指先から血糸を広げ、周囲の柱と天井の残骸へ固定する。翼だけで男の体重を支えれば揺れが大きくなるため、血糸を補助として使い、身体を空中へ持ち上げた。
「《飛行》」
背中から黒い翼が形成される。
男を胸元へ抱えたまま、石室の天井近くまで上昇した。
裂口母骸が口を開き、複数の腕を一斉に伸ばす。
血糸を一本ずつ切り離しながら身体を横へ移動し、爪を避ける。男の腹部へ衝撃を伝えないよう、急な方向転換はできない。
「早く崩れて」
《空間固定術式崩壊まで》
2分31秒
母骸の腕が天井へ突き刺さり、崩れた石が降り注ぐ。
翼で男の身体を覆い、落下してきた石を外側へ弾いた。自分の背中へ衝撃が走るが、再生できる傷なら問題ない。
壁際へ移動し、男を血糸で支えたまま一度だけ両手を空ける。
母骸の大きな口がこちらへ向いた。
腹部の奥には、裂口骸よりはるかに大きな体液循環器官がある。ただし、厚い外殻に守られ、血針では届かない。
正面から壊す必要はなかった。
私は石室の床へ影を広げた。
崩れた柱と巨大な母骸自身が作る影をつなぎ、伸ばされた腕の根元へ集める。完全には拘束できなくても、動く瞬間を遅らせることはできる。
母骸が腕を引こうとした。
影に沈んだ外殻が僅かに止まる。
その間に、右手から太い血糸を放った。
糸を口の内側へ通し、奥にある黒い肉へ突き刺す。一本では切れるため、五本を束ねて同じ場所へ巻きつけた。
「引く」
吸血鬼の力と血液操作を同時に使い、体液を送り出している器官を手前へ引き寄せる。
母骸が激しく暴れた。
外殻の内側で黒い肉が裂け、口から大量の体液が溢れる。それでも器官は完全には壊れず、伸ばされた腕の一本が男へ届きそうになる。
私は男を支えていた血糸を短く引き、身体を自分の胸元へ戻した。
そのまま母骸の正面へ翼を向ける。
「近づかないで」
翼を最大まで開き、強く羽ばたく。
巻き起こった風が黒い体液を押し返し、母骸の口をさらに開かせた。露出した器官へ血針を何十本も撃ち込み、内部で一斉に広げる。
母骸の生命反応が大きく乱れた。
壁へ食い込んでいた腕から力が抜け、巨体が前へ傾く。
完全に死んではいない。
それでも、すぐに追ってくることはできない。
《空間固定術式:崩壊完了》
《収容経路を確立しました》
男の身体の周囲へ白い光が現れる。
「先に帰って」
私は抱えていた身体を光の中央へ押し出した。
《救難対象を第七層へ収容します》
《対象生命状態:維持》
男の姿が白い光へ包まれ、腕の中から消える。
次に、私の足元へ別の光が広がった。
《現地派遣目的の一部達成》
《マスターユーザーの帰還が可能です》
《現地残留を継続しますか?》
母骸の生命反応はまだ残っている。
けれど、救助対象は施設へ送った。
ここで戦い続ける理由はない。
「帰る」
《現地派遣を終了します》
母骸が体勢を立て直し、再び口を開いた。
その腕が届く直前、視界が白い光に覆われる。
次に足元の感覚が戻った時、私は第七層の治療室へ立っていた。
医療台には、先ほどまで柱へ縫い止められていた男が横たわっている。診工守と薬工守はすでに全身を走査し、私が現地で処置した腹部へ器具を展開していた。
《対象分類:人間種・成人男性》
《主要損傷》
《腹部貫通創》
《肝損傷》
《腸管損傷》
《重度失血》
《左側頭部裂傷》
《封界杭による治癒阻害:解除済み》
《生命危険度:高》
《現地処置により死亡予測を一時解除》
「治療、続ける」
飛行を解除すると、黒い翼が完全に消えた。
現地で使った血糸の影響で身体は重く、背中にも強い疲労が残っている。それでも、患者を施設まで連れて帰ることはできた。
薬工守が血と汚れに覆われた白い外套を切り開く。
胸元から、銀色の印章と小さな金属札が現れた。
印章には、太陽と長剣が刻まれている。
金属札には、この世界の文字で名前が記されていた。
「エドガー・ローディス」
その下にある肩書きも、レオンに教わった文字で何とか読めた。
《聖堂騎士》
教会に属する人間だった。
武器を持った教会の者がここへ来る可能性を考え、私は戦うために飛行を取得した。
その直後、最初の現地派遣で救ったのが教会の騎士だった。
「変なの」
診工守が腹部の再処置を要求する。
私はすぐに医療台の横へ立ち、両手から新しい血糸を伸ばした。
エドガーはまだ意識を失っている。
吸血鬼に助けられたことも、第七層へ運ばれたことも知らない。
警戒されるのは、目を覚ましたあとでいい。
「今は治す」
血糸を器具へ絡め、診工守が示した傷の奥へ進めた。




