第十話 《黒い翼と第六層》
目を覚ました時、視界の大半を自分の黒髪が覆っていた。
枕からこぼれた髪が頬と腕へ絡み、白いシャツの裾は腰まで捲れ上がっている。ベッドへ運ばれたところまでは覚えていたが、その後に姿勢を整えた記憶も、布を掛けた記憶もなかった。
身体を起こすと、肩から薄い毛布が滑り落ちた。
ベッドの横では搬工守が停止している。私をここまで運んだあと、診工守から指示を受けて毛布まで掛けたのかもしれない。
「ありがとう」
搬工守は動かなかった。
それでも、言っておきたかった。
状態を確認すると、リノを帰還させてから十三時間以上が経過していた。
《休眠時間:13時間47分》
《身体疲労:大幅に軽減》
《血液量:低下》
《栄養状態:不足》
《広域緊急救命転送網:再充填中》
《次回転送可能まで:約9時間》
深く眠ったおかげで、意識はかなり明瞭になっていた。ただ、身体の中身が足りない。立ち上がると空腹と渇きが同時に強まり、喉の奥が熱を持つ。
レオンとリノの治療では、何度も血糸を作った。
返血で動かしたのは患者自身の血だが、傷を支え、器具を操作し、組織を閉じるために使った血は私のものだった。再生能力があっても、失った血や栄養が何もせず戻るわけではない。
髪からは薬品と水路の泥が混じったような匂いが残っている。
「先にシャワー」
搬工守へ毛布を任せ、洗浄区画へ向かった。
白いシャツを脱ぎ、温かな水を頭から浴びる。
腰まで伸びた髪が水を含み、背中へ重く張りついた。治療中に飛び散った血や薬液はすでに拭き取っていたが、肌にはまだ僅かな臭いが残っている。
石鹸を泡立て、髪と身体を時間をかけて洗った。
温水を浴びているうちに、固まっていた肩と背中が少しずつ解れていく。
リノの青い目を思い出した。
目を覚ましてから眠る直前まで、彼女は私の動きを見続けていた。吸血鬼が友好的に振る舞い、警戒を解かせてから血を奪う可能性まで考えていたのだと思う。
リノは教会の分類では吸血鬼は魔物だと言った。
私が人間を治療し、生きたまま帰したことを知っても、教会が善意に解釈するとは限らない。魅了された患者を解放した、眷属を増やすための準備をしている、危険な変異種が古代施設を占拠していると判断する可能性もある。
すぐに誰かが来るとは思っていない。
この施設の場所は、レオンもリノも知らない。それでも、外の世界へ私の存在を知る人間が増えれば、いつか武器を持った集団が押しかけてくるかもしれなかった。
患者なら治療する。
話が通じるなら話す。
それでも、治療室や作業個体を壊そうとするなら止めなければならない。
「殺さないで止めたい」
水の音の中で口にする。
血針や血刃は、相手を傷つけることへ向いている。影は動きを妨げられるが、自分が地面にいる限り、剣や槍を持った複数の人間に囲まれる危険は残る。
距離を取れる力があれば、戦わずに済む場面も増える。
身体を洗い終え、新しい白いシャツへ着替えた。
下着は着けない。
《裸族》の条件を満たすと、身体に残っていた僅かな重さまで薄くなった。
「やっぱりこれが楽」
人間がいない家では、裾を押さえる必要もなかった。
生活区画へ戻ると、まず保存していた魔獣の血を器へ注いだ。
一口飲むだけで、乾いていた喉へ冷たい感覚が広がる。人間の血ほど強い香りはなくても、身体へ馴染むのはこちらだった。
続けて魔獣肉を焼き、細かく切った根菜を煮る。レオンへ食事を作った頃より、火の通り方や塩の量を自分で判断できるようになっている。
焼けた肉を噛み、根菜の汁を飲む。
「おいしい」
誰も感想を返さない。
以前なら、それで何も感じなかった。
今はレオンなら味をどう言うか、リノなら出された料理をどれほど疑うかを考えてしまう。
食事を終える頃には、血液感知から伝わる自分の循環も安定していた。
《血液量:回復傾向》
《栄養状態:正常範囲》
私は食器を片づけ、保有SPを開いた。
《保有SP:2》
リノの治療を完了したことで得たSPだった。
治療技能を伸ばす選択肢もある。
《血液保存》があれば、魔獣の血や回収した血液の劣化を抑えられる。《血流制御》を取得すれば、止血や返血の精度をさらに高められるかもしれない。
けれど、今は外から来る危険にも備えたかった。
技能候補を順番に確認する。
《血液保存:1SP》
《血流制御:2SP》
《影縫い:2SP》
《夜間感覚強化:1SP》
《爪牙強化:1SP》
《飛行:2SP》
最後の候補を開く。
《飛行》
《吸血種の魔力および身体構造を一時的に変化させ、飛行用の翼を形成します》
《技能起動中のみ翼が出現します》
《技能を解除した場合、翼は完全に消失します》
《初期段階では飛行速度、旋回性能、連続使用時間に制限があります》
《取得条件》
《吸血種特性》
《身体制御》
《領域同化》
《消費SP:2》
普段から翼が生えたままになる技能ではない。
必要な時だけ起動し、使わなければ今までと同じ身体でいられる。狭い生活区画で邪魔になることもなく、人間の前で余計な恐怖を与えたくなければ隠しておける。
施設内部には、階段や昇降設備が壊れ、高い場所へ近づけない区画がいくつもある。飛べれば探索範囲も広がる。
戦闘でも有効だった。
地上から剣や槍の届かない位置へ逃れ、頭上から影を広げれば、相手を傷つけずに武器だけを奪えるかもしれない。囲まれても空へ逃げられるなら、殺す以外の選択を取りやすい。
「これにする」
《飛行を取得しますか?》
「取得する」
《SPを2消費します》
《保有SP:0》
《吸血種系技能を取得しました》
《飛行 Lv.1》
取得が完了しても、背中には何も現れなかった。
シャツの上から肩甲骨の周囲へ触れてみるが、皮膚も骨格も今までと同じだった。
「起動しないと、生えない」
説明どおりだった。
私は生活区画で試すのを避け、天井の高い搬送室へ移動した。
大型の機材を運ぶために作られたらしく、床から天井まで二十メートル以上ある。壁沿いには途中で途切れた足場と、停止した昇降設備が残っていた。
中央へ立ち、周囲に壊れやすいものがないことを確かめる。
「《飛行》」
背中へ熱が集まった。
痛みはない。
肩甲骨の周囲から魔力が後方へ伸び、身体の輪郭が一時的に広がるような感覚があった。
次の瞬間、白いシャツを傷つけることなく、背中の左右へ黒い翼が形成された。
細長い骨格の間には、夜のように暗い皮膜が張られている。内側には赤黒い筋が走り、翼を広げるたびに血管のような模様が浮かんだ。
鳥の羽ではない。
蝙蝠に近い、大きな皮膜翼だった。
完全に広げると、左右を合わせた幅は私の身長の倍を越えている。
「大きい」
背中へ腕が二本増えたような感覚があった。
右だけを曲げ、次に左を動かす。両方を大きく広げると、巻き起こった風が床の埃を遠くへ吹き飛ばした。
一度、翼を下へ振る。
身体が僅かに浮き、すぐに床へ戻った。
もう一度、身体制御で重心を保ちながら羽ばたく。
今度は足が一メートルほど床から離れた。
「飛んだ」
そう思った直後、翼を止めたため、そのまま落ちた。膝を曲げて着地したが、勢いを吸収しきれずに両手を床へつく。
技能を取っただけで、最初から自由に飛べるわけではないらしい。
もう一度浮かび、身体を前へ傾ける。
斜めに進んだまではよかったが、片方の翼へ力を入れすぎて横へ流れた。壁へぶつかる直前に両翼を広げ、空気を受けて速度を落とす。
肩が軽く壁へ触れた。
「危ない」
浮く。
姿勢を保つ。
前へ進む。
止まる。
向きを変える。
何度も試すうちに、左右の翼を一つずつ考えなくても、身体が進みたい方向へ動かせるようになった。
床から五メートルほど上がり、翼の角度を変える。強く羽ばたかなくても、皮膜へ空気を受ければ短い間は滑るように進めた。
搬送室を一周して中央へ戻る。
着地の直前に翼を広げて速度を落とし、両足で床へ降りた。三歩ほど前へ進んだが、転ばずに止まれた。
《飛行技能の習熟度が上昇しました》
《推定連続飛行可能時間:約16分》
「短い」
戦闘中にずっと飛び続けるには心許ない。
必要な時だけ起動し、高度を取ったあとは翼を広げて滑る方がよさそうだった。
技能を解除する。
黒い翼は輪郭から薄くなり、魔力へほどけるように消えていった。背中へ吸い込まれたわけでも、畳まれて残ったわけでもない。
翼が消えたあとには、いつもの肩甲骨と滑らかな皮膚しか残っていなかった。シャツにも傷はない。
もう一度起動すれば現れ、解除すれば完全に消える。
「便利」
それなら普段の生活を変えなくてもいい。
ただ、黒い翼まで見せれば、私を魔物だと考える人間はさらに増えるかもしれない。人間の前では、本当に必要な時だけ使うことにした。
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救命転送網の再充填が終わるまで、まだ時間が残っていた。
治療で使った魔獣の血を補充しておきたい。次の患者が来る前に軽く狩りへ出ることにし、必要な容器と器具を《影蔵》へ入れた。
灰の森へ出た時には、飛行を起動しなかった。
翼は生えておらず、背中にも痕跡はない。森の中は枝が入り組んでいるため、慣れないまま飛ぶより地面を歩く方が安全だった。
血液感知を広げると、近くにいくつかの生命反応が見つかった。
今日は遠くまで行かない。
危険な魔獣を探すのではなく、保存血と食料を少し補充できれば十分だった。
灰色の茂みから、額に短い角を持つ四足の魔獣が現れる。灰角兎よりかなり大きく、太い前脚で地面を削りながら、低く身体を構えた。
次の瞬間、魔獣が突進してきた。
私は横へ避け、血針を首へ撃ち込む。
針は刺さったものの、厚い毛皮と筋肉を貫ききれない。魔獣は勢いを落とさずに方向を変えた。
「固い」
二本目を前脚へ打つ。
脚を引きずるようになったが、まだ倒れない。
背後の茂みから、別の生命反応が急速に近づいてきた。さらに左右からも一体ずつ姿を現す。
三頭。
軽い狩りのつもりだったが、群れだったらしい。
地上で囲まれる必要はない。
「《飛行》」
背中へ黒い翼が形成される。
翼が広がると周囲の枝葉が押し分けられ、最初の羽ばたきで身体が地面から浮いた。枝の少ない隙間を選び、三メートルほど上へ上がる。
魔獣たちは私を見上げ、木の幹へ前脚をかけた。
上からなら、三頭すべての動きが分かる。
負傷した個体の首へ、もう一度血針を撃ち込む。今度は角度がよく、針が深く入った。
魔獣が崩れる。
残った二頭の足元へ、翼と木々が作る影を伸ばした。
《影》が前脚へ絡み、一頭が地面へ倒れる。
私は高度を下げ、すれ違う瞬間に血刃で首元を切った。
最後の一頭は森の奥へ逃げ出した。
追う必要はない。
二頭あれば十分だった。
地面へ降りて飛行を解除すると、黒い翼はすぐに消えた。短時間しか使っていないが、肩甲骨の周囲には軽い疲労が残っている。
「戦う時だけでいい」
倒した魔獣の血を抜き、清潔な容器へ入れる。
二頭目の処理を進めている途中、視界へ施設からの通知が現れた。
《第七層管理系統より通知》
救命転送網の警告ではない。
私は血のついた手を止めた。
《第六層連絡通路》
《浄化処理:完了》
《深界瘴気濃度:許容範囲》
《有害生体反応:確認なし》
《隔離扉の通行制限を解除します》
《第六層への移動が可能になりました》
「第六層」
第七層の上に存在する区画。
これまで連絡通路は深界瘴気に汚染され、巨大な隔離扉によって閉鎖されていた。管路守や掃工守たちへ浄化を続けるよう命じていたが、いつ終わるのかは分かっていなかった。
新しい設備が残っているかもしれない。
薬や循環維持液を製造できる場所も、救命転送網の再充填を短縮する設備も見つかる可能性がある。
古い記録が残っていれば、この施設や自分についても何か分かるかもしれない。
私は魔獣の処理を急いで終え、血と使える肉を《影蔵》へ収めた。
施設へ戻るなら、飛んだ方が早い。
枝の少ない場所まで移動し、再び技能を起動する。
「《飛行》」
黒い翼を広げ、灰の森の上へ向かって上昇する。
樹冠を抜けた瞬間、視界が一気に広がった。
足元には灰色の森がどこまでも続き、その間に岩場と霧の濃い区域が点在している。地上から見ていた時より、森ははるかに大きかった。
翼を傾け、第七層の入口へ向かう。
まだ長く飛ぶことには慣れていない。背中の疲労が強くなる前に高度を下げ、入口の前へ着地した。
数歩よろめいたものの、転ばずに止まる。
飛行を解除すると、翼は完全に消えた。
施設内へ戻り、持ち帰った血と肉を薬工守たちへ預ける。身体へ付着した魔獣の血を洗いたかったが、第六層の方が気になった。
「手だけ洗う」
簡単に汚れを落とし、外套を身につける。
第六層へ続く連絡通路は、第七層の中央管理区画からさらに奥にある。
以前に訪れた時は、巨大な隔離扉の周囲へ濃い瘴気が滞留していた。近づくだけで皮膚へ違和感があり、扉の表示も赤い警告を繰り返していた。
今は空気が違う。
瘴気の刺激はほとんどなく、壁沿いの表示も白へ変わっている。
《第六層連絡通路》
《浄化処理:完了》
《通行権限:マスターユーザー》
《隔離扉を開放しますか?》
「開ける」
低い駆動音が通路全体へ響いた。
長い間閉ざされていた隔離扉が、床に積もった埃を押し退けながら左右へ開いていく。
扉の向こうには、緩やかに上へ続く広い通路が現れた。
照明は一部しか点いておらず、奥は薄暗い。床には浄化作業を行った跡が残り、壁沿いの配管から低い駆動音が続いている。
血液感知を広げる。
生き物の反応はない。
それでも、《影蔵》から血針を一本取り出し、すぐ撃てるよう指の間へ挟んだ。
飛行は起動しない。
狭い通路で高低差を越える必要が生じた時だけ使えばいい。
私は一度だけ後ろを振り返った。
開いた扉の向こうには、第七層へ戻る道が残っている。
「行く」
それを確かめてから、私は初めて第六層へ続く連絡通路へ足を踏み入れた。




