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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第三部 《二十四時間の境界》

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第九話 《リノ・エルディア》

流れ出たばかりの血は薬工守へ回収させ、汚染と凝固の状態を確認した。量は少なかったが、今のリノにとっては捨てていい血ではない。


《回収血液:返血可能》


私は血糸で脾臓の傷を支えたまま、回収容器へ手を添えた。


「戻す。速度は遅く」


薬工守が返血用の経路を接続し、診工守が心拍と血圧の監視を始める。容器の中にある血へ意識を向けると、それが誰のものなのか、どこへ帰るべきなのかがはっきりと伝わってきた。


《返血対象:リノ・エルディア》


《所有個体との一致を確認》


《還流を開始します》


血を戻すたびに、閉じかけた傷へ圧力がかかる。


最初の治療では、漏れている場所を一本ずつ塞いだ。今回は周辺の組織まで広く支え、体温と血圧が正常へ戻ったあとでも傷が開かない形へ整える必要があった。


血糸を強く引きすぎれば、温存した臓器そのものを傷つける。緩ければ、また出血する。


診工守が示す血流と、《血液感知》で感じる実際の動きを重ねながら、糸の位置を少しずつ変えた。


一度目は、細い漏れが残った。


二度目は血流を圧迫しすぎたため、すぐに緩める。


三度目に傷の端を斜めから寄せると、外へ逃げていた血が止まり、臓器の内側を巡る流れだけが残った。


《活動性出血:停止》


《臓器血流:維持》


《再閉鎖処置:成功》


私は返血を最後まで続けず、凝固しかけた部分が管へ入る前に止めた。


《返血完了》


《回収率:86%》


《異常反応:確認なし》


前より上手くできた。


自分でもそう思ったが、喜んでいる余裕はなかった。リノの体温はまだ完全には戻っておらず、肺の炎症も残っている。


診工守へ監視を任せ、私は医療台の横から離れずに処置を続けた。


時間をかけて加温を再開し、補助呼吸を弱める。リノの胸が自分の力で安定して上下するようになるまで、何度も呼吸状態を確認した。


肺へ残っていた水分は少しずつ減り、薬工守が投与した薬によって炎症の広がりも抑えられている。


《深部体温:36.1》


《自発呼吸:安定》


《腹腔内出血:再発なし》


《循環状態:安定傾向》


ここまで来て、ようやく椅子へ座った。


レオンを治療した時も長かった。


けれど、今回は低体温、溺水、腹部の出血を同時に処置しなければならなかった。新しく得た《返血》がなければ、循環維持液だけでは足りなかったかもしれない。


眠っているリノの顔には、目を覚ましていた時の険しさが残っていた。眉は僅かに寄り、左手には今も認識票が握られている。


私を信用していない。


それでも治療を拒絶して暴れ続けるほどではなく、帰還できる状態になるまで待つことを選んだ。


選んだというより、身体が限界だっただけかもしれない。


どちらでもよかった。


今は生きている。


それで十分だった。


---


リノが次に目を覚ましたのは、収容からおよそ二十二時間後だった。


今度は急に身体を起こそうとはしなかった。


青い瞳が天井から診工守へ移り、そのあとで私を探すように治療室を見回した。私は少し離れた机で治療記録を書いていたため、視線が合うまでに数秒かかった。


「まだいたのね」


最初に出た言葉がそれだった。


私は記録板から顔を上げた。


「ここ、私の家」


「そうだったわね」


声にはまだ警戒が残っていたが、目を覚ました直後のような鋭さは薄れている。


リノは自分の身体を確認した。腹部を直接触らず、布の上から傷の位置を見下ろし、固定された右腕の指をゆっくり動かす。


指先の感覚と血流は正常だった。


「痛みは?」


尋ねると、リノはしばらく自分の身体へ意識を向けたあと、脇腹と腕が痛むものの、前よりは息がしやすいと答えた。


起きたばかりで長く話す余裕はない。それでも、呼吸のたびに顔を歪めていた最初の状態とは大きく違っていた。


私は診工守を呼び、最終確認の前にもう一度全身を調べさせた。


《深部体温:正常範囲》


《自発呼吸:安定》


《肺内残留液体:軽微》


《肺炎症反応:低下》


《腹腔内出血:再発なし》


《右前腕:整復位置を維持》


リノは表示を読むことができないため、内容を一つずつ説明した。


肺にはまだ少し炎症が残っていること。


腹部の傷は閉じているが、強く動けば再び開く可能性があること。


右腕の骨は位置を戻しただけで、完全に治ったわけではないこと。


帰還後も治療所へ行き、しばらく安静にしなければならないこと。


聞き終えると、リノは腹部へ視線を落とした。


「ここまでして、私を帰すの?」


「帰りたいって言ったから」


「吸血鬼の巣へ連れ込まれたなら、簡単には帰してもらえないと思っていた」


「巣じゃない。家」


少し強く訂正すると、リノは私の顔を見た。


からかうような表情ではなかった。本当に違いが分からなかっただけらしい。


「あなたにとっては、ここが家なのね」


「うん」


「ほかの吸血鬼はいないの?」


「見たことない」


「眷属も?」


「いない」


「一人で、こんな施設に住んでいる?」


私は頷いた。


リノは周囲の作業個体を見回した。診工守も薬工守も、必要な動作を終えると無言で待機位置へ戻っている。


「それで寂しくないの?」


「前は分からなかった」


「今は?」


少し考えてから、レオンが帰ったあとに治療室が静かになったことを思い出した。


「人が帰ると、少し静か」


「それを寂しいと言うんじゃない?」


「たぶん」


リノは意外そうに私を見た。


吸血鬼らしくないと思ったのかもしれない。


そのあとすぐ、彼女は最も気にしていた名前を口にした。


ガレスを探せるかと尋ねる声には、目を覚ました直後よりも強い焦りがあった。


私は帰還機能を開き、収容時に記録した生命反応と、リノの記憶を照合させる。


「戻りそうな場所を考えて」


リノは目を閉じた。


排水路から出た先にある監視所、そこへ置いてきた荷物、ガレスと最後に話した時の様子を順番に思い浮かべてもらう。


検索結果が出るまでの間、リノは何度も目を開きかけたが、集中を切らさないよう黙っていた。


最初の候補には該当する生命反応がなかった。


二つ目にもいない。


収容地点付近を確認しても、崩れた排水路には人間の姿がなかった。水位は下がり、リノを挟んでいた木材も流されている。


「死んだ反応は?」


リノが目を閉じたまま尋ねた。


「確認されてない」


「それなら、まだ生きてるかもしれない」


自分へ言い聞かせるような声だった。


さらに検索範囲を広げる。


しばらくして、監視所に近い場所から一つの反応が見つかった。


《帰還地点候補を確認》


《人間種生命反応:4》


《対象と収容直前まで接触していた生命反応:1》


「見つけた」


リノがすぐに目を開く。


空間へ映像を出すと、石造りの小さな監視所が現れた。


入口の前には三人の探索者がいて、その中央で大柄な男が装備を整えている。服も髪もまだ濡れており、額と腕には傷が残っていた。


男は周囲の制止を振り切ろうとしながら、排水路の方角を何度も指している。


「ガレス」


リノの声が震えた。


映像の男は、リノよりもかなり背が高い。鎧を着ていなくても身体が大きく、片腕へ布を巻いているにもかかわらず、再び水路へ入る準備をしていた。


「生きてる」


私が告げると、リノの目から涙が落ちた。


警戒している相手の前で泣いたことを隠したかったのか、すぐに顔を背ける。それでも拭える手は左手しかなく、認識票を握ったままでは上手く拭けなかった。


私は布を渡した。


リノは一瞬迷ったあと、それを受け取る。


「戻ろうとしてる」


「分かるの?」


「荷物を見れば分かる。あの人、私を探しに行くつもりよ」


映像の中で、ガレスは三人の探索者と口論している。止められても諦める様子はなく、剣と縄を自分の身体へ結びつけていた。


リノは医療台から起き上がろうとした。


私はすぐ肩を押さえた。


「先に帰れるか調べる」


「生きているなら、早く止めないと」


「立てない」


「ガレスに運ばせる」


「転送できるか、まだ判定してない」


リノは何か言い返しかけたが、腹部の痛みで息を詰まらせた。


今度は私の手を振り払わず、医療台へ身体を戻す。


「早くして」


命令するような口調だった。


警戒する吸血鬼へ頼む態度ではない気もしたが、ガレスのことで余裕がないのだろう。


診工守へ帰還判定を求める。


淡い光がリノの身体を通過し、損傷と回復状態を確認していく。


《患者識別名:リノ・エルディア》


《生命危険状態:解除》


《深部体温:正常範囲》


《自発呼吸:安定》


《腹腔内出血:停止》


《右前腕骨折:整復・固定済み》


《感染危険度:低下》


《転送耐性:充足》


《安全帰還:実行可能》


「帰れる」


その一言で、リノの肩から力が抜けた。


けれど、すぐに帰還を実行することはできない。


治療を完了させるため、残っていた薬を投与し、腹部と肺を最後に確認する。帰還後に飲む薬を分け、右腕の固定具と腹部の保護布を調整した。


私は治療上の注意を記録板へ書きながら、リノへ一つずつ伝えた。


自分で歩かないこと。


傷を水へ濡らさないこと。


右腕の固定具を外さないこと。


息苦しさや高熱、腹部の強い痛みが出れば、すぐに治療院へ行くこと。


リノは最初こそ急かしていたが、途中からは黙って聞いていた。


ガレスへ会うために必要なことだと理解したらしい。


「監視所の近くに治療所はある?」


私が尋ねると、そこから半日ほど上層へ移動すれば、神殿が運営する治療所があるという。


「歩かないで」


「ガレスに背負わせる」


「ガレスも怪我してる」


「ほかの三人に運ばせる」


「ならいい」


記録板へ最後の一行を書き終え、診工守へ治療完了の判定を求めた。


《出血管理:完了》


《呼吸管理:完了》


《低体温処置:完了》


《骨折整復および固定:完了》


《感染予防処置:完了》


《現在の設備で実施可能な治療を完了しました》


《患者治療完了》


《SP+2》


《同一患者に対する治療報酬を確定しました》


《保有SP:2》


レオンの時とは違い、今度は治療を最後まで終えたことを確認してからSPが入った。


止血だけでも、呼吸を戻しただけでもない。


リノが施設を離れたあとも生きられるところまで治した結果だった。


「終わった」


リノはしばらく診工守と私を見比べた。


「本当に、全部?」


「ここでできることは全部」


「代価は?」


「ない」


「あとから請求するつもりも?」


「何をもらえばいいか分からない」


「血とか」


「いらない」


「さっき、いい匂いがするって言ったでしょう」


「今はいらない」


「今は、ね」


リノはまだ疑っている。


それでも、目を覚ました直後ほど敵意を向けてはいなかった。


左手で認識票を握ったまま、わずかに頭を下げる。


「助けてくれたことには、礼を言う。まだ全部を信用したわけじゃないけど」


「それでいい」


「普通は、もう少し信用してほしいと思わない?」


「リノが決めることだから」


「本当に変ね」


「吸血鬼?」


「あなたが」


リノはそこで初めて、警戒とは違う小さな笑みを見せた。


腹部へ響いたらしく、すぐに顔をしかめたため、私は笑わないよう注意した。


---


帰還地点には、ガレスのいる監視所の内部を選んだ。


リノは自分で歩こうとしたが、医療台から足を下ろした時点で身体が大きく揺れた。私は腰と肩を支え、搬工守が運んできた椅子へ座らせる。


「触るなら先に言って」


リノが不満そうに言った。


「倒れると思ったから」


「それでも言って」


「分かった。次から」


「本当に言う?」


「たぶん」


「そこは約束しなさい」


「できる範囲で」


リノは呆れたように息を吐いた。


それでも私の腕を振り払わず、椅子へ身体を預けた。


右腕を胸の前で固定し、薬と治療記録を腰の袋へ入れる。銀色の認識票は、本人が自分で首へ掛け直した。


《任意帰還対象:リノ・エルディア》


《帰還地点:地下排水路監視所》


《周辺環境危険度:低》


《敵対性生命反応:確認なし》


《帰還処理を実行できます》


白い光が椅子の下へ広がる。


映像の向こうでは、ガレスが監視所を出ようとしていた。周囲の探索者に腕を掴まれ、声を荒らげている。


「間に合う」


リノは映像から目を離さなかった。


「エルセリア」


「何」


「私が帰ったら、あなたのことを話すかもしれない」


「ガレスに?」


「ガレスには話す。ほかの人間には、まだ決めていない」


「場所は知らないから言えない」


「吸血鬼に助けられたと言えば、教会が動く可能性もある」


「来たら困る」


「だから迷ってる」


リノはようやく私を見た。


「あなたが何者かは、まだ分からない。今すぐ敵だとは思わなくなったけど、安全だとも言い切れない」


「うん」


「でも、私を治したことまで隠すのも違う気がする」


「リノが決めて」


「本当に、そればかりね」


「帰ったあとのことは、リノのものだから」


数字が十から減り始めた。


リノは少し考えたあと、まずガレスだけにはすべて話すと決めた。ほかの人間へ伝えるかは、ガレスと相談してから判断するらしい。


私にとっても、その方がよかった。


突然、大勢の人間や教会の者が来れば、この家を守らなければならない。


レオンとリノが再び来ることは望んでいても、武器を持った知らない人間まで迎えたいわけではなかった。


「武器を持って来ないで」


私が伝えると、リノはガレスなら間違いなく持ってくると答えた。


「なら外に置かせて」


「伝えておく。でも、あなたが吸血鬼だと知って、素直に置くとは思えない」


「置かないなら入れない」


「施設が?」


「私が」


リノは、今までより慎重に私を見た。


私が治療しかできない存在ではなく、侵入者を止める力も持っていると気づいたらしい。


「あなた、本当は強いの?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「比べる人がいないから」


「有名になったら、比べる相手は増えるでしょうね」


「有名になりたくない」


「なら、私たちが戻ってくる方法だけ探す」


数字が五へ変わる。


「怪我しないで来て」


「できるならね」


「死にかけて来るのは駄目」


「分かってる」


三。


二。


リノは映像の向こうにいるガレスへ顔を向けたまま、最後に小さく呟いた。


「ありがとう、エルセリア」


今度は、信用を保留している相手へ向ける声ではなかった。


少なくとも、助けられたことだけは認めてくれている。


「うん。もう水に落ちないで」


「好きで落ちたんじゃない」


一。


白い光がリノの身体を包み、椅子ごと姿が消えた。


監視所の床へ光が現れ、ガレスが振り返る。


次の瞬間には、手に持っていた装備をすべて落としていた。


大柄な身体で椅子へ駆け寄り、リノの前へ膝をつく。口を動かしているが、映像から声までは聞こえない。


リノが無事な左手を伸ばす。


ガレスはその手を両手で包み、自分の額へ押し当てた。何度も何かを尋ね、固定された右腕や腹部の布を見ては、泣きそうな顔をしている。


リノは困ったように笑い、左手でガレスの頭を一度だけ撫でた。


そのあと、こちらへ視線を向ける。


転送の映像がまだ見えているのかは分からない。


それでもリノが左手を僅かに上げたため、私も同じように手を上げた。


《任意帰還完了》


《帰還先保護対象との接触を確認》


《患者生命反応:維持》


《転送経路を切断します》


監視所の映像が消える。


治療室に残ったのは、空の医療台と、使用済みの器具だけだった。


私はしばらく白く戻った床を見つめていた。


「帰った」


誰も返事をしない。


診工守と薬工守は患者がいなくなったことを確認すると、器具の洗浄と記録の保存を始めた。掃工守も濡れた床と血の跡を処理していく。


私は壁際へ移動し、灰角兎とレオンの絵の隣に、新しい板を置いた。


リノの絵はまだ描いていない。


治療が続き、警戒したままの会話が長引いたため、絵を描く時間がなかった。


空いた板へ名前だけを書く。


《三番目の患者》


《リノ・エルディア》


《ガレスのところへ帰った》


少し考え、最後の一行を追加した。


《まだ信用されていない》


悪いことではなかった。


知らない吸血鬼をすぐに信用する方が、この世界では危ないのかもしれない。


次に会えた時、敵ではないと少しずつ知ってもらえばいい。


そこまで書いたところで、全身から力が抜けた。


レオンの収容から、ほとんど休んでいない。


レオンを治療し、帰還させ、返血を覚え、風呂へ入って少し眠った直後にリノが運ばれてきた。その後も二十時間以上、低体温と出血と呼吸の監視を続けていた。


緊張している間は動けた。


患者が帰り、治療室から人間の心音が消えたことで、身体がようやく休んでいいと判断したらしい。


「眠い」


自分の声が遠く聞こえる。


医療台へ座ろうとして、そこは患者の場所だと思い直した。


生活区画まで戻らなければならない。


数歩進んだところで、床が少し揺れたように感じた。実際には、自分の身体がふらついていただけだった。


搬工守が近づき、私の前で停止する。


「運んで」


命令すると、搬工守は私の身体を持ち上げた。


レオンやリノを運ぶために使っていた機体へ、自分が運ばれるのは初めてだった。


白いシャツの裾が上がったが、もう気にする相手はいない。髪も乱れたまま肩から垂れ、搬工守の金属部へ張りついている。


生活区画へ着く前に、瞼が閉じ始めた。


《広域緊急救命転送網》


《再充填中》


《次回転送可能まで:約23時間》


しばらく新しい患者は来ない。


少なくとも、再充填が終わるまでは。


「異常あったら起こして」


搬工守に言っても、理解しているかは分からない。


診工守へ同じ命令を送ったところで、私はベッドへ下ろされた。


布を掛ける余裕もなかった。


白いシャツ一枚のまま身体を横たえ、枕へ顔を押しつける。髪が頬や腕へ絡んだが、直す気力も残っていない。


目を閉じる直前、壁際に置いた患者の記録を思い出した。


灰角兎。


レオン。


リノ。


三人とも帰った。


そのことだけを確認すると、意識は一気に沈んだ。


警告音も、作業個体の足音も、施設の低い駆動音も聞こえなくなる。


私はそのまま、石棺から目を覚まして以来初めて、何も考えられないほど深く眠った。


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