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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第三部 《二十四時間の境界》

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第七話 《返血》

レオンが帰還してから一時間ほど経つと、治療室に残っていた人間の気配も薄れ始めた。


掃工守が床へ広がった薬液と血を洗い流し、薬工守は使用済みの器具を順番に処理している。診工守も患者記録の保存を終え、医療台の横にある待機位置へ戻っていた。


つい先ほどまで聞こえていた呼吸も、料理の味へ文句を言う声も、もう聞こえない。


私は新しい布が敷かれた医療台の前に立ち、保存された記録を開いた。


《患者識別名:レオン・アルヴェイン》


《早期任意帰還:完了》


《帰還時生命状態:維持》


《胸部損傷:継続観察を推奨》


《右下肢圧挫損傷:継続治療を推奨》


《現在位置:観測範囲外》


レオンが帰ったあとに傷を悪化させても、今の施設からは確かめられない。


治療上の注意を書いた板は持たせた。仲間のいる場所へ返したため、一人で倒れたままになることもない。残された人間の治療技術がどの程度なのかは分からないが、収容された時よりはるかに生存しやすい状態になっている。


それでも心配は消えなかった。


「血、足りなかった」


レオンを治療していた時、最も困ったのは失血だった。


胸の中へ漏れた血を排出し、活動性の出血を止めても、すでに身体から失われた血までは戻らない。施設に残っていた循環維持液を使えたから心臓を保てたが、使用可能なものは一つしかなかった。


次の患者にも同じ処置が必要になれば、今度は足りないかもしれない。


私は保有SPを確認した。


《保有SP:2》


レオンの初期救命処置が成立した時に得たSPだった。


今までなら、次の戦いへ備えて攻撃技能を選んでいたと思う。灰の森にはまだ知らない魔獣がいるし、施設の外へ出れば、再び領域の主に近い敵と遭遇する可能性もある。


けれど、今必要だと感じたのは、殺すための技能ではなかった。


「治す方」


技能候補を開く。


レオンの治療を経験したことで、新しい候補がいくつか生成されていた。


《血液保存:1SP》


《返血:2SP》


《高速再生:5SP》


《血液保存》は、採取した血が劣化する速度を抑える技能だった。魔獣の血を携帯するには便利だが、失血した患者の身体を直接助けられるわけではない。


《高速再生》は、自分の傷を今より速く治す技能だった。生き残る力としては強いが、必要なSPが足りず、効果も自分に限られている。


私は《返血》を開いた。


《返血》


《対象から流出した血液を感知し、本来属していた血流へ還流させる血系統技能です》


《取得条件》


《血液感知》


《血液操作》


《他者への止血・循環維持処置》


《消費SP:2》


説明をさらに表示する。


《対象自身の血液に限り、高い適合性を示します》


《汚染、凝固、劣化の進行した血液は還流できません》


《異なる個体の血液を適合させる効果はありません》


《失われた血液を新たに生成する技能ではありません》


何もないところから血を作り出せるわけではなかった。


床へ吸い込まれた血や、瘴気と泥に汚染された血を戻すこともできない。それでも、治療中に流れ出したばかりの血なら、捨てずに本人へ返せる。


レオンの胸から排出した血も、汚染される前に回収できていれば、循環維持液の消費を減らせたかもしれない。


「これにする」


《返血を取得しますか?》


「うん」


《SPを2消費します》


《保有SP:0》


《血系統技能を取得しました》


《返血 Lv.1》


技能を取得した瞬間、治療室に残っている血の痕跡が、それまでとは少し違って感じられた。


《血液感知》でも、血の位置や温度、流れは分かっていた。今はそれに加えて、誰へ帰る血なのかが感覚として伝わってくる。


処置用の容器に残されたレオンの血は、確かにレオンのものだと分かる。しかし、本人が施設の観測範囲から外れているため、帰るための道は途切れていた。


一方、自分の身体を巡る血には、はっきりと内側へ続く流れがある。


「試す」


薬工守へ清潔な小皿を用意させ、左腕を机の上へ置いた。


細い血刃で皮膚を浅く切る。赤い血が傷口から膨らみ、腕を伝って小皿へ数滴落ちた。


放っておけば《再生》で傷が閉じるため、血液操作で周囲の流れを調整し、完全に塞がる前に手をかざす。


小皿へ落ちた血から、自分の身体へ戻ろうとする感覚があった。


「返して」


赤い液体が小さく震え、細い流れとなって浮かび上がる。


血糸のように固めたわけではない。液体のまま宙を渡り、腕に残る傷へ吸い込まれていった。


《返血対象:自己血液》


《汚染:なし》


《還流を開始します》


血が皮膚の内側へ戻る。


飲み込んだ時とは違った。胃へ落ちるのでも、吸血によって身体の力へ変わるのでもない。こぼれたものが、本来流れていた場所へ戻ってくる。


《返血完了》


《回収率:93%》


小皿の表面には、薄い赤色が少しだけ残っていた。


完全には戻せない。それでも、流れ出した血の大半を失わずに済む。


診工守が私の腕と循環状態を調べる。


《循環状態:正常》


《異常反応:確認なし》


「使える」


次に、保存されていたレオンの診断用血液へ手を近づけた。


血が誰のものかは分かる。しかし、帰還させる対象がここにいないため、動かすことはできなかった。


《血液所有個体:観測範囲外》


《還流経路:接続不能》


《返血を実行できません》


別の人間へ入れることもできない。


その人の血は、その人へしか帰らない。


治療に使うには、その方が安全だった。


「次は、捨てなくていい」


傷を閉じながら血を回収し、汚染される前に身体へ戻す。血糸で一時的な経路を作れば、手の届きにくい傷にも使えるかもしれない。


ただし、傷口が開いたままでは、戻した血も再び外へ流れてしまう。止血、縫合、汚染確認、循環状態の監視を同時に行う必要がある。


万能な回復魔法ではなかった。


傷を消すことも、折れた骨を元通りにすることも、失われた肉を生やすこともできない。


それでも、こぼれ落ちるはずだった命を、少しだけ本人へ返せる。


「返血」


名前も嫌いではなかった。


視界へ新しい表示が現れる。


《血系統技能の医療利用を確認》


《技能候補生成条件が進行しました》


《未解放候補》


《血流制御》


《組織縫合》


《血液保存》


《造血促進》


最後の項目を開こうとしたが、まだ条件が足りなかった。


《造血促進》


《条件不足》


《他者への返血処置》


《循環維持経験》


《血液構造への理解》


失った血そのものを作り直す力へ進める可能性がある。


今はまだ使えない。


けれど、道は見えた。


「次に使う」


そう口にしてから、少しだけ言い方を変える。


「必要になったら使う」


技能を試すために、怪我人が来ることを望みたくはなかった。


誰も死にかけなければ、それが一番いい。


私は返血に使えそうな容器と管を一か所へまとめ、診工守と薬工守にも処置手順を登録した。


《体外流出血液の回収》


《汚染状態の確認》


《返血適合性の判定》


《還流速度の監視》


次の患者が来た時、レオンの時よりは迷わずに動ける。


準備を終えると、身体の疲れが一気に重くなった。


レオンを収容してから、まともに眠っていない。


緊急治療を続け、人間の血への渇きを抑え、会話をし、料理を作り、帰還の準備までした。返血の試験を終えたことで緊張が切れたのか、立ったままでも瞼が重くなる。


《広域緊急救命転送網》の状態を確認する。


《再充填中》


《次回転送可能まで:約8時間》


まだ時間がある。


「お風呂、入る」


治療室に患者はいない。


診工守と薬工守へ異常があれば起こすよう命じ、私は洗浄区画へ向かった。


---


白いシャツを脱ぐと、治療中についた血の跡が、洗ったはずの肌へまだ僅かに残っていた。


レオンの血なのか、自分の血糸に使った血なのかは、感覚を集中させなければ分からないほど薄い。


温かい水を頭から浴びる。


腰まで伸びた髪が水を含み、背中へ張りついた。肌を流れた水が、足元の排水口へ吸い込まれていく。


人間の血の匂いは、もう治療室にもほとんど残っていない。


それでも記憶からは消えなかった。


近くで感じた体温。


弱く指を掴まれた感触。


自分の名前を初めて呼ばれた時の声。


「エルセリア」


自分で呼んでも、レオンに呼ばれた時とは違う。


誰かの声が自分へ向けられることに、まだ慣れていない。


私は髪を洗いながら、少しだけ笑った。


「変なの」


一人でいた時には、名前など必要なかった。


今は壁に書かれた自分の識別名を見るだけで、以前とは違うものに感じる。


身体を洗い終えると、新しい白いシャツへ着替えた。


下着は着けない。


家の中には、もうレオンはいない。裾を気にする人間もいないため、腰へ外套を巻く必要もなかった。


《裸族》が再び発動し、身体に残っていた小さな重さが消える。


「やっぱり楽」


髪を布で拭きながら生活区画へ戻り、保存していた魔獣の血を飲んだ。


そのあと、レオンへ作った料理の残りを温め直し、自分でも食べる。


「普通においしい」


レオンがそう言っていた。


一人で食べると、同じ料理なのに少し味が違う気がした。


食器を洗い、レオンの折れた短剣を炉工守の作業場所へ預ける。すぐに直せるかは分からないが、次に来た時までには形にしたかった。


最後に治療室へ立ち寄り、壁際に残した絵を見る。


《二番目の患者》


《レオン・アルヴェイン》


《自分で帰った》


《また来る》


「おやすみ」


誰へ言ったのかは、自分でも分からなかった。


---


ベッドへ入ると、眠りはすぐに訪れた。


夢は見なかった。


少なくとも、覚えてはいない。


次に意識が戻った時、施設全体へ低い警告音が響いていた。


私は布を押しのけ、身体を起こす。


視界へ赤い表示が現れる。


《広域緊急救命転送網》


《再充填完了》


《新規救難対象を確認》


眠気が一瞬で消えた。


「もう?」


ベッドから降り、《影蔵》へ保存血と最低限の器具が入っていることを確認する。白いシャツのまま治療室へ走った。


診工守と薬工守はすでに起動している。


医療台には清潔な布が敷かれ、返血用にまとめておいた容器と管も運ばれていた。


《周辺環境を解析》


《外部救助到達可能性:なし》


《対象の自力離脱:不能》


《環境要因による死亡予測:確定》


「収容?」


《救助方式を選定》


短い処理のあと、表示が切り替わる。


《収容を実行します》


《緊急転送対象:1》


治療室の照明が落ちた。


床へ白い光が広がり、空間の向こうに別の場所が映る。


暗い水。


崩れた木材。


その下へ半身を挟まれた人影。


水面が少しずつ上がり、口元へ届こうとしていた。


《収容開始まで》


10


私は医療台の横へ移動し、診工守へ声をかける。


「準備して」


9


薬工守が器具を展開する。


8


《血液感知》を広げると、転送先の人影から弱い心臓の動きが伝わってきた。


7


血は流れている。


呼吸はほとんどできていない。


6


「助ける」


数字が減り続ける。


3


2


1


白い光が治療室を満たした。


重いものが布の上へ落ち、水と血の匂いが一気に広がる。


《対象収容完了》


《外部環境との接続を切断します》


白い光が収まると、医療台の上には全身を濡らした女が倒れていた。


年齢はレオンと大きく変わらないように見える。濃い金色の髪は水を吸って頬や首へ張りつき、額には泥と細かな木屑がこびりついていた。身につけているのは厚手の布服と革製の胸当てだったが、左脇から腰にかけて大きく裂け、暗い血が水と混じりながら敷布へ広がっていく。


身体はひどく冷たかった。


レオンへ触れた時に感じた、人間特有の温かさがほとんどない。唇は青白く、閉じた瞼の周囲からも血の気が失われている。


私は胸へ当てた手に意識を集中させた。


心臓は動いている。


しかし、弱い。


何度も間隔を空け、思い出したように一度だけ強く打つ。呼吸はさらに悪く、胸がわずかに痙攣しているだけだった。


口元から水が流れた。


「溺れてる」


《対象の呼吸停止に近い状態を確認》


《気道内異物および液体貯留の可能性》


「先に息」


診工守の作業肢が女の顎を持ち上げ、頭部を固定する。私は口の中へ指を入れ、泥と細かな木片を血糸で絡め取った。


薬工守が細い吸引管を運んでくる。


管を口から喉の奥へ進めると、水と濁った液体が吸い出された。女の身体が一度大きく震え、湿った咳が漏れる。


「まだ生きてる」


《自発呼吸:微弱》


《補助呼吸を開始します》


透明な覆いが口と鼻へ当てられ、一定の間隔で空気が送り込まれる。浅かった胸が、機械の動きに合わせて少しずつ持ち上がり始めた。


診断結果が視界へ並ぶ。


《対象分類》


人間種・成人女性


《主要損傷》


溺水


重度低体温


左側胸腹部裂傷


左肋骨骨折


腹腔内出血の疑い


右前腕骨折


全身打撲


《循環血液量》


著しく低下


《生命危険度》


極めて高い


裂けた服の下では、左脇腹から大量の血が流れていた。


太い木材か、折れた柱へ押しつけられたような傷だった。皮膚だけではなく筋肉まで深く裂け、呼吸に合わせて傷口が僅かに開いている。


私は傷へ手を近づけた。


《血液感知》を広げる。


レオンの時よりも血の流れが分かりにくい。身体が冷え切っているため、心臓の動きも末端の流れも弱く、漏れた血は水に混ざって薄く広がっていた。


それでも、まだ温度の残る血が傷の周囲と服の内側に溜まっている。


この人の血だった。


取得したばかりの《返血》が、それぞれの血に残る帰る場所を教えてくれる。


「使える」


ただし、すぐに戻すことはできない。


傷が開いたままでは、返した血も再び外へ漏れる。水や泥に触れたものは汚染されているため、そのまま身体へ戻せば別の危険を生む。


「薬工守、血を分けて。戻せるものだけ」


《体外流出血液の回収を開始します》


《汚染状態を判定します》


薬工守が傷の下へ薄い容器を差し込み、流れ出る血を受け止める。診工守は胸と腹部を走査し、内部で出血している場所を探し始めた。


私は濡れた服を血刃で切り開いた。


水を吸った布が肌から剥がれるたび、女の身体が小さく震える。寒さによるものなのか、痛みへの反応なのかは分からない。


「温めて」


炉工守へ命じると、医療台の周囲へ温かな空気が流れ始めた。薬工守が濡れた衣服を取り除き、乾いた布で身体を覆っていく。


女の首には細い革紐があり、その先に小さな銀色の板が下がっていた。


泥に汚れているが、片面にはこの世界の文字らしいものが刻まれている。


私は触れず、診工守の診断へ意識を戻した。


《腹腔内出血を確認》


《脾臓損傷の疑い》


《左側胸腹部裂傷からの活動性出血》


《即時止血を推奨します》


「分かった」


血糸を何本も作る。


一本を傷口の上部へ通し、開いた組織を支える。別の糸で薬工守の器具を導き、出血している血管の位置へ近づける。


レオンを治療した時より迷いは少なかった。


それでも、この患者の方が危険だった。


身体が冷えすぎている。


血が足りない。


呼吸も自力では維持できていない。


そして、腹の中でも血が漏れ続けている。


女の瞼が一度だけ動いた。


目は開かない。


唇が僅かに震え、声にならない息が漏れる。


私は顔を近づけた。


「聞こえる?」


反応はなかった。


それでも、名前の代わりに呼びかける。


「今、治す」


傷の奥で脈打つ血管を見つける。


器具で挟み、流れを止めると、薬工守が回収していた容器の中へ血が溜まり始めた。


《回収血液》


《所有個体との接続を確認》


《汚染:軽度》


《浄化処理後、返血可能》


私は容器へ目を向けた。


取得したばかりの技能を使う時が、もう来ていた。


「返す」


誰の名前も知らない。


どこから来たのかも分からない。


目を覚ますかどうかさえ、まだ分からなかった。


それでも、この血が帰る身体は目の前にある。


女の弱い心臓が、次の一度を打った。


私は傷を支える血糸を引き締め、診工守へ言った。


「この人も、死なせない」



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