第七話 《返血》
レオンが帰還してから一時間ほど経つと、治療室に残っていた人間の気配も薄れ始めた。
掃工守が床へ広がった薬液と血を洗い流し、薬工守は使用済みの器具を順番に処理している。診工守も患者記録の保存を終え、医療台の横にある待機位置へ戻っていた。
つい先ほどまで聞こえていた呼吸も、料理の味へ文句を言う声も、もう聞こえない。
私は新しい布が敷かれた医療台の前に立ち、保存された記録を開いた。
《患者識別名:レオン・アルヴェイン》
《早期任意帰還:完了》
《帰還時生命状態:維持》
《胸部損傷:継続観察を推奨》
《右下肢圧挫損傷:継続治療を推奨》
《現在位置:観測範囲外》
レオンが帰ったあとに傷を悪化させても、今の施設からは確かめられない。
治療上の注意を書いた板は持たせた。仲間のいる場所へ返したため、一人で倒れたままになることもない。残された人間の治療技術がどの程度なのかは分からないが、収容された時よりはるかに生存しやすい状態になっている。
それでも心配は消えなかった。
「血、足りなかった」
レオンを治療していた時、最も困ったのは失血だった。
胸の中へ漏れた血を排出し、活動性の出血を止めても、すでに身体から失われた血までは戻らない。施設に残っていた循環維持液を使えたから心臓を保てたが、使用可能なものは一つしかなかった。
次の患者にも同じ処置が必要になれば、今度は足りないかもしれない。
私は保有SPを確認した。
《保有SP:2》
レオンの初期救命処置が成立した時に得たSPだった。
今までなら、次の戦いへ備えて攻撃技能を選んでいたと思う。灰の森にはまだ知らない魔獣がいるし、施設の外へ出れば、再び領域の主に近い敵と遭遇する可能性もある。
けれど、今必要だと感じたのは、殺すための技能ではなかった。
「治す方」
技能候補を開く。
レオンの治療を経験したことで、新しい候補がいくつか生成されていた。
《血液保存:1SP》
《返血:2SP》
《高速再生:5SP》
《血液保存》は、採取した血が劣化する速度を抑える技能だった。魔獣の血を携帯するには便利だが、失血した患者の身体を直接助けられるわけではない。
《高速再生》は、自分の傷を今より速く治す技能だった。生き残る力としては強いが、必要なSPが足りず、効果も自分に限られている。
私は《返血》を開いた。
《返血》
《対象から流出した血液を感知し、本来属していた血流へ還流させる血系統技能です》
《取得条件》
《血液感知》
《血液操作》
《他者への止血・循環維持処置》
《消費SP:2》
説明をさらに表示する。
《対象自身の血液に限り、高い適合性を示します》
《汚染、凝固、劣化の進行した血液は還流できません》
《異なる個体の血液を適合させる効果はありません》
《失われた血液を新たに生成する技能ではありません》
何もないところから血を作り出せるわけではなかった。
床へ吸い込まれた血や、瘴気と泥に汚染された血を戻すこともできない。それでも、治療中に流れ出したばかりの血なら、捨てずに本人へ返せる。
レオンの胸から排出した血も、汚染される前に回収できていれば、循環維持液の消費を減らせたかもしれない。
「これにする」
《返血を取得しますか?》
「うん」
《SPを2消費します》
《保有SP:0》
《血系統技能を取得しました》
《返血 Lv.1》
技能を取得した瞬間、治療室に残っている血の痕跡が、それまでとは少し違って感じられた。
《血液感知》でも、血の位置や温度、流れは分かっていた。今はそれに加えて、誰へ帰る血なのかが感覚として伝わってくる。
処置用の容器に残されたレオンの血は、確かにレオンのものだと分かる。しかし、本人が施設の観測範囲から外れているため、帰るための道は途切れていた。
一方、自分の身体を巡る血には、はっきりと内側へ続く流れがある。
「試す」
薬工守へ清潔な小皿を用意させ、左腕を机の上へ置いた。
細い血刃で皮膚を浅く切る。赤い血が傷口から膨らみ、腕を伝って小皿へ数滴落ちた。
放っておけば《再生》で傷が閉じるため、血液操作で周囲の流れを調整し、完全に塞がる前に手をかざす。
小皿へ落ちた血から、自分の身体へ戻ろうとする感覚があった。
「返して」
赤い液体が小さく震え、細い流れとなって浮かび上がる。
血糸のように固めたわけではない。液体のまま宙を渡り、腕に残る傷へ吸い込まれていった。
《返血対象:自己血液》
《汚染:なし》
《還流を開始します》
血が皮膚の内側へ戻る。
飲み込んだ時とは違った。胃へ落ちるのでも、吸血によって身体の力へ変わるのでもない。こぼれたものが、本来流れていた場所へ戻ってくる。
《返血完了》
《回収率:93%》
小皿の表面には、薄い赤色が少しだけ残っていた。
完全には戻せない。それでも、流れ出した血の大半を失わずに済む。
診工守が私の腕と循環状態を調べる。
《循環状態:正常》
《異常反応:確認なし》
「使える」
次に、保存されていたレオンの診断用血液へ手を近づけた。
血が誰のものかは分かる。しかし、帰還させる対象がここにいないため、動かすことはできなかった。
《血液所有個体:観測範囲外》
《還流経路:接続不能》
《返血を実行できません》
別の人間へ入れることもできない。
その人の血は、その人へしか帰らない。
治療に使うには、その方が安全だった。
「次は、捨てなくていい」
傷を閉じながら血を回収し、汚染される前に身体へ戻す。血糸で一時的な経路を作れば、手の届きにくい傷にも使えるかもしれない。
ただし、傷口が開いたままでは、戻した血も再び外へ流れてしまう。止血、縫合、汚染確認、循環状態の監視を同時に行う必要がある。
万能な回復魔法ではなかった。
傷を消すことも、折れた骨を元通りにすることも、失われた肉を生やすこともできない。
それでも、こぼれ落ちるはずだった命を、少しだけ本人へ返せる。
「返血」
名前も嫌いではなかった。
視界へ新しい表示が現れる。
《血系統技能の医療利用を確認》
《技能候補生成条件が進行しました》
《未解放候補》
《血流制御》
《組織縫合》
《血液保存》
《造血促進》
最後の項目を開こうとしたが、まだ条件が足りなかった。
《造血促進》
《条件不足》
《他者への返血処置》
《循環維持経験》
《血液構造への理解》
失った血そのものを作り直す力へ進める可能性がある。
今はまだ使えない。
けれど、道は見えた。
「次に使う」
そう口にしてから、少しだけ言い方を変える。
「必要になったら使う」
技能を試すために、怪我人が来ることを望みたくはなかった。
誰も死にかけなければ、それが一番いい。
私は返血に使えそうな容器と管を一か所へまとめ、診工守と薬工守にも処置手順を登録した。
《体外流出血液の回収》
《汚染状態の確認》
《返血適合性の判定》
《還流速度の監視》
次の患者が来た時、レオンの時よりは迷わずに動ける。
準備を終えると、身体の疲れが一気に重くなった。
レオンを収容してから、まともに眠っていない。
緊急治療を続け、人間の血への渇きを抑え、会話をし、料理を作り、帰還の準備までした。返血の試験を終えたことで緊張が切れたのか、立ったままでも瞼が重くなる。
《広域緊急救命転送網》の状態を確認する。
《再充填中》
《次回転送可能まで:約8時間》
まだ時間がある。
「お風呂、入る」
治療室に患者はいない。
診工守と薬工守へ異常があれば起こすよう命じ、私は洗浄区画へ向かった。
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白いシャツを脱ぐと、治療中についた血の跡が、洗ったはずの肌へまだ僅かに残っていた。
レオンの血なのか、自分の血糸に使った血なのかは、感覚を集中させなければ分からないほど薄い。
温かい水を頭から浴びる。
腰まで伸びた髪が水を含み、背中へ張りついた。肌を流れた水が、足元の排水口へ吸い込まれていく。
人間の血の匂いは、もう治療室にもほとんど残っていない。
それでも記憶からは消えなかった。
近くで感じた体温。
弱く指を掴まれた感触。
自分の名前を初めて呼ばれた時の声。
「エルセリア」
自分で呼んでも、レオンに呼ばれた時とは違う。
誰かの声が自分へ向けられることに、まだ慣れていない。
私は髪を洗いながら、少しだけ笑った。
「変なの」
一人でいた時には、名前など必要なかった。
今は壁に書かれた自分の識別名を見るだけで、以前とは違うものに感じる。
身体を洗い終えると、新しい白いシャツへ着替えた。
下着は着けない。
家の中には、もうレオンはいない。裾を気にする人間もいないため、腰へ外套を巻く必要もなかった。
《裸族》が再び発動し、身体に残っていた小さな重さが消える。
「やっぱり楽」
髪を布で拭きながら生活区画へ戻り、保存していた魔獣の血を飲んだ。
そのあと、レオンへ作った料理の残りを温め直し、自分でも食べる。
「普通においしい」
レオンがそう言っていた。
一人で食べると、同じ料理なのに少し味が違う気がした。
食器を洗い、レオンの折れた短剣を炉工守の作業場所へ預ける。すぐに直せるかは分からないが、次に来た時までには形にしたかった。
最後に治療室へ立ち寄り、壁際に残した絵を見る。
《二番目の患者》
《レオン・アルヴェイン》
《自分で帰った》
《また来る》
「おやすみ」
誰へ言ったのかは、自分でも分からなかった。
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ベッドへ入ると、眠りはすぐに訪れた。
夢は見なかった。
少なくとも、覚えてはいない。
次に意識が戻った時、施設全体へ低い警告音が響いていた。
私は布を押しのけ、身体を起こす。
視界へ赤い表示が現れる。
《広域緊急救命転送網》
《再充填完了》
《新規救難対象を確認》
眠気が一瞬で消えた。
「もう?」
ベッドから降り、《影蔵》へ保存血と最低限の器具が入っていることを確認する。白いシャツのまま治療室へ走った。
診工守と薬工守はすでに起動している。
医療台には清潔な布が敷かれ、返血用にまとめておいた容器と管も運ばれていた。
《周辺環境を解析》
《外部救助到達可能性:なし》
《対象の自力離脱:不能》
《環境要因による死亡予測:確定》
「収容?」
《救助方式を選定》
短い処理のあと、表示が切り替わる。
《収容を実行します》
《緊急転送対象:1》
治療室の照明が落ちた。
床へ白い光が広がり、空間の向こうに別の場所が映る。
暗い水。
崩れた木材。
その下へ半身を挟まれた人影。
水面が少しずつ上がり、口元へ届こうとしていた。
《収容開始まで》
10
私は医療台の横へ移動し、診工守へ声をかける。
「準備して」
9
薬工守が器具を展開する。
8
《血液感知》を広げると、転送先の人影から弱い心臓の動きが伝わってきた。
7
血は流れている。
呼吸はほとんどできていない。
6
「助ける」
数字が減り続ける。
3
2
1
白い光が治療室を満たした。
重いものが布の上へ落ち、水と血の匂いが一気に広がる。
《対象収容完了》
《外部環境との接続を切断します》
白い光が収まると、医療台の上には全身を濡らした女が倒れていた。
年齢はレオンと大きく変わらないように見える。濃い金色の髪は水を吸って頬や首へ張りつき、額には泥と細かな木屑がこびりついていた。身につけているのは厚手の布服と革製の胸当てだったが、左脇から腰にかけて大きく裂け、暗い血が水と混じりながら敷布へ広がっていく。
身体はひどく冷たかった。
レオンへ触れた時に感じた、人間特有の温かさがほとんどない。唇は青白く、閉じた瞼の周囲からも血の気が失われている。
私は胸へ当てた手に意識を集中させた。
心臓は動いている。
しかし、弱い。
何度も間隔を空け、思い出したように一度だけ強く打つ。呼吸はさらに悪く、胸がわずかに痙攣しているだけだった。
口元から水が流れた。
「溺れてる」
《対象の呼吸停止に近い状態を確認》
《気道内異物および液体貯留の可能性》
「先に息」
診工守の作業肢が女の顎を持ち上げ、頭部を固定する。私は口の中へ指を入れ、泥と細かな木片を血糸で絡め取った。
薬工守が細い吸引管を運んでくる。
管を口から喉の奥へ進めると、水と濁った液体が吸い出された。女の身体が一度大きく震え、湿った咳が漏れる。
「まだ生きてる」
《自発呼吸:微弱》
《補助呼吸を開始します》
透明な覆いが口と鼻へ当てられ、一定の間隔で空気が送り込まれる。浅かった胸が、機械の動きに合わせて少しずつ持ち上がり始めた。
診断結果が視界へ並ぶ。
《対象分類》
人間種・成人女性
《主要損傷》
溺水
重度低体温
左側胸腹部裂傷
左肋骨骨折
腹腔内出血の疑い
右前腕骨折
全身打撲
《循環血液量》
著しく低下
《生命危険度》
極めて高い
裂けた服の下では、左脇腹から大量の血が流れていた。
太い木材か、折れた柱へ押しつけられたような傷だった。皮膚だけではなく筋肉まで深く裂け、呼吸に合わせて傷口が僅かに開いている。
私は傷へ手を近づけた。
《血液感知》を広げる。
レオンの時よりも血の流れが分かりにくい。身体が冷え切っているため、心臓の動きも末端の流れも弱く、漏れた血は水に混ざって薄く広がっていた。
それでも、まだ温度の残る血が傷の周囲と服の内側に溜まっている。
この人の血だった。
取得したばかりの《返血》が、それぞれの血に残る帰る場所を教えてくれる。
「使える」
ただし、すぐに戻すことはできない。
傷が開いたままでは、返した血も再び外へ漏れる。水や泥に触れたものは汚染されているため、そのまま身体へ戻せば別の危険を生む。
「薬工守、血を分けて。戻せるものだけ」
《体外流出血液の回収を開始します》
《汚染状態を判定します》
薬工守が傷の下へ薄い容器を差し込み、流れ出る血を受け止める。診工守は胸と腹部を走査し、内部で出血している場所を探し始めた。
私は濡れた服を血刃で切り開いた。
水を吸った布が肌から剥がれるたび、女の身体が小さく震える。寒さによるものなのか、痛みへの反応なのかは分からない。
「温めて」
炉工守へ命じると、医療台の周囲へ温かな空気が流れ始めた。薬工守が濡れた衣服を取り除き、乾いた布で身体を覆っていく。
女の首には細い革紐があり、その先に小さな銀色の板が下がっていた。
泥に汚れているが、片面にはこの世界の文字らしいものが刻まれている。
私は触れず、診工守の診断へ意識を戻した。
《腹腔内出血を確認》
《脾臓損傷の疑い》
《左側胸腹部裂傷からの活動性出血》
《即時止血を推奨します》
「分かった」
血糸を何本も作る。
一本を傷口の上部へ通し、開いた組織を支える。別の糸で薬工守の器具を導き、出血している血管の位置へ近づける。
レオンを治療した時より迷いは少なかった。
それでも、この患者の方が危険だった。
身体が冷えすぎている。
血が足りない。
呼吸も自力では維持できていない。
そして、腹の中でも血が漏れ続けている。
女の瞼が一度だけ動いた。
目は開かない。
唇が僅かに震え、声にならない息が漏れる。
私は顔を近づけた。
「聞こえる?」
反応はなかった。
それでも、名前の代わりに呼びかける。
「今、治す」
傷の奥で脈打つ血管を見つける。
器具で挟み、流れを止めると、薬工守が回収していた容器の中へ血が溜まり始めた。
《回収血液》
《所有個体との接続を確認》
《汚染:軽度》
《浄化処理後、返血可能》
私は容器へ目を向けた。
取得したばかりの技能を使う時が、もう来ていた。
「返す」
誰の名前も知らない。
どこから来たのかも分からない。
目を覚ますかどうかさえ、まだ分からなかった。
それでも、この血が帰る身体は目の前にある。
女の弱い心臓が、次の一度を打った。
私は傷を支える血糸を引き締め、診工守へ言った。
「この人も、死なせない」




