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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第三部 《二十四時間の境界》

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第六話 《帰る場所》

レオンが帰還を保留してから、三時間ほどが過ぎた。


収容から数えれば、十三時間を少し越えた頃になる。


診工守が勧めた追加の経過観察時間は、今も三十時間以上残っていた。そこまで待てば胸部の再出血や右脚の血流悪化を起こす危険はさらに下がり、施設としては安全に近い状態で送り返せる。


ただし、それは帰還を許可するまでの待機時間ではない。


レオンはすでに、転送そのものへ耐えるための最低条件を満たしている。本人が危険を理解したうえで望むなら、今すぐ帰ることもできた。


私は治療室の隅で、レオンのために作った新しい服を確認していた。


収容時に着ていた服と防具は、血や泥だけでなく深界瘴気にも汚染されている。金属製の部品はいくつか洗浄できたが、革や布の多くは再利用できなかった。


縫工守が作ったのは、前を紐で留める簡素な上着と、右脚の固定具を外さずに着られる下衣だった。探索用の防具にはならないが、人間の暮らす場所へ戻るための服としては十分だと思う。


私が上着を広げていると、医療台の上からレオンの声が聞こえた。


「エルセリア」


名前を呼ばれ、すぐに顔を上げる。


「何」


「もう一度、帰還先を調べられないか」


「まだ時間ある」


「分かっている」


レオンは固定された右脚ではなく、白い天井へ視線を向けていた。


「眠ろうとしたが、ハルドたちがあの場所へ戻る可能性ばかり考えてしまう」


第五話で帰還を保留した時にも、同じことを心配していた。


レオンは突然、仲間たちの目の前から消えた。白い光に包まれた直前には、巨大な魔獣が目前まで迫っていたという。


残された五人から見れば、レオンが助かったと判断できる材料はない。未知の術式に連れ去られたか、魔獣と一緒に消滅したように見えていてもおかしくなかった。


「捜しに来ると思う?」


「隊長は来る」


レオンの返事には迷いがなかった。


「一度はほかの四人に止められても、俺の装備か遺体を回収すると言い出す。あの男は、そういう性格だ」


「危ないのに?」


「危ないからこそ、自分が行くと言う」


私は転送網の観測情報を開いた。


収容地点周辺を離脱した五人の生命反応は、すでに継続観測の範囲から外れている。死亡が確定するような状況へ陥れば再び救難候補として拾える可能性はあるが、今どこにいるのかまでは分からない。


「帰る?」


レオンが私を見る。


「今なら、まだ仲間が危険な場所へ戻る前に止められるかもしれない」


「胸からまた血が出るかも」


「ああ」


「脚も悪くなるかもしれない」


「それも聞いた」


「帰ったあと、ここみたいに治せるか分からない」


「分かっている」


レオンの答えは変わらなかった。


私は診工守へ再評価を求めた。


淡い光が、レオンの頭から足先までを通過する。胸部、肺、右脚、循環状態が順番に表示され、最後に任意帰還に関する判定が現れた。


《患者識別名:レオン・アルヴェイン》


《転送耐性:最低条件を充足》


《任意帰還:即時実行可能》


《安全帰還推奨までの推定時間:約33時間》


《早期帰還時の予測危険》


《胸部出血再発:中》


《右下肢循環悪化:中》


《転送後の継続治療:必須》


《本人意思による早期帰還を実行できます》


私は表示をそのままレオンへ伝えた。


「今すぐでも帰れる。でも、安全じゃない」


「死ぬ可能性は?」


「低い。でも、ないとは出てない」


「脚を失う可能性は?」


「今より上がる」


レオンは右脚を見た。


厚い固定具の先では、足の指がわずかに動いている。感覚も血流も残っているが、圧挫された筋肉と神経はまだ治療の途中だった。


「三十三時間待てば、必ず残るわけでもないんだろう」


「うん」


「今帰れば、必ず失うわけでもない」


「うん。でも私は待ってほしい」


口にしたあと、自分でも少し驚いた。


レオンの身体はレオンのものだと考えている。危険を説明したうえで本人が帰ると決めるなら、無理に拘束するつもりはない。


それでも、治療する側としては残ってほしかった。


レオンはしばらく私を見ていた。


「患者としてか?」


「それもある」


「ほかには?」


答えるまでに少し時間がかかった。


「初めての人間だから」


レオンが帰れば、この治療室から人間の呼吸が消える。


返事をする相手も、料理の味へ文句を言う相手も、自分の名前を呼ぶ相手もいなくなる。縫工守たちは残るが、一人だった頃と同じ暮らしへ戻る。


寂しいから残ってほしいと口にするのは、患者へ負担をかける気がした。


「でも、帰っていい」


私は続けた。


「帰る場所があるのに、閉じ込めたくない」


レオンは小さく息を吐いた。


「ありがとう」


「まだ何もしてない」


「引き止める理由を正直に話して、それでも俺に決めさせてくれた」


「レオンのことだから」


「なら、帰る」


迷いのない声だった。


《本人意思による早期帰還を確認》


《任意帰還準備を開始します》


表示が切り替わる。


私は胸の奥に生じた重さを押し込み、椅子から立ち上がった。


「準備する」


---


早期帰還を行うには、いくつかの処置が必要だった。


胸腔へ入れた管は、そのまま地上へ持ち帰らせることもできる。しかし、レオンの世界に同じ器具を扱える医師がいるとは限らない。


診工守が胸部を再走査した結果、現在の肺は管を外しても呼吸を維持できると判定された。安全な観察時間を十分に取れないため再発の危険は残るが、帰還後の処置を考えれば、今外す方がいい。


「痛む」


私は先に伝えた。


「今さらだな」


「息を吐いて。止めて」


レオンがゆっくりと息を吐く。


私は固定を外し、管を滑らせるように引き抜いた。レオンの身体が強張り、喉から押し殺した声が漏れる。


管が抜けた瞬間、傷口の周囲へ配置していた血糸を引いた。


細い赤色が皮膚を寄せ、薬工守の器具が傷を閉じる。清潔な布を当て、その上から固定帯を巻きつけた。


「息して」


レオンが浅く空気を吸う。


一度目は痛みに顔を歪めたが、二度、三度と繰り返しても呼吸が途切れることはなかった。


《胸腔排液管抜去》


《肺膨張:維持》


《新規出血:確認なし》


「今は大丈夫」


「帰ったあとに血が溜まったら?」


「胸が苦しくなる。呼吸が浅くなる。すぐ治療院へ行って」


「分かった」


私は診工守が作った簡易的な治療記録を、薄い板へ転写させた。


施設文字のままでは地上の人間には読めない。そこで、レオンから教わったこの世界の文字を使い、本人にも確認してもらいながら内容を写す。


右脚を地面へ着けないこと。


固定具を勝手に外さないこと。


胸が苦しくなった場合は、肺の周囲へ再び血や空気が溜まっている可能性があること。


高熱、足先の冷え、感覚の消失、皮膚の変色があれば、すぐに処置が必要であること。


私の文字は歪んでいたが、読めないほどではなかった。


レオンが板を見て、少し笑う。


「絵よりは分かりやすい」


「文字だから」


「絵も記録だと言っていた気がするが」


「細かい」


---


服を着せる時、少し困った。


上半身は自分で腕を通せたが、胸を痛めているため、前の紐を結ぶところまではできなかった。私は医療台へ身体を寄せ、レオンの胸元で紐を結んだ。


レオンの体温と血の匂いが近づく。


治療を始めた時ほど強くはない。それでも、人間の血は魔獣の保存血とは比べものにならないほど甘く感じられた。


喉の奥に熱が集まり、牙が伸びかける。


私は口を閉じ、呼吸を浅くした。


レオンが私の顔を見ている。


「つらいのか」


「何が」


「俺の血だ」


気づかれていた。


「少し」


「本当に一度も飲まなかったんだな」


「患者だから」


「患者でなければ?」


「勝手には飲まない」


「前にも聞いたな」


レオンは少しだけ首を傾け、自分の胸元で紐を結ぶ私を見た。


「助けてもらった礼として、少し渡すと言ったら?」


指が止まった。


喉の渇きが一段強くなる。


「今は駄目」


「なぜだ」


「レオンの血、少ない」


失血から完全には戻っていない。循環維持液で補ってはいるが、今さらに血を減らせば、帰還の危険が上がる。


「治ってからなら?」


「その時考える」


「やはり正直だな」


「欲しくないとは言ってない」


「そこまで正直でなくてもいい」


レオンの顔がわずかに赤くなる。


私は胸元の紐を結び終え、身体を離した。


下衣は右脚の固定具を避けるように作られている。布で必要な部分を隠しながら履かせようとすると、レオンは天井へ顔を向けた。


「見ないの?」


「治療中に十分見られただろう」


「私は見た」


「だからといって、見せたいわけではない」


「人間、面倒」


「今さらだな」


何とか服を着せ終え、腰の帯へ治療記録と小さな水袋を固定した。


壊れた防具の中からは、本人が必要だと言った金属札と小さな護符だけを洗浄して返す。折れた短剣は修理できなかったため、鞘と一緒に布へ包んだ。


レオンは短剣を受け取り、刃のない鞘を撫でた。


「仲間からもらったもの?」


「初めて探索隊へ入った時に、ハルドから譲られた」


「直す?」


「できるのか?」


「炉工守に見せれば、たぶん」


レオンは少し迷ったあと、短剣を私へ差し出した。


「預けてもいいか」


「帰るのに?」


「また来る理由が一つ増える」


私は短剣を受け取った。


「直しておく」


「ああ」


---


帰還地点の検索には、レオンの記憶が使われた。


崩落地点より上層にある中継拠点を思い浮かべてもらい、施設が収容時に記録した五人の生命反応を照合する。


しばらくして、治療室の空間に遠くの景色が映った。


石壁で囲まれた広場。


いくつもの天幕。


武器を持つ探索者や、荷物を運ぶ人間。


その一角に、見覚えのある五つの生命反応が集まっている。


一人は椅子へ座り、頭を抱えていた。別の一人は地図らしいものを広げ、周囲の者へ何かを説明している。装備を整え直している者もいた。


再び探索へ向かう準備をしているように見えた。


「ハルド」


レオンが小さく呟く。


「どの人?」


「地図の前にいる大きな男だ」


転送直前、崩れた穴から身を乗り出していた人影と同じ生命反応だった。


《帰還地点候補を確認》


《対象と収容前に行動していた生命反応:5》


《環境危険度:低》


《敵対性生命反応:確認なし》


《任意帰還先として設定可能》


「ここにする?」


「ああ」


レオンの声が少し震えていた。


帰れることを、ようやく実感したのかもしれない。


「話すこと、決めた?」


「仲間には本当のことを話す」


「私が吸血鬼なのも?」


「エルセリアが嫌なら伏せる」


私は少し考えた。


吸血鬼を助けてくれる存在だと信じる人間ばかりではない。レオン本人が魅了された、あるいは眷属にされたと疑われる可能性もある。


それでも、嘘を強制するのは嫌だった。


「レオンが信じられる人には話していい」


「施設の場所は?」


「分からないでしょ」


「確かに」


「探しに来る?」


「俺が止める」


「絶対?」


「少なくとも、武器を持って押しかける者がいれば敵だと考えていい」


私は頷いた。


「分かった」


---


帰還範囲へ、白い光が広がった。


レオンは立てないため、固定具をつけたまま搬送用の椅子へ座らせている。帰還先では、すぐに仲間が支えられる位置へ現れるよう調整された。


《任意早期帰還》


《対象:レオン・アルヴェイン》


《帰還後の継続治療を推奨します》


《早期帰還に伴う危険について、本人の理解を確認》


《最終承認を求めます》


「危ないって分かってる?」


私はもう一度聞いた。


「分かっている」


「胸が苦しくなったら、すぐ治療院」


「ああ」


「右脚、着けたら駄目」


「分かっている」


「固定具も外さないで」


「分かったから、そんな顔をするな」


「どんな顔」


「帰すのを後悔している顔だ」


自分では分からない。


「少し」


「俺が決めたことだ」


「うん」


「エルセリアの治療が悪かったことにはならない」


「でも、悪くなったら嫌」


「悪くならないようにする」


私が言った言葉を返された。


《帰還を実行しますか?》


レオンが答える。


「実行してくれ」


《任意早期帰還を開始します》


数字が十から減り始めた。


光の向こうには、仲間たちのいる中継拠点が映っている。


八。


七。


レオンが私を見る。


「エルセリア」


「何」


「助けてくれて、ありがとう」


「まだ治ってない」


「それでも、死なずに帰れる」


六。


五。


「今度来る時は、患者じゃない方がいい」


「来られるの?」


「方法を探す」


「短剣もある」


「ああ。受け取りに来ないとな」


四。


三。


言いたいことを考えた。


たくさんある気がしたのに、うまく言葉にならない。


「また来て」


ようやく出たのは、それだけだった。


レオンは少し笑った。


「約束する」


二。


一。


白い光がレオンの身体を包み、輪郭が薄れていく。


次の瞬間、搬送用の椅子ごと姿が消えた。


空間の向こうでは、中継拠点へ突然現れたレオンを見て、五人の人間が一斉に立ち上がっている。


大きな男が椅子へ駆け寄った。


レオンが何かを言う。


声までは届かない。


それでも、大きな男がレオンの肩を掴み、ほかの四人も周囲へ集まる様子が見えた。


《任意早期帰還完了》


《帰還先保護対象との接触を確認》


《患者生命反応:維持》


《転送経路を切断します》


景色が消え、治療室の照明が元へ戻った。


そこにはもう、レオンはいなかった。


私はしばらく、何もなくなった床を見ていた。


「帰った」


返事はない。


診工守も薬工守も、患者がいなくなれば待機位置へ戻る。作業音が消え、治療室は以前の静けさを取り戻していく。


私は壁際へ歩き、灰角兎とレオンの絵を見た。


似ていない。


人間には見えるが、実際のレオンより髪が大きく、灰角兎と顔の形もほとんど同じだった。


それでも、名前は残っている。


《二番目の患者》


《レオン・アルヴェイン》


その下へ、新しい文字を書き足した。


《自分で帰った》


少し考え、さらに続ける。


《また来る》


本当に戻ってこられるかは分からない。


この施設には、健康な人間を自由に招く機能がまだ見つかっていない。レオンが地上から第七槽へ来る道を探せる保証もなかった。


それでも、約束した。


私は短剣を《影蔵》から取り出した。


途中で折れた刃には、黒い血と泥の跡がまだ残っている。洗浄して炉工守へ渡せば、使える形まで直せるかもしれない。


「直しておく」


誰もいない部屋で言う。


今までの独り言とは、少し違った。


返事をする相手はもういないが、次に会った時に渡す相手がいる。


治療室から人間の呼吸は消えた。


それでも、以前と同じ静けさには戻らなかった。


この家には初めて人間が来て、私の料理を食べ、私の名前を呼び、自分の意思で帰っていった。


そして私は、帰った人を待つということを初めて覚えた。


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