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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第三部 《二十四時間の境界》

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第五話 《二番目の患者》

レオンが食事を終えたあと、診工守は休息を勧めた。


胸部の状態は安定し始めているとはいえ、まだ長く会話を続けられる身体ではない。私は医療台の角度をゆっくり戻し、胸元まで布を掛け直した。


「寝て」


「今度は素直に従う」


「偉い」


「子ども扱いするな」


「患者扱い」


レオンは何か言い返そうとしたが、すぐに諦めたらしい。目を閉じると、数分もしないうちに呼吸がゆっくりと深くなっていった。


私は空になった器を持ったまま、しばらく医療台の横に立っていた。


誰かへ食事を作り、最後まで食べてもらったのは初めてだった。


自分で料理を始めた頃は、肉を焼けただけでも満足していた。味が薄くても焦げていても、食べるのは自分だけだったから困らなかった。


今は違う。


明日はもう少しおいしくしたいと思っている。


けれど、その明日が何度続くのかは分からない。レオンは帰れるなら帰りたいと言った。傷が許せば、この家からいなくなる。


当然だった。


レオンには仲間がいて、帰る場所がある。


私が寂しいからという理由で、患者を引き止めることはできない。


私は器を片づけたあと、管理区画へ向かった。


レオンが眠る前に頼んだことがある。


今の私を呼ぶための名前。


一人で生きるだけなら、名前はなくても困らなかった。作業個体は私を《マスターユーザー》として識別しているし、自分自身へ呼びかける必要もない。


けれど、レオンは困ると言った。


誰かが私を呼びたいと思っている。


それだけで、名前を探す理由としては十分だった。


管理端末へ手を触れ、自分に関係する情報を開く。


《マスターユーザー情報》


識別名:未設定


種族情報:照合不能


既存登録情報:破損


利用可能な個体識別情報:なし


「やっぱりない」


同じ情報は以前にも見ている。


私は検索対象を、現在のマスターユーザー情報から、登録時に参照された破損記録まで広げた。


処理には時間がかかった。


失われた記録の断片が、何度も視界へ現れては消えていく。意味のない数列、途中で途切れた設備名称、誰のものか分からない治療記録。そのほとんどは、欠けすぎて内容を読み取れなかった。


それでも検索を続ける。


レオンが帰るまでに見つけたい。


誰かに呼ばれるための名前が欲しい。


その考えが、自分でも少し不思議だった。


人間だった頃の名前を使えば、すぐに終わる。それなのに、今の姿で昔の名前を呼ばれる場面を想像すると、借り物の服を無理に着せられるような違和感があった。


昔の私を捨てたいわけではない。


あの人生が偽物だったとも思わない。


けれど、今ここにいる私は、あの頃と同じ身体ではない。声も、顔も、性別も、種族さえ違っている。


それなら、今の私には今の名前があってもいい。


長い検索の末、一つの断片が残った。


《破損識別情報》


――ルセリア


先頭部分が欠けている。


設備名なのか、人の名前なのかも分からない。過去の管理者かもしれないし、この施設のどこかに存在した別の何かを指している可能性もある。


それでも、文字を見た瞬間に、知らない言葉だとは思わなかった。


記憶にあるわけではない。


誰かに呼ばれた覚えもない。


けれど、欠けている最初の音まで含めて、どう読むのかが自然に浮かんだ。


「エルセリア」


口に出す。


広い管理区画へ、自分の声だけが響いた。


もう一度言う。


「エルセリア」


人間だった頃の名前を呼んだ時に感じた違和感はなかった。


完全に自分のものだという確信もない。それでも、今の姿から離れた名前には聞こえなかった。


私は識別名の登録画面を開いた。


すぐに決定しようとして、指を止める。


自分で呼ぶだけでは分からない。


誰かに呼ばれて初めて、その名前が本当に自分へ向いているのか分かる気がした。


「レオンが起きてから」


私は表示を閉じ、治療室へ戻った。


---


レオンが次に目を覚ましたのは、収容から十時間ほどが過ぎた頃だった。


診工守の確認では、胸腔内の出血は再発していない。肺も回復を続け、右脚の末端血流は低いながら維持されていた。


私が医療台の横へ近づくと、レオンはすぐに気づいた。


「名前は見つかったのか」


起きて最初に聞くことがそれだった。


「少し」


「少しだけ名前があるのか?」


「途中が壊れてた」


私は管理記録に残っていた文字列を説明した。


先頭が欠けていること。


誰の名前か分からないこと。


それでも、読み方だけは自然に分かったこと。


「エルセリア」


レオンは一度、確認するように繰り返した。


「エルセリア」


自分で言った時とは違った。


レオンの声が、はっきりと私へ向けられている。その名前が誰を指しているのか、考える必要もなく分かった。


「どう?」


レオンが尋ねた。


「変じゃない」


「名前ではなく、呼ばれた感想だ」


「私のことって分かった」


「それなら十分だろう」


「本当の名前じゃないかも」


「本当の名前でなければ、使ってはいけないのか?」


私は答えられなかった。


レオンは白い天井を見ながら続けた。


「名前は誰かを呼ぶためのものだ。今の君が自分のことだと思えて、呼ぶ側にも通じるなら、それで役目は果たしている」


「あとで違うって分かったら?」


「変えればいい」


「簡単」


「自分の名前だからな。最後に決めるのは君だ」


私はもう一度、頭の中で繰り返した。


エルセリア。


今の私を呼ぶための名前。


「これにする」


管理情報を開く。


《マスターユーザー識別名》


未設定


「エルセリア」


《識別名を登録しますか?》


《エルセリア》


「登録する」


短い処理のあと、表示が切り替わった。


《登録完了》


《マスターユーザー識別名:エルセリア》


続いて、レオンの患者記録にある施術管理者の項目も更新される。


《患者識別名:レオン・アルヴェイン》


《施術管理者:エルセリア》


二つの名前が並んだ。


一人でいた頃には必要のなかったものが、誰かが来たことで初めて形になった。


「登録された」


「俺には読めないが、嬉しそうだから成功したんだろう」


「嬉しそう?」


「少しだけな」


私は自分の頬へ触れた。


顔がどのようになっているのかは分からなかった。


「エルセリア」


レオンがもう一度呼ぶ。


「何」


「呼んでみただけだ」


「用がないなら呼ばないで」


「名前を決めた直後くらい、何度か確認してもいいだろう」


「変?」


「似合っている」


「そう」


悪くなかった。


誰かに名前を呼ばれることが、こんなに身体の内側へ残るものだとは知らなかった。


---


レオンの容体を確認したあと、私は新しい板と炭を持ってきた。


壁際には、以前に描いた灰角兎の絵が置いてある。


レオンは板を見てから、私の手にある炭へ視線を移した。


「何をするつもりだ」


「レオンを描く」


「なぜ」


「患者の記録」


「診工守が、俺の身体の中まで記録しているだろう」


「絵はない」


「必要か?」


「必要」


灰角兎の絵を指す。


「最初の患者」


レオンは、丸い胴体と不自然に長い耳を持つ絵を見つめた。


「前から気になっていたが、それは何だ?」


「灰角兎」


「兎なのか」


「角もある」


私は額に描いた三角形を指した。


「これ」


「耳ではなく?」


「角」


「では、横にある短い線は?」


「耳か頬」


「描いた本人が分からないのか?」


「細かい」


レオンは口元を押さえた。


笑っている。


「何」


「いや。俺を描くなら、せめて人間に見えるよう頼みたいと思ってな」


「灰角兎も兎に見える」


「意見が違うらしい」


絵の下には、最初の患者であることと、灰角兎という名前を書いてある。


内容を説明すると、レオンは少しだけ眉を寄せた。


「俺が最初の患者ではないのか」


「二番目」


「人間としては最初だろう」


「患者は患者」


灰角兎もレオンも、傷ついてこの治療室へ来たことに変わりはない。人間だから順番を変える理由もなかった。


私は椅子を少し離し、レオンの顔が正面から見える位置へ座った。


「動かないで」


「今の俺に言う必要があるか?」


「絵がずれる」


「治療ではなく、そちらの都合か」


レオンは呆れた様子だったが、顔を正面へ向けた。


短い褐色の髪は、寝ていたため片側だけ潰れている。日に焼けた肌は失血で色を失い、額と頬には細かな傷が残っていた。


私は輪郭から描き始めた。


少し横へ広くなったため、布で消して描き直す。次は顎が細くなりすぎた。


「難しい」


「まだ始めたばかりだろう」


「顔、複雑」


「人間だったのに、人の顔を描いたことはないのか?」


「授業中の落書きくらい」


「何を描いていた?」


「ドラえもん」


「何だ、それは」


「青い猫型の何か」


「猫なのか?」


「たぶん」


レオンは理解を諦めたようだった。


目と鼻を加え、最後に髪を描く。髪は少し多めにした方が探索者らしい気がしたため、実物よりも上へ立たせた。


板を離して確認する。


人間には見える。


レオンに似ているかは分からない。


「できた」


「早くないか?」


「見て」


絵を向ける。


レオンはしばらく無言で見つめた。


「これは誰だ?」


「レオン」


「俺の髪は、そんなに逆立っていない」


「探索者っぽくした」


「勝手に足すな」


「似てない?」


「人間には見える」


「レオンには?」


「灰角兎よりは近い」


褒められている気がしない。


私は絵の下へ文字を書いた。


二番目の患者。


レオン・アルヴェイン。


灰角兎の絵の隣へ置くと、二枚の顔がよく似ていることに気づいた。目と口の位置がほとんど同じだった。


レオンも気づいたらしい。


「俺と兎の顔が同じではないか?」


「違う。レオンは耳が短い」


「俺には兎の耳はない」


「髪で隠れてる」


「人間の耳を知らないわけではないだろう」


「細かい」


レオンが声を出して笑った。


すぐに胸へ痛みが走ったらしく、顔を歪めている。


私は立ち上がり、胸の管を確認した。


「笑わないで。傷に悪い」


「誰のせいだと思っている」


「レオン」


「エルセリアの絵だ」


名前を呼ばれた。


先ほど登録したばかりなのに、すでに自然に聞こえた。


私は絵を描き直さなかった。


似ていなくても、今の私が初めて描いたレオンだった。


---


呼吸が落ち着くまで休ませたあと、レオンが自分から話を切り出した。


「帰還について調べてもらえるか」


私は少しだけ黙った。


分かっていた。


レオンは仲間のもとへ帰りたい。


名前が決まり、絵を描いたからといって、その気持ちが変わる理由はない。


「帰りたい?」


「ああ。ハルドたちは、俺が死んだと思っているかもしれない」


「分かった」


私は任意帰還の機能を開いた。


《任意帰還》


対象:レオン・アルヴェイン


申請:可能


本人意思:未確認


「帰りたいって言って」


レオンは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに答えた。


「帰りたい」


《本人の帰還意思を確認》


診工守の記録と、転送時に予測される負荷の照合が始まる。


結果が出るまで少し時間がかかった。


《現在の患者状態》


生命危険状態:改善傾向


転送耐性:最低条件を充足


胸部出血再発の危険:中


右下肢循環悪化の危険:中


《任意帰還区分》


緊急帰還:実行可能


安全帰還:経過観察を推奨


《安全帰還までの推定時間》


約36時間


《患者状態の変化により再計算されます》


私は内容をレオンへ伝えた。


「今でも帰れる。でも危ない」


「三十六時間待てば、安全になるのか?」


「今の治り方なら、そのくらい。良くなれば短くなる。悪くなったら延びる」


「固定された時間ではないんだな」


「怪我で変わる」


転送に耐えられる最低条件は満たしている。


本人が望めば、今すぐ帰すこともできる。


けれど、その場合は胸部出血が再発する可能性があり、右脚の血流が再び悪化する危険もある。帰還先で十分な治療を受けられなければ、残せた脚を失うかもしれない。


「地上の治療院なら、続きを治せる?」


レオンはすぐには答えなかった。


「治癒術を使える神官も、腕のいい医師もいる。ただ、ここで受けた処置と同じことができるかは分からない」


「なら、待った方がいい」


「分かっている」


レオンは固定された右脚を見た。


足先へ力を入れると、指がわずかに動く。


「それでも、仲間へ早く知らせたい」


「探しに戻るかもしれないから?」


「ああ。俺が消えた場所を調べるために、崩落地点へ戻る可能性がある」


あの場所には深界瘴気と魔獣が残っている。


救助に戻れば、今度は仲間が救難対象になるかもしれない。


「今帰る?」


私は尋ねた。


「レオンが決めて。危ないけど、止めない」


「止めないのか」


「帰りたいのはレオンだから」


「脚を失う可能性があっても?」


「嫌。でもレオンの脚」


助けたからといって、レオンの身体まで私のものになるわけではない。正しいと思う治療を、本人の意思を無視して続けるのも違う。


レオンはしばらく何も言わなかった。


私は急かさずに待った。


治療室には、透明な管を流れる液体の音と、診工守の小さな作動音が続いている。


「三十六時間は、今の推定なんだな」


「うん」


「途中で状態が良くなれば、早く帰れる」


「診工守がもう一度計算する」


「なら、待つ」


《患者意思を確認》


任意帰還:保留


経過観察:継続


少しだけ安心した。


帰ることを諦めたわけではない。


ただ、安全に帰れる可能性を選んだだけだった。


「いいの?」


「帰ってすぐ脚を失い、仲間へ担がれる方が迷惑をかける。それに、ハルドたちなら簡単には死なない」


「レオンは食べられそうだった」


「それは言わなくていい」


「仲間も見てたと思う」


「だから余計に言わなくていい」


レオンは壁際の絵へ視線を向けた。


「時間があるなら、あれを描き直せるな」


「描き直さない」


「せめて髪だけでも直してくれ」


「探索者っぽい」


「俺を知っている者が見たら、別人だと思う」


「名前が書いてある」


「読めるのはエルセリアだけだろう」


言い返せなかった。


「次はもっと似せる」


「もう一枚描くのか?」


「明日のレオン」


「毎日描くつもりか」


「治ったら変わるかも」


「顔は変わらないと思うが」


私は二枚の絵を見た。


灰角兎とレオン。


この家へ来た患者が、形として残っている。


レオンが帰れば、また作業個体しかいない生活へ戻るかもしれない。それでも、絵は残る。


名前も残る。


「忘れないから」


「俺を?」


「最初の人間」


レオンは少しだけ驚いた顔をした。


「そうか」


それ以上は何も言わなかった。


私は空になった器と炭を片づけるため、椅子から立ち上がった。


「次のご飯、もっとおいしくする」


「絵よりそちらを優先してくれ」


「両方する」


「忙しいな」


「患者がいるから」


治療する相手がいる。


食事を作り、顔を描き、名前を呼ばれる。


帰りたいと言われれば、安全に帰れる時を一緒に考える。


一人で暮らしていた頃には、必要のなかったことばかりだった。


私は治療室を出る前に振り返った。


医療台の上にはレオンがいる。


壁際には、似ていないレオンの絵がある。


そして、この家の中には今、私をエルセリアと呼ぶ人間がいる。


あと三十六時間より早くなるかもしれないし、遅くなるかもしれない。


それまでレオンは、二番目の患者として私の家にいる。


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