第五話 《二番目の患者》
レオンが食事を終えたあと、診工守は休息を勧めた。
胸部の状態は安定し始めているとはいえ、まだ長く会話を続けられる身体ではない。私は医療台の角度をゆっくり戻し、胸元まで布を掛け直した。
「寝て」
「今度は素直に従う」
「偉い」
「子ども扱いするな」
「患者扱い」
レオンは何か言い返そうとしたが、すぐに諦めたらしい。目を閉じると、数分もしないうちに呼吸がゆっくりと深くなっていった。
私は空になった器を持ったまま、しばらく医療台の横に立っていた。
誰かへ食事を作り、最後まで食べてもらったのは初めてだった。
自分で料理を始めた頃は、肉を焼けただけでも満足していた。味が薄くても焦げていても、食べるのは自分だけだったから困らなかった。
今は違う。
明日はもう少しおいしくしたいと思っている。
けれど、その明日が何度続くのかは分からない。レオンは帰れるなら帰りたいと言った。傷が許せば、この家からいなくなる。
当然だった。
レオンには仲間がいて、帰る場所がある。
私が寂しいからという理由で、患者を引き止めることはできない。
私は器を片づけたあと、管理区画へ向かった。
レオンが眠る前に頼んだことがある。
今の私を呼ぶための名前。
一人で生きるだけなら、名前はなくても困らなかった。作業個体は私を《マスターユーザー》として識別しているし、自分自身へ呼びかける必要もない。
けれど、レオンは困ると言った。
誰かが私を呼びたいと思っている。
それだけで、名前を探す理由としては十分だった。
管理端末へ手を触れ、自分に関係する情報を開く。
《マスターユーザー情報》
識別名:未設定
種族情報:照合不能
既存登録情報:破損
利用可能な個体識別情報:なし
「やっぱりない」
同じ情報は以前にも見ている。
私は検索対象を、現在のマスターユーザー情報から、登録時に参照された破損記録まで広げた。
処理には時間がかかった。
失われた記録の断片が、何度も視界へ現れては消えていく。意味のない数列、途中で途切れた設備名称、誰のものか分からない治療記録。そのほとんどは、欠けすぎて内容を読み取れなかった。
それでも検索を続ける。
レオンが帰るまでに見つけたい。
誰かに呼ばれるための名前が欲しい。
その考えが、自分でも少し不思議だった。
人間だった頃の名前を使えば、すぐに終わる。それなのに、今の姿で昔の名前を呼ばれる場面を想像すると、借り物の服を無理に着せられるような違和感があった。
昔の私を捨てたいわけではない。
あの人生が偽物だったとも思わない。
けれど、今ここにいる私は、あの頃と同じ身体ではない。声も、顔も、性別も、種族さえ違っている。
それなら、今の私には今の名前があってもいい。
長い検索の末、一つの断片が残った。
《破損識別情報》
――ルセリア
先頭部分が欠けている。
設備名なのか、人の名前なのかも分からない。過去の管理者かもしれないし、この施設のどこかに存在した別の何かを指している可能性もある。
それでも、文字を見た瞬間に、知らない言葉だとは思わなかった。
記憶にあるわけではない。
誰かに呼ばれた覚えもない。
けれど、欠けている最初の音まで含めて、どう読むのかが自然に浮かんだ。
「エルセリア」
口に出す。
広い管理区画へ、自分の声だけが響いた。
もう一度言う。
「エルセリア」
人間だった頃の名前を呼んだ時に感じた違和感はなかった。
完全に自分のものだという確信もない。それでも、今の姿から離れた名前には聞こえなかった。
私は識別名の登録画面を開いた。
すぐに決定しようとして、指を止める。
自分で呼ぶだけでは分からない。
誰かに呼ばれて初めて、その名前が本当に自分へ向いているのか分かる気がした。
「レオンが起きてから」
私は表示を閉じ、治療室へ戻った。
---
レオンが次に目を覚ましたのは、収容から十時間ほどが過ぎた頃だった。
診工守の確認では、胸腔内の出血は再発していない。肺も回復を続け、右脚の末端血流は低いながら維持されていた。
私が医療台の横へ近づくと、レオンはすぐに気づいた。
「名前は見つかったのか」
起きて最初に聞くことがそれだった。
「少し」
「少しだけ名前があるのか?」
「途中が壊れてた」
私は管理記録に残っていた文字列を説明した。
先頭が欠けていること。
誰の名前か分からないこと。
それでも、読み方だけは自然に分かったこと。
「エルセリア」
レオンは一度、確認するように繰り返した。
「エルセリア」
自分で言った時とは違った。
レオンの声が、はっきりと私へ向けられている。その名前が誰を指しているのか、考える必要もなく分かった。
「どう?」
レオンが尋ねた。
「変じゃない」
「名前ではなく、呼ばれた感想だ」
「私のことって分かった」
「それなら十分だろう」
「本当の名前じゃないかも」
「本当の名前でなければ、使ってはいけないのか?」
私は答えられなかった。
レオンは白い天井を見ながら続けた。
「名前は誰かを呼ぶためのものだ。今の君が自分のことだと思えて、呼ぶ側にも通じるなら、それで役目は果たしている」
「あとで違うって分かったら?」
「変えればいい」
「簡単」
「自分の名前だからな。最後に決めるのは君だ」
私はもう一度、頭の中で繰り返した。
エルセリア。
今の私を呼ぶための名前。
「これにする」
管理情報を開く。
《マスターユーザー識別名》
未設定
「エルセリア」
《識別名を登録しますか?》
《エルセリア》
「登録する」
短い処理のあと、表示が切り替わった。
《登録完了》
《マスターユーザー識別名:エルセリア》
続いて、レオンの患者記録にある施術管理者の項目も更新される。
《患者識別名:レオン・アルヴェイン》
《施術管理者:エルセリア》
二つの名前が並んだ。
一人でいた頃には必要のなかったものが、誰かが来たことで初めて形になった。
「登録された」
「俺には読めないが、嬉しそうだから成功したんだろう」
「嬉しそう?」
「少しだけな」
私は自分の頬へ触れた。
顔がどのようになっているのかは分からなかった。
「エルセリア」
レオンがもう一度呼ぶ。
「何」
「呼んでみただけだ」
「用がないなら呼ばないで」
「名前を決めた直後くらい、何度か確認してもいいだろう」
「変?」
「似合っている」
「そう」
悪くなかった。
誰かに名前を呼ばれることが、こんなに身体の内側へ残るものだとは知らなかった。
---
レオンの容体を確認したあと、私は新しい板と炭を持ってきた。
壁際には、以前に描いた灰角兎の絵が置いてある。
レオンは板を見てから、私の手にある炭へ視線を移した。
「何をするつもりだ」
「レオンを描く」
「なぜ」
「患者の記録」
「診工守が、俺の身体の中まで記録しているだろう」
「絵はない」
「必要か?」
「必要」
灰角兎の絵を指す。
「最初の患者」
レオンは、丸い胴体と不自然に長い耳を持つ絵を見つめた。
「前から気になっていたが、それは何だ?」
「灰角兎」
「兎なのか」
「角もある」
私は額に描いた三角形を指した。
「これ」
「耳ではなく?」
「角」
「では、横にある短い線は?」
「耳か頬」
「描いた本人が分からないのか?」
「細かい」
レオンは口元を押さえた。
笑っている。
「何」
「いや。俺を描くなら、せめて人間に見えるよう頼みたいと思ってな」
「灰角兎も兎に見える」
「意見が違うらしい」
絵の下には、最初の患者であることと、灰角兎という名前を書いてある。
内容を説明すると、レオンは少しだけ眉を寄せた。
「俺が最初の患者ではないのか」
「二番目」
「人間としては最初だろう」
「患者は患者」
灰角兎もレオンも、傷ついてこの治療室へ来たことに変わりはない。人間だから順番を変える理由もなかった。
私は椅子を少し離し、レオンの顔が正面から見える位置へ座った。
「動かないで」
「今の俺に言う必要があるか?」
「絵がずれる」
「治療ではなく、そちらの都合か」
レオンは呆れた様子だったが、顔を正面へ向けた。
短い褐色の髪は、寝ていたため片側だけ潰れている。日に焼けた肌は失血で色を失い、額と頬には細かな傷が残っていた。
私は輪郭から描き始めた。
少し横へ広くなったため、布で消して描き直す。次は顎が細くなりすぎた。
「難しい」
「まだ始めたばかりだろう」
「顔、複雑」
「人間だったのに、人の顔を描いたことはないのか?」
「授業中の落書きくらい」
「何を描いていた?」
「ドラえもん」
「何だ、それは」
「青い猫型の何か」
「猫なのか?」
「たぶん」
レオンは理解を諦めたようだった。
目と鼻を加え、最後に髪を描く。髪は少し多めにした方が探索者らしい気がしたため、実物よりも上へ立たせた。
板を離して確認する。
人間には見える。
レオンに似ているかは分からない。
「できた」
「早くないか?」
「見て」
絵を向ける。
レオンはしばらく無言で見つめた。
「これは誰だ?」
「レオン」
「俺の髪は、そんなに逆立っていない」
「探索者っぽくした」
「勝手に足すな」
「似てない?」
「人間には見える」
「レオンには?」
「灰角兎よりは近い」
褒められている気がしない。
私は絵の下へ文字を書いた。
二番目の患者。
レオン・アルヴェイン。
灰角兎の絵の隣へ置くと、二枚の顔がよく似ていることに気づいた。目と口の位置がほとんど同じだった。
レオンも気づいたらしい。
「俺と兎の顔が同じではないか?」
「違う。レオンは耳が短い」
「俺には兎の耳はない」
「髪で隠れてる」
「人間の耳を知らないわけではないだろう」
「細かい」
レオンが声を出して笑った。
すぐに胸へ痛みが走ったらしく、顔を歪めている。
私は立ち上がり、胸の管を確認した。
「笑わないで。傷に悪い」
「誰のせいだと思っている」
「レオン」
「エルセリアの絵だ」
名前を呼ばれた。
先ほど登録したばかりなのに、すでに自然に聞こえた。
私は絵を描き直さなかった。
似ていなくても、今の私が初めて描いたレオンだった。
---
呼吸が落ち着くまで休ませたあと、レオンが自分から話を切り出した。
「帰還について調べてもらえるか」
私は少しだけ黙った。
分かっていた。
レオンは仲間のもとへ帰りたい。
名前が決まり、絵を描いたからといって、その気持ちが変わる理由はない。
「帰りたい?」
「ああ。ハルドたちは、俺が死んだと思っているかもしれない」
「分かった」
私は任意帰還の機能を開いた。
《任意帰還》
対象:レオン・アルヴェイン
申請:可能
本人意思:未確認
「帰りたいって言って」
レオンは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに答えた。
「帰りたい」
《本人の帰還意思を確認》
診工守の記録と、転送時に予測される負荷の照合が始まる。
結果が出るまで少し時間がかかった。
《現在の患者状態》
生命危険状態:改善傾向
転送耐性:最低条件を充足
胸部出血再発の危険:中
右下肢循環悪化の危険:中
《任意帰還区分》
緊急帰還:実行可能
安全帰還:経過観察を推奨
《安全帰還までの推定時間》
約36時間
《患者状態の変化により再計算されます》
私は内容をレオンへ伝えた。
「今でも帰れる。でも危ない」
「三十六時間待てば、安全になるのか?」
「今の治り方なら、そのくらい。良くなれば短くなる。悪くなったら延びる」
「固定された時間ではないんだな」
「怪我で変わる」
転送に耐えられる最低条件は満たしている。
本人が望めば、今すぐ帰すこともできる。
けれど、その場合は胸部出血が再発する可能性があり、右脚の血流が再び悪化する危険もある。帰還先で十分な治療を受けられなければ、残せた脚を失うかもしれない。
「地上の治療院なら、続きを治せる?」
レオンはすぐには答えなかった。
「治癒術を使える神官も、腕のいい医師もいる。ただ、ここで受けた処置と同じことができるかは分からない」
「なら、待った方がいい」
「分かっている」
レオンは固定された右脚を見た。
足先へ力を入れると、指がわずかに動く。
「それでも、仲間へ早く知らせたい」
「探しに戻るかもしれないから?」
「ああ。俺が消えた場所を調べるために、崩落地点へ戻る可能性がある」
あの場所には深界瘴気と魔獣が残っている。
救助に戻れば、今度は仲間が救難対象になるかもしれない。
「今帰る?」
私は尋ねた。
「レオンが決めて。危ないけど、止めない」
「止めないのか」
「帰りたいのはレオンだから」
「脚を失う可能性があっても?」
「嫌。でもレオンの脚」
助けたからといって、レオンの身体まで私のものになるわけではない。正しいと思う治療を、本人の意思を無視して続けるのも違う。
レオンはしばらく何も言わなかった。
私は急かさずに待った。
治療室には、透明な管を流れる液体の音と、診工守の小さな作動音が続いている。
「三十六時間は、今の推定なんだな」
「うん」
「途中で状態が良くなれば、早く帰れる」
「診工守がもう一度計算する」
「なら、待つ」
《患者意思を確認》
任意帰還:保留
経過観察:継続
少しだけ安心した。
帰ることを諦めたわけではない。
ただ、安全に帰れる可能性を選んだだけだった。
「いいの?」
「帰ってすぐ脚を失い、仲間へ担がれる方が迷惑をかける。それに、ハルドたちなら簡単には死なない」
「レオンは食べられそうだった」
「それは言わなくていい」
「仲間も見てたと思う」
「だから余計に言わなくていい」
レオンは壁際の絵へ視線を向けた。
「時間があるなら、あれを描き直せるな」
「描き直さない」
「せめて髪だけでも直してくれ」
「探索者っぽい」
「俺を知っている者が見たら、別人だと思う」
「名前が書いてある」
「読めるのはエルセリアだけだろう」
言い返せなかった。
「次はもっと似せる」
「もう一枚描くのか?」
「明日のレオン」
「毎日描くつもりか」
「治ったら変わるかも」
「顔は変わらないと思うが」
私は二枚の絵を見た。
灰角兎とレオン。
この家へ来た患者が、形として残っている。
レオンが帰れば、また作業個体しかいない生活へ戻るかもしれない。それでも、絵は残る。
名前も残る。
「忘れないから」
「俺を?」
「最初の人間」
レオンは少しだけ驚いた顔をした。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
私は空になった器と炭を片づけるため、椅子から立ち上がった。
「次のご飯、もっとおいしくする」
「絵よりそちらを優先してくれ」
「両方する」
「忙しいな」
「患者がいるから」
治療する相手がいる。
食事を作り、顔を描き、名前を呼ばれる。
帰りたいと言われれば、安全に帰れる時を一緒に考える。
一人で暮らしていた頃には、必要のなかったことばかりだった。
私は治療室を出る前に振り返った。
医療台の上にはレオンがいる。
壁際には、似ていないレオンの絵がある。
そして、この家の中には今、私をエルセリアと呼ぶ人間がいる。
あと三十六時間より早くなるかもしれないし、遅くなるかもしれない。
それまでレオンは、二番目の患者として私の家にいる。




