第三話 《名前》
レオンの容体が安定し始めたのは、収容から二時間ほど経った頃だった。
治療が終わった直後は、触れていた私の指を弱く掴んだまま離さなかった。意識が戻ったわけではなく、近くにあるものへ無意識に縋っていただけだと思う。
それでも無理に外す気にはなれず、私は医療台の横へ運んだ椅子に座り、男の呼吸を見守っていた。
やがて指先から少しずつ力が抜けていく。完全に緩んだことを確かめてから、私は男の手を布の上へ戻した。
診工守の観測板には、見慣れない数値と波形が並んでいる。その意味をすべて理解できるわけではないが、危険を示す赤い表示が減っていることは分かった。
《対象の生命反応》
安定傾向
《胸腔内出血》
再発なし
《肺膨張》
回復継続
《右下肢末端血流》
低下・維持
《意識状態》
深度睡眠
「少し離れる」
眠っている男に言っても返事はない。
診工守と薬工守へ継続監視を頼み、治療室に隣接した洗浄区画へ入った。
白いシャツは血と薬液で重くなり、肌へ張りついている。脱ぐ時にも、人間の血の匂いが強く鼻へ入った。
温かい水を浴びる。
腕や胸元に付着していた赤色が薄まり、床へ流れていく。灰角兎の治療でも血には触れたが、これほど強く身体を引かれることはなかった。
流れている血を見ているだけで、喉の奥が熱くなる。
口の中では、伸びかけた牙が唇の裏へ触れていた。
私は目を閉じ、水の温度と音だけへ意識を向けた。
飲まなかった。
男の傷を開いた時も、床へ流れた血を片づけた時も、一滴も口へ入れていない。
患者だから飲まなかったのか、人間だったから飲めなかったのかは、自分でも分からない。ただ、男が目を覚ました時に、自分の血が減った理由を私のせいだと思わせたくなかった。
身体を洗い終え、新しい白いシャツへ着替える。腰まで伸びた黒髪の水気を布で取り、処置の邪魔にならないよう後ろでまとめ直した。
治療室へ戻ると、男の姿勢は変わっていなかった。
胸へ入れた管。
右脚を覆う固定具。
左腕につながった透明な管。
目を閉じ、浅いながらも一定の間隔で呼吸している。
私は治療室の隅へ移動し、《影蔵》から保存血を取り出した。
冷えた魔獣の血を口へ含む。
普段なら、それだけで渇きはかなり和らぐ。それなのに、人間の血の匂いが残る部屋では、ひどく薄く感じられた。
物足りない。
それでも、時間をかけて最後まで飲む。
空になった容器をしまい、男のそばへ戻った。
「一緒にいた人たちは?」
視界へ回答が現れた。
《収容地点周辺の観測情報を確認》
《周辺生命反応》
5
《初期観測地点からの離脱》
確認
《現在の死亡予測》
未確定
転送の直前、高い場所から男へ向かって叫んでいた五人は、崩落した場所を離れていた。
怪我の程度までは分からない。どこへ向かっているのかも、今の施設では追い続けられない。
それでも、少なくともあの空洞には残っていなかった。
「よかった」
男が目を覚ましたら、最初に伝えようと思った。
仲間は生きている。
少なくとも今は、死亡が確定するような状況にはなっていない。
私は椅子を医療台の横へ戻し、腰を下ろした。
男は私を見た瞬間に怯えていた。
知らない場所へ連れてこられ、白い肌と赤い目を持つ女が、血の糸を傷へ入れようとしていたのだから当然だと思う。
目を覚ました時に、何から説明すればいいのかを考える。
ここは私の家。
この部屋は治療室。
男は死ぬことが確定した場所から転送された。
傷は処置した。
一緒にいた五人は、今のところ生きている。
私は吸血鬼。
最後の一つは、すぐには言わなくてもいいかもしれない。
けれど、隠し続けるのも難しい。
赤い瞳は変えられない。口を開けば牙も見える。男の傷を閉じた血糸について聞かれれば、説明する必要がある。
嘘をついてから知られるより、最初から本当のことを言った方がいい気がした。
「聞かれたら言う」
診工守は何も返さなかった。
---
男が目を覚ましたのは、収容から四時間ほど過ぎた頃だった。
最初に右手の指が動いた。
次に眉間へ皺が寄り、閉じていた瞼がゆっくり開く。
私は椅子から立ち上がった。
「起きた?」
男の視線は、しばらく白い天井へ向けられていた。
焦点が定まらないまま、天井を走る透明な管や、近くで待機している薬工守へ目が移る。首を動かそうとした瞬間、胸が痛んだらしく、顔を歪めて息を詰まらせた。
《対象の覚醒を確認》
《急激な体動を抑制してください》
私は肩へ手を置いた。
「動かないで。傷、開く」
男の目が私へ向いた。
大きく見開かれる。
視線が私の顔で止まり、赤い目を確かめるように動いたあと、指先へ落ちた。今は血糸を出していない。それでも警戒は消えなかった。
「ここは……」
声は掠れ、ほとんど息のようだった。
「私の家」
男は理解できないような顔をした。
少し考え、言い直す。
「治療室」
「治療……?」
「怪我、治してる」
男は天井へ視線を戻し、何度か浅い呼吸を繰り返した。記憶を探しているようだった。
「俺は……落ちた」
「うん」
「黒い霧があって……何かが近づいてきて……」
男の視線が再び私へ戻る。
「文字が見えた」
「救難対象?」
男の表情が変わった。
「なぜ知っている」
「施設が出したものだから」
「施設?」
「ここ」
私は周囲を指した。
男は白い壁や機械腕を見回したが、納得した様子はなかった。
「俺をここへ運んだのか」
「転送した」
「君が?」
「施設が。私は待ってた」
男はゆっくり息を吐いた。
胸に痛みが走ったのか、途中で眉が寄る。
「落ちた場所で見えた文字は、読んだことのないものだった」
「ここの文字」
「古代語なのか」
「たぶん」
私には最初から意味が分かる。
施設へ登録されたからなのか、この身体が関係しているのかは知らない。けれど、男が周囲の表示を読めるとは限らなかった。
試しに、壁の表示板へ転送記録を出す。
《緊急転送理由》
移動不能
離脱経路なし
外部救助到達不能
致死性環境汚染の進行
捕食性生物の接近
《環境要因による死亡予測》
確定
男は表示板へ顔を向けた。
視線は文字の上を動いたが、内容を追っている様子はない。
「分かる?」
「いや。古代遺跡で似た記号は見たことがあるが、読めない」
やはり理解できないらしい。
「転送された時の文字は?」
「あれだけは、文字を読んだというより、意味が直接頭へ入ってきた」
「救難用だからかも」
緊急時だけ、対象へ意味を伝える機能があるのかもしれない。
普段の表示には、その補助がない。
私は壁の文字を見ながら、男へ内容を説明した。
「あなたは動けなかった。逃げ道もなかった。外から助けが来る前に、霧か魔獣で死ぬって判定された」
男は黙って聞いていた。
「だから連れてきた」
「俺だけが?」
「うん」
次の瞬間、男は身体を起こそうとした。
胸の管が引かれ、診工守の警告が視界へ重なる。
私は肩を押さえた。
「動かないで」
「仲間は!」
「生きてる」
男の動きが止まる。
「五人。あの場所から離れた」
「本当か?」
「施設が見た」
壁の表示を見せても読めないため、私はそのまま内容を伝えた。
「五人とも生命反応がある。今は死亡確定になってない」
「今は?」
「安全とは出てない。でも逃げられる可能性はある」
男は目を閉じた。
安心したのか、肩から力が抜ける。
しばらくしてから、低い声で言った。
「ハルドたちは行ったのか」
「名前は分からない」
「隊長だ。俺を助けようとしていた男」
転送の直前、崩れた上部から手を伸ばしていた人影を思い出す。
「あの人たちなら、移動した」
「そうか」
男は目を閉じたまま、長く息を吐いた。
呼吸が少し乱れている。
《対象の心拍上昇を確認》
《安静を推奨します》
「もう休んだ方がいい」
「まだ聞きたい」
「身体が先」
「自分の身体がどうなっているのかも聞きたい」
それはもっともだった。
私は男の胸へつながる管と、固定された右脚を見た。
「脚は何か所も折れてた。石に潰されて、血も流れにくくなってた」
男の顔が強張る。
「切ったのか」
「切ってない」
すぐに答えると、わずかに安堵した。
「骨を戻して固定した。今は足先まで血が流れてる」
「歩けるようになる?」
「分からない」
正直に答えると、男は黙った。
悪い意味に聞こえた気がして、言葉を足す。
「今は残せる。筋肉がどこまで治るか、まだ見ないと分からない」
「そうか」
「胸も怪我してた。骨が折れて、肺の近くに血が溜まってた」
男は胸から伸びる管を見た。
「これは、その血を出すためか」
「うん」
「君が治療した?」
「薬工守と診工守と一緒に」
「その二つは?」
私は作業個体を指した。
「薬を使う子と、身体を調べる子」
男の視線が二体へ向く。
「古代の自動人形か」
「作業個体」
「君には言葉が通じるのか」
「うん」
「古代語も読める?」
「読んでる感じはしない。見たら分かる」
男は少し考え込んだ。
「君も、この遺跡を造った者たちの末裔なのか」
「違うと思う」
「思う?」
「私も分からないことが多い」
「ここの管理者ではないのか」
「今はマスター」
「今は、というのは?」
質問が続く。
私は男の顔色を見た。目を覚ました直後より白くなり、額には薄く汗が浮かんでいる。
「話しすぎ」
「知らない場所で寝ろと言われても難しい」
「でも死ぬよりいい」
「それはそうだが」
「診工守も休めって言ってる」
男は表示板へ視線を向けた。
「何と書いてあるか、俺には分からない」
「あなたの心臓が速い。休んで」
「本当にそう書いてあるのか?」
「嘘ついてない」
男は私の顔を見た。
疑っているらしい。
私は診工守を指した。
「この子は治療に必要なことしか言わない」
「俺には確かめようがない」
「なら信じて」
「随分と一方的だな」
「患者だから」
男は言い返そうとしたが、胸が痛んだのか、途中で咳き込んだ。
私はすぐ肩を支える。
「だから動かないで」
「分かった。分かったから押さえるな」
手を離す。
男は何度か息を整えたあと、今度は自分から身体の力を抜いた。
---
薬工守へ確認すると、少量なら水を飲ませてもいいという回答が返った。
浅い器へ水を入れ、細い飲水管を男の口元へ運ぶ。
「少しずつ」
「喉が焼けるようだ」
「一気に飲んだら咳が出る」
「分かった」
男はそう答えた直後、一度に水を吸い込もうとした。
すぐに咳き込み、胸へ痛みが走ったのか顔を歪める。
私は管を離した。
「分かってない」
「思っていたより喉が渇いていた」
「少しって言った」
「次は守る」
水の量を私が調整し、一口ずつ飲ませる。
今度は急がなかった。
数口飲んだところで診工守から停止の指示が出たため、器を下げる。
「もう終わりか」
「また後」
「厳しいな」
「死なせたくないから」
男が私を見た。
その表情から、一瞬だけ警戒が薄れた気がした。
「君が助けてくれたのか」
「施設が連れてきた。私が治した」
「赤い糸で?」
視線が私の指先へ向いている。
隠しても仕方がない。
私は指先に小さな傷を作り、血糸を一本だけ伸ばした。髪より少し太い赤い糸が宙へ浮かび、私の意思に従ってゆっくり曲がる。
男の身体が強張った。
診工守の表示では、心拍も速くなっている。
私はすぐに糸を消した。
「怖い?」
「怖くないと言えば嘘になる」
「そう」
予想していた答えだった。
男の視線が、私の目と口元を確かめるように動く。
「君は人間なのか」
聞かれると思っていた。
「今は吸血鬼。たぶん」
「たぶん?」
「目が覚めたら、この身体だった」
「それ以前の記憶がないのか」
「ある。昔は人間だった」
男は黙った。
私が何を言っているのか、判断できないようだった。
「生まれ変わったということか?」
「分からない。人間の男だった記憶があって、目が覚めたら女の吸血鬼になってた」
「待ってくれ」
男の眉間へ深い皺が寄る。
「情報が多い」
「聞いたから答えた」
「そうだが」
男は私の顔を見たあと、血の跡が残る床へ視線を落とした。
「吸血鬼なら、血を飲むのか」
「飲む」
男の表情が固くなる。
「俺の血は?」
「飲んでない」
「本当に?」
「治療中も飲んでない」
「これからは」
「飲まない」
すぐに答える。
男は少し驚いたようだった。
「患者だから?」
「それもある」
「ほかには?」
私は考えた。
人間だから特別に飲まないと決めたわけではない。
けれど、この男の意思を無視して血を奪うつもりもなかった。
「嫌がるなら勝手に飲まない」
「勝手でなければ?」
「許可されたら考える」
男は目を閉じた。
「正直すぎるな」
「嘘、苦手」
「それはよく分かった」
恐怖が消えたわけではない。
それでも、最初に目を覚ました時ほど強く警戒してはいないようだった。
---
男の呼吸が落ち着いてから、今度は私が質問した。
「奈落って、どんな場所?」
「君は奈落を知らないのか」
「名前だけ。施設の記録に出てた」
「ここが奈落の中だということも?」
「灰色の森と洞窟しか知らない」
男はしばらく私を見つめた。
「本当に、ここで一人で暮らしていたのか」
「機械はいる」
「人間は?」
「あなたが初めて」
声に出すと、男の輪郭が少し変わった気がした。
ただの患者ではなく、この世界で最初に出会った人間だった。
男は天井を見ながら、ゆっくり話し始めた。
「奈落は、地面に開いた巨大な縦穴だ。底がどこにあるのか、誰も知らない。内部には階層ごとに森や洞窟、湖、遺跡まである」
「国もある?」
「奈落の上に国がある。穴の周囲に都市が広がり、探索者や商人が集まっている」
「人、多い?」
「数万人は暮らしているはずだ。周辺の町まで含めれば、もっと多い」
数万人。
長く一人で暮らしていたせいか、想像しても現実味がなかった。
「そんなにいるんだ」
「地上へ出たいのか」
すぐには答えられなかった。
人間が暮らす場所を見たい。
店や食べ物、服、知らない道具も見てみたい。
この世界のことも知りたい。
けれど、自分が吸血鬼だと知られた時にどう扱われるのかは分からない。
それに、この施設を捨てる気もなかった。
縫工守。
管路守。
掃工守。
炉工守。
薬工守。
診工守。
治療室。
台所。
浴室。
壁に残した絵。
ここには、私が作った暮らしがある。
「地上は見たい。でも、ここが家」
男は否定しなかった。
「帰る場所があるなら、家でいいだろう」
私は男を見た。
「変じゃない?」
「奈落の遺跡を家にしているのは珍しいが、安全に眠れて、戻りたいと思える場所なら家だ」
その答えは、少し嬉しかった。
「そう」
この場所を家だと言っても、笑われなかった。
---
診工守から、会話を終えるよう警告が出た。
《対象の疲労増加を確認》
《休息を推奨します》
男には表示の意味が分からない。
私は内容を伝えた。
「もう寝て。疲れてる」
「その前に一つ」
「何」
「俺はレオンだ」
急に名乗られ、少しだけ反応が遅れた。
「レオン・アルヴェイン。奈落の探索者をしている」
「レオン」
声に出してみる。
名前を知っただけで、男が一人の人間としてはっきりしたような気がした。
私は診工守へ患者名の登録を頼んだ。
視界に入力確認が現れる。
《患者識別名》
「レオン・アルヴェイン」
《登録しました》
《患者識別名:レオン・アルヴェイン》
壁の表示板にも古代語が並んだが、レオンは読めない。
「今、何をした」
「患者の名前を登録した」
「それが俺の名前なのか?」
「うん。ここに書いてある」
「俺には一文字も読めない」
「でも合ってる」
「君が間違えていなければな」
「間違えてない」
レオンは少しだけ笑った。
それから私を見た。
「君の名前は?」
答えが出なかった。
人間だった頃の名前は覚えている。
家族や友人に呼ばれていた、男としての名前。
けれど、今の姿でその名を呼ばれることには強い違和感があった。
この身体にも、本来の名前があったのかもしれない。
第七槽の壊れた記録の中には、残っているのかもしれない。
今は分からない。
「ない」
「名前がない?」
「今の私には」
「以前の名前は覚えているのだろう」
「それは昔の私の名前」
「使わないのか」
「今の私とは違う」
レオンは少し考えた。
「なら、何と呼べばいい」
「好きにして」
「それでは困る」
「私は困らない」
「俺が困る。助けてもらった相手を、ずっと『君』や『吸血鬼』と呼ぶわけにもいかないだろう」
「マスター」
「それは名前ではない」
「治療する人」
「役割だ」
「白い人」
「特徴だな」
「赤い目」
「さらに悪くなった」
弱っているのに、レオンは少し楽しそうだった。
私は名前を考えようとしたが、すぐには思いつかない。
「後で決める」
「自分で?」
「たぶん」
「逃げたな」
「寝ないなら薬工守に眠らせてもらう」
レオンの表情から笑いが消えた。
「寝る」
「うん」
目を閉じかけたレオンが、もう一度私を見た。
「ありがとう」
何と返せばいいのか迷った。
灰角兎を助けた時には、当然ながら礼を言われなかった。誰かを治療して、感謝されたのは初めてだった。
悪い気はしなかった。
「治ってから言って」
「十分助かった」
「まだ危ない」
「なら、治ったらもう一度言う」
「そうして」
レオンは目を閉じた。
少しずつ呼吸が深くなり、身体から力が抜けていく。
私は眠ったことを確認してから、視界に表示された患者記録を見た。
《レオン・アルヴェイン》
その下には治療を行った者の情報も記録されている。
《施術管理者》
《マスターユーザー》
名前ではなかった。
レオンには名前がある。
灰角兎には、私が記録へ残した呼び方がある。
作業個体にも、それぞれの役割を示す名称がある。
この施設で呼ばれる必要がなかったのは、私だけだった。
私は眠るレオンを見た。
目を覚ましたら、また私を呼ぼうとするかもしれない。
その時までに、今の自分へ合う名前を考えておいた方がいいのかもしれなかった。




