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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第三部 《二十四時間の境界》

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第二話 《レオン》

退路へ続く通路は、祭具保管区画よりさらに狭かった。

数字がゼロへ変わった瞬間、治療室の照明が落ちた。


暗闇の中で、床に設定した収容範囲だけが白く輝く。空気が水面のように揺らぎ、施設の奥から伝わってきた低い振動が足元を震わせた。見えない流れに引かれ、腰まで伸びた髪が背後へなびく。


《転送経路を維持しています》


《緊急転送対象:1》


《収容処理中》


揺らいだ空間の向こうに、別の場所が映った。


崩れた黒い岩。


地面を覆う濃い霧。


高い場所から下を覗き込み、何かを叫んでいる複数の人影。


その下では一人の男が瓦礫に挟まれ、霧の中から現れた巨大な魔獣が、開いた口を男へ向けていた。


詳しく見る余裕はなかった。


景色が白い光に飲まれ、次の瞬間、重いものが布の上へ落ちた。


血の匂いが広がる。


泥と汗、焦げた革、知らない薬品のような刺激臭。そのすべてを押し退けるように、温かい血の匂いが鼻へ届いた。


《対象収容完了》


《外部環境との接続を切断します》


光が収まり、治療室の照明が弱く戻った。


床に倒れていたのは、人間だった。


成人の男。


短い褐色の髪には血と砂がこびりつき、革と金属を組み合わせた防具は何か所も砕けている。右脚は膝より下が不自然な方向へ曲がり、胸元には転送元から持ち込まれた黒い霧が薄くまとわりついていた。


私は動けなかった。


記憶の中には、いくらでも人間がいる。


家族も、大学の友人も、講義室にいた学生も、駅ですれ違った知らない人たちも覚えている。


それでも、この身体で目を覚ましてから、実際に人間を見たのは初めてだった。


男の胸が、わずかに上下している。


首の奥では弱い脈が動き、傷から流れた血はまだ温かい。


人間の血だった。


魔獣のものとは違う。


匂いを吸い込んだだけで、喉の奥が焼けるように熱くなった。口の中に唾液が溜まり、伸びた牙が下唇の裏へ触れる。


傷口へ顔を寄せろ。


流れているうちに飲め。


身体の奥から、そんな衝動が湧き上がってくる。


私は奥歯を噛み締めた。


「飲まない」


男は獲物ではない。


救難対象として選ばれ、この治療室へ運ばれてきた患者だった。


《対象の生命反応が低下しています》


警告で身体が動いた。


男の傍らへ膝をつき、診工守と薬工守へ声を飛ばす。


「診工守、薬工守。急いで」


《緊急診断を開始します》


《医療補助機能を起動します》


診工守の観測板から淡い光が伸び、男の全身を頭から足先まで通過した。薬工守は壁際の設備へ接続し、洗浄液や薬材、清潔な布を準備していく。


私も《血液感知》へ意識を集中した。


速く、弱い心臓。


浅い呼吸。


全身を巡る血の量が少ない。


右脚の先へは、ほとんど血が流れていない。胸の内側にも血が溜まり、片方の肺を圧迫しているように感じた。


視界へ診断結果が現れる。


《対象分類》


人間種・成人男性


《緊急転送理由》


移動不能


離脱経路なし


外部救助到達不能


致死性環境汚染の進行


捕食性生物の接近


《環境要因による死亡予測》


確定


《主要損傷》


右下肢多発骨折


右下肢圧挫損傷


肋骨骨折


肺損傷


胸腔内出血


全身打撲


中等度失血


《汚染状態》


深界瘴気への曝露


《生命危険度》



男は重傷だから選ばれたわけではなかった。


脚が瓦礫に挟まり、自力では動けない。周囲には身体を侵す霧が満ち、救助が到達する前に魔獣へ襲われる。


あの場所へ残れば死ぬ。


施設は周囲の状況まで解析し、死亡を避けられない一人だけを連れてきた。


転送の直前に見えた人影を思い出す。


「ほかに五人いた」


《周辺生命反応:5》


《自力離脱可能性を確認》


《緊急収容条件を満たしていません》


「安全なの?」


《安全は確認されていません》


《ただし、現時点では環境要因による死亡予測が確定していません》


負傷していないとは限らない。


帰り道で死なないとも言えない。


それでも、自分たちの力で離脱できる可能性は残っている。


この男だけが、もう自分ではどうにもできない場所に取り残されていた。


「この人は助かる?」


《致死環境からの離脱を確認》


《適切な処置を実行した場合、救命可能性があります》


「なら治す」


治療室の隔壁が閉まり、天井の一部が開いた。強い吸気音とともに、男へまとわりついていた黒い霧が吸い上げられていく。


《医療区画を一時隔離します》


《残留瘴気の除去を開始します》


私は細い血刃を作り、男の防具へ差し込んだ。


革の帯だけを切る。


割れた金属板を外す。


服は身体へ張りついていない場所から開き、傷の周囲だけを露出させた。


胸の右側には青黒い痣が広がり、肋骨の形もわずかに歪んでいる。呼吸をするたび、喉の奥から湿った音が漏れた。


薬工守が温めた洗浄液を噴霧する。


皮膚と髪に付着していた黒い粉が流れ落ち、床の排水溝へ吸い込まれていった。傷口には別の中和薬が使われ、その刺激で男の身体が大きく震える。


閉じていた瞼が開いた。


焦点の定まらない視線が白い天井をさまよい、周囲で動く金属の腕を追ったあと、私の顔で止まった。


瞳が大きく見開かれる。


私の目を見ていた。


それから、指先に浮かぶ赤い糸へ視線が落ちる。


男は逃げようとした。


力の入らない腕で床を押し、折れた脚まで動かそうとする。


「動かないで」


肩へ手を置いた。


強く押したつもりはなかったが、弱りきった身体は簡単に床へ戻った。


男の唇が動く。


声になる前に、浅い咳が漏れた。


私は胸の傷へ血糸を伸ばした。


「今、閉じる」


何をされるのか理解できなかったのだと思う。


恐怖を残したまま、男の瞼が閉じた。全身から力が抜け、意識が途切れる。


《対象の意識消失を確認》


《呼吸状態が悪化しています》


「胸から」


《胸腔内に貯留した血液および空気の排出を推奨します》


診工守が男の身体の内部を表示した。


折れた肋骨の近くに暗い血が溜まり、肺の一部が押し潰されている。このままでは、傷そのものより先に呼吸が止まる。


管を入れる位置が、皮膚の上へ淡く示された。


私は指を当てた。


「ここ?」


《挿入位置を確認》


薬工守が細い管と切開器具を運んでくる。


胸部処置用の作業腕には、わずかな震えが残っていた。長く停止していた影響で、細かな動作の精度がまだ完全には戻っていない。


血糸を作業腕へ巻きつける。


「私が支える」


《過剰な力を加えないでください》


「分かってる」


表示された位置へ血刃を当て、皮膚に必要な分だけ切れ目を作る。深く入る前に刃を消し、血糸で支えた器具をゆっくり押し進めた。


皮膚の下に硬い抵抗がある。


角度を変える。


さらに進めると、急に抵抗がなくなった。


管が正しい位置へ入った瞬間、暗い血と空気が勢いよく流れ出した。透明な容器の中へ血が落ち、湿った音を立てる。


男の胸が先ほどより大きく上下した。


《胸腔内圧の低下を確認》


《呼吸状態が改善しています》


管が抜けないよう固定し、《血液感知》で胸の内側を確かめる。


呼吸はまだ浅い。


それでも、少しだけ深くなった。


「次、脚」


右脚の防具を切り開く。


膝より下はひどく腫れ、皮膚の一部が黒紫色へ変わっていた。骨は複数の場所で折れ、筋肉も瓦礫に押し潰されている。


《右下肢への血流低下》


《圧挫損傷の進行を確認》


《組織壊死の危険があります》


私は脚の先へ触れた。


冷たい。


「切るの?」


《現時点で切断は推奨されません》


わずかに息が抜けた。


まだ残せる。


本人へ確認できないまま処置することに迷いはあったが、目を覚ました時に脚がある方がいいはずだった。


私は何本もの血糸を作り、右脚を包むように配置した。


締めつけるためではない。


折れた骨を動かす間、脚全体を支え、力を分散させるために使う。


一本で膝を固定する。


二本で足首を支える。


残りを脛と踵へ回す。


診工守が折れた骨の位置を重ねて表示した。


「戻す」


《強い疼痛反応が予想されます》


「早く終わらせる」


血糸をゆっくり引いた。


骨が筋肉の中を動く感触が、糸を通して指先へ返ってくる。途中で何かに引っかかり、男の身体が跳ねた。


すぐに止める。


位置を見る。


今の方向では骨の端が内部を傷つける。


少し角度を変え、脚全体を持ち上げるように引いた。


鈍い音がした。


ずれていた骨が近づく。


《骨位置の改善を確認》


「あと少し」


《過剰牽引に注意してください》


力を弱め、最後のずれだけを調整した。


薬工守が脚の両側へ固定具を当て、柔らかな帯を巻いていく。すべてが固定されるまで血糸を維持し、《血液感知》で足先への流れを追った。


弱い。


けれど、止まってはいない。


少しずつ温度も戻り始めた。


「血、流れた」


《末端血流を確認》


《継続的な観察が必要です》


脚は固定できた。


押し潰された筋肉が回復するかは分からない。あとから状態が悪化し、結局は切らなければならなくなる可能性も残っている。


今は、それ以上できなかった。


男の心臓がさらに弱くなる。


《循環血液量の低下を確認》


《循環維持液の投与を推奨します》


薬工守が保管庫を調べる。


壁の一部が開き、透明な液体の入った容器が三つ出てきた。二つには使用不能の表示が現れ、残った一つだけが淡く光る。


《循環維持液》


状態:使用可能


《人間種への適合》


許容範囲


「血じゃない?」


《循環量および酸素運搬機能を一時的に補助する代用液です》


「これで足りる?」


《完全な補填には不足しています》


「使って」


薬工守が男の左腕へ針を入れ、透明な管を接続した。


液体がゆっくり身体へ流れ込んでいく。


私は自分の腕を見た。


私の中にも血がある。


傷を作れば取り出せる。


失えば動けなくなるが、目の前の男よりは多く残っている。


「私の血、使えない?」


《使用を推奨しません》


「合わない?」


《マスターユーザーの血液情報は既存分類と一致しません》


《人間種へ投与した場合の反応を予測できません》


「そう」


入れたことで男の身体が壊れるかもしれない。


吸血鬼になるのか、毒になるのか、それすら分からない。


道具として血糸を使うことはできても、失った血を私のもので埋めることはできなかった。


《胸部出血の継続を確認》


考えるのをやめ、胸へ意識を戻した。


管から出る血とは別に、身体の奥で新しい血が漏れ続けている。


診工守が折れた肋骨の近くを拡大する。骨の先端が、その内側を通る血管の一部を傷つけていた。


薬工守の腕では角度が足りない。


私は血刃で処置口を少しだけ広げ、《血液感知》を重ねた。


傷から外へ流れた血なら動かせる。


血の塊を薄く引き延ばし、視界を塞いでいた部分だけを傷の外へ退かせる。


奥が見えた。


折れた骨。


その近くで脈打つ細い血管。


側面に裂けた部分があり、心臓が動くたびに新しい血が滲んでいる。


「見えた」


《血管損傷部位を確認》


薬工守が止血器具を伸ばす。


血糸を器具の先へ巻き、狭い傷の中へ角度をつけて導いた。


人間の血の匂いが濃くなる。


温かい血が次々に湧き、喉の渇きが強くなった。


舐めるだけなら。


ほんの少しなら、治療には影響しないのではないか。


そんな考えが、頭の中へ滑り込む。


私は唇を閉じた。


「患者」


獲物ではない。


助けるために連れてきた。


私は血の匂いではなく、傷ついた血管だけを見る。


「そこ、閉じる」


《止血器具を固定します》


血糸を引く。


器具の先端が裂けた部分を挟み、薬工守が固定処置を行う。


流れ出る血が弱くなる。


さらに減る。


やがて完全に止まった。


《胸部活動性出血の停止を確認》


「止まった」


指先の力を緩め、息を吐いた。


それでも処置は続いた。


細かな傷を洗い、開いている部分を縫う。胸へ入れた管を固定し、折れていた右腕にも添え木を当てる。瘴気が傷の中へ残っていないか何度も確認し、中和薬で洗い流した。


男の防具や服は、汚染されているものと再利用できるものへ分けて容器に入れる。


気づけば、白いシャツも膝も赤く濡れていた。


床には血と薬液が広がっている。


掃工守を動かしたかったが、今は診工守と薬工守への供給を切れない。私は布を取り、自分で床を拭いた。


拭いている間も《血液感知》は切らない。


弱い心臓。


けれど、先ほどより動きが揃っている。


呼吸も少し深くなった。


《緊急処置後診断を開始します》


淡い光が、もう一度男の全身を通過する。


《深界瘴気汚染》


除去進行中


《胸腔内出血》


停止


《肺膨張》


回復傾向


《右下肢血流》


低下・維持


《循環状態》


不安定・改善傾向


《生命危険度》



《即時死亡の可能性》


低下


最後の表示を何度も読んだ。


「助かった?」


《救命処置は成立しています》


《今後、急変する可能性があります》


「今すぐは死なない?」


《現時点では生命反応を維持しています》


私はその場へ座り込んだ。


腕が重い。


長時間血糸を使い続け、自分の血もかなり減っていた。倒れるほどではないが、喉の渇きと頭の鈍い痛みが強くなっている。


《影蔵》から保存血を取り出した。


男へ背を向け、冷えた魔獣の血を飲む。


すぐ近くにある人間の血の方が、何倍も強く身体を引きつけていた。それでも振り返らず、容器の中身だけを最後まで飲みきる。


空になった容器を片づけ、男の隣へ戻った。


眠っている。


顔色はまだ悪く、呼吸のたびに眉間へ皺が寄っていた。


額へ手を当てる。


私より温かい。


それが人間の体温なのだと、少し遅れて気づいた。


懐かしいのかは分からなかった。


人間だった頃の記憶は残っているのに、誰かへ触れた感覚は、もう昔に見た夢のように遠い。


この男の名前も知らない。


どこから来たのかも、何をしていたのかも分からない。


それでも、確かに生きている。


私の家の中に、自分以外の人間の呼吸がある。


視界へ新しい表示が現れた。


《緊急救命対象の収容を確認》


《致死環境からの離脱を確認》


《初期救命処置の成立を確認》


SP+2


続いて、《人間性》もわずかに上昇した。


「人間を助けたから?」


《人間性は善悪を評価する機能ではありません》


《他者の生命維持を目的とした継続的な治療行為を確認しました》


「灰角兎と同じ?」


《対象種による判定ではありません》


少しだけ安心した。


人間だから特別に数えられたわけではない。


傷ついたものを連れてきて、治し、生きられるようにする。その行為が、人間らしい生活の一部として認識されただけだった。


私は男へ掛けた布を直した。


治療室の壁には、灰角兎の絵が残っている。


最初の患者。


目の前の男は二番目だった。


施設が外から収容した患者としては、最初の一人になる。


《広域緊急救命転送網》


《再充填を開始します》


《次回転送可能まで》


23:41:18


数字が一秒ずつ減っていく。


「また誰か来る?」


《現在、緊急収容条件を満たす対象は確認されていません》


「この人と一緒にいた五人は?」


《自力離脱可能性を継続観測しています》


「危なくなったら連れてくる?」


《離脱経路が失われ、環境要因による死亡予測が確定した場合、緊急転送候補として登録されます》


負傷しただけでは選ばれない。


危険な場所にいるだけでも足りない。


自分や仲間の力で逃げられる可能性が残っている限り、施設は手を出さない。


死ぬことが確定した個人だけを、最後に拾い上げる。


私は減り続ける数字を見た。


一度使えば、次に手を伸ばせるまで二十四時間近くかかる。


その間に別の誰かが条件を満たしても、すぐには収容できないかもしれない。


「もっと早く使いたい」


《現在の供給能力では不可能です》


「直したら?」


《主要供給設備および転送経路の追加復旧が必要です》


「分かった」


まずは、この男を生かす。


目を覚ませば、どこから来たのかを聞ける。


奈落がどんな場所なのか、この世界に人間がどれほどいるのかも分かるかもしれない。


それより先に、考えなければならないことがあった。


男は私を見た瞬間、明らかに怯えていた。


赤い目。


白すぎる肌。


指先から伸びる血の糸。


血を飲む吸血鬼が治療していると説明しても、安心するとは思えない。


血糸を消し、口を閉じて牙を隠す。


白いシャツは血まみれだった。着替えた方がいいが、男の状態が安定するまでは離れたくない。


《影蔵》から薄い上着を出し、シャツの上へ羽織った。


「また怖がるかな」


システムから答えは返らなかった。


椅子を医療台の横へ運び、腰を下ろす。


診工守と薬工守が監視しているため、ずっと隣にいる必要はない。それでも、男が目を覚ました時、知らない機械だけに囲まれているよりはいいと思った。


薬工守の作業音。


透明な管を流れる液体。


一定の間隔で状態を測る診工守。


その間に、今まで家にはなかった人間の息遣いが混じっている。


しばらくすると、男の指が動いた。


「起きる?」


瞼がわずかに震える。


開きはしなかったが、完全に意識を失ったままではないらしい。


肩を揺らせば傷へ響く。


名前を知らないから、呼ぶこともできない。


迷った末、男の手へ指先だけを触れさせた。


男の指が動く。


私の指へ弱く絡み、そのまま離れなくなった。


握ったというより、そこに触れたものへ反射的に縋っただけなのかもしれない。ほとんど力はなかった。


私は手を引かなかった。


「大丈夫」


断言できる根拠はない。


夜の間に状態が悪化する可能性もある。脚を残せるかも、まだ分からない。


それでも、あの暗い空洞で死ぬ未来からは外れた。


今は治療室にいる。


診工守も薬工守も動いている。


私もここにいる。


「ここで死なせない」


男には聞こえていないかもしれない。


私は指を掴まれたまま、隣で呼吸を見守り続けた。


ミレアを抱えたまま飛べるほどの高さはなく、私は《飛行》を解除し、彼女を背負う形へ変えた。折れた左脚が揺れないよう血糸で固定し、両手を使えるよう身体を背中へ留める。


「苦しくない?」


「大丈夫です。それより、あなたの方が」


「軽いから平気」


「先ほども隊長に同じことを言ったのですか?」


「言ったかもしれない」


ミレアは小さく息を吐いた。笑ったようにも聞こえたが、疲労が強く、それ以上は話さなかった。


通路には、聖堂騎士たちが通った痕跡が残っていた。


壁へ引かれた白い線。


床に置かれた小さな金属片。


崩れた場所には、進める方向を示す矢印が刻まれている。


「セイルの印です」


背中からミレアが教えてくれた。


斥候として先行したセイルは、仲間が退路を見失わないよう、一定の間隔で目印を残していたらしい。


白い線を追いながら進むと、血の跡も見つかった。


古いものではない。


石床へ落ちたあと、何かを引きずるように奥へ続いている。


「セイルの血?」


「分かりません。あの時は全員、多少の傷を負っていました」


私は指先で乾きかけた血へ触れ、《血液感知》を伸ばした。


持ち主はまだ近くにいる。


血の痕跡が消えず、細い道のようにつながっていた。


「生きてる」


その言葉に、ミレアの腕へ僅かに力が入った。


血を追って進む。


途中から目印が途絶え、代わりに通路の床へ細い糸が張られていた。暗闇の中では見落としそうな高さにあり、その先には天井から石材を落とす仕掛けが作られている。


足を止める。


「罠がある」


「セイルです。魔物に追われた時、後方へ仕掛けながら退く癖があります」


糸を切れば作動する可能性があるため、触れずに跨いだ。


その先にも罠が続いていた。


壁から刃を出すもの。


床板を踏むと杭が飛び出すもの。


小さな鈴を鳴らし、侵入者の接近を知らせるだけのもの。


壊れた祭具や魔物の骨を利用し、短い時間で作られている。セイルは傷を負いながらも、追ってくるものを止めようとしていたらしい。


血の跡が、半壊した礼拝室の前で消えた。


扉は閉じている。


内部から生命反応が一つ伝わってきたが、心拍は低く、ほとんど動いていない。


「セイル」


ミレアが呼びかけた。


返事はない。


扉へ近づいた瞬間、内側で弦が弾ける音がした。


私は反射的に右手を上げる。


開いた扉の隙間から飛んできた矢を、指先から伸ばした血糸が空中で絡め取った。鏃は私の顔の直前で止まり、赤い糸の中で小さく震えている。


「敵じゃない」


そう伝えても、二本目の矢が放たれた。


今度はミレアへ当たりそうだったため、身体を横へ向けて背中を庇う。矢は肩へ浅く刺さったが、骨までは届かなかった。


「セイル、やめなさい!」


ミレアが声を強めると、礼拝室の中で人影が揺れた。


「神官長……?」


男の声は掠れ、呼吸も乱れている。


私は肩へ刺さった矢を抜き、血を止めながら扉を押し開けた。


中には壊れた長椅子が積まれ、入口を塞ぐ壁のように組まれていた。その奥に、黒い外套を着た細身の男が座り込んでいる。


右脚には折れた槍が突き刺さり、布を巻いた脇腹からも血が滲んでいた。左手には小型の弩を持っているが、次の矢を装填する力は残っていない。


「隊長は」


セイルは私ではなく、背中のミレアへ尋ねた。


「生きています。この方が救助して、治療してくださいました」


「この方?」


セイルの視線が私へ移る。


赤い目と牙を確認し、最後に肩の傷が塞がり始めているのを見て、弩を握る指へ力が入った。


「吸血鬼ではありませんか」


「吸血鬼。でも敵じゃない」


「その説明で納得する人間は少ないと思います」


「私もそう思う」


ミレアを近くの長椅子へ降ろし、左脚を床へ触れさせない姿勢で座らせる。


セイルは弩を向けたままだったが、腕が震え、照準は定まっていなかった。


「隊長は本当に無事なのですか」


「腹を杭で貫かれてた。抜いて治した。今は私の家で寝てる」


「私の家、という部分が最も不安なのですが」


「診工守と薬工守が見てる。四十八時間は戻れないけど、急に悪くなる可能性は低い」


「待ってください。なぜ四十八時間も戻れないのですか」


「無理やり転送を使って来たから」


セイルはミレアを見た。


ミレアが静かに頷くと、彼はようやく弩を下ろした。


「状況は理解できませんが、神官長まで生きているなら、少なくとも今すぐ私たちを殺すつもりではなさそうですね」


「最初からない」


「吸血鬼の言葉としては信用しづらいものです」


「でも治療はする」


私はセイルの右脚へ近づいた。


突き刺さっているのは槍の穂先ではなく、折れた柄の方だった。肉を深く抉っているが、太い血管は外れている。


「触る。槍を抜く」


先に伝えると、セイルは僅かに目を見開いた。


「確認を取るのですね」


「前に怒られたから」


「誰にですか」


「リノ」


知らない名前だったらしく、セイルは困惑したが、今は説明しなかった。


止血用の布と薬を用意し、血糸を傷の周囲へ通す。槍をそのまま引けば、割れた木片が中へ残るため、表面を少しずつ削って細くした。


「痛いと思う」


「すでに十分痛いので、遠慮なくどうぞ」


槍を抜くと、セイルの身体が強張った。


声は上げなかったが、額から汗が流れ、弩を握っていた手が床を強く掴んでいる。


血糸で傷を広げ、残った木片を取り除く。


洗浄し、薬を入れ、裂けた筋肉を寄せる。骨は折れていなかったため、傷を閉じれば脚そのものは残せそうだった。


脇腹の傷も確認した。


爪で切られたような三本の裂傷があり、一番深いものは筋肉まで届いている。幸い腹部の内側までは達していない。


「歩けるようになる?」


ミレアが尋ねた。


「今すぐは無理。治っても、しばらく走れない」


「足手まといですね」


セイルが自分で口にした。


「二人とも運ぶ」


「一人ずつでも大変でしょう」


「血糸で固定すれば背負える。広い場所なら飛ぶ」


セイルは私の背中を見た。今は翼が存在しないため、何を言っているのか分からなかったらしい。


「この方は翼を出せます」


ミレアが説明すると、さらに理解できないという顔になった。


「吸血鬼には翼があるのですか」


「私にはある。使ってる時だけ」


「教会の資料で読んだどの種とも一致しませんね」


「エドガーも似たこと言ってた」


処置を終え、セイルの右脚を固定する。


自力で歩かせることはできないが、心拍は安定し、すぐに死ぬ状態ではなくなった。


《帰還可能まで》


43:18:26


ミレアの救助から、さらに三時間以上経っている。


残る二人は内陣にいる可能性が高い。


「ガルドとルークはどこ?」


尋ねると、セイルは礼拝室の床へ指を向けた。


そこには地下聖堂の簡単な地図が描かれている。


「内陣へ向かったのは間違いありません。ただし、通常の通路は崩れています。私が退路を確保していた時、地下から大きな振動がありました」


「大きい魔物?」


「見ていません。ただ、裂口骸は何かから逃げるように上層へ押し寄せてきました。あれらを追い立てる存在が、内陣側にいるのでしょう」


セイルは地図の中央へ印をつける。


正面から内陣へ入る通路は崩落している。残っているのは、祭壇の裏から地下へ下りる細い階段だけだった。


「そこから入った場合、聖堂の最深部を通ることになります」


「危ない?」


「教会の記録では、封印区画です。何が封じられているかは、隊長にも知らされていませんでした」


調査隊なのに、調べる場所の中身を知らされていない。


「どうして入ったの?」


「数日前から、地下聖堂の周辺で人が消えていました。聖堂そのものは二百年以上前に閉鎖されていますが、内部から魔物が出ている可能性があると判断されたのです」


「教会が封印したのに、何がいるか知らない?」


「記録が失われています。教会にも、すべてが残っているわけではありません」


第七層と似ている。


施設にも多くの記録がなく、自分の正体さえ分からない。


昔に作られた場所は、残っている方が少ないのかもしれない。


「二人を探す。その前に、休める場所を作る」


ミレアとセイルの二人を連れたまま、危険な封印区画へ入ることはできない。


礼拝室は入口が一つしかなく、セイルの罠も残っている。天井と壁に大きな崩れはなく、一時的な拠点として使えそうだった。


倒れた長椅子を搬工守の代わりに血糸で動かし、入口へ防壁を作る。セイルが残していた罠も、私が戻る時に踏まない位置へ調整した。


二人分の水と食料を置き、薬の使い方をミレアへ伝える。


「私も治癒術を使えます」


「今は魔力がない。使わないで」


「少しくらいなら」


「防壁で倒れかけた。駄目」


強く言うと、ミレアは反論せずに頷いた。


セイルへは予備の弩と矢を手の届く場所へ置いた。右脚は動かせないが、礼拝室の中へ侵入した魔物を迎撃することはできる。


「私が戻るまで、ここから出ないで」


「戻らない可能性は?」


セイルが尋ねた。


「ある」


嘘は言えなかった。


「それでも行くのですか」


「二人が残ってるから」


「あなたにとっては、会ったこともない人間でしょう」


「患者になるかもしれない」


セイルはしばらく私を見たあと、弩の弦を確かめた。


「隊長があなたをどう判断するか、少し楽しみになってきました」


「もう警戒された」


「それでも仲間を探しに来たのですね」


「頼まれたから」


「頼まれれば、誰でも助けるのですか」


少し考える。


頼まれなくても、死にそうな者を見つければ助けていた。


「たぶん」


「答えが曖昧ですね」


「まだ三人しか人間を治してないから、分からない」


エドガーを含めれば三人だ。


ミレアとセイルの治療が完了すれば、さらに増える。


セイルは何も言わず、私から視線を外した。疑いが消えたわけではないが、最初に矢を撃った時ほど強い警戒は感じなかった。


私は礼拝室を出る前に、《影蔵》の中身を確認した。


循環維持液は残り三本。


返血用の容器もある。


魔獣の血と食料は、二人へ分けても十分に残っている。


血糸と飛行を使い続けたため、身体の中の血は少し減っていた。保存していた魔獣の血を飲み、空になった容器を戻す。


「行ってくる」


ミレアが長椅子へ身体を預けたまま、こちらを見た。


「ガルド副隊長は、誰かを守るためなら自分を後回しにします。ルークは若いですが、逃げるような騎士ではありません」


「分かった。二人とも連れてくる」


約束できるかは分からない。


それでも、今はそう答えた。


礼拝室の扉を閉め、外側へ血で小さな印をつける。戻る場所を見失わないための目印だった。


祭壇裏へ続く通路を進むと、空気が少しずつ冷たくなった。


白い線も、セイルの残した金属片も、途中で完全に途切れる。


代わりに、壁へ深い爪痕が増えていった。


裂口骸のものではない。


幅も深さも、現地派遣の直前に見た裂口母骸より大きかった。


暗闇の奥から、何か重いものが石床を引きずる音がする。


一度ではない。


一定の間隔で、何度も近づいてきていた。


《血液感知》を広げる。


大きな生命反応が一つ。


その向こうに、人間の心拍が二つあった。


どちらも、まだ動いている。


「見つけた」


私は右手へ血刃を作り、左手の指先から血糸を伸ばした。


狭い階段では、まだ翼を出さない。


巨大な生命反応との距離が縮まる中、私は内陣へ続く暗闇を下り始めた。


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