第十三話 《再接続》
救難管制区画から戻ったあとも、あの声は耳に残っていた。
『まだ、一人……生きてる』
声の主にも、その人が守ろうとした誰かにも、もう間に合わない。
記録された場所も時刻も失われていた。どれだけ昔の出来事なのかさえ分からない。
それでも、次に届く声まで同じ結末にする必要はなかった。
翌朝、私は食卓へ区域図を広げた。
向かい側の椅子には、灰角兎が使っていた布が敷かれている。洗ってはあるが、爪で引っかいた跡までは消していない。
診工守と管路守が、机の横から区域図を見ていた。
《広域緊急救命転送網》
《主要機能――大部分損壊》
《完全復旧――不能》
「分かってる」
外部から救難信号を受け取る機能。
その反応を追い続ける機能。
施設との間に経路を作る機能。
患者を安全な場所へ受け入れる機能。
どれか一つを直すだけでは使えない。残っている部品と動力では、本来の性能へ戻すこともできなかった。
二千八百六十四件を同時に見るような設備は、もう作れない。
今の医療管理区画で診られる患者も限られている。
診工守と薬工守は一体ずつ。
傷へ手を入れられるのは、私だけだった。
「たくさん助けなくていい」
《要求を確認できません》
「最初に届いた命を、途中で離さなければいい」
診工守の観測板へ、壊れた系統図が表示された。
複数の対象を比較する経路。
同時に何本もの転送路を作る機能。
複数の医療区画へ振り分けるための制御。
現在は使えないものが、一つずつ暗くなっていく。
最後に、細い一本の線だけが残った。
《単一救難対象限定》
《限定再接続――可能性あり》
《実行成功率――算出不能》
「それでいい」
助ける相手を選びたいわけではない。
年齢も、種族も、立場も分からないまま、誰が生きるべきかを決めることなどできなかった。
だから、最初に届いた反応を追う。
その命が消えるまで、別の信号へ移らない。
「途中で切り替えないで」
《受信順に単一対象を固定しますか》
「うん」
《単一対象固定条件を登録しました》
一度にできることは少ない。
だからこそ、手を伸ばした相手だけは見失わない。
それが、今の家に作れる救難網だった。
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復旧作業は、救難信号を受け取る経路から始めた。
管路守が壁の内側に残った導路を調べ、搬工守が保守部品庫から使えそうな部品を運んでくる。炉工守は焼けた接続部を切り離し、熱で歪んだ固定具を外していった。
私は《血糸》を細い隙間へ通し、管路守が示す位置まで部品を運ぶ。
《右へ一指幅》
僅かに動かす。
《位置――適正》
「固定して」
炉工守が接続部を閉じた。
血糸は、作業の間だけ部品を支える。
私が離れれば消える血を、設備の一部として残すことはできない。最後は施設に残っている素材だけで動くようにつなぐ必要があった。
壊れた区画を何度も往復する。
使える部品を探す。
長すぎる導路を切り、短いものを組み合わせる。
一度つないでは反応を確かめ、異常があれば外してやり直した。
作業を続けるうち、管制区画の中央に並ぶ操作台だけが、安定して光るようになった。
《外部救難信号受信――限定復旧》
表示壁には、細かな雑音が絶えず流れている。
現在の信号なのか、過去に残された残響なのかまでは判別できない。
それでも、完全な沈黙ではなくなった。
次に、受け取った反応を追うための機能を組み直した。
元の設備には、多数の信号を同時に処理するための輪が幾重にも並んでいた。その大半は焼け、交換部品も残っていない。
使えない輪を外し、残った一つだけを中央へ移す。
位置を調整するたび、診工守が誤差を測った。
《上方へ二指幅》
《回転角度――不足》
《位置――適正》
炉工守が固定し、管路守が新しい導路へつなぐ。
やがて、輪の中央へ細い光が通った。
《単一対象固定――限定稼働可能》
受信した声を見つけても、まだ助けられない。
こちらへつなぐ先が必要だった。
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既存の収容先は、医療管理区画の処置台へ設定されていた。
「そこは駄目」
《理由を指定してください》
「少しずれたら、台と重なる」
転送される者が、どんな姿勢をしているのか分からない。
立っているかもしれない。
倒れているかもしれない。
身体の上へ瓦礫や荷物が載っている可能性もある。
硬い処置台へ直接現れれば、それだけで傷を増やしかねなかった。
私は医療管理区画の手前にある空室を選んだ。
以前は物資を一時的に置くための部屋だったらしく、床には何も固定されていない。人間が横になっても、周囲へ十分な空間が残る。
「最初は、ここに入れる」
《医療処置区画ではありません》
「すぐ治療室へ入れない」
外から来るのは、患者だけとは限らない。
血や泥。
毒。
病気。
深淵の汚染。
見たことのない生き物が、身体へ食いついている可能性さえあった。
そのすべてを生活区画や処置室へ直接入れるのは危険だった。
空室には、外側と医療区画側に一枚ずつ隔壁がある。
片方が開いている間は、もう片方を開けないよう制御する。
「ここを隔離受入室にする」
《用途変更を登録しますか》
「する」
《隔離受入区画》
《暫定登録》
管路守が換気経路を切り替える。
受入室の空気は生活区画へ流さず、使われていない排気路へ送る。床の排水溝には逆流を防ぐ部品を取りつけ、天井の洗浄口は薬工守の管理系統へ接続した。
縫工守は隔壁の縁へ新しい密閉帯を取りつける。
薬工守が洗浄液を流し、管路守が空気と水の漏れを調べた。
《隔離状態――維持可能》
《生活区画との換気分離――完了》
《洗浄機能――限定稼働》
私は観測窓の向こうにある空の部屋を見た。
「患者が来たら、最初に診断して」
《診工守による遠隔観測を実行します》
「汚染があれば、洗う」
《薬工守による洗浄および中和処置を実行します》
「終わるまで、内側の扉は開けない」
《第二隔壁の閉鎖を維持します》
搬工守が第二隔壁の前へ進んだ。
《搬送要求待機》
洗浄と診断が終われば、搬工守が処置室へ運ぶ。
患者が途中で意識を取り戻しても、生活区画へ直接入ることはできない。
二枚の扉は、外から来た者を拒むためのものではなかった。
安全に迎え入れるために必要な境目だった。
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薬工守が保管薬材を調べると、密閉容器の一部だけが使用可能だった。
《生命維持補液》
《一対象分――調整可能》
《血液代替機能――なし》
《脱水および循環量低下の進行抑制》
「作って」
薬工守が清浄水と薬材を混ぜ、何度か濾過する。
やがて、僅かに青みを帯びた透明な補液が容器へ満たされた。
《生命維持補液――調整完了》
《使用可能期限――短期》
失った血液そのものは補えない。
傷も治らない。
それでも、治療を始めるまでの時間を僅かに延ばせる。
今は、それで十分だった。
補液が使える間に、救難網を動かす必要がある。
私も森へ出て獲物を一頭だけ狩り、血を十分に飲んだ。
長期間保存できる血は作れない。
だから、患者を受け入れる時に自分が血液不足にならないよう、先に身体を整えるしかなかった。
家へ戻ると、診工守が足先から頭まで状態を調べた。
《生命状態――安定》
《血液量――良好》
《技能使用――支障なし》
「準備できた」
残るのは、患者が現れる位置の調整だった。
診工守が隔離受入室の床を測定し、管路守が接続経路を少しずつ動かす。
私は床へ収容範囲を示す印をつけた。
《中心座標より左へ三指幅》
「細かい」
《生体の安全確保に必要です》
指示された位置へ印をつけ直す。
周囲から寝台と器具を退け、何が現れても重ならないだけの空間を確保した。
《収容座標――設定完了》
《位置誤差――許容範囲内》
《実対象での動作――未確認》
実際の生き物を使って試すつもりはなかった。
救難対象でもないものを、装置の確認のためだけに転送することはできない。
最初の実行が、本番になる。
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最後に調べたのは、転送経路を開くための動力だった。
現在の施設には、すべての設備を動かしたまま外部へ経路を伸ばせるほどの力がない。
炉工守が、救難時の動力配分を試す。
調理区画の加熱盤が消えた。
温水の流れる音が止まる。
生活区画の照明が暗くなり、掃工守と縫工守が低消費待機へ移った。
家の中から、一つずつ音が消えていく。
食事を作る場所。
身体を洗う場所。
床を掃除する作業個体。
暮らすために動かしてきたものが、一時的に眠っていった。
壊れたわけではない。
外の誰かへ手を伸ばすために、力を譲っている。
救難管制区画と隔離受入室へ、淡い光が集まった。
《救難系統優先動力配分》
《転送経路――暫定生成可能》
《同時収容可能数――一》
《収容可能回数――一日一回》
《連続稼働――不能》
《実行成功率――算出不能》
「失敗する可能性は?」
《あります》
「途中で経路が切れる?」
《可能性があります》
「来た時には、助からない状態かもしれない?」
《可能性があります》
何一つ保証されていない。
受け入れに成功しても、私には治せない傷かもしれない。
人間とも限らない。
言葉が通じるとも限らない。
それでも、二千八百六十四件の記録にはなかったものが、今はここにある。
声を受け取る場所。
患者を迎える部屋。
傷を見る者。
薬を整える者。
運ぶ者。
そして、傷へ手を入れる者。
私は救難管制区画の表示壁を見上げた。
「始める」
《広域緊急救命転送網》
《限定再接続を実行します》
壁の内側から、低い音が広がった。
中央の操作台へ光が入り、そこから細い線が枝分かれしていく。
救難信号受信機能。
単一対象固定機能。
転送経路生成機能。
隔離受入区画。
医療管理区画。
一度は途切れていた線が、完全ではないまま再びつながった。
《限定再接続――完了》
《外部救難信号受信――待機》
作業個体たちが、決めていた配置へ移る。
診工守は隔離受入室の観測窓へ。
薬工守は洗浄液と生命維持補液の前へ。
搬工守は、閉ざされた第二隔壁の前で待機する。
管路守と炉工守は、接続経路と動力を維持した。
私は処置室へ入り、洗浄された針と器具を並べる。
短い《血刃》を形成し、すぐに消した。
血糸も問題なく使える。
まだ、誰の声も届いていない。
空の隔離受入室には、何も現れない。
救難管制区画の表示壁にも、現在の対象を示す文字はなかった。
それでも今度は、声が届いた時に応答する者がいる。
二千八百六十四件の声には、もう間に合わない。
次の声が、いつ届くのかも分からない。
明日かもしれない。
何年も先かもしれない。
二度と届かない可能性もある。
私は静かな表示壁を見つめた。
「今度は、間に合う?」
返事はなかった。
壊れかけた救難網は、静かに外の声を探し始めた。




