第十二話 《届かない声》
医療管理区画を使えるようにした翌日、私は調理台の上へ獣肉を置いた。
食べるための肉ではない。
表面へ深さの違う切れ目を入れ、灰角兎へ行った処置を思い出しながら、針へ《血糸》を通す。
診工守が向かい側から肉を観測していた。
《切開部――深度不均一》
《縫合練習を開始しますか》
「する」
薬工守が洗浄した針を受け取り、切れ目の両側へ通す。
一針目。
二針目。
開いた部分を閉じ、血糸を結んだ。
「どう?」
診工守の観測板から細い光が伸び、縫い目の上を往復する。
《縫合間隔――一部過密》
《組織圧迫――強》
「締めすぎた?」
《肯定》
糸を切り、最初からやり直す。
今度は切れ目の端が触れ合う程度で止めた。
《縫合深度――不足》
「難しい」
傷は、閉じればいいわけではない。
強く締めれば血の巡りを妨げる。
浅ければ、動いた時にまた裂ける。
灰角兎の時は、それすら知らずに針を刺した。
助かったのは、処置が正しかったからとは限らない。
内臓まで傷ついていなかった。
太い血管も切れていなかった。
灰角兎自身にも、生きる力が残っていた。
いくつもの偶然が重なっただけだった。
「もう一回」
糸を外し、肉の厚さを指先で確かめる。
傷の端を揃え、針を刺す位置を決めた。
今度は間隔を空け、一針ずつ同じ深さへ通していく。
《縫合状態――良好》
「できた」
《静止組織を用いた基礎処置として、許容範囲です》
「生きてる相手は動くけど」
《肯定》
血も流れる。
痛がる。
怖がって暴れる。
身体の造りも、相手によって違う。
肉を縫えるようになっただけで、患者を治せるわけではない。
それでも、何も知らなかった時よりはましだった。
別の切れ目へ針を通そうとした時、診工守の観測板へ細い乱れが走った。
《外部医療情報――接続異常》
昨日と同じ表示だった。
続いて、別の文字が浮かぶ。
《外部緊急救命系統――応答なし》
私は針を置いた。
「また出た」
《外部情報参照要求を検出》
「どこから来てるの?」
《接続元の追跡を開始します》
診工守の観測板へ、区域図が表示された。
医療管理区画から伸びた細い線が、まだ表示されていなかった通路へ続いている。
生活区画とは反対側。
施設のさらに内側だった。
終点へ、新しい名称が浮かぶ。
《救難管制区画》
《状態――停止》
《接続経路――損傷》
「そこを動かせば、何の設備か分かる?」
《外部緊急救命系統の管理情報を参照できる可能性があります》
大昔に壊れた設備が、同じ警告を繰り返しているだけかもしれない。
今も誰かが助けを求めているとは限らない。
それでも、放っておく気にはなれなかった。
「見に行く」
---
救難管制区画へ続く通路は、医療管理区画よりも損傷が激しかった。
壁の一部が黒く焼けている。
天井から垂れた管は途中で千切れ、床には乾いた液体の跡が残っていた。
壁面には、何か巨大なものが擦ったような傷もある。
灰森主の枝角より、さらに太い。
いつできた傷なのかは分からない。
診工守が前方を照らし、管路守が切れた接続経路を調べる。
私は後ろを警戒しながら進んだ。
通路の終わりには、左右へ開く大きな扉があった。
《救難管制区画》
《入室機構――損傷》
《緊急解放――失敗》
「開かない?」
《固定部の一部が変形しています》
管路守が扉の下へ細い腕を入れ、変形した部品の位置を示した。
私は《血糸》を隙間へ通し、奥に挟まっていた金属片を引き寄せる。
一つ目。
二つ目。
最後の破片を外すと、扉が僅かに揺れた。
管路守が残っている駆動部へ力を送り、私は扉の端へ手をかける。
「開ける」
重い扉を、ゆっくりと左右へ押し広げた。
乾いた空気が流れ出す。
その奥は暗かった。
診工守の光だけが、広い室内を細く照らす。
最初に見えたのは、椅子だった。
一脚ではない。
何十脚もの椅子が、段差のついた床へ並んでいる。
まっすぐ操作台へ向いたもの。
横倒しになったもの。
途中まで引かれたまま止まっているもの。
それぞれの前には操作台があり、その上には割れた表示板や、途中で千切れた細い線が残されていた。
長い時間を示す灰色の埃が、そのすべてへ積もっている。
急いで席を立ったようにも見えた。
最後まで、その場所から離れられなかったようにも見えた。
奥には、壁を覆うほど大きな表示面がある。
天井からは複数の観測装置が吊り下がり、すべて光を失っていた。
ここには昔、大勢がいた。
並んで座り、外から届く何かを見ていた。
今は、すべて空いている。
第八話で、私は食卓へ二脚目の椅子を置いた。
誰かが座る予定などないのに、片づけたくなかった。
けれど、この場所に並ぶ椅子には、座る者がいたはずだった。
それが、全員いなくなっている。
「動かせる?」
《主制御機能――停止》
《記録領域――部分生存》
《限定起動を試行します》
管路守が壁面の接続部を開いた。
診工守が、医療管理区画から延びる経路へ接続する。
一度、部屋の照明が明滅した。
遠くで、何かの設備が停止する音が聞こえる。
限られた動力が、この部屋へ回されたらしい。
操作台の一つへ、淡い光が戻った。
続いて、その隣。
すべてではない。
中央に並ぶ一列だけが、長い眠りから起きるように点灯していく。
巨大な表示壁へ、崩れた文字が浮かんだ。
《第七管理領域》
《救難管制系統》
《広域緊急救命転送網》
「救難転送網?」
《施設外部で発生した重篤生体を検出し、救命処置可能な管理領域へ接続する系統です》
「ここへ連れてくるの?」
《詳細機能情報――欠損》
《対象の状態および接続条件により、処理方式が異なります》
詳しい仕組みは分からない。
それでも、この場所が何をするために作られたのかは理解できた。
外で傷ついた誰かを見つける。
助けを求める声を受け取る。
治療できる場所へつなぐ。
「動いてた?」
診工守の観測板が、残っている記録へ接続する。
表示壁へ新しい項目が開いた。
《過去救難記録》
《保存断片数――二八六四》
「二千八百六十四?」
《肯定》
表示された数から、目を離せなかった。
成功した記録かもしれない。
そう思いたかった。
「結果を見せて」
最初の記録が開いた。
《救難対象――一》
《生命反応――重篤》
《対象固定――失敗》
《収容――失敗》
《最終状態――生命反応途絶》
次の記録へ送る。
《救難対象――五》
《最終状態――全対象生命反応途絶》
さらに送る。
《救難対象――二十八》
《管理者応答――なし》
また送る。
失敗。
信号消失。
生命反応途絶。
管理者応答なし。
表示を進めても、結果は変わらなかった。
同じ記録が、二千八百六十四件残っている。
一件が、一人とは限らない。
五人。
二十八人。
それ以上の反応が記録されたものもあった。
正確な人数は分からない。
分からない方がよかったのかもしれない。
それでも、少なくないことだけは分かった。
「成功した記録は?」
《現存する記録内に、収容成功を確認できません》
「一人も?」
《肯定》
空席を見回す。
外から救難が届けば、ここにいた誰かが応答するはずだった。
対象を見つける者。
経路を作る者。
医療区画へ知らせる者。
助けるために動く者。
けれど、記録が残された頃には、もう誰もいなかった。
設備だけが声を受け取り続けた。
助けを求める反応を見つけ続けた。
返事をする者も、手を伸ばす者もいないまま。
「音声はある?」
《一部記録に音声断片が残存しています》
「最後の記録」
《再生可能な最終音声断片を展開します》
表示壁から文字が消えた。
次に流れるのは、失敗を示す記録ではない。
最後まで、誰にも届かなかった声だった。
小さな雑音が部屋へ流れる。
途切れた呼吸。
遠くで何かが崩れる音。
誰かが泣いているような声。
それから、男か女かも分からない、掠れた声が聞こえた。
『誰か……聞こえてるなら……』
雑音が強くなる。
言葉の途中が欠けた。
『もう……動けない……』
荒い呼吸。
何かを引きずる音。
『でも……』
長い間があった。
私は無意識に、表示壁へ近づいていた。
『まだ、一人……生きてる』
そこで音声が途切れた。
部屋へ静けさが戻る。
「続きは?」
《記録破損》
「その一人は?」
《対象情報を取得できません》
「助かった?」
《収容記録はありません》
分かっていた。
それでも、聞いた。
「返事は?」
《当施設からの応答記録はありません》
「この人には、何も届いてない?」
《応答機能は停止していました》
声の主は、最後まで知らなかった。
ここで設備だけが声を受け取っていたことも。
ずっと後になって、私が聞いたことも。
助けを求めた相手が誰だったのかは分からない。
まだ生きていると言った一人が、どこにいたのかも分からない。
そもそも、どれほど昔の記録なのか。
「記録された時刻は?」
《基準時刻情報――破損》
「今も生きてる可能性は?」
《算出不能》
診工守は、可能性がないとは言わなかった。
けれど、私は理解していた。
灰角兎でさえ、見つけるのが少し遅ければ死んでいた。
重傷を負った誰かが、設備の壊れていた長い時間を生き続けられるとは思えない。
この声には、もう間に合わない。
私は空席の並ぶ部屋を見回した。
「聞こえた」
返事にはならない。
声の主へ届くこともない。
それでも、黙ったままにはできなかった。
「私は聞いたよ」
表示壁は何も返さない。
音声も、もう流れなかった。
---
「直せる?」
診工守へ尋ねる。
《広域緊急救命転送網――大部分損壊》
《完全復旧――不能》
「全部じゃなくていい」
二千八百六十四件を、一度に救うことはできない。
今の医療区画には、一人を寝かせる設備しかない。
診工守も、薬工守も一体ずつ。
私の手も二本しかなかった。
「一人だけでも、つなげられない?」
診工守と管路守が、残っている系統を調べ始める。
表示壁へ、壊れた経路が何本も浮かんだ。
ほとんどは途中で途切れている。
その中に一本だけ、細く光を残している線があった。
《限定再接続――可能性あり》
《現行設備による実行保証――なし》
《復旧には複数系統の再構成が必要です》
「できるかもしれない?」
《肯定》
それで十分だった。
必ず助けられるとは言われていない。
次の声が届く保証もない。
届いたとしても、間に合わないかもしれない。
それでも、何も返せなかった二千八百六十四件とは違う。
次に声が届いた時。
ここには私がいる。
診工守がいる。
薬工守がいる。
誰かを寝かせる場所もある。
できることは少ない。
けれど、何もないわけではなかった。
私は最後の音声が消えた表示壁へ手を置いた。
冷たい。
声の主がいた場所とは、もうつながっていない。
それでも、次はつなぐ。
「次は、聞くだけにしない」




