第十一話 《診工守》
朝食を終えると、私は向かい側の椅子を見た。
洗った布は、昨夜のうちに縫工守が敷き直している。
灰角兎が爪を立てた傷も、椅子の脚へ残ったままだった。
けれど、そこから咀嚼音は聞こえない。
「行ってくる」
《外出先を指定してください》
「《医療管理区画》」
昨夜、管理壁に示された場所だった。
区域図を開く。
生活区画。
調理区画。
洗浄区画。
作業個体管理区画。
そのさらに奥へ、細い通路が延びている。
終点だけが暗く表示されていた。
《医療管理区画》
《接続状態――不明》
《区画内動力――停止》
家の中でも、まだ開いていない区画が安全とは限らない。
白いシャツの裾を短いズボンへ収め、その上から獣皮の上着を着る。脚には革布を巻き、長い黒髪も背中でまとめた。
水と保存肉を《影蔵》へ入れる。
血液量にも問題はない。
何かが出てきても、《血刃》と《血針》は使える。
「縫工守と管路守を連れていく」
《作業要求を送信します》
縫工守は細かな修理。
管路守は配管や設備の接続を担当できる。
医療に何が必要なのかは分からないが、私一人で行くよりはいい。
二体が到着するのを待ち、そろって通路へ入った。
生活区画から離れるほど、照明は少なくなっていく。
通る場所だけに弱い光が灯り、背後から順番に消えていった。
しばらく進むと、通路の終わりへ厚い隔壁が現れた。
《医療管理区画》
《通常入室権限――未保有》
「私、マスターユーザー」
《第七管理領域マスターユーザー権限を確認》
《医療管理権限――未保有》
「中の設備を確認したい」
《通常入室には医療管理者の許可が必要です》
「医療管理者は?」
《応答可能な管理者を確認できません》
以前にも、似たようなやり取りをした。
権限を持つ者は必要なのに、その権限を持つ者は誰も応答しない。
それでも規則だけが残り、壊れた場所を閉じ続けている。
私は隔壁へ手をついた。
「次に誰かを連れてきても、今のままじゃ治せない」
《医療支援機能の大部分が停止しています》
「だから、中を直す」
返答が止まった。
隔壁の中央へ、細い光が走る。
《緊急医療保守条件を照会》
《医療管理者――応答なし》
《管理領域内での継続的居住を確認》
《未登録生体に対する救命処置記録を確認》
《第七管理領域マスターユーザー権限を確認》
しばらくして、表示が切り替わった。
《緊急医療保守権限》
《一時付与》
《医療管理区画への入室を許可します》
隔壁の奥で、重い固定具が外れる音が続いた。
やがて扉が左右へ開く。
流れてきた空気には、乾いた薬品と古い金属の臭いが混じっていた。
私は短い《血刃》を形成する。
「行く」
---
医療管理区画は、生活区画ほど広くなかった。
一本の主通路に、複数の処置室と保管室がつながっている。
壁や床は灰白色で統一され、ほかの区画より継ぎ目が少ない。床の端には排水用の溝があり、天井には閉じた噴出口が並んでいた。
汚れを残さず、洗い流すための造りなのだと思う。
入口に近い部屋へ入る。
中央には、人間一人を寝かせられる細長い台が置かれていた。
周囲には、細い機械腕。
透明な管。
身体を覆う半円形の外装。
見た目だけなら、大きな検査装置に近い。
《鑑定》を使う。
《重症生体安定化設備》
《状態――停止》
《主要機能》
《呼吸補助》
《循環維持》
《体温管理》
《出血抑制》
《一部毒性因子の活動抑制》
「治療できる?」
《機能復旧後、生命状態の一時的安定化が可能です》
「傷は治る?」
《損傷組織の完全修復機能はありません》
寝かせれば、すべて元どおりになる装置ではなかった。
血を止める。
呼吸を支える。
体温を保つ。
悪化するまでの時間を延ばす。
機械だけで、傷が治るわけではない。
異物を取り、傷を閉じ、折れた骨を戻す者が必要になる。
設備へ何を任せ、私が何を覚えなければならないのか。
その境目が、少し見えた。
「これを動かすには?」
《診断支援機能との接続が必要です》
《診断支援個体――応答なし》
「どこにいる?」
通路の奥へ、小さな印が表示された。
《診工守》
《状態――停止》
《損傷率――高》
私たちは表示を頼りに、医療管理区画の奥へ進んだ。
---
診工守は、倒れた保管棚の下にいた。
縫工守よりも小さい。
三本の脚で身体を支える形をしているが、そのうち一本は外れ、少し離れた床へ転がっていた。
胴体からは、細い作業腕が何本も伸びている。
頭部にあたる部分には透明な板が取りつけられていたが、大きく割れて光を失っていた。
《診工守》
《医療診断支援個体》
《状態――停止》
《主要損傷》
《観測部破損》
《支持脚脱落》
《内部伝達経路断裂》
《記録領域部分損傷》
「重い?」
管路守と一緒に棚を持ち上げる。
今の身体の力があっても、横倒しになった棚はかなり重かった。
縫工守が隙間へ入り、診工守を引き出す。
私は棚を壁へ立てかけ、倒れないよう《血糸》で仮固定した。
「直せる?」
《交換部品の確認が必要です》
近くの保守棚には、透明な観測板と接続用の部品が残っていた。
使える観測板は一枚。
支持脚へ転用できる部品も、一つだけだった。
断裂した内部の線は、残っている部分をつなぎ直すしかない。
詳しい作業は、縫工守と管路守へ任せた。
縫工守が割れた観測板を外す。
管路守が断裂箇所を調べる。
私は狭い内部へ《血糸》を通し、奥に残っていた破片を引き出した。
交換部品を入れる時も、血糸で位置を支える。
灰角兎の傷を縫った時とは違う。
痛みを気にする必要はない。
けれど、別の線へ触れれば、残っている機能まで壊すかもしれなかった。
《右へ二指幅》
管路守が示した方向へ、《血糸》を僅かに動かす。
《位置――適正》
「固定して」
縫工守が接続部を留め、外装を閉じた。
外れていた脚も取りつける。
完全な修理ではない。
使える部品を集め、切れた場所をつないだだけだった。
それでも、最後の接続が終わると、診工守の内部から小さな音が聞こえた。
私は手を止める。
透明な観測板の奥へ、淡い光が生まれた。
最初は点だった。
やがて細い線へ変わり、板の表面全体へ広がっていく。
三本の脚が床へつく。
外へ伸びたままだった作業腕が、ゆっくりと胴体へ収まった。
診工守は一度だけ大きく揺れたが、倒れなかった。
《診工守》
《暫定復旧》
《診断精度――低下》
《記録領域――一部欠損》
《作業命令待機》
私は診工守の前へしゃがむ。
「起きた?」
観測板の光が、私へ向いた。
《マスターユーザーを確認》
「治療する場所を直したい」
《医療設備への接続を要求します》
「来て」
診工守は身体の向きを変え、三本の脚で歩き始めた。
新しくつけた脚だけが、僅かに遅れて動いている。
私はその後ろを歩いた。
---
診工守を安定化設備へ接続すると、停止していた機械腕へ順番に光が戻った。
管路守が内部の管を洗浄し、縫工守が破れていた固定帯を交換する。
診工守の観測板から細い光が伸び、寝台と周囲の設備を何度も往復した。
しばらくして、状態表示が変わる。
《生命反応測定――稼働》
《外傷観測――稼働》
《内部構造観測――限定稼働》
《呼吸補助――限定稼働》
《循環維持――限定稼働》
《体温管理――稼働》
《薬剤管理――停止》
《循環維持補液供給――停止》
すべてが直ったわけではない。
それでも、傷を外から見ることしかできなかった昨日までとは違う。
診工守が、処置室の奥へ観測板を向けた。
《薬剤支援個体との接続を推奨》
「薬を作る子もいるの?」
《薬工守》
《医療用薬剤調整および衛生管理支援個体》
《状態――休眠》
《起動可能》
診工守に案内され、隣の保管室へ入る。
壁際に、縫工守より一回り大きな作業個体が収められていた。
丸い胴体の左右には、容器を保持するための腕が折り畳まれている。背中からは細い管が伸び、透明な容器の中には乾いた粉末や濁った液体が残っていた。
《薬工守》
《状態――休眠》
《保管薬材――大部分劣化》
《洗浄・滅菌機能――使用可能》
《簡易薬剤調整――限定使用可能》
「起こす」
《起動には診断支援個体による管理が必要です》
診工守の観測板が明滅した。
《管理接続を実行します》
薬工守の背中へつながる管に、淡い光が走る。
丸い胴体の奥から低い音が聞こえ、折り畳まれていた腕がゆっくりと開いた。
《薬工守》
《低出力起動》
《薬剤管理命令待機》
透明な容器の一つへ、管路守が洗浄した水が流れ込む。
薬工守は水の状態を確認し、別の容器へ移した。
《清浄水――使用可能》
《洗浄液調整――可能》
《汚染中和薬――材料不足》
《生命維持補液――材料不足》
薬なら何でも作れるわけではない。
使える材料も、設備も足りていなかった。
それでも、傷を洗う水を整え、器具を清潔にし、残っている薬材が安全か判断できる。
「常に起こしておける?」
《現行動力では非推奨》
《医療対象の受入時に優先起動します》
「必要な時に起こす」
《運用条件を登録しました》
薬工守は診工守の管理下で、低消費待機へ移った。
淡い光だけを残し、作業腕が再び胴体の近くへ畳まれる。
「次は、診断」
《診断対象を指定してください》
周囲には、私以外の生き物はいない。
私は自分を指差した。
「私」
《診断台へ横になってください》
短い《血刃》を消す。
獣皮の上着と脚の革布を外し、白いシャツと短いズボンのまま寝台へ横になった。
まとめていた黒髪を解くと、冷たい台の上へ広がる。
背中へ触れる表面は冷たかったが、すぐに人肌に近い温度へ変わった。
半円形の観測部が、身体の上へ移動する。
「苦しくしないで」
《呼吸を妨げる処置は予定されていません》
「ならいい」
淡い光が、足先から頭まで進んでいく。
光が肌へ触れても痛みはない。
少しくすぐったい程度だった。
視界へ、自分の身体を横から見た輪郭が表示される。
骨。
内臓。
血管。
赤い線が、身体の隅々まで広がっていた。
《対象情報を取得》
《既存種族情報との照合――失敗》
《既存生体構造との完全一致――なし》
《標準医療基準――一部適用不能》
「また分からない」
以前の《鑑定》と同じだった。
吸血鬼に近い特徴はある。
けれど、施設は私を既知の何かとして判断できない。
診工守の観測板が、何度か明滅した。
《基準情報が不足しています》
《過去処置記録を検索》
「私の?」
《対象に関連する記録を検索しています》
医療管理区画の簡易図が表示される。
その中に、該当する記録はなかった。
検索範囲が少しずつ広がる。
生活区画。
帰還前室。
そして、最初に目覚めた部屋の位置で光が止まった。
《関連設備を検出》
《第七管理領域・主生体修復槽》
私は身体を起こしかけた。
「どこ?」
表示されているのは、石棺の部屋だった。
もっと正確には、私が石棺だと思い、寝床にしていた細長い設備だった。
「石棺?」
《形状による呼称は登録されていません》
《正式識別――第七管理領域・主生体修復槽》
しばらく表示を見つめる。
墓ではなかった。
棺でもない。
最初から、生き物を中へ入れて治すための設備だった。
「私、そこで起きた」
《関連記録を確認》
《最終処置対象――現マスターユーザー》
《緊急再生処置――実行記録あり》
《詳細処置記録――破損》
《修復槽固有基準との適合――極めて高い》
「どうして?」
《回答可能な記録がありません》
「私用だった?」
《用途を特定できません》
「前にも入ってた?」
《処置開始以前の記録が破損しています》
答えは得られなかった。
それでも、あの場所が私を一度治したことだけは確からしい。
目を覚ました時、身体に目立つ傷はなかった。
記憶もなく、種族さえ分からない状態だったが、生きて外へ出ることはできた。
石棺だと思っていたものが、私を助けた最初の医療設備だった。
「今も使える?」
《主生体修復槽》
《状態――限定稼働》
《生体安定化――一部可能》
《組織再生機能――大幅制限》
《高位再生資材――枯渇》
《最終緊急再生処置により、大部分を消費》
《同資材――現在補充不能》
《内部供給機能――大部分停止》
過去には、今より多くの機能が動いていた。
私へ行われた緊急再生処置によって、必要な資材の大半が使われたらしい。
だから、同じ処置をもう一度行うことはできない。
死にかけた身体を完全に元へ戻せる装置が、家に残っているわけではなかった。
それでも、灰森主に傷つけられた時も、あそこまで帰り着けば助かる可能性はあった。
知らずに使っていた家の一部が、少しだけ別の形に見えた。
「こことつなげられる?」
《主生体修復槽の残存記録を、医療診断基準として参照できます》
「壊さない?」
《読み取り接続のみを実行します》
「やって」
《接続を開始します》
診工守の観測板へ、複数の細い線が浮かんだ。
医療管理区画から生活区画を通り、帰還前室にある《主生体修復槽》へ光が延びていく。
遠くで、小さく設備の動く音がした。
診断表示が一度消える。
しばらくして、別の情報が開いた。
《個体基準情報――一部取得》
《現対象との照合》
《生命状態――安定》
《血液欠乏――軽微》
《過去損傷部位――修復済み》
《未知生体因子――解析不能》
「最後のは?」
《現行設備では解析できません》
「危ない?」
《現時点で生命活動への悪影響は確認できません》
分からないものは残った。
けれど、今すぐ死ぬような何かではないらしい。
私は息を吐き、台へ身体を戻した。
「次に患者を連れてきたら、助けられる?」
《症状によります》
「何ができる?」
《生命状態の診断》
《生命維持支援》
《薬剤および衛生支援》
「治療は?」
《異物除去、縫合および骨位置の修正には、外部処置者が必要です》
「それは私がやる?」
《肯定》
診工守がいれば、身体の中を調べられる。
薬工守がいれば、傷と器具を清潔にし、使える薬を選べる。
安定化設備があれば、悪化するまでの時間を延ばせる。
けれど、傷へ手を入れる者は別に必要だった。
機械だけでも足りない。
私だけでも足りない。
「一緒なら、少しはできる」
《肯定》
私は診断台から降り、外した装備を身につけた。
次に誰かが来るかは分からない。
傷ついた魔物かもしれない。
人間かもしれない。
私と同じように、正体の分からない身体を持つものかもしれない。
それでも今度は、傷口を見て悩むだけではない。
中の状態を調べ、死ぬまでの時間を延ばし、その間に必要な処置を選べる。
灰角兎を助けた時より、できることは増えた。
「ここは、治す場所」
診工守の観測板が、僅かに明るくなった。
《医療管理区画の限定運用を開始します》
部屋の照明が、一つずつ点灯する。
すべてではない。
処置台の周囲。
洗浄設備。
薬工守の待機区画。
出入口までの通路。
次の患者を運び込むために必要な場所だけが、淡い白色の光に照らされた。
家の中に、誰かを治すための場所ができた。
---
診工守が、限定運用を始めた医療系統を確認していく。
観測板へ複数の表示が流れた。
その途中で、一瞬だけ光が乱れる。
《外部医療情報――接続異常》
続いて、見慣れない項目が浮かんだ。
《外部緊急救命系統――応答なし》
「外部?」
診工守の観測板が、何度か明滅する。
《接続先情報――取得不能》
《詳細確認には関連管理系統の復旧が必要です》
「何をするためのもの?」
《回答可能な情報が不足しています》
表示は、それ以上続かなかった。
乱れていた光が消え、診工守の観測板は通常の明るさへ戻る。
医療管理区画には、設備の低い動作音だけが残った。
誰かを治す場所はできた。
けれど、その場所は家の中だけで終わっていないらしい。
私は文字の消えた壁を、しばらく見つめていた。




