表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第二部《家を作ってみる》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/99

第十話 《また、ひとり》

目を覚ますと、食卓の向こうから小さな音が聞こえた。


布を噛む音だった。


私は寝具の上で身体を起こす。


眠っている間に白いシャツの裾が太腿まで捲れ、長い黒髪も顔から胸元へ乱れていた。裾を引き下ろし、髪を背中へ払ってから食卓を見る。


灰角兎が、椅子へ敷いた布の端を齧っていた。


昨日よりも身体を起こせている。


左の後ろ脚には板を添えたままだが、前脚と右脚だけで姿勢を保っていた。


「それ、食べ物じゃない」


私の声に気づくと、灰角兎は布から口を離した。


黒い目がこちらを向く。


牙は見せなかった。


ただし、近づこうとすると長い耳を伏せ、身体を低くする。


「まだ嫌い?」


返事はない。


私は食卓に置いてあった白い根を一本取り、《血刃》で細く切った。


昨夜より少しだけ大きくする。


椅子の端へ置くと、灰角兎はすぐには食べなかった。


私の手を見る。


白い根を見る。


もう一度、私を見る。


それから、ようやく根へ口をつけた。


乾いた音を立てて齧り始める。


「食欲はある」


《一時保護対象の摂食を確認》


「見れば分かる」


管理壁の表示を消し、自分の朝食を作る。


鍋へ水を入れる。


保存肉。


白い根。


香りの強い葉を一枚。


鉱塩を少し。


加熱盤へ載せると、火を使わずに鍋の底が温まり始めた。


火床には昨夜の火も残っている。


灰角兎の身体が冷えないよう燃やし続けたため、薪の減りは以前より早くなっていた。


今日も森へ行く必要がある。


血。


肉。


根。


薪。


自分以外の生き物が一つ増えただけで、必要なものまで少しずつ増えていた。


「君の分も取ってこないと」


灰角兎は根を齧り続けている。


私が汁を飲む間にも、何度か警戒するようにこちらを見た。


食卓を挟み、二つの咀嚼音が重なる。


一緒に食事をしているとは言えない。


私の鍋へ入っている肉が何の肉なのかも、考えないことにした。


それでも、向かい側から音がする朝は初めてだった。



---


灰角兎の傷が落ち着くまで、私の生活は少し変わった。


朝になると、まず椅子を覗く。


呼吸が続いていることを確かめ、包帯へ血や濁った液体が染みていないかを見る。


水を含ませた布を口元へ置き、食べられそうな根や柔らかい葉を切る。


それから自分の朝食を作った。


傷の処置は一日に一度。


包帯を外すたび、灰角兎は牙を見せた。


実際に噛まれたこともある。


小さな牙が指へ食い込み、白い皮膚に赤い穴が二つ開いた。


「あっ、痛い」


灰角兎は悪びれない。


傷を治すために押さえられていることなど、理解するはずもなかった。


指の傷はすぐに塞がる。


私は厚い布で灰角兎の頭を覆い、脇腹の傷を温水で洗った。


縫った部分に大きな腫れはない。


嫌な臭いもなかった。


赤みは残っているが、開いていた皮膚の端は少しずつつながっている。


折れた脚の固定も毎日確かめた。


布が緩めば巻き直し、皮膚へ食い込んでいれば位置を変える。


何が正しいのかは分からない。


それでも、乱れていた鼓動は日を追うごとに安定していった。


数日が過ぎる頃には、灰角兎は自分で身体を起こし、椅子の上を前脚で動き回るようになっていた。


ある朝、食事を作っている最中に大きな音がした。


振り返る。


灰角兎が椅子から降りようとして、床へ転がっていた。


「何してるの」


抱き上げようとすると、牙を向ける。


「落ちたのはそっち」


厚い布を使って持ち上げ、椅子へ戻す。


しかし、その日の夕方にも同じことをした。


椅子の縁へ前脚をかけ、床を見下ろしている。


「歩きたい?」


灰角兎は、何度も布を引っかいた。


私は椅子の周囲へ布と獣皮を敷いた。


転んでも硬い床へ身体を打たないようにする。


その中央へ灰角兎を下ろした。


しばらく動かない。


黒い目で周囲を見る。


前脚を一歩出す。


右の後ろ脚も続く。


固定された左脚は床へつけられない。


三本の脚で進もうとして、身体が大きく傾いた。


私は手を伸ばしかけ、止める。


灰角兎は自分で姿勢を戻した。


もう一歩。


また一歩。


布の端まで進み、そこで身体を伏せる。


「無理しないで」


声へ反応し、顔だけをこちらへ向ける。


以前のように牙は見せなかった。



---


それから、灰角兎は椅子の上だけで過ごさなくなった。


火床の近く。


食卓の下。


寝具の端。


私が布を敷いた範囲を、三本の脚で少しずつ移動する。


勝手に遠くへ行かないよう、ホームの扉は閉じておいた。


灰角兎が管路守へ牙を向けたこともある。


点検から戻った管路守が近づくと、身体を膨らませるように毛を逆立てた。


「その子は食べないよ」


《攻撃行動を確認》


「怖いだけ」


管路守へ、灰角兎から距離を取るよう指示する。


掃工守には、灰角兎がいる範囲を清掃経路から外させた。


縫工守は、噛まれて穴の開いた布を何度も直した。


最初の患者を連れ帰ったことで、家の使い方まで変わっていく。


火を強くしすぎない。


床へ鋭いものを置かない。


作業個体を急に近づけない。


灰角兎が噛みそうな素材は、高い棚へ移す。


自分だけなら気にしなかったことばかりだった。


「子供みたい」


灰角兎は火床の近くで白い根を齧っている。


実際の年齢は分からない。


私より長く生きている可能性さえある。


それでも、放っておけば何を噛むか分からない姿は、幼い生き物に見えた。


名前をつけようと考えたこともある。


額に角があるから、灰角。


短くするなら、角。


あまりにもそのままだった。


結局、名前はつけなかった。


この子は私のものではない。


傷が治れば、森へ帰る。


名前をつければ、そのことを忘れそうだった。



---


さらに日が過ぎ、脇腹の傷が完全に閉じた頃、縫合に使った《血糸》を外した。


縫い目はきれいではない。


毛を短く切った部分には、細い傷跡が残っていた。


それでも、身体を動かしても血は出ない。


血糸を一本ずつ切る。


灰角兎は嫌がったが、最初の処置ほど激しく暴れなかった。


最後の糸を抜き終えると、傷口を温水で洗い、薄い布だけを当てた。


「こっちは終わり」


残るのは脚だった。


《鑑定》を使う。


《左後肢骨折》


《骨癒合――進行中》


《位置ずれ――軽微》


《固定継続を推奨》


「もう少し」


灰角兎は固定具へ何度も歯を立てていた。


外そうとしているらしい。


「まだ駄目」


注意してもやめない。


縫工守に頼み、噛まれた部分だけを丈夫な皮で覆わせた。


灰角兎は不満そうに床へ伏せる。


私は隣へ座り、背中の毛を眺めた。


灰色に見えるが、火の光が当たると僅かに銀色が混じる。


触ってみたいと思った。


手を伸ばす。


灰角兎の身体が少し硬くなったため、途中で止めた。


「嫌ならいい」


手を引く。


しばらくすると、灰角兎は顔を伏せた。


眠り始める。


私を信用したわけではない。


逃げられないから、ここにいるだけかもしれない。


それでも、最初の夜のように、呼吸が止まらないか見張り続ける必要はなくなっていた。



---


骨の位置が安定するまで待ち、ようやく脚の固定を外した。


板と布を解く間、灰角兎は何度も身体を動かした。


長く固定されていた左脚は、右より少し細く見える。


床へ下ろす。


灰角兎は、すぐには歩かなかった。


左脚を浮かせたまま、三本の脚で立っている。


やがて、恐る恐る先端を床へつけた。


僅かに体重をかける。


すぐに持ち上げる。


もう一度。


今度は、そのまま一歩進んだ。


身体が少し傾く。


それでも転ばない。


二歩目。


三歩目。


食卓の下まで進み、向きを変えた。


「歩ける」


灰角兎は、以前より速く布の上を移動した。


まだ完全ではない。


左脚を庇い、少し身体を揺らしている。


それでも、自分で好きな場所へ行ける。


胸の奥が軽くなる。


同時に、別のことにも気づいた。


灰角兎は、閉じた扉の前で止まっていた。


扉の向こうには、石棺の部屋と灰の森へ続く通路がある。


鼻先を床へ近づけ、何度も匂いを嗅いでいる。


「外?」


灰角兎は扉から離れなかった。


その日だけではない。


次の日も。


食事を終えると扉の前へ移動し、床を前脚で引っかいた。


閉じた隙間へ鼻先を寄せる。


「帰りたい?」


言葉は通じない。


それでも、答えは分かった。


傷が治れば、森へ帰す。


最初からそう決めていた。


家へ連れてきたのは、飼うためではない。


帰れるところまで生かすためだった。


「もう少しだけ」


歩ける。


食べられる。


傷も閉じた。


けれど、森の中で走り、捕食者から逃げられるかは分からない。


私は翌日から、少し広い通路で歩かせることにした。


両側の扉を閉じ、危険な部品を掃工守に片づけさせる。


通路の端へ白い根を置く。


灰角兎は匂いに気づき、ゆっくり歩いた。


最初は途中で休んだ。


何度か繰り返すうち、最後までたどり着くようになった。


やがて、私が根を置く前から通路の奥へ走ろうとした。


左脚には僅かな不自然さが残っている。


それでも、最初に見つけた時とは比べものにならなかった。


「明日、帰ろう」


灰角兎は白い根を齧っている。


私の言葉へ顔を上げることはなかった。



---


最後の夜も、いつもと同じように食事を作った。


私の鍋には、肉と根のスープ。


灰角兎の器には、細く切った白い根と柔らかな葉。


食卓を挟んで食べる。


向かい側の椅子は、灰角兎の寝床になっていた。


布は何度も噛まれ、縫工守が直した跡が残っている。


椅子の脚には、灰角兎が爪を立てた細い傷もあった。


私は掃工守へ椅子を示す。


「これ、捨てないで」


《椅子および布材を保護対象として登録します》


「布は洗って。でも、捨てないで」


《洗浄後、保管します》


灰角兎は何も知らず、根を食べていた。


その夜は火を絶やさなかった。


寒いからではない。


傷が悪化する心配も、もうほとんどない。


ただ、最後の夜くらいは、温かい方がいいと思った。


寝具へ横になったあとも、しばらく食卓の方を見ていた。


灰角兎は椅子の上で身体を丸めている。


以前なら存在しなかった、小さな膨らみ。


小さな呼吸。


家へ増えた音。


「おやすみ」


返事はない。


それでも、口にしてから目を閉じた。



---


翌朝、森へ入る服へ着替えた。


獣皮の上着と短いズボンを身につけ、長い黒髪を背中へまとめる。


《影蔵》には水と布だけを入れた。


灰角兎を運ぶための籠も用意したが、床へ置いても自分から入ろうとはしなかった。


「嫌?」


牙を見せる。


「元気だね」


結局、厚い布で身体を包み、抱き上げた。


最初に連れ帰った時より重く感じる。


身体そのものが大きくなったわけではない。


力が戻り、腕の中で姿勢を保っているからだった。


帰還隔壁へ向かう。


縫工守。


管路守。


掃工守。


保守待機中の炉工守。


作業個体たちは、それぞれの場所で動いている。


「行ってくる」


《一時保護対象の区域外搬出を確認》


《登録を解除しますか》


少し迷う。


「森へ着いてから」


《保留します》


隔壁を抜け、灰の森へ向かった。


灰角兎は布の隙間から、何度も顔を出そうとした。


森の匂いが近づくにつれ、身体の動きも大きくなる。


「暴れないで」


腕から落とすわけにはいかない。


最初に見つけた場所へ戻す必要はないと思った。


灰角兎が暮らしていた場所も、群れがいるのかも分からない。


それでも、施設の入口に近すぎれば、また扉の前へ戻ってくるかもしれない。


灰の森へ入り、小さな生命反応が多い場所まで歩く。


白い根が生えている。


低い茂みもある。


近くに大型の反応はない。


私は布を地面へ下ろした。


灰角兎は、すぐには出てこなかった。


黒い目だけが、布の隙間から周囲を見ている。


「大丈夫」


根拠はない。


森が安全ではないことは、私が一番よく知っている。


それでも、ここが灰角兎の生きる場所だった。


布を少し開く。


灰角兎が前脚を出す。


右の後ろ脚。


最後に、治った左脚を灰の上へつけた。


立ち上がる。


周囲の匂いを嗅ぐ。


一歩進む。


もう一歩。


家の中を歩いていた時より、動きが軽い。


灰の柔らかさが、脚への負担を減らしているのかもしれない。


「帰って」


灰角兎がこちらを見る。


短い二本の角。


黒い目。


脇腹には、毛の薄い傷跡が残っている。


名前はつけなかった。


私のものではない。


帰る場所があるのなら、そこへ帰るために助けた。


灰角兎は身体の向きを変えた。


茂みへ向かって歩き始める。


最初は慎重に。


やがて少し速くなる。


左脚を僅かに庇っているが、転ぶことはない。


灰色の葉の手前で、一度だけ止まった。


顔だけをこちらへ向ける。


私は何も言わなかった。


灰角兎も鳴かなかった。


すぐに前を向き、茂みの奥へ消えていった。


《血液感知》には、小さな反応が残っている。


少しずつ遠ざかる。


ほかの反応と重なり、やがて区別がつかなくなった。


私はしばらく、その場に立っていた。


「行った」


《一時保護対象の区域外離脱を確認》


《登録を解除しますか》


「解除する」


《一時保護登録を解除しました》


表示が消える。


腕には、灰角兎を抱いていた温かさが少しだけ残っていた。


私は空になった布を拾い、家へ戻った。



---


帰還隔壁を抜けても、迎えに来る足音はない。


灰角兎は最初から、私を迎えに来たことなどなかった。


それでも、家の中が以前より静かに感じた。


食卓へ向かう。


向かい側の椅子には、何もいない。


灰角兎が使っていた布は、森へ持っていったためなくなっている。


椅子の脚へ残った爪痕だけが、そこにいたことを示していた。


私は鍋へ水を入れた。


保存肉。


白い根。


香りの強い葉。


鉱塩。


いつものように二つの器を取り出しかけ、手を止める。


必要なのは、一つだけだった。


小さな器を棚へ戻す。


食事を作り、自分の椅子へ座った。


向かい側は空いている。


「また、ひとり」


《現在、居住区域内に登録外生体は存在しません》


「知ってる」


汁を飲む。


昨日までと同じ味のはずだった。


それでも、食卓で鳴っているのが自分の匙の音だけだと、少し違って感じた。


灰角兎を帰したことは間違いではない。


この家へ閉じ込めておく方が、きっと間違っている。


食べずに治した。


歩けるところまで生かした。


森へ帰した。


それでよかった。


「よかったよね」


管理壁は答えなかった。


答えられる質問ではなかった。


食事を終え、鍋と器を洗う。


灰角兎が使っていた椅子も、掃工守に拭かせた。


ただし、脚の爪痕は残すよう伝える。


《損傷痕を保護対象として登録します》


「それは消さないで」


《登録済みです》


掃工守は、椅子の座面だけを清掃した。


縫工守は、森から持ち帰った布を洗っている。


乾いたら、また椅子へ敷くつもりだった。


誰が使うのかは分からない。


それでも、片づける気にはならなかった。



---


夜、寝具へ入ってからも、すぐには眠れなかった。


灰角兎の傷は、本当に治っていたのか。


骨は正しい位置でつながったのか。


森へ帰すのが早すぎなかったか。


もっと長く保護した方がよかったのではないか。


考えても、答えは出ない。


今回は生きた。


けれど、私の処置が正しかったから生きたとは限らない。


傷が内臓まで達していなかった。


太い血管も切れていなかった。


灰角兎自身にも、生きる力が残っていた。


ただ運がよかっただけかもしれない。


次に連れ帰るものが、もっと深い傷を負っていたら。


毒を受けていたら。


呼吸が止まりかけていたら。


今の私には、何もできない。


私は寝具から起き上がり、管理壁へ近づいた。


「治すための設備はある?」


《質問範囲を検索》


少し待つ。


《第七管理領域》


《医療支援機能――大部分停止》


《診断補助機能――停止》


《医療用作業個体――休眠》


表示を見上げる。


「直せる?」


《設備状態の確認が必要です》


「どこ?」


区域図の一部へ、細い光が灯った。


生活区画より奥。


まだ確認していない通路の先だった。


《医療管理区画》


《接続状態――不明》


家は、また私一人になった。


けれど、灰角兎が来る前と、まったく同じ家ではない。


誰かを助けるには、今のままでは足りなかった。


私は区域図に浮かぶ光を見た。


「明日、あそこへ行く」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ