第十話 《また、ひとり》
目を覚ますと、食卓の向こうから小さな音が聞こえた。
布を噛む音だった。
私は寝具の上で身体を起こす。
眠っている間に白いシャツの裾が太腿まで捲れ、長い黒髪も顔から胸元へ乱れていた。裾を引き下ろし、髪を背中へ払ってから食卓を見る。
灰角兎が、椅子へ敷いた布の端を齧っていた。
昨日よりも身体を起こせている。
左の後ろ脚には板を添えたままだが、前脚と右脚だけで姿勢を保っていた。
「それ、食べ物じゃない」
私の声に気づくと、灰角兎は布から口を離した。
黒い目がこちらを向く。
牙は見せなかった。
ただし、近づこうとすると長い耳を伏せ、身体を低くする。
「まだ嫌い?」
返事はない。
私は食卓に置いてあった白い根を一本取り、《血刃》で細く切った。
昨夜より少しだけ大きくする。
椅子の端へ置くと、灰角兎はすぐには食べなかった。
私の手を見る。
白い根を見る。
もう一度、私を見る。
それから、ようやく根へ口をつけた。
乾いた音を立てて齧り始める。
「食欲はある」
《一時保護対象の摂食を確認》
「見れば分かる」
管理壁の表示を消し、自分の朝食を作る。
鍋へ水を入れる。
保存肉。
白い根。
香りの強い葉を一枚。
鉱塩を少し。
加熱盤へ載せると、火を使わずに鍋の底が温まり始めた。
火床には昨夜の火も残っている。
灰角兎の身体が冷えないよう燃やし続けたため、薪の減りは以前より早くなっていた。
今日も森へ行く必要がある。
血。
肉。
根。
薪。
自分以外の生き物が一つ増えただけで、必要なものまで少しずつ増えていた。
「君の分も取ってこないと」
灰角兎は根を齧り続けている。
私が汁を飲む間にも、何度か警戒するようにこちらを見た。
食卓を挟み、二つの咀嚼音が重なる。
一緒に食事をしているとは言えない。
私の鍋へ入っている肉が何の肉なのかも、考えないことにした。
それでも、向かい側から音がする朝は初めてだった。
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灰角兎の傷が落ち着くまで、私の生活は少し変わった。
朝になると、まず椅子を覗く。
呼吸が続いていることを確かめ、包帯へ血や濁った液体が染みていないかを見る。
水を含ませた布を口元へ置き、食べられそうな根や柔らかい葉を切る。
それから自分の朝食を作った。
傷の処置は一日に一度。
包帯を外すたび、灰角兎は牙を見せた。
実際に噛まれたこともある。
小さな牙が指へ食い込み、白い皮膚に赤い穴が二つ開いた。
「あっ、痛い」
灰角兎は悪びれない。
傷を治すために押さえられていることなど、理解するはずもなかった。
指の傷はすぐに塞がる。
私は厚い布で灰角兎の頭を覆い、脇腹の傷を温水で洗った。
縫った部分に大きな腫れはない。
嫌な臭いもなかった。
赤みは残っているが、開いていた皮膚の端は少しずつつながっている。
折れた脚の固定も毎日確かめた。
布が緩めば巻き直し、皮膚へ食い込んでいれば位置を変える。
何が正しいのかは分からない。
それでも、乱れていた鼓動は日を追うごとに安定していった。
数日が過ぎる頃には、灰角兎は自分で身体を起こし、椅子の上を前脚で動き回るようになっていた。
ある朝、食事を作っている最中に大きな音がした。
振り返る。
灰角兎が椅子から降りようとして、床へ転がっていた。
「何してるの」
抱き上げようとすると、牙を向ける。
「落ちたのはそっち」
厚い布を使って持ち上げ、椅子へ戻す。
しかし、その日の夕方にも同じことをした。
椅子の縁へ前脚をかけ、床を見下ろしている。
「歩きたい?」
灰角兎は、何度も布を引っかいた。
私は椅子の周囲へ布と獣皮を敷いた。
転んでも硬い床へ身体を打たないようにする。
その中央へ灰角兎を下ろした。
しばらく動かない。
黒い目で周囲を見る。
前脚を一歩出す。
右の後ろ脚も続く。
固定された左脚は床へつけられない。
三本の脚で進もうとして、身体が大きく傾いた。
私は手を伸ばしかけ、止める。
灰角兎は自分で姿勢を戻した。
もう一歩。
また一歩。
布の端まで進み、そこで身体を伏せる。
「無理しないで」
声へ反応し、顔だけをこちらへ向ける。
以前のように牙は見せなかった。
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それから、灰角兎は椅子の上だけで過ごさなくなった。
火床の近く。
食卓の下。
寝具の端。
私が布を敷いた範囲を、三本の脚で少しずつ移動する。
勝手に遠くへ行かないよう、ホームの扉は閉じておいた。
灰角兎が管路守へ牙を向けたこともある。
点検から戻った管路守が近づくと、身体を膨らませるように毛を逆立てた。
「その子は食べないよ」
《攻撃行動を確認》
「怖いだけ」
管路守へ、灰角兎から距離を取るよう指示する。
掃工守には、灰角兎がいる範囲を清掃経路から外させた。
縫工守は、噛まれて穴の開いた布を何度も直した。
最初の患者を連れ帰ったことで、家の使い方まで変わっていく。
火を強くしすぎない。
床へ鋭いものを置かない。
作業個体を急に近づけない。
灰角兎が噛みそうな素材は、高い棚へ移す。
自分だけなら気にしなかったことばかりだった。
「子供みたい」
灰角兎は火床の近くで白い根を齧っている。
実際の年齢は分からない。
私より長く生きている可能性さえある。
それでも、放っておけば何を噛むか分からない姿は、幼い生き物に見えた。
名前をつけようと考えたこともある。
額に角があるから、灰角。
短くするなら、角。
あまりにもそのままだった。
結局、名前はつけなかった。
この子は私のものではない。
傷が治れば、森へ帰る。
名前をつければ、そのことを忘れそうだった。
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さらに日が過ぎ、脇腹の傷が完全に閉じた頃、縫合に使った《血糸》を外した。
縫い目はきれいではない。
毛を短く切った部分には、細い傷跡が残っていた。
それでも、身体を動かしても血は出ない。
血糸を一本ずつ切る。
灰角兎は嫌がったが、最初の処置ほど激しく暴れなかった。
最後の糸を抜き終えると、傷口を温水で洗い、薄い布だけを当てた。
「こっちは終わり」
残るのは脚だった。
《鑑定》を使う。
《左後肢骨折》
《骨癒合――進行中》
《位置ずれ――軽微》
《固定継続を推奨》
「もう少し」
灰角兎は固定具へ何度も歯を立てていた。
外そうとしているらしい。
「まだ駄目」
注意してもやめない。
縫工守に頼み、噛まれた部分だけを丈夫な皮で覆わせた。
灰角兎は不満そうに床へ伏せる。
私は隣へ座り、背中の毛を眺めた。
灰色に見えるが、火の光が当たると僅かに銀色が混じる。
触ってみたいと思った。
手を伸ばす。
灰角兎の身体が少し硬くなったため、途中で止めた。
「嫌ならいい」
手を引く。
しばらくすると、灰角兎は顔を伏せた。
眠り始める。
私を信用したわけではない。
逃げられないから、ここにいるだけかもしれない。
それでも、最初の夜のように、呼吸が止まらないか見張り続ける必要はなくなっていた。
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骨の位置が安定するまで待ち、ようやく脚の固定を外した。
板と布を解く間、灰角兎は何度も身体を動かした。
長く固定されていた左脚は、右より少し細く見える。
床へ下ろす。
灰角兎は、すぐには歩かなかった。
左脚を浮かせたまま、三本の脚で立っている。
やがて、恐る恐る先端を床へつけた。
僅かに体重をかける。
すぐに持ち上げる。
もう一度。
今度は、そのまま一歩進んだ。
身体が少し傾く。
それでも転ばない。
二歩目。
三歩目。
食卓の下まで進み、向きを変えた。
「歩ける」
灰角兎は、以前より速く布の上を移動した。
まだ完全ではない。
左脚を庇い、少し身体を揺らしている。
それでも、自分で好きな場所へ行ける。
胸の奥が軽くなる。
同時に、別のことにも気づいた。
灰角兎は、閉じた扉の前で止まっていた。
扉の向こうには、石棺の部屋と灰の森へ続く通路がある。
鼻先を床へ近づけ、何度も匂いを嗅いでいる。
「外?」
灰角兎は扉から離れなかった。
その日だけではない。
次の日も。
食事を終えると扉の前へ移動し、床を前脚で引っかいた。
閉じた隙間へ鼻先を寄せる。
「帰りたい?」
言葉は通じない。
それでも、答えは分かった。
傷が治れば、森へ帰す。
最初からそう決めていた。
家へ連れてきたのは、飼うためではない。
帰れるところまで生かすためだった。
「もう少しだけ」
歩ける。
食べられる。
傷も閉じた。
けれど、森の中で走り、捕食者から逃げられるかは分からない。
私は翌日から、少し広い通路で歩かせることにした。
両側の扉を閉じ、危険な部品を掃工守に片づけさせる。
通路の端へ白い根を置く。
灰角兎は匂いに気づき、ゆっくり歩いた。
最初は途中で休んだ。
何度か繰り返すうち、最後までたどり着くようになった。
やがて、私が根を置く前から通路の奥へ走ろうとした。
左脚には僅かな不自然さが残っている。
それでも、最初に見つけた時とは比べものにならなかった。
「明日、帰ろう」
灰角兎は白い根を齧っている。
私の言葉へ顔を上げることはなかった。
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最後の夜も、いつもと同じように食事を作った。
私の鍋には、肉と根のスープ。
灰角兎の器には、細く切った白い根と柔らかな葉。
食卓を挟んで食べる。
向かい側の椅子は、灰角兎の寝床になっていた。
布は何度も噛まれ、縫工守が直した跡が残っている。
椅子の脚には、灰角兎が爪を立てた細い傷もあった。
私は掃工守へ椅子を示す。
「これ、捨てないで」
《椅子および布材を保護対象として登録します》
「布は洗って。でも、捨てないで」
《洗浄後、保管します》
灰角兎は何も知らず、根を食べていた。
その夜は火を絶やさなかった。
寒いからではない。
傷が悪化する心配も、もうほとんどない。
ただ、最後の夜くらいは、温かい方がいいと思った。
寝具へ横になったあとも、しばらく食卓の方を見ていた。
灰角兎は椅子の上で身体を丸めている。
以前なら存在しなかった、小さな膨らみ。
小さな呼吸。
家へ増えた音。
「おやすみ」
返事はない。
それでも、口にしてから目を閉じた。
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翌朝、森へ入る服へ着替えた。
獣皮の上着と短いズボンを身につけ、長い黒髪を背中へまとめる。
《影蔵》には水と布だけを入れた。
灰角兎を運ぶための籠も用意したが、床へ置いても自分から入ろうとはしなかった。
「嫌?」
牙を見せる。
「元気だね」
結局、厚い布で身体を包み、抱き上げた。
最初に連れ帰った時より重く感じる。
身体そのものが大きくなったわけではない。
力が戻り、腕の中で姿勢を保っているからだった。
帰還隔壁へ向かう。
縫工守。
管路守。
掃工守。
保守待機中の炉工守。
作業個体たちは、それぞれの場所で動いている。
「行ってくる」
《一時保護対象の区域外搬出を確認》
《登録を解除しますか》
少し迷う。
「森へ着いてから」
《保留します》
隔壁を抜け、灰の森へ向かった。
灰角兎は布の隙間から、何度も顔を出そうとした。
森の匂いが近づくにつれ、身体の動きも大きくなる。
「暴れないで」
腕から落とすわけにはいかない。
最初に見つけた場所へ戻す必要はないと思った。
灰角兎が暮らしていた場所も、群れがいるのかも分からない。
それでも、施設の入口に近すぎれば、また扉の前へ戻ってくるかもしれない。
灰の森へ入り、小さな生命反応が多い場所まで歩く。
白い根が生えている。
低い茂みもある。
近くに大型の反応はない。
私は布を地面へ下ろした。
灰角兎は、すぐには出てこなかった。
黒い目だけが、布の隙間から周囲を見ている。
「大丈夫」
根拠はない。
森が安全ではないことは、私が一番よく知っている。
それでも、ここが灰角兎の生きる場所だった。
布を少し開く。
灰角兎が前脚を出す。
右の後ろ脚。
最後に、治った左脚を灰の上へつけた。
立ち上がる。
周囲の匂いを嗅ぐ。
一歩進む。
もう一歩。
家の中を歩いていた時より、動きが軽い。
灰の柔らかさが、脚への負担を減らしているのかもしれない。
「帰って」
灰角兎がこちらを見る。
短い二本の角。
黒い目。
脇腹には、毛の薄い傷跡が残っている。
名前はつけなかった。
私のものではない。
帰る場所があるのなら、そこへ帰るために助けた。
灰角兎は身体の向きを変えた。
茂みへ向かって歩き始める。
最初は慎重に。
やがて少し速くなる。
左脚を僅かに庇っているが、転ぶことはない。
灰色の葉の手前で、一度だけ止まった。
顔だけをこちらへ向ける。
私は何も言わなかった。
灰角兎も鳴かなかった。
すぐに前を向き、茂みの奥へ消えていった。
《血液感知》には、小さな反応が残っている。
少しずつ遠ざかる。
ほかの反応と重なり、やがて区別がつかなくなった。
私はしばらく、その場に立っていた。
「行った」
《一時保護対象の区域外離脱を確認》
《登録を解除しますか》
「解除する」
《一時保護登録を解除しました》
表示が消える。
腕には、灰角兎を抱いていた温かさが少しだけ残っていた。
私は空になった布を拾い、家へ戻った。
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帰還隔壁を抜けても、迎えに来る足音はない。
灰角兎は最初から、私を迎えに来たことなどなかった。
それでも、家の中が以前より静かに感じた。
食卓へ向かう。
向かい側の椅子には、何もいない。
灰角兎が使っていた布は、森へ持っていったためなくなっている。
椅子の脚へ残った爪痕だけが、そこにいたことを示していた。
私は鍋へ水を入れた。
保存肉。
白い根。
香りの強い葉。
鉱塩。
いつものように二つの器を取り出しかけ、手を止める。
必要なのは、一つだけだった。
小さな器を棚へ戻す。
食事を作り、自分の椅子へ座った。
向かい側は空いている。
「また、ひとり」
《現在、居住区域内に登録外生体は存在しません》
「知ってる」
汁を飲む。
昨日までと同じ味のはずだった。
それでも、食卓で鳴っているのが自分の匙の音だけだと、少し違って感じた。
灰角兎を帰したことは間違いではない。
この家へ閉じ込めておく方が、きっと間違っている。
食べずに治した。
歩けるところまで生かした。
森へ帰した。
それでよかった。
「よかったよね」
管理壁は答えなかった。
答えられる質問ではなかった。
食事を終え、鍋と器を洗う。
灰角兎が使っていた椅子も、掃工守に拭かせた。
ただし、脚の爪痕は残すよう伝える。
《損傷痕を保護対象として登録します》
「それは消さないで」
《登録済みです》
掃工守は、椅子の座面だけを清掃した。
縫工守は、森から持ち帰った布を洗っている。
乾いたら、また椅子へ敷くつもりだった。
誰が使うのかは分からない。
それでも、片づける気にはならなかった。
---
夜、寝具へ入ってからも、すぐには眠れなかった。
灰角兎の傷は、本当に治っていたのか。
骨は正しい位置でつながったのか。
森へ帰すのが早すぎなかったか。
もっと長く保護した方がよかったのではないか。
考えても、答えは出ない。
今回は生きた。
けれど、私の処置が正しかったから生きたとは限らない。
傷が内臓まで達していなかった。
太い血管も切れていなかった。
灰角兎自身にも、生きる力が残っていた。
ただ運がよかっただけかもしれない。
次に連れ帰るものが、もっと深い傷を負っていたら。
毒を受けていたら。
呼吸が止まりかけていたら。
今の私には、何もできない。
私は寝具から起き上がり、管理壁へ近づいた。
「治すための設備はある?」
《質問範囲を検索》
少し待つ。
《第七管理領域》
《医療支援機能――大部分停止》
《診断補助機能――停止》
《医療用作業個体――休眠》
表示を見上げる。
「直せる?」
《設備状態の確認が必要です》
「どこ?」
区域図の一部へ、細い光が灯った。
生活区画より奥。
まだ確認していない通路の先だった。
《医療管理区画》
《接続状態――不明》
家は、また私一人になった。
けれど、灰角兎が来る前と、まったく同じ家ではない。
誰かを助けるには、今のままでは足りなかった。
私は区域図に浮かぶ光を見た。
「明日、あそこへ行く」




