第九話 《最初の患者》
台所を使えるようになってから、食事の支度はかなり楽になった。
朝は鍋へ水を入れ、《血刃》で薄く切った保存肉と白い根を煮る。香りの強い葉を一枚、鉱塩をほんの少し加えるだけで、以前の薄い汁とは比べものにならないほど食べやすくなった。
火床へ薪を足す時も、《微火》があれば一瞬で済む。
私は食卓の椅子へ座り、匙で汁を飲んだ。
向かい側の椅子は、昨日置いた時と同じ場所にある。
誰も座っていない。
作業個体は食事をしないため、机のこちら側だけを使えば十分だった。
それでも、二脚目を片づける気にはならなかった。
「今日も空いてる」
《使用要求を確認できません》
管理壁が答える。
「独り言」
《了解しました》
食事を終え、鍋と匙を洗う。
保存肉は、あと数日分ある。
けれど、血は別だった。
《影蔵》へ入れても、時間が止まるわけではない。前日に狩った獲物から分けた血は、朝のうちに飲み切っていた。
新しい血を確保する必要がある。
「狩りに行く」
壁際で布を整理していた縫工守へ告げる。
《外出目的――食料および血液資源の確保》
「うん」
家の中で着ていた白いシャツを脱ぎ、森へ入るための服へ着替える。
獣皮の上着。
短いズボン。
脚を守る革布。
長い黒髪は後ろでまとめ、枝へ引っかからないよう背中へ固定した。
《裸族》の補助は止まったが、森で肌を晒して歩くつもりはない。
水袋と清潔な布を《影蔵》へ入れる。解体用の道具は《血刃》があれば足りる。
「行ってくる」
《帰還予定を登録してください》
「狩りが終わったら帰る」
《帰還条件を登録しました》
帰還隔壁を抜け、灰の森へ向かった。
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灰森主がいなくなってから、森には小さな生命反応が増えていた。
枝の上を走るもの。
灰の下へ潜るもの。
遠くで群れを作って移動する四本脚の魔物。
以前のような、森そのものから見張られている感覚はない。
その代わり、獲物と捕食者が好き勝手に動く場所へ戻りつつあった。
私は《血液感知》を広げながら、灰の薄い道を進んだ。
探しているのは、一人で持ち帰れる大きさの獲物だった。
血を補給できる。
肉を保存できる。
皮や骨も使える。
しばらく歩いたところで、茂みの奥に一つの反応を見つけた。
大きさは、洞窟鼠よりかなり大きい。
ほとんど動いていない。
「弱ってる?」
死んではいない。
けれど、血の巡りが遅く、ところどころ不自然に乱れていた。
周囲に別の反応がないことを確かめ、血針を三本浮かべる。
灰色の葉をかき分けると、兎に似た魔物が倒れていた。
大きな猫ほどの身体。
灰色の毛。
額には、短い二本の角が生えている。
左の後ろ脚は、不自然な方向へ曲がっていた。
脇腹の毛は血で固まり、その下には大きな裂傷がある。周囲の灰にも、身体を引きずった跡が残っていた。
何かに襲われ、ここまで逃げてきたらしい。
私へ気づくと、灰角兎は前脚だけで身体を起こそうとした。
小さな牙を見せる。
逃げる力はない。
それでも、近づけば噛むつもりだった。
「元気はある」
《鑑定》を使う。
《灰角兎》
《状態――重傷》
《左後肢骨折》
《側腹部裂傷》
《継続出血》
《異物混入》
《衰弱――大》
このまま放置すれば、長くは生きない。
私は短い《血刃》を形成した。
首の位置を見る。
血管を切れば、長く苦しませずに済む。
血を飲む。
肉を持ち帰る。
狩りへ来た目的は、それで達成できる。
灰角兎が逃げようと身体を動かした。
折れた脚が灰へ触れ、小さく震える。
それでも前脚で地面を掻いていた。
赤い刃を首元へ近づける。
灰色の毛が、刃先へ僅かに触れた。
「食べる予定だったし」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
狩りへ来た。
血が必要だった。
目の前には、抵抗する力も残っていない獲物がいる。
殺す方が簡単だった。
それなのに、刃を動かせなかった。
《血液感知》を通して、小さな身体の内側が伝わってくる。
弱く、速い鼓動。
失った血を補うように、残った血を必死に巡らせている。
少し前までの自分も、同じだった。
灰森主に裂かれ、血を失い、ただ家へ帰ることだけを考えていた。
この灰角兎に、帰る場所があるのかは分からない。
それでも、あるのなら。
そこへ戻れるところまで、生きてほしいと思った。
私は《血刃》を消した。
「……治せるかな」
灰角兎が牙を鳴らす。
「噛まないで」
当然、言葉は通じない。
厚い布を取り出し、頭から身体を包んだ。
灰角兎は暴れようとしたが、残っている力は少ない。傷と折れた脚を圧迫しないよう注意しながら、両腕で抱き上げる。
軽い。
けれど、腕の中には確かな温かさがあった。
「家に行く」
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帰還隔壁へ到着すると、壁に警告が表示された。
《未登録外部生体を検出》
《内部区域への搬入――拒否》
「怪我してる」
《搬入目的を指定してください》
腕の中を見る。
布の隙間から、短い二本の角だけが出ていた。
「治す」
《医療対象登録機能――停止》
「じゃあ、一時保護」
《登録管理者の責任下において、一時保護対象として搬入しますか》
「する」
《未登録外部生体の搬入を許可》
隔壁が開いた。
最初に外部資源受入区画へ入る。
これまで運び込んだのは、肉、骨、皮、灰森主の外殻だった。
生きているものを入れるのは初めてだった。
冷たい床へ直接寝かせる気にはなれない。
「縫工守を呼んで。管路守も」
《作業要求を送信》
縫工守が先に到着した。
「柔らかい布を重ねて。この子を寝かせる場所を作って」
《小型生体用処置台の形成要求を確認》
「それでいい」
縫工守は布と獣毛を重ね、身体が転がらないよう周囲を僅かに高くした。
その上へ灰角兎を寝かせる。
管路守には、洗浄槽へ温かい水を出させた。
「熱すぎないようにして」
《生体洗浄に適した温度へ調整します》
森で着ていた上着を脱ぎ、長い髪を高い位置で結び直す。毛先が傷口へ触れないよう、背中へまとめて固定した。
もう一度《鑑定》する。
《側腹部裂傷》
《腹腔到達――なし》
《主要血管損傷――なし》
《異物――植物片、灰、外殻片》
内臓までは傷ついていない。
太い血管も切れていない。
助かる可能性はある。
「洗う」
温水を含ませた布で、血の固まった毛を湿らせる。
灰角兎が身を捩った。
縫工守に太い布帯を作らせ、傷を圧迫しない範囲で胴と前脚を固定する。顔へ薄い布を被せると、暴れ方が少しだけ弱くなった。
傷口へ温水を流す。
赤黒い血と灰が、床の溝へ落ちていった。
植物片を抜く。
外殻の小さな欠片も取り除く。
傷の奥に異物が残っていないことを《鑑定》で確かめながら、何度も温水で洗い流した。
清潔な布で圧迫すると、出血は徐々に弱くなった。
それでも、裂けた傷は大きく開いている。
動けば、また血が出る。
「閉じるしかない」
縫工守から、細い針を受け取る。
本来は布を縫うための道具だった。
湯で洗い、《微火》で熱したあと、十分に冷ます。
私は指先を僅かに切り、細い《血糸》を形成した。
針へ通す。
獲物を縛るための血ではない。
傷を閉じ、生かすための血だった。
傷の端へ針を通すと、灰角兎の身体が跳ねた。
「ごめん」
麻酔はない。
痛みを消す薬もない。
深く刺しすぎないよう、開いた皮膚の端だけを少しずつ合わせる。
強く締めれば血の巡りを止めてしまう。
緩すぎれば、また傷が開く。
正しい方法なのかは分からない。
それでも、途中でやめることはできなかった。
最後の糸を結び、余った部分を《血刃》で切る。
清潔な布を傷へ当て、帯で固定した。
次は折れた脚だった。
《鑑定》で骨の位置を確かめる。
完全に砕けてはいないが、大きくずれている。
「少しだけ我慢して」
脚の上下を支え、ゆっくりと向きを戻した。
灰角兎が甲高い声を上げる。
牙が布越しに私の腕へ触れたが、噛みつく力はほとんど残っていなかった。
骨が真っ直ぐに近い位置へ戻ったところで止める。
縫工守が用意した細い板を左右へ添え、柔らかい布を挟んで固定した。
《左後肢骨折》
《位置ずれ――軽減》
《固定状態――暫定》
完全ではない。
けれど、先ほどよりはいい。
「これ以上は分からない」
傷を洗うことはできた。
血も止めた。
傷口を閉じ、骨も固定した。
それが本当に正しかったのか、自信はなかった。
今の私にできるのは、ここまでだった。
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灰角兎を布の処置台ごと持ち上げ、ホームへ運んだ。
生活区域への搬入を施設は勧めなかったが、受入区画の床は冷たすぎる。
掃工守に、通った場所をあとで清掃させることにした。
食卓の向かい側へ置いた椅子に、さらに布を重ねる。
椅子の背と脚へ布を結び、浅い籠のような形にした。
その中へ、灰角兎を横たえる。
昨日まで空席だった場所に、小さな灰色の身体が収まった。
「食べるための椅子なんだけど」
灰角兎は答えない。
呼吸は浅く、身体はまだ冷えている。
火床へ薪を足し、《微火》で火を強くした。
椅子を炎へ近づけすぎない位置へ動かす。
私は自分の椅子へ座り、《血液感知》を広げた。
鼓動が止まっていないことを何度も確かめる。
血を得るために森へ行ったのに、結局ほとんど飲めなかった。
《影蔵》へ残していた前日の血を取り出す。
状態は悪くなり始めていたが、まだ飲める。
少しずつ喉へ流し込む。
味は落ちていた。
それでも、自分まで血を失って倒れるわけにはいかなかった。
向かい側には、私が食べるつもりだった魔物が眠っている。
「変」
空腹は完全には消えなかった。
それでも、首を切らなかったことを後悔してはいなかった。
しばらくすると、灰角兎の震えが少しだけ弱くなった。
呼吸も、僅かに深くなる。
「生きてる」
《一時保護対象――生命活動継続》
「それは分かる」
私は食卓へ頬杖をついた。
白い根を細く削り、小さな器へ入れる。
水へ浸した布も、口元へ届く場所へ置いた。
今すぐ食べる力があるかは分からない。
それでも、目を覚ました時に何もないよりはよかった。
その夜、火を絶やさなかった。
寝具へ横になっても、何度も目を覚ました。
傷口から血が滲んでいないか。
包帯がきつすぎないか。
呼吸が止まっていないか。
そのたびに起き上がり、椅子の上を確かめる。
以前なら、夜中に起きても気にするのは自分の喉の渇きだけだった。
今は、自分以外の呼吸へ耳を澄ませていた。
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次に目を覚ました時、食卓の方から小さな音がした。
身体を起こす。
灰角兎が、前脚だけで身を起こしていた。
角の間から、黒い目がこちらを見ている。
呼吸はまだ速い。
それでも、昨日より明らかに力が戻っていた。
「起きた」
近づくと、灰角兎は牙を見せた。
私は手を止める。
「元気」
細く削った白い根を、手の届く位置へ置く。
灰角兎はすぐには食べなかった。
根の匂いを嗅ぐ。
私を見る。
もう一度、根を見る。
やがて、小さく一口齧った。
少し間を置き、もう一口。
私は椅子へ腰を下ろしたまま、その様子を見ていた。
「食べた」
《一時保護対象の摂食を確認》
「うん」
まだ傷は治っていない。
骨折も残っている。
正しい治療ができたのかも分からない。
それでも、今すぐ死ぬような状態からは離れたらしい。
食卓を挟み、灰角兎と向かい合う。
一緒に食事をしているわけではない。
こちらを信頼したわけでもない。
近づけば、まだ噛もうとする。
「最初のお客?」
《一時保護対象として登録されています》
少し考える。
「患者」
《医療対象登録機能――停止》
「……そうだね」
灰角兎は残った白い根を齧る。
食べ終えると、私を一度だけ見た。
昨日のように牙は見せなかった。
布の上へ身体を戻し、ゆっくり目を閉じる。
小さな咀嚼音の代わりに、穏やかな呼吸が家の中へ残った。
向かい側の椅子は、その朝初めて空席ではなくなった。




