第二話 《水と火》
水を探しに出る前に、石棺のある部屋を当面の拠点にすることにした。
安全だからではない。
ここより安全な場所を、まだ知らないからだった。
部屋からは複数の通路が延びている。どこへ続いているのかも、ここが地下洞窟なのか、巨大な建物の内部なのかも分からない。
探索へ出るなら、少なくとも目覚めた場所まで戻れるようにする必要がある。
私は通路の入口や曲がり角へ、尖った石で印をつけた。
石棺の部屋へ戻る方向には二本線。
行き止まりには斜めの線。
まだ調べていない道には小さな丸。
壁を削るたび、石を握った指が痛んだ。
「道具が欲しい」
表示は現れなかった。
願ったものが、そのまま能力として与えられるわけではないらしい。
最初に見つけたのは、崩れた棚の下に残っていた布だった。
元は服か寝具だったのかもしれない。持ち上げると端が崩れたが、内側にはまだ使える部分が残っている。
傷んだ場所を裂き、胸と腰へ巻いた。
服と呼ぶには心許ない。
それでも、裸のまま歩き回るよりはよかった。
次に探したのは水だった。
血を飲んだことで身体の欠乏は落ち着いている。それでも口の中には鉄に似た味が残り、顔や腕には乾いた血が付着していた。
飲むためだけでなく、洗うためにも水が欲しい。
《血液感知》で周囲の生き物を避けながら、印を残して通路を進む。
通路の一部は天井が崩れ、壁の隙間から細い根が入り込んでいた。床には枯れた根や、どこかから流れ着いた木片も落ちている。
使えそうなものは、帰りに持ち帰ることにした。
しばらくすると、硬い床へ何かが落ちる音が聞こえた。
岩壁の亀裂から、細い水が流れている。
床のくぼみには、透明な水が溜まっていた。
すぐに口をつけようとして、直前で止まる。
見た目がきれいでも、安全とは限らない。
「この水、飲める?」
《詳細判定には、対応する分析技能が必要です》
「役に立たない」
腐った臭いや濁りはない。
指先ですくって舌へ触れさせ、少量を飲んで待った。身体に異常が起きないことを確かめてから、両手でもう一度すくう。
冷たい水が、喉に残っていた血の味を押し流した。
「おいしい」
特別な味がするわけではない。
それでも血とは違った。
身体の欠乏を埋めるのではなく、気持ちの方が静かになっていく。
何度か飲んだあと、顔と手を洗った。
腕に残っていた血が薄まり、くぼみの中へ赤い筋となって広がる。
鼠を殺した時の感触が、指先へ戻った気がした。
少し嫌だった。
それでも、汚れたままでいる方がもっと嫌だった。
本当は全身を洗いたかったが、水場は狭く、流れも細い。飲み水を汚すわけにもいかない。
私は水場の位置を覚え、石棺の部屋へ戻る道にも印を残した。
次に必要なのは火だった。
鼠の肉は、まだ石棺の近くに置いてある。
血は飲めても、生肉をそのまま食べる気にはなれなかった。
元の世界では、火を一から起こしたことなどない。
木を擦れば火がつくという知識はあっても、どの木を使い、どれほど乾かせばよいのかまでは知らなかった。
乾いた枝と、細い繊維になりそうな植物を集める。
石を打ち合わせ、木を削り、細い棒を押しつけて回した。
腕が疲れ、手のひらが痛くなっても、木へ黒い跡がつくだけだった。
使う木と削り方を変え、繊維をさらに細かくほぐす。
やがて木のくぼみから、細い煙が立った。
「できた」
慌てて息を吹きかける。
煙は消えた。
残っていた熱も、すぐに冷える。
私は黒くなった木を見つめた。
「もう一回」
次に煙が出た時は、強く吹かなかった。
火種を崩さないよう繊維で包み、細く息を送る。
暗い赤色が少しずつ広がり、やがて端へ小さな炎が上がった。
「ついた」
思ったより大きな声が出た。
細い枝を重ね、その上へ少し太い枝を置く。消えそうだった炎が、少しずつ形を持っていった。
暗視があるため、明かりがなくても周囲は見える。
それでも、火が灯るだけで部屋の印象は変わった。
壁へ橙色の光が揺れ、石棺の影が床へ伸びる。
私は火の前へ座り、両手を近づけた。
温かい。
「文明」
大げさかもしれない。
それでも、自分で火をつけた時には、その言葉が一番近かった。
鼠の解体には、尖った石を使った。
血がどこを流れていたのかは《血液感知》で分かる。けれど、どこから切れば皮や肉を残せるのかまでは分からない。
滑る石へ何度も力を加え、食べられそうな部分だけを切り分けた。
平らな石を火の近くで熱し、その上へ肉を置く。
表面が焦げたところで裏返し、内側まで火が通るのを待った。
焼き加減は不揃いだった。
硬い部分も、生に近い部分も残っている。
それでも、食べられた。
「塩が欲しい」
味がほとんどない。
「胡椒も」
当然、どちらもなかった。
米や味噌汁まで考え始めると、余計につらくなりそうだった。
私はそれ以上考えず、肉を食べた。
水と火を手に入れても、生活に必要なものは次々に出てくる。
水を運ぶ容器がない。
火を消せば、また時間をかけて起こさなければならない。
身体へ巻いた布は動くたびにずれ、眠る場所は硬かった。
そして、トイレもなかった。
石棺の近くで済ませるのは嫌だった。
水場の近くは、もっと嫌だった。
私は拠点と水場から離れた通路を選び、床の柔らかい場所を掘った。
身体能力が高くても、道具のない穴掘りは楽ではない。
石と手で土を掻き出している途中、自分が何をしているのか急に虚しくなった。
知らない世界で目を覚まし、知らない女の身体になり、魔物の血を飲まなければ生きられない。
それなのに、今一番真剣に考えているのは便所の位置だった。
「仕方ない」
生きるなら必要だった。
穴を掘り終え、迷わないよう壁へ印をつける。
簡素で、清潔とは言い難い。
それでも、石棺や水場の近くを汚さずに済む。
視界へ表示が現れた。
《人間性――微増》
《衛生環境の改善を確認》
「便所でも上がるんだ」
《肯定》
少し笑った。
人間性という名前は大げさなのに、判定していることは妙に現実的だった。
それから数日、水を飲み、火を守り、倒せる生き物だけを狙って血と肉を得た。
血が不足すれば身体は重くなり、眠らなければ疲れる。
身体が変わっても、暮らさずに済むわけではなかった。
最初は、石棺の中で眠ることに抵抗があった。
棺だと思っていたからだ。
しかし、硬い床で寝れば背中が痛くなる。
結局、使える布と乾いた草を石棺の中へ敷いた。
横になってみると、床よりはずっとよかった。
「棺じゃない」
誰に説明するわけでもなく、口にする。
「ベッド」
呼び方を変えただけだった。
それでも、少しだけ自分の場所になった気がした。
その夜、私は火の前へ座り、今あるものを見回した。
飲める水。
少量の肉。
消えないよう守っている火。
最低限の布。
眠れる場所。
離れた通路に作った便所。
どれも十分ではない。
それでも、目覚めた日の私よりは、明日まで生きられる可能性が高くなっていた。
《功績達成》
《初期生存環境の確立》
《SP獲得――1》
「SP?」
《保有SP――1》
続いて、新しい表示が開く。
《取得可能技能》
《鑑定》
《必要SP――1》
《微火》
《必要SP――1》
《血液操作》
《必要SP――1》
三つの候補を順番に見る。
《鑑定》があれば、水や食べ物の安全性を調べられるかもしれない。
《微火》を取得すれば、毎回苦労して火を起こす必要がなくなる。
どちらも、今すぐ欲しかった。
《血液操作》だけは、何ができるのか分からない。
「候補は、どうやって決まったの?」
《個体の適性、行動履歴、現在の必要性から算出されています》
私は火の横に置いた尖った石を見た。
解体に使ったことで先端が欠け、切れ味はほとんど残っていない。
火は、時間をかければ起こせる。
水も、今のところ問題はない。
一番困っているのは、道具だった。
「《血液操作》で、刃物を作れる?」
《技能習熟度および個体適性に依存します》
「できる可能性はある?」
《肯定》
確実ではない。
それでも、この身体に最も合っているのは、おそらくこれだった。
「《血液操作》を取る」
《SPを1消費します》
《保有SP――0》
《技能取得》
《血液操作 Lv.1》
見た目には何も変わらなかった。
私は爪で指先へ小さな傷を作る。
丸い血の滴が一つ、皮膚の上へ浮かんだ。
「動いて」
何も起きない。
指先を見つめ、もう一度意識を集中させる。
上へ。
血の滴が、僅かに指から離れた。
私は息を止めた。
もう少し高く浮かせる。
左右へ動かそうとした瞬間、形が崩れ、床へ落ちた。
刃物には程遠い。
武器として使えるような力でもない。
ただ、自分の血を一滴だけ動かせる。
それだけだった。
「できた」
火の向こうには、先端の欠けた石が置かれている。
いつか、それを使わずに済むようになる。
今はまだ、一滴の血を動かすことしかできない。
それでも、最初の一滴は、確かに私の意思で浮いていた。




