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奈落の底で、吸血鬼は人間をやめない ~転生TS吸血鬼は、死にかけた人間を救い、壊れた古代施設を家にする~  作者: 白峰ユラ
第一部《一人で生きる》

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第一話 《石棺》

世界の底まで続いていると言われる、巨大な縦穴があった。


人々はそれを《奈落》と呼んでいる。


その上には一つの国が築かれていた。奈落から持ち帰られる希少な鉱石や魔物の素材、地上では失われた古代の遺物によって国は栄え、その繁栄を維持するため、さらに多くの人間を奈落の底へ送り込んできた。


国は冒険者を募り、階層の調査や魔物の討伐、資源の回収、未踏領域の探索を依頼する。浅い層なら十分な準備をすれば帰ってこられ、腕さえあれば金を稼ぎ、名を上げることもできた。


けれど、深く潜るほど帰還する者は減っていく。


深層まで至れば、死体すら戻らないことの方が多い。


それでも冒険者は奈落へ降りる。金や名誉を求める者もいれば、失われた何かを探す者もいる。あるいはただ、誰も見たことのない底へ辿り着くことだけを望む者もいた。


その日も、一隊の冒険者が奈落へ派遣されていた。


そして今、そのうちの一人が死にかけていた。


血の匂いがしている。


自分のものなのか、隣で死んだ誰かのものなのか、もう分からなかった。遠くでは何かが叫び、石の崩れる音も聞こえていたが、そのすべてが水の底から届いているように遠い。


息を吸おうとしても胸が動かなかった。喉の奥で湿った音だけが鳴り、口元から新しい血が流れていく。


派遣された時は六人いた。


今、生きているのが何人なのかは分からない。自分が奈落の第何層にいるのかも、もう考えられなかった。


ただ、ここから帰ることはない。


それだけは分かっていた。


もう駄目なのだと思った、その時だった。


視界の端に、見覚えのない文字が浮かんだ。


《救難対象を確認》


古代語にも見える、知らない文字だった。


それなのに、なぜか意味だけは分かった。


理由を考える余裕はなかった。


続けて、もう一つの表示が現れる。


《収容》


次の瞬間、地面が消えた。


落ちる感覚すらなかった。


身体を支えていた冷たい石の感触も、血と泥の臭いも、遠くの叫び声も、一度に途切れる。


代わりに聞こえてきたのは、低く一定に続く機械音だった。


重い瞼を開くと、最初に白い天井が見えた。


知らない場所だった。


身体のすぐ横では、細い金属の腕が動いている。その向こうには透明な管が何本も伸び、見たことのない器具へつながっていた。


そして、自分を覗き込んでいる女がいた。


長い黒髪と赤い目を持ち、白いシャツだけを身につけている。異様なほど整った顔が、血に濡れた自分をじっと見つめていた。


女は傷口へ手を伸ばした。


その指先から、細い赤色の糸が伸びる。


「動かないで」


静かな声だった。


「今、閉じる」


吸血鬼。


そう思った。


けれど、もう声は出なかった。


赤い糸が傷の中へ入っていく。


そこで、意識が途切れた。


* * *


第一部《一人で生きる》

第一章《石棺》


最初に感じたのは、空腹だった。


腹が減っているという言葉では足りない。胃の中に何もないのではなく、身体の中心に大きな穴が開き、そこから熱も思考も少しずつ吸い出されているような欠乏だった。


何かを口へ入れなければならない。


そう思うのに、食べ物を欲しがっている感覚とも違う。


目を開けた。


暗い。


それでも、周囲が見えた。


頭上には黒い板があり、左右には身体を入れるだけの狭い壁がある。顔から十センチほどしか離れていない蓋の裏側には、細かな傷と、石材の中へ埋め込まれた金属が見えた。


光源はどこにもない。


月も、照明も、隙間から差し込む光もない。それなのに、薄暗い部屋の中にいる程度には輪郭を認識できた。


「……どこ」


声が狭い空間へ響いた。


高い。


記憶にある自分の声ではなかった。


近くに誰かがいるのかと思い、息を止める。聞こえるのは自分の呼吸と、身体の奥で鳴っている心臓の音だけだった。


「今の、私?」


もう一度声を出しても、返ってくるのは同じ高い声だった。


喉へ触れようとして、持ち上げた手を見る。


細く、白い。


指が長い。


手首も腕も、記憶にある自分の身体よりずっと細かった。筋肉の膨らみはほとんどなく、肌には傷も日焼けも見当たらない。


身体を起こそうとすると、額が頭上の蓋へ当たった。


鈍い音が響く。


「痛い」


両手で周囲を探る。


身体一つが入るだけの細長い箱だった。


内側は石に見えるが、ところどころに金属の部品が埋め込まれている。墓の中にしては妙だったが、今の状況を説明できる言葉は一つしか思いつかなかった。


「棺?」


蓋へ両手を当てて押す。


動かない。


空腹のせいで、考えがまとまらなかった。


自分がどこにいるのか。どうして知らない声を出しているのか。ここへ入る前に何をしていたのか。


記憶を探す。


大学の講義。


帰り道。


コンビニの灯り。


スマートフォンを見ながら歩いていたこと。


二十歳。


男。


そこまでは分かる。


事故に遭った記憶はない。病気で倒れた覚えもなく、誰かに襲われた記憶もない。


眠って、目を覚ました。


それだけだった。


「意味分からない」


もう一度、蓋を押した。


先ほどよりも強く力を込める。


次の瞬間、蓋が跳ね上がった。


自分でも予想していなかった勢いで持ち上がり、横へずれ、そのまま床へ落ちる。重い石材がぶつかる音が、広い空間へ何度も反響した。


私はしばらく動けなかった。


自分の両手を見る。


細い腕から出た力には思えなかった。


上半身を起こすと、長い髪が肩から流れ落ちた。


黒い。


腰よりも長い。


視界の端へ何度も入り、身体へまとわりつく。きれいかどうかを考えるより先に、邪魔だと思った。


箱の縁へ手を置き、外へ出る。


そこで初めて、自分が何も身につけていないことに気づいた。


胸がある。


腰や脚の形も、記憶している自分の身体とは明らかに違う。確認するまでもなく女性だったが、念のため身体へ触れて確かめた。


感覚もある。


作り物には思えなかった。


「本当に女になってる」


本来なら、もっと混乱するべきだったのだと思う。


叫んでもよかった。


どうしてこうなったのかと泣いてもよかった。


けれど、今は身体の違いより、内側を削り続ける欠乏の方が強かった。


喉が渇いているわけではない。


それでも、何かを飲まなければならないという感覚だけが増していく。


石棺の縁へ手をついた時、視界の端に光が走った。


《深層活動係数――上昇》


《第七収容体――緊急再生》


《精神定着――異常》


《外来反応――検出》


文字は数秒だけ浮かび、意味を理解する前に崩れて消えた。


「何、今の」


返事はなかった。


代わりに、別の表示が開く。


《個体情報》


《種族判定――未確定》


《確認形質》


吸血


暗視


血液感知


再生


夜間適応


渇血


最後の言葉を見た瞬間、欠乏の正体が分かった。


「渇血」


空腹ではない。


血が足りない。


そう理解した途端、身体の感覚が一つの方向へ集中した。


石棺のある部屋は思っていたよりも広かった。崩れた棚と、壁から外れた管、開いたままの通路がある。


その先は暗闇に沈んでいた。


何も見えないはずの場所に、小さく脈打つものを感じる。


熱ではない。


音でもない。


生き物の中を流れている血が、そこにあると分かった。


「嫌」


思わず口にした。


それでも身体は通路の方を向いていた。


奥で何かが動く。


姿を現したのは、灰色の毛を持つ鼠だった。


ただし、記憶にある鼠より遥かに大きい。四本の脚で立った高さは膝近くまであり、長い尾が床を擦っていた。


鼠がこちらを見る。


私も動かなかった。


「食べない」


言葉が通じるとは思っていない。


自分へ言い聞かせただけだった。


鼠が身体を低くする。


次の瞬間、こちらへ走り出した。


「待って」


牙を剥き、跳びかかってくる。


避けなければと思った時には、私の手が鼠の首を掴んでいた。


自分でも動きを追えなかった。


鼠の身体が空中で暴れ、前脚の爪が腕へ食い込む。皮膚が裂け、赤い線が何本も走った。


痛みより先に、血の匂いを感じた。


鼠のもの。


自分のもの。


口の中が熱くなる。


舌で触れると、これまでなかった長い牙が生えていた。


「本当に、そういう身体なんだ」


鼠の心臓が激しく動いている。


首のどこを血が通っているのかも分かる。


離せばいい。


そう考えても、指は動かなかった。


身体の内側が命令している。


飲まなければ死ぬ。


今すぐ飲め。


「……ごめん」


目を閉じ、鼠の首へ牙を立てた。


熱い液体が口へ流れ込む。


その瞬間、身体の中心にあった穴が熱で満たされた。


甘いという感覚に近いが、食べ物の甘さとは違う。美味しいとも思ったが、それ以上に、失われていたものが戻ってくる感覚が強かった。


喉。


胸。


腹。


指先。


ぼやけていた思考まで鮮明になる。


途中から、自分が何をしているのか理解していた。


理解しても、止められなかった。


鼠の心臓が次第に遅くなる。


弱くなり、最後には動かなくなった。


私はようやく口を離した。


手の中にある身体は、もう動かなかった。


床へ下ろし、手の甲で口元を拭う。


赤い血が白い肌へついた。


「殺した」


言葉にすると、急に現実になった。


生き物を殺した。


その血を飲んだ。


それで私は助かった。


床へ座り込み、鼠の死体を見る。


身体は先ほどまでと比べものにならないほど楽になっている。爪で裂かれた腕の傷も、血が止まり、ゆっくりと塞がり始めていた。


《再生――発動中》


「便利」


言ってから、すぐに嫌な気分になった。


目の前には、自分が殺した生き物がいる。


その直後に、自分の傷が治ることを便利だと思った。


「私、大丈夫かな」


《質問内容を確認できません》


突然表示が返ってきた。


「答えるの?」


《限定的な情報応答が可能です》


「私、壊れてる?」


《精神状態の医学的診断は実行できません》


「そう」


期待していたわけではない。


それでも、自分で考えなければならないと分かっただけで少し落ち着いた。


鼠の死体を、このままにしておきたくはなかった。


埋める場所は分からない。


食べられるのかも分からない。


血を飲んだからといって、肉まで食べられないとは限らない。むしろ、他に食料がなければ使うべきだった。


考えていると、視界に新しい項目が現れた。


《人間性》


「何、それ」


《人間的生活習慣の継続度を示す評価項目です》


「善人かどうか?」


《異なります》


「悪いことをすると減る?」


《行為の善悪とは直接関連しません》


善悪ではない。


人間らしい生活を続けているかどうか。


「料理は?」


《対象行動に含まれます》


「掃除」


《対象行動に含まれます》


「お風呂」


《対象行動に含まれます》


「血を飲むのは?」


《確認形質に基づく生命維持行動です》


《人間性への直接的影響はありません》


少し考え、動かなくなった鼠を見る。


「殺すことは?」


《行為単独では判定されません》


人を助ければ上がり、誰かを殺せば下がるという数字ではなかった。


食事を作る。


身体を洗う。


服を着る。


眠る場所を整える。


生きるためだけなら必要のない手間を続けているか。


それを測っているらしい。


私は自分の身体を見る。


裸で、血を飲み、傷が勝手に治る。


知っている言葉で呼ぶなら、吸血鬼に近い。


けれど、表示は種族を確定していなかった。


吸血鬼のようなものなのか、それ以外なのかは分からない。


中身が以前の自分と同じなのかも、証明する方法はなかった。


「人間だった」


口に出すと、過去形になった。


少し嫌だった。


それでも、今すぐ答えを出すことはできない。


まずは水を探す。


食べ物を確保する。


身体を隠すものと、眠れる場所を用意する。


ここから外へ出られるのかも確かめる。


考えるべきことはいくらでもあった。


私は鼠の死体を持ち上げ、開いた通路を見る。


奥は暗い。


けれど、私には見える。


「とりあえず、生きる」


今は、それだけでよかった。

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