第七話《持ち帰るもの》
掃工守が新しい家の清掃を始めてから、床へ座るたびに服や髪へ埃がつくことはなくなった。
壁際に積まれていた破片も整理され、使えるものと廃棄するものが分けられている。調理に使う石の器、縫工守が整えた布、森で集めた皮や骨にも、それぞれ置き場所ができた。
暮らしやすくなった。
その分、足りないものも分かるようになった。
朝食に使った保存肉は、残りが少ない。
縫工守が扱える丈夫な皮も減っている。施設の修理へ使えそうな素材も、今あるものだけでは足りなかった。
灰の森には、まだ使えるものがある。
私は湯気の立つ石の器を両手で持ち、薄い肉と白い根を煮た汁を飲んだ。
塩はない。
香りの強い葉を一枚入れているため、以前よりは食べやすい。それでも味の薄さは変わらなかった。
「取りに行く」
壁際で布を整理していた縫工守が、頭部の光をこちらへ向ける。
《外出目的を確認します》
「灰の森。食べ物と素材を探す」
少し考え、付け加えた。
「灰森主のところにも行く」
倒した直後、灰森主の死体から持ち帰ったものはなかった。
血を飲み、《血統捕食》による熱に耐えながら、自分の足で帰るだけで精いっぱいだった。
その後、遠くから何度か確認している。
肉は小型の魔物に食われ、時間とともに崩れていた。それでも、巨大な角や硬い外殻、太い骨は残っている。
一人では運べない。
《影蔵》にも入らない。
けれど、今は搬工守がいる。
食事を終え、器を洗った。
家の中では、白い長袖のシャツ一枚で過ごすことが多い。
布の下から白い脚が露出していても、作業個体は気にしない。《裸族》の小さな補助も働き、身体を動かしやすかった。
ただし、灰の森へその格好で入るつもりはない。
枝。
牙。
爪。
灰の中に隠れた鋭い石。
誰も見ていないことと、肌を守らなくていいことは別だった。
シャツの上から獣皮の上着を羽織る。縫工守が作った短いズボンを穿き、脚へ皮を巻いた。
《裸族――効果停止》
僅かに身体が重くなった気がする。
それでも、防具を着る方が安全だった。
長い黒髪を後ろでまとめる。水袋、保存肉、予備の血袋を《影蔵》へ入れ、血液量と身体の状態を確認した。
問題はない。
私は管理壁へ向かった。
「掃工守を待機させて、搬工守を起こしたい」
《現在の清掃予定を中断します》
《掃工守を低消費待機へ移行》
家の隅で床を清掃していた掃工守が動きを止めた。身体を低くし、複数の作業腕を収納する。
離れた管理区画で、搬工守が起動した。
しばらくすると、太い胴体と長い腕を持つ作業個体が通路の奥から歩いてくる。
縫工守より大きい。
背中には、重い荷物を固定するための枠がある。
《搬工守》
《運搬命令を受け付けます》
私は搬工守を見上げた。
「森へ行く」
《外部区域への移動を確認》
「私の後ろを歩いて。勝手に先へ行かない」
《随行位置を登録します》
「危険な生き物が来たら、荷物を置いて逃げる」
《退避経路を指定してください》
灰の森から石棺の部屋までの道を思い浮かべる。
管理権限を得てから、通った場所の簡単な図を表示できるようになった。
灰の森。
水場。
石棺の部屋。
その奥にある帰還隔壁。
私は経路を指定する。
「ここへ戻る」
《退避経路を登録します》
少し迷ってから、さらに条件を加えた。
「私が逃げろと言ったら、私を待たないで」
搬工守の光が一度だけ揺れた。
《管理者保護命令と競合します》
「やっぱり」
私を置いて帰れという指示は、そのままでは受けつけないらしい。
「私が動けるなら、一緒に戻る」
《肯定》
「私が動けなくて、運べるなら私を運ぶ」
《肯定》
「運べないなら家へ戻って、ほかの作業個体へ知らせる」
数秒の処理時間があった。
《緊急時行動条件を登録します》
「それでいい」
死ぬつもりはない。
ただ、何が起きても誰も帰れない状態にはしたくなかった。
出発前に、帰還隔壁の状態も確認する。
「私たちが出たあと、ここは閉じられる?」
《外部通路側隔壁の閉鎖が可能です》
「知らない生き物は入れる?」
《未登録外部生体の通過は許可されません》
「私と搬工守が戻った時は?」
《管理者および随行登録作業個体を照合後、開放します》
「閉めて」
私たちが石棺の部屋から外へ出ると、背後の隔壁がゆっくり閉じた。
灰森主を倒したことで開いた帰還経路。
今は、家と外を隔てる扉として動いている。
厚い壁が完全に閉じる音を聞き、少し安心した。
少なくとも、私が留守の間に魔物がそのまま施設へ入り込むことはない。
「行く」
搬工守を連れ、灰の森へ向かった。
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灰の森へ入ると、細かな灰が足元で沈んだ。
搬工守の脚は私より重い。
一歩進むたび、灰の表面へ深い跡が残る。
「目立つ」
《運搬個体の構造上、足跡の抑制は困難です》
「分かってる」
隠密には向かない。
ただ、帰り道を見失う心配は少なかった。
搬工守の足跡を逆にたどれば、入口へ戻れる。
森の空気は、灰森主が生きていた頃より静かだった。
以前は、森のどこにいても薄い圧迫感があった。
何かに見られている。
森そのものが息を潜めている。
そんな感覚。
今はない。
代わりに、小さな生命反応がいくつも動いている。
地面の下。
倒木の裏。
灰色の葉が重なる枝の上。
領域主を恐れて隠れていた生き物たちが、少しずつ戻っているらしい。
私は《血液感知》を広げながら進んだ。
途中で、食べられる白い根をいくつか掘る。
香りの強い葉も摘んだ。
搬工守の背中へ載せるほどの量ではないため、《影蔵》へ入れる。
小型魔物の反応を見つけたが、今回は追わなかった。
保存肉は少ない。
狩る必要はある。
けれど、今日の目的は灰森主の素材だった。
大きな荷物を抱えた帰り道で、肉まで持ち帰ろうとすれば動きが鈍る。
「欲張らない」
自分へ言い聞かせる。
何でも一度に終わらせる必要はなかった。
灰森主を倒した場所へ近づくにつれ、空気の臭いが変わった。
古い血。
腐った肉。
湿った灰。
小型魔物の糞。
少し前までは、近づくだけで命を狙われた場所だった。
今は、複数の小さな生き物が死体の周囲を動いている。
《血液感知》で位置を確かめる。
大きな反応はない。
私は搬工守を少し離れた木の陰で止めた。
「ここで待って」
《待機します》
血針を三本作る。
細い血糸も、周囲の木と地面へ張った。
一人で灰森主へ近づく。
巨大な死体は、以前よりも低くなっていた。
肉の多くが食い荒らされ、肋骨と外殻が露出している。森と同化していた灰黒色の皮膚も乾き、ところどころ剥がれていた。
それでも、頭部から伸びる角は残っている。
枝分かれした巨大な角。
首周りの硬い外殻。
太い骨。
どれも、小型魔物には食べられないらしい。
私はしばらく、その姿を見た。
一度目は、何もできずに逃げた。
二度目は、帰る場所を決めてから戻ってきた。
殺されかけた。
噛まれた。
爪で腹を裂かれた。
それでも、最後には倒した。
今はもう動かない。
《領域同化》の一部は、私の身体へ残っている。
「使わせてもらう」
返事はない。
灰森主に許可を求める必要もない。
それでも、何も言わずに切り取る気にはなれなかった。
搬工守を呼ぶ。
「来て」
重い足音が近づく。
角の根元を指差す。
「これを運びたい」
搬工守が角を掴む。
持ち上げようとするが、死体の骨と外殻につながったままでは動かなかった。
《運搬対象の分離が必要です》
「分かってる」
問題は、どう切り離すかだった。
《血針》は刺すための技能。
《血糸》は縛り、引き、感知するための技能。
どちらも、巨大な角を切断することには向いていない。
私は指先から血を出した。
《血液操作》で血を伸ばし、薄い刃の形へ変える。
正式な技能ではない。
これまで何度も作ってきた簡易血刃。
解体や、小型魔物の柔らかい場所を切ることはできる。
灰森主を倒した時も、この刃を傷口から首の内側へ押し込んだ。
角の根元へ刃を当てる。
力を入れる。
硬い。
表面へ浅い傷がついただけで、血の刃が歪んだ。
もう一度形を整え、同じ場所へ入れる。
少し進む。
三度目。
刃先が欠けた。
「死んでる方が硬い」
戦っている時は、首の薄い部分と、既にできていた傷を狙えた。
今は、動かない死体を切り分けるだけなのに、その時より時間がかかっている。
血を追加する。
刃を厚くする。
今度は切れ味が落ちた。
薄くすれば欠ける。
厚くすれば入らない。
何度も作り直すうちに、喉の奥へ渇きが生まれた。
まだ危険な量ではない。
けれど、素材一つのために血を使い続けるのはよくない。
「全部は無理」
角の根元を切るのを諦める。
代わりに、途中から折れている細い枝角を探した。
灰森主との戦いか、その後に集まった魔物によって壊れたのだと思う。
接続部分は、元の角より細い。
血糸を巻き、搬工守に反対側から引かせる。
「ゆっくり」
《牽引を開始します》
血糸が張る。
私は簡易血刃を接続部分へ何度も当てた。
刃が崩れる。
作り直す。
血糸の張りを調整する。
少しずつ亀裂が広がった。
最後に搬工守が角を引く。
乾いた音が森へ響いた。
枝角が折れる。
私は反射的に周囲を見た。
音を聞いた小型魔物が動き始めている。
いくつかの血液反応が、こちらへ近づいてきた。
「急ぐ」
首周りから剥がれかけていた外殻を二枚だけ切り離す。
簡易血刃では端を整えるだけでも時間がかかった。
搬工守の背中へ枝角と外殻を固定する。
血糸を使い、落ちないように縛った。
《運搬対象を固定しました》
周囲の反応が近い。
犬ほどの大きさをした灰色の魔物が、倒木の向こうから姿を現した。
細い身体。
大きな口。
目は退化しているのか、皮膚に覆われている。
一体ではない。
三体。
灰森主の残骸へ集まっていた生き物だろう。
私たちを餌として見ているのか、素材を奪われたくないのかは分からない。
「戻る」
《退避を開始します》
搬工守が来た道へ向きを変える。
魔物の一体が走った。
私は血針を飛ばす。
前脚へ一本。
肩へ一本。
硬い外皮に浅く刺さる。
致命傷にはならない。
それでも、勢いは止まった。
別の一体が横から回り込む。
地面へ張っていた血糸を引く。
細い糸が脚へ絡み、魔物が灰の中へ倒れた。
最後の一体が私へ跳ぶ。
簡易血刃を作り、口の横へ振る。
刃は皮膚を切ったが、牙へ触れた瞬間に崩れた。
「やっぱり弱い」
魔物が着地する前に脇へ避け、血針を首へ撃ち込む。
深くは刺さらない。
倒すために、さらに血を使う必要がある。
けれど、今日の目的は戦うことではない。
「追わない」
搬工守の後ろへ下がる。
傷ついた魔物たちは、しばらくこちらを追った。
しかし、灰森主の残骸から一定以上離れると、動きを止めた。
自分たちの餌場を守りたかっただけらしい。
私も足を止めない。
素材を持ち帰れれば、それでよかった。
---
森を出るまで、何度も後ろを確認した。
追跡する血液反応はない。
搬工守の背中では、枝角と外殻が血糸に固定されている。
かなり目立つ。
それでも、落ちる様子はなかった。
「運べた」
《運搬状態――正常》
帰還隔壁の前へ到着する。
壁へ手を触れると、薄い光が走った。
《管理者を確認》
《随行作業個体を確認》
《外部付着物を検出》
「素材。家で使う」
《外部資源として仮登録します》
隔壁が開く。
ただし、直接生活区画へ続く扉は開かなかった。
代わりに、入口横の小さな区画が照らされる。
《外部資源受入区画を使用してください》
「そんな場所あったんだ」
《管理権限取得以前は利用できませんでした》
搬工守を受入区画へ入れる。
床には排水用の溝があり、壁から水を出せるようになっていた。
現代日本でいうなら、工場の荷物用洗浄室に近い。
腐った肉や森の灰がついた素材を、そのまま家へ運び込まなくて済む。
「ここで降ろして」
搬工守が枝角と外殻を床へ置く。
血糸を外す。
管路守を呼び、洗浄用の水を流してもらう。
掃工守も短時間だけ起こし、床へ落ちた灰や腐敗物を回収させた。
私は外殻へ付着している肉を、簡易血刃で少しずつ削る。
何度も刃が歪んだ。
そのたびに血を追加し、形を作り直す。
「面倒」
それでも、森の中よりは安全だった。
作業が終わるまで、素材を生活区画へ持ち込まない。
食料。
皮。
骨。
建材。
血。
それぞれを混ぜず、置く場所を決める。
外部へ出る時は、帰還隔壁を閉じる。
搬工守には退避条件を登録する。
帰ったあとは、受入区画で洗浄する。
一つずつ、次からも使える手順へ変えていった。
最後の外殻を壁へ立てかけた時、視界へ表示が現れた。
《功績達成》
《外部資源回収経路の確立》
《SP獲得――1》
私は作業の手を止めた。
「これで?」
魔物を倒したからではない。
灰森主の素材を持ち帰ったからだけでもない。
家の外へ出て、必要なものを安全に運び、汚れを落とし、保管する。
次からも繰り返せる形へした。
それが功績として認められたらしい。
《保有SP――1》
候補を開く。
《血刃――1SP》
以前から、何度も見てきた技能だった。
灰森主との戦いでは、取得していなくても簡易的な刃を作れた。
そのため、ほかの技能を優先した。
けれど、今日だけで何度崩れたか分からない。
戦闘。
解体。
素材加工。
生活の中でも、切る道具は必要だった。
「取る」
《SPを1消費》
《保有SP――0》
《技能取得》
《血刃 Lv.1》
指先を傷つけ、少量の血を出す。
これまでと同じように、刃を思い浮かべた。
血が伸びる。
固まる。
しかし、今まで作っていたものとは違った。
薄い。
形が揃っている。
刃先から持ち手まで、意識を強く向けなくても崩れない。
長さは短剣より少し長い程度。
小剣と呼ぶには短い。
現代日本でたとえるなら、大きな包丁に近かった。
《血刃 Lv.1》
《自身の血液を刃状に固定します》
《推奨形成範囲――短剣から小剣》
《長時間維持および強い衝撃によって血液を消耗します》
《他個体内部への直接形成はできません》
「便利そう」
灰森主の外殻へ刃を当てる。
表面を軽く引く。
細い傷が入った。
力を加え、同じ場所へ何度か刃を通す。
一度で切断できるほど強くはない。
硬い外殻へ無理に押しつけると、刃先が僅かに欠けた。
それでも、完全には崩れない。
血を少し足すだけで、欠けた部分が元へ戻る。
「全然違う」
外殻の端を、使いやすい大きさへ切り揃える。
時間はかかる。
けれど、簡易血刃のように何度も最初から作り直す必要はなかった。
加工した外殻は、縫工守の修理材や、火床の周囲を守る板に使えるかもしれない。
枝角は、さらに調べてから使い道を決める。
作業を終えたあと、喉が渇いた。
用意していた血袋を飲む。
前日に狩った魔物から分けたもので、まだ完全には固まっていない。
冷たくはない。
少し鉄臭い。
それでも、使った血が身体へ戻るような感覚があった。
洗浄区画へ移動し、身体を洗う。
森の灰。
腐敗した肉の臭い。
戦いで飛んだ血。
すべて温かい水で流した。
髪をほどく。
長い黒髪の間から、灰色の水が落ちていく。
何度も指を通し、臭いが薄くなるまで洗った。
身体を拭き、白いシャツへ着替える。
今度は下着もズボンも穿かない。
《裸族――発動中》
僅かに身体の感覚が軽くなる。
森で着ていた服は洗い、乾燥させるために縫工守へ渡した。
新しい家へ戻る。
夕食を作るため、保存肉と白い根を取り出した。
取得したばかりの《血刃》を短く形成する。
肉へ刃を入れる。
これまで石片や簡易血刃で切っていた時より、薄く切れた。
白い根も、同じ厚さに揃えられる。
「包丁」
少し違う。
かなり物騒だった。
自分の血で作った刃だ。
それでも、切った肉と根を石の器へ入れれば、夕食になる。
灰森主の外殻を切るために取った技能は、明日の食事にも使えた。
私は整った形の肉を眺める。
切る道具はできた。
水もある。
火も使える。
ただ、今の調理場所は、石の器と材料を床へ並べているだけだった。
「次は台所」
口に出すと、急に欲しくなった。
肉を切る場所。
器を置く場所。
火と水を、もっと使いやすくする場所。
家へ持ち帰る方法はできた。
次は、持ち帰ったものを暮らしへ変える場所が必要だった。




