第六話 《消さないもの》
新しい寝具で迎えた最初の朝、私は目を開けてからもしばらく身体を動かさなかった。
床の硬さをほとんど感じない。獣毛と柔らかな繊維を詰めた布が身体を受け止め、寝返りを打っても下から冷気が染み込んでこなかった。石棺ほど身体を囲まれる安心感はないが、腕も脚も自由に伸ばせる。
私は仰向けになり、天井を見た。
照明は消えている。
それでも《暗視》があるため、部屋の中はよく見えた。
縫工守は壁際で布を畳み、管路守はすでに点検へ出たらしく姿がない。炉工守は入口近くで動きを止め、低消費待機に入っていた。
火は灰の奥へわずかな熱を残している。
以前の朝なら、自分が起きるまで家の中では何も動かなかった。
今は、目を覚ます前から誰かが仕事をしている。
私は寝具の上で身体を横向きにした。
「楽」
かなり長く寝ていたい。
しかし、腹が減っていた。
私は起き上がり、寝具へ手をついた。柔らかな表面がゆっくり元へ戻る。
「これ、好き」
《要求への適合を確認しました》
縫工守から返事があった。
私は少し笑った。
「うん」
火を起こし直し、朝食を作る。
石の器へ水と保存肉を入れ、灰の森から持ち帰った香りのある葉を少し加えた。火が強くなるにつれて、乾いた肉の匂いへ青い葉の香りが混ざり、部屋の冷たい空気へ広がっていく。
私は湯気の立つ器を持ち、寝具の上へ座った。
汁を飲む。
少し塩が欲しいと思った。
まだ見つけていない。
「探すもの、増えた」
縫工守は答えなかった。
食事をしながら、私は現在の区域状態を開いた。
《区域供給状態》
補助供給出力:18%
《常時稼働可能作業個体数》
3
《現在稼働》
縫工守
管路守
炉工守
私は炉工守を見た。
動いていない。
けれど、稼働数には含まれている。
「炉工守、ずっと起きてる必要ある?」
《回答》
補助供給設備の安定監視に使用されています。
「何かあった時だけ起きるのは?」
《低消費待機への移行が可能です》
「今も待機じゃないの?」
《現在は作業個体としての稼働状態を維持した待機です》
私は少し考えた。
「もっと寝かせる」
《深度休眠への移行は推奨されません》
「すぐ起きられるくらい」
《保守待機への移行が可能です》
《異常検知時のみ自動起動します》
「それ」
《炉工守を保守待機へ移行します》
炉工守の胴体に灯っていた赤い光が少しずつ弱くなった。太い腕が身体の側面へ収納され、膝を折るようにして低い姿勢になる。
内部の駆動音も、やがて聞こえなくなった。
《常時稼働可能枠》
1
私は表示を見た。
「一体、増やせる」
候補はすぐに浮かんだ。
掃工守。
新しい家の掃除はまだ途中だった。家として使っている部屋はかなりきれいになったが、奥の小部屋や周辺通路には埃が残り、触れるたびに古い臭いが舞い上がる。
毎回短時間だけ起こすより、掃工守を動かしておいた方がいい。
私は食事を終えると、縫工守と一緒に作業個体管理区画へ向かった。
---
管理区画の照明は、以前より安定していた。
すべてが明るいわけではないが、私が進む方向に合わせて白い光が順番に灯る。通り過ぎた場所は少し遅れて暗くなり、限られた力を無駄に使わないよう調整されていた。
私は休眠中の掃工守の前へ立った。
低く横に広い身体には、まだ厚い埃が積もっている。床に近い位置には回転するための部品がいくつも並び、左右の作業腕は胴体へ折り畳まれていた。
「起こす」
《掃工守》
常時稼働個体として起動しますか?
「うん」
床の細い線へ光が走った。
掃工守の内部から低い音が聞こえ、身体の下にある小さな回転部が一つずつ動き始める。外装がわずかに震えるたび、積もっていた埃が床へ落ちた。
頭部にあたる場所へ光が灯る。
《掃工守》
《作業命令待機》
私は掃工守を見た。
「家と、近くの通路をきれいにして」
《清掃範囲を指定してください》
私の視界へ簡単な区域図が表示された。
石棺の部屋。
新しい家。
シャワー。
トイレ。
周辺通路。
まだ入ったことのない部屋は暗く表示され、確認済みの場所だけが細い線でつながっている。
私は新しい家と、そこからシャワーまでの通路を選んだ。
「ここ」
《清掃範囲を登録しました》
《廃棄基準を指定してください》
私は少し止まった。
「ごみを捨てる」
《廃棄対象を判定できません》
「埃とか、壊れて使えないもの」
《汚染物、堆積物および使用不能物品を廃棄対象として登録します》
私は頷いた。
「それでいい」
掃工守が動き出した。
床に落ちた自分の埃を吸い込みながら、管理区画の出口へ向かう。
私と縫工守も、その後を追った。
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掃工守の仕事は速かった。
通路の隅へ積もった埃を集め、小さな破片を拾い上げる。床へこびりついた黒い汚れには液体を少量吹きつけ、細い作業腕で表面を擦っていた。
私が何日もかけて掃除した場所より、ずっときれいになる。
掃工守が通った後では、床に残っていた古い金属の臭いまで少し薄くなっていた。
「便利」
私は掃工守の後ろを歩きながら、何度も床を見た。
足の裏へ細かな砂や埃がつかない。
歩くたびに上がっていた乾いた臭いもない。
新しい家に到着すると、掃工守は入口から順番に作業を始めた。
使っていない壁際。
棚の下。
寝具を置いた場所の周囲。
私が火を使う場所は、灰まで回収しようとした。
「待って」
掃工守が止まる。
私は火の跡を指差した。
「これは使う」
《燃焼残留物を廃棄対象から除外しますか?》
「全部じゃない。冷えた灰だけ取って。火種は残す」
《条件を登録します》
掃工守は灰の温度を調べるように作業腕を伸ばし、冷えた部分だけを器用に回収した。
私は少し感心した。
「分かるんだ」
《登録条件に従って処理しています》
会話ではない。
でも、頼んだ通りにしてくれる。
私は掃工守の作業をしばらく見てから、縫工守へ新しい服を頼むことにした。
布の保管場所へ向かおうとした時、背後で擦れる音がした。
私は振り返った。
掃工守が壁へ作業腕を伸ばしている。
その壁には、私が描き直した地図があった。
石棺。
灰の森。
水場。
森の主。
トイレ。
シャワー。
縫工守と管路守。
それから、丸い青色の何か。
掃工守の先端から液体が吹きつけられた。
黒い線が滲んだ。
私はすぐに走った。
「駄目!」
掃工守の腕を掴む。
作業は停止した。
壁には濡れた跡が残り、森の主の脚と、ドラ○もんの丸い顔の一部が崩れていた。
私は壁を見た。
「消した」
《壁面付着物を汚染物として処理しました》
私は掃工守を見る。
「汚れじゃない」
《未登録付着物です》
「絵」
《用途を確認できません》
私は少し苛立った。
「私が描いた」
《作成者情報を確認しました》
「消さないで」
《対象範囲を指定してください》
私は壁全体を指差した。
「ここに描いてあるもの、全部」
《壁面記録物として保護対象に登録します》
掃工守の作業腕が壁から離れた。
私は滲んだ絵へ顔を近づけた。
森の主の脚は、何本あるのか分からない形になっている。
丸い青色の何かは、顔の片側が縦に流れていた。
「もっと変になった」
もともと似ていない。
今はさらに似ていない。
私は濡れていない布で、壁の水分を慎重に押さえた。強く擦れば、残っている線まで消えてしまう。
縫工守が近づく。
私の隣で止まった。
「直せないよね」
《縫製対象ではありません》
「知ってる」
私は壁を見たまま答えた。
描き直せばいい。
地図は覚えている。
森の主の姿も、忘れていない。
ドラ○もんも、元の姿は覚えている。
たぶん。
それでも、最初に描いた線とまったく同じにはならない。
私は指先へ炭をつけた。
滲んだ森の主の脚を描き直す。
前より少し太くなった。
角も足す。
次に、丸い青色の何かへ顔の輪郭を戻した。
描いている途中で、縫工守が作業を始めようと動いた。
私は振り返らないまま言った。
「似てる?」
《判定基準を取得できません》
「そう」
私は鼻を描いた。
少しずれた。
口も描く。
やはり似ていない。
それでも、途中でやめなかった。
最後に文字をなぞり直す。
ドラ○もん
たぶん
私は少し離れて壁を見た。
「前より下手」
でも、残った。
消えなかった。
その時、表示が現れた。
《人間性》
上昇
私は首を傾げた。
「絵を直したから?」
《生活上の必須性を持たない個人的記録の保存を確認しました》
私は壁を見る。
生きるために必要なものではない。
地図は少し役に立つ。
でも、森の主の絵はなくても困らない。
ドラ○もんは、もっと困らない。
それでも残しておきたかった。
「必要じゃないから?」
《人間的生活習慣には、生命維持に直接寄与しない行動も含まれます》
私は少し考えた。
食べる。
飲む。
眠る。
身体を洗う。
それだけなら、生きられる。
絵はなくてもいい。
名前をつけなくてもいい。
縫工守を最初の子と呼ばなくても、仕事はする。
それでも、自分はそうした。
「無駄?」
《価値判断は実行しません》
「私は好き」
返事はなかった。
それでよかった。
---
私は掃工守の廃棄条件を改めて設定した。
壁の絵。
石棺の部屋に残したもの。
森の主の角。
自分で作った石の器。
使わなくなった古い水袋。
壊れた道具。
一つずつ、勝手に捨ててはいけないものとして登録する。
「壊れてても、私が作ったものは聞いて」
《所有物の廃棄前確認を設定しました》
「森から持ってきたものも」
《未分類収集物を確認対象に追加します》
「血は?」
《床面および設備への付着血液を汚染物として処理します》
私は少し考えた。
戦闘訓練で使うこともある。
保存する血もある。
「袋に入ってる血は捨てない。床に落ちてるのは掃除していい」
《条件を登録しました》
「火の近くの灰は、冷たくなったら取っていい」
《登録済みです》
「絵は絶対消さない」
《壁面記録物は保護対象です》
私は掃工守を見た。
「本当に?」
《保護対象への清掃処理は実行しません》
「よし」
掃工守は作業を再開した。
今度は絵のある壁へ近づいても、一定の距離を保って通り過ぎた。
私はそれを確認してから、ようやく安心した。
---
午後になると、管路守が点検から戻ってきた。
《生活系統点検》
新規異常:2
修復完了:1
未確認異常:18
私は数字を見た。
「増えた」
《新規点検範囲の拡大により、未確認異常を追加しました》
「直しても増える」
《区域全体の点検は完了していません》
施設は広い。
私が歩いた範囲だけでも、まだ使っていない部屋がいくつもある。もっと奥まで続いていることを考えれば、異常が十八で終わるはずもなかった。
私は管路守へ言った。
「すぐ壊れそうなものから直して。家の水とシャワーを最優先」
《優先順位を更新しました》
次に掃工守を見る。
「毎朝、家を掃除して。その後は通路を少しずつ」
《清掃予定を登録しました》
縫工守には、布と獣皮を整理しながら新しい服を作るよう頼んだ。
「今の服と同じくらい動きやすくて、洗ってる間に着るものが欲しい」
《替え衣類の製作要求を確認しました》
炉工守は保守待機。
異常があれば起きる。
管路守は点検と修理を行い、掃工守は決められた範囲を掃除する。縫工守は家の中で布を整え、私が必要とするものを作る。
私は部屋の中央に立った。
機械たちは、それぞれ別の仕事を始めている。
掃工守が床を滑る音。
縫工守が布を切る音。
遠ざかっていく管路守の足音。
火の中で薪が割れる音。
以前は、自分が手を止めれば家も止まった。
今は違う。
自分が全部をしなくても、家が少しずつ変わっていく。
私は寝具へ腰を下ろした。
「家が動いてる」
《区域管理機能は稼働中です》
壁から返事があった。
私は少し笑った。
「そうじゃない」
でも、説明はしなかった。
言葉にしなくても、自分には分かっていた。
家は水や壁だけではない。
火がある。
眠る場所がある。
自分が残したものがある。
誰かに消されたくないものもある。
私は描き直した壁を見た。
森の主は以前より脚が太く、ドラ○もんは顔が少し歪んでいる。
それでも、そこにあった。
私は掃工守へもう一度だけ言った。
「消さないでね」
《保護対象として登録されています》
今度は、返事を信じることにした。




