第五話 《マスターユーザー》
新しい部屋を家にすると決めてから、数日が過ぎた。
水袋。
保存肉。
石の器。
灰の森から持ち帰った皮や骨。
血糸で作った網。
必要なものを少しずつ運び、何もなかった部屋にも生活の跡が増えてきた。
壁には、石棺の部屋から見える範囲を描き直した地図がある。
石棺。
水場。
灰の森。
森の主。
トイレ。
洗浄区画。
調理区画。
縫工守と管路守の姿も、地図の端へ小さく描いた。
その隣には、以前よりさらに似ていないドラ○もんがいる。
下には、いつもの文字を添えてある。
ドラ○もん。
たぶん。
設備は少しずつ使えるようになった。
管路守が生活用の配管を巡回し、炉工守が補助供給設備と加熱設備を監視している。
縫工守は布と獣皮を整理し、傷んだ服や水袋を見つけると修理した。
搬工守は常に動かしておく余裕がないため、今は保守休止状態にしている。重いものを運ぶ必要がある時だけ、別の作業個体と交代で起こす予定だった。
暮らしやすくなっている。
それでも、寝る時だけは石棺の部屋へ戻っていた。
新しい部屋の床へ布を何枚も重ねてみたが、朝まで眠るには向いていなかった。
床から冷たさが伝わる。
寝返りを打つたびに布がずれる。
長い黒髪まで床へ広がり、起きた時には毛先に細かな埃がついていた。
石棺は硬い。
けれど、内側へ乾いた草と獣皮を詰めてある。
身体が収まる形をしているため、眠っている間に寝床が逃げない。
何より、目を覚ましてからずっと使ってきた。
横になると、妙に落ち着いた。
新しい家で眠りたい。
石棺も嫌いではない。
その二つは、同時に成り立っていた。
---
その日も石棺の中で目を覚ました。
身体を起こし、長い黒髪を背中へ払う。
火は夜の間に消えていた。
乾いた繊維へ火種を移し、細い枝を重ねる。炎が安定するまで待ってから、昨夜の残りの肉を平らな石へ載せた。
石の器には水を入れる。
薄く切った白い根。
肉の端。
香りの強い葉を一枚。
最近は、二枚入れると苦くなることを覚えた。
「今日は普通」
塩も味噌もない。
肉と根を煮ただけの汁だ。
それでも、焼いた肉だけを食べていた頃より、朝食らしいものにはなっている。
眠って起きたから朝。
実際の時刻がどうなっているのかは分からない。
今は、それで困らなかった。
食べ終えたあと、器を水場で洗う。
新しい家へ持っていく荷物を《影蔵》へ入れ、石棺の中に敷いていた予備の布も抱えた。
「今日は作る」
誰に言ったわけでもない。
新しい家へ戻ると、縫工守が壁際で布を畳んでいた。
私が近づくと、頭部の細い光が僅かに強くなる。
「おはよう」
返事はない。
それでも、毎日言うことにしている。
抱えてきた布を縫工守へ渡す。
「寝る時に使うものを作って」
縫工守は布を受け取った。
平らな作業板へ広げる。
しかし、それ以上は動かなかった。
「作らないの?」
反応はない。
布を指差す。
「これで、寝るもの」
縫工守の頭部が動いた。
布を見る。
私を見る。
再び停止する。
言葉が曖昧すぎるらしい。
「袋」
縫工守の作業腕が動き出した。
布の端を揃え、本当に大きな袋を作ろうとしている。
「違う」
作業が止まる。
私は布を床へ敷き、その上へ横になった。
白いシャツの裾が太腿の上へずれたため、片手で引き下ろす。
縫工守は私の格好には何の反応も示さず、布と身体の位置だけを確認しているようだった。
「こうやって寝る」
仰向けになる。
「柔らかくして。身体の下でずれなくて、床の冷たさが来ないもの」
縫工守は動かなかった。
私は横になったまま、頭部の光を見上げる。
「分からない?」
簡単な指示なら理解する。
布を切る。
縫う。
穴を塞ぐ。
指定した形の袋を作る。
けれど、目的を説明して、必要な形を考えてもらうことはできなかった。
私は身体を起こし、黒髪を背中へ払った。
「難しい」
縫工守が悪いわけではない。
私の説明が下手なのもある。
それでも、毎回すべての寸法や形を自分で決めなければならないなら、できることは限られていた。
服や水袋なら、完成した形を知っている。
寝具も元の世界にはあった。
ただ、今ある布、獣皮、獣毛で何をどう組み合わせればいいのかまでは分からない。
私は管理区画の方向を見た。
作業個体には、必要なことを判断する機能があるはずだった。
縫工守は、私より上手に服を直せる。
管路守は、私が理解できない配管の異常を見つけられる。
炉工守も、設備の熱や動力を自分で調整している。
けれど、私から複雑な目的を伝えることができない。
「聞く」
誰に聞けばいいのかは分からなかった。
それでも、管理壁なら何か答えるかもしれない。
---
洗浄区画へ寄り、身体を洗ってから管理区画へ向かった。
服を脱ぎ、温かい水を肩から受ける。
石棺の部屋で火を使ったため、肌と髪には薄く煙の臭いが残っていた。
腕。
胸。
腹。
脚。
順番に洗っていく。
今の身体にも、かなり慣れた。
胸や腰へ触れるたびに手が止まっていた頃とは違う。
自分の身体なのだから、自分で手入れする。
それだけだった。
長い黒髪へ水を含ませる。
濡れた毛先が腰より下まで伸び、背中と胸元へまとわりついた。
「やっぱり長い」
きれいではある。
ただし、洗うにも乾かすにも時間がかかる。
縫工守が作った布で髪を挟み、水分を取る。
肌を拭き、替えの白いシャツへ袖を通した。
下着もズボンも着けない。
家の中には、それを気にする者はいなかった。
白い布の下から脚だけが露出している。
元の世界でいう彼シャツに近い姿だが、借りた相手はいない。
自分のために作られた、自分のシャツだった。
「行く」
縫工守と管路守を連れ、管理区画へ向かった。
---
作業個体管理区画では、今日も多くの機械が眠っていた。
照明は入口付近しか点いていない。
暗闇の奥へ、作業個体の輪郭が何列も続いている。
管理壁へ近づくと、現在の状態が表示された。
《第七管理領域》
《復帰済み作業個体――4》
《常時稼働作業個体――3》
《保守休止作業個体――1》
《休眠作業個体――180》
現在、常時稼働しているのは三体だった。
縫工守。
管路守。
炉工守。
搬工守は、供給能力を超えないよう保守休止になっている。
必要になれば、稼働中の一体を止めて交代させる。
しかし、その交代操作さえ、今の私には自由にできなかった。
「聞きたい」
管理壁へ声をかける。
何も起きない。
手のひらを当てる。
「この子たちを、もっと言葉が分かるようにできる?」
反応はなかった。
軽く壁を叩く。
硬い音が返る。
少し強く叩く。
壁の奥で小さな音が鳴り、薄い光が走った。
《入力内容を処理できません》
「今、答えた」
《限定応答機能――稼働中》
「なら、質問する」
縫工守と管路守を指差す。
「どうしたら、目的を説明するだけで仕事を頼める?」
《作業個体の高度命令解析には管理権限が必要です》
「管理権限?」
《肯定》
「どうすれば取れる?」
《権限保有者による登録が必要です》
「権限を持ってる人は?」
《登録管理者を照会中》
少し待つ。
《応答可能な登録管理者を確認できません》
周囲を見る。
誰もいない。
百を超える機械が眠っているだけだった。
「ここにいない?」
《登録管理者との通信を確立できません》
「生きてる?」
《生存状況を確認できません》
管理者が別の場所にいる可能性はある。
けれど、私が目を覚ましてから、人間には一度も会っていない。
洞窟。
灰の森。
施設の入口周辺。
どこにも、自分以外の話す生き物はいなかった。
「管理者がいないなら、どうするの?」
《通常手順による管理権限の付与は実行できません》
「困る」
《回答不能》
少し腹が立った。
管理者がいなければ、権限をもらえない。
権限がなければ、作業個体へ十分な指示を出せない。
設備の状態も、分かる範囲が限られる。
今は温かい水が出る。
トイレも使える。
食事も作れる。
けれど、管路守が見つけている異常は増えている。
空調の大部分は停止したまま。
照明も、必要な場所へ僅かに点く程度。
何か一つ大きく壊れれば、今の暮らしは簡単に崩れるかもしれない。
私は壁へ向き直った。
「管理者はいない」
《登録管理者応答なし》
「でも、私がここを使ってる」
返事はない。
「縫工守を見つけたのも私」
《縫工守の外部復旧作業を確認》
「ほかの作業個体を起こしたのも私」
《複数作業個体の暫定復帰履歴を確認》
「管路守と一緒に水を直した」
《生活用給排水系統の部分復旧を確認》
「炉工守と動力も直した」
《補助供給効率の改善を確認》
「ここに住んでる」
表示が止まった。
私は続ける。
「ご飯を作って、身体を洗って、毎日戻ってきてる。壊れたところも探して直してる」
壁の光が一度消えた。
少し不安になる。
「聞いてる?」
返事の代わりに、床の奥から低い振動が伝わってきた。
天井へ細い光が走る。
作業個体が並ぶ列の上へ、弱い照明が一つずつ点いた。
暗闇の中に、百八十四体の輪郭が浮かび上がる。
四体は復帰済み。
百八十体は、まだ眠っている。
一斉に動き出したわけではない。
それでも、巨大な部屋の中で待ち続けていた機械たちの存在が、初めて端まで見えた。
私は反射的に血針を作りかけた。
その前に、新しい表示が現れる。
《緊急管理権限継承条件を照会》
手を止める。
《登録管理者――応答なし》
《区域管理機能――重大低下》
《生命維持設備の継続的利用を確認》
《長期居住実績を確認》
《施設復旧行動を確認》
《作業個体復旧実績を確認》
《生体適合情報を照合》
最後の項目だけ、表示に時間がかかった。
《緊急管理権限継承候補を確認》
《未登録個体》
「その呼び方、嫌」
《個体名称が登録されていません》
名前はある。
元の世界で使っていた名前。
家族や友人に呼ばれていた、男だった頃の名前。
忘れたわけではない。
捨てたつもりもない。
ただ、今の姿でその名前を名乗ることには、僅かな違和感があった。
長い黒髪。
赤い目。
血を飲む身体。
その名前で呼ばれていた頃の自分と、完全に同じだと言い切ることもできない。
私は答えなかった。
《名称登録は後から実行できます》
《緊急区域管理権限を継承しますか》
「何ができる?」
《第七管理領域内における設備命令権限を拡張します》
《作業個体判断情報の翻訳機能を利用できます》
《設備状態情報へのアクセス範囲を拡張します》
《一部制限区画への入室申請が可能になります》
「全部の扉を開けられる?」
《否定》
「全部の作業個体を起こせる?」
《供給能力および個体状態によって制限されます》
「この施設全部が私のものになる?」
《否定》
《継承対象は第七管理領域の緊急管理権限に限定されます》
施設全体の所有者になるわけではない。
今暮らしている区域を維持するための、非常用の権限だけだった。
それなら、少し安心できる。
危険がないとは言い切れない。
自分の身体の情報を、正体の分からない施設へ渡していいのかも分からない。
しかし、すでにここの水を飲み、設備を使い、毎日眠っている。
今さら無関係だとは言えなかった。
周囲を見る。
壊れた施設。
眠っている作業個体。
最初に直した縫工守。
水を流してくれた管路守。
重い素材を運んだ搬工守。
熱と動力を整えた炉工守。
そして、自分の布や道具が置かれた新しい部屋。
「ここ、今は誰が管理してるの?」
《有効な登録管理者を確認できません》
私は自分の胸元を指差した。
白いシャツの下で、心臓が動いている。
「じゃあ、私がやる」
《確認》
《第七管理領域を管理下に置きますか》
「うん」
《緊急管理権限の継承を開始》
足元へ淡い光が広がった。
驚いて一歩下がる。
光も一緒についてくる。
床から伸びた光が、足先から身体の輪郭をなぞるように上昇した。
白い脚。
シャツの裾。
腰。
胸元。
肩。
赤い目。
最後に、まだ少し湿っている黒髪の先までを包む。
《生体情報を取得中》
《既存種族情報との完全一致――なし》
《既存登録個体との照合――失敗》
「知ってる」
自分が何なのか分からないことは、今に始まったことではない。
《管理領域との生体適合率――規定値以上》
《長期居住情報を統合》
《代替個体識別情報を生成》
《緊急管理者登録》
《暫定マスターユーザー》
「マスター?」
《第七管理領域における最高権限保有者への暫定呼称です》
「偉い?」
《当該管理領域内においては、はい》
少しだけ口元が緩む。
「そう」
嫌ではなかった。
かなり。
《暫定マスターユーザー登録完了》
《管理者権限を確認》
《作業個体判断情報の翻訳を開始します》
管理区画の照明が、一斉に点いた。
すべてではない。
入口側から奥へ向かって、一列ずつ弱い白色の光が伸びていく。
損傷したもの。
埃をかぶったもの。
外装が失われたもの。
それでも、百を超える機械が長い間そこにいた。
作業個体の頭部へ小さな光が順番に灯り、すぐに消えていく。
《登録作業個体への管理者情報共有完了》
縫工守と管路守が、同時にこちらへ身体を向けた。
私は少し驚く。
「分かる?」
縫工守の頭部へ光が灯る。
同時に、今まで感じ取れなかった情報が、視界へ短い言葉として浮かんだ。
《管理者を確認》
《作業要求を受け付けます》
私は縫工守の前へ移動する。
「寝る時に使うものを作ってほしい」
一度言葉を切る。
今度は、目的を順番に伝えた。
「床が冷たくないもの。寝返りを打っても下から布がずれないもの。身体を伸ばして眠れるくらいの大きさで、できるだけ柔らかくして」
縫工守は数秒静止した。
《寝具製作要求を確認》
《使用可能な布材、獣皮および充填材を選定します》
目を少し見開く。
「分かった?」
《肯定》
縫工守の頭部へ両手を置く。
冷たい外装だった。
「すごい」
縫工守はすぐに材料の保管場所へ向かった。
以前なら、私が布の形も縫う場所もすべて指定しなければならなかった。
今は、目的を伝えるだけで必要なものを考えている。
次に管路守を見る。
「配管の異常が大きい場所から調べて。でも、トイレと洗浄区画と調理用の水は止めないで」
《生活設備を優先対象として登録》
《点検順序を再設定します》
「話が通じる」
人間のように会話をしているわけではない。
それでも、細かな動作を一つずつ命令しなくても、目的に合わせて方法を選んでくれる。
かなり違った。
管理壁へ向き直る。
「作業個体を交代させることもできる?」
《可能》
《現在の稼働構成を表示します》
《縫工守――通常稼働》
《管路守――通常稼働》
《炉工守――通常稼働》
《搬工守――保守休止》
《補助供給出力――18%》
《常時稼働可能作業個体数――3》
炉工守は今、補助供給設備の状態を常時監視している。
動いていないように見えても、稼働枠には含まれていた。
掃除を担当するらしい掃工守も見つけている。
しかし、今の三枠では同時に起こせない。
「炉工守を止めたら危ない?」
《補助供給設備の監視機能が低下します》
「必要な時だけ起きるようにはできる?」
《管理者権限による待機方式の変更が可能です》
すぐに変えることもできる。
けれど、炉工守を起こしたばかりで、動力設備も完全には安定していない。
今日はそのままにしておくことにした。
「明日考える」
《設定変更を保留します》
返事があるだけで、かなり使いやすかった。
---
管理区画を出たあと、炉工守へ別の頼み事をした。
新しい家では、調理設備を使える。
それでも、火も残しておきたかった。
肉を炙る。
煙を当てる。
火種を保存する。
調理板だけではできないこともある。
何より、炎を見ていると落ち着いた。
「新しい部屋で、安全に火を使える場所を作りたい」
炉工守の判断情報が返ってくる。
《居住区画内における燃焼設備の設置要求を確認》
《換気経路および耐熱床面を調査します》
炉工守は新しい家へ移動し、床と壁を調べ始めた。
部屋の隅に、ほかより色の濃い床材がある。
《鑑定》すると、耐熱性の高い作業用床面と表示された。
その上へ、施設内で見つけた浅い金属容器を置く。
周囲に燃えやすい布を置かないよう範囲を決め、壁の古い排気口を管路守に確認させる。
完全な暖炉ではない。
現代日本でいうなら、工場用の耐熱皿を使った小さな囲炉裏に近かった。
薪を置き、火を起こす。
煙の多くは壁際の排気口へ吸い込まれていく。
「これなら使える」
《居住区画内燃焼設備として暫定登録します》
火を完全に機械任せにするつもりはなかった。
自分で火種を作る。
薪を選ぶ。
料理や保存肉に使う。
そういう作業は残しておきたかった。
炉工守には、危険な温度になった時だけ止めてもらえばいい。
新しい家に、初めて炎が灯った。
照明とは違う橙色の光が、壁へ揺れる影を作る。
描き直した森の主。
似ていないドラ○もん。
縫工守と管路守の絵。
すべてが火の光に照らされていた。
「家っぽい」
《居住環境評価の変更を確認》
「今のは独り言」
施設は答えなかった。
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夕方と呼んでいる時間まで、私は新しい家の整理を続けた。
実際に夕方なのかは分からない。
眠くなり始める前を、そう呼んでいるだけだった。
壊れた棚を部屋の端へ移す。
使えそうな部品と、用途の分からない破片を分ける。
火を使う場所の周囲から布や乾いた繊維を遠ざける。
壁へ描いた地図へ、管理区画と作業個体待機区画を書き足した。
縫工守の絵の隣に、管路守も描く。
細い身体。
何本もの管。
完成した絵を見ても、管路守にはあまり似ていなかった。
「二番目」
何となくそう呼んだ。
本当に二番目に起こしたのは搬工守だった気もする。
順番は少し曖昧だった。
「まあいい」
自分しか見ない絵だった。
夕食は、新しく作った火床で肉を炙った。
石の器には水と根を入れ、調理板で煮込む。
火と設備を両方使う。
少し効率が悪い。
それでも、焼ける肉の匂いと、煮込みの湯気が同時に部屋へ広がるのは悪くなかった。
食べ終え、器を自分で洗う。
そのあと洗浄区画へ向かった。
白いシャツを脱ぐ。
火の近くで作業したため、布にも髪にも煙の匂いがついていた。
温かい水を出し、肩から浴びる。
濡れた黒髪が背中と胸元へ張りつく。
指で分けながら洗い、肌に残った埃も流した。
何も着ていない姿を水面へ映す。
白い肌。
赤い目。
濡れた黒髪。
この身体を見ても、以前ほど驚かなくなった。
きれいだとは思う。
それが自分の身体だということも、少しずつ受け入れている。
「慣れたのかな」
答える者はいない。
身体を拭き、洗って乾かしてあった白いシャツへ袖を通した。
柔らかな布が、まだ少し湿った肌へ触れる。
前を閉じ、長い袖をまくる。
裾は太腿の上まである。
人前なら気になる格好かもしれない。
今は、作業個体しかいなかった。
---
新しい家へ戻ると、縫工守が入口近くで待っていた。
足元には、大きな布の塊が置かれている。
厚い布の中へ、柔らかな獣毛と細い繊維が均等に詰められていた。
床へ触れる側には、滑りにくい丈夫な獣皮が縫いつけられている。
身体を横たえる側には、比較的柔らかな布が使われていた。
頭を置く部分だけ、少し厚く膨らんでいる。
全体の形は、現代日本の薄い敷布団と寝袋を組み合わせたようだった。
ただし、身体が収まる中央は僅かに窪み、寝返りを打っても外へずれにくく作られている。
「これ?」
《寝具製作要求に基づき作成しました》
靴を脱ぎ、寝具の上へ寝転ぶ。
身体が柔らかく沈む。
床の冷たさが伝わってこない。
仰向けになる。
腕を伸ばす。
脚も自由に動かせる。
石棺のように身体を囲まれる安心感はない。
それでも、床へ布を重ねただけの寝床とはまったく違った。
左右へ何度か寝返りを打つ。
寝具はほとんどずれない。
白いシャツの裾だけが少し上がったため、片手で引き下ろす。
長い髪は、頭の下に作られた柔らかい部分から左右へ流れた。
「すごくいい」
《要求への適合を確認しました》
短い返事が返る。
私は寝具の上へ横向きになり、縫工守を見る。
「ありがとう」
《作業完了を確認》
礼に対する返事ではない。
それでも、今はそれでよかった。
管路守が点検から戻ってくる足音が聞こえる。
炉工守は入口近くへ移動し、補助供給設備の監視を続けている。
縫工守は余った布を畳み始めた。
火床には、小さな炎が残っている。
以前は、自分が手を止めれば、家の中から音が消えた。
今は、横になっていても誰かが動いている。
静かではない。
それでも、不思議と落ち着いた。
「私の家」
管理壁から、すぐに表示が返る。
《現在地を暫定マスターユーザーの居住拠点として登録しますか》
目を開く。
部屋を見回す。
火を使う場所。
描き直した地図。
森の主。
似ていないドラ○もん。
最初の子と、二番目の絵。
自分で作った石の器。
古い水袋。
森から持ち帰った素材。
新しく作られた寝具。
「登録する」
《居住拠点を登録》
《登録名――ホーム》
表示された言葉を見つめる。
ホーム。
元の世界でも知っている。
家。
帰る場所。
私は寝具へ頬をつけた。
「うん」
石棺の部屋を捨てたわけではない。
あそこも、今まで私を守ってくれた場所だった。
けれど、今夜からはここで眠る。
火がある。
水がある。
自分の残したものがある。
私以外に動くものもいる。
施設から名前を与えられたから、家になったわけではない。
食事を作り、身体を洗い、道具を運び、眠る場所を整えた。
自分で帰ってきたいと思える場所にした。
だから、ここは家だった。




