第四話 《裸族》
問題が起きたのは、まともな服が増えたあとだった。
縫工守の稼働率が上がり、灰の森から持ち帰った獣皮や、施設内で見つけた布を正確に加工できるようになった。
長袖の上着。
脚を覆うズボン。
眠る時に着る薄い服。
肌へ直接触れる、小さな下着まで作った。
私はかなり喜んだ。
元の世界では、服があることなど当たり前だった。
今は、布を身体へ巻くのではなく、腕を袖へ通し、腰へ合わせたものを身につけられる。
洗浄区画の床へ水を溜め、そこへ映った自分を見る。
長い黒髪。
赤い目。
白い肌。
身体へ合った服。
「ちゃんとしてる」
少し前までは、獣皮を巻いただけだった。
それと比べれば、かなり人間らしく見えた。
服を着たまま生活を始める。
三日ほどして、僅かな違和感に気づいた。
身体が重い。
大きく動けないほどではない。
疲れているわけでも、血が不足しているわけでもなかった。
血針を作る。
壁へ放つ。
刺さる。
けれど、いつもより僅かに狙いが甘い。
血糸を伸ばす。
細くする時の調整に、余計な意識が必要になる。
走ってみても、身体の動きが少しだけ鈍い。
「調子悪い?」
状態を確認する。
渇血は低い。
疲労もない。
病気や毒の反応もなかった。
残る違いは服だった。
「これ?」
上着を脱ぐ。
薄い下着とズボンだけになる。
もう一度、血針を飛ばす。
先ほどより僅かに速い。
ズボンも脱ぐ。
下着だけの状態で試す。
まだ完全には戻らない。
最後に下着も外した。
何も身につけていない状態で血糸を作る。
血の流れが、先ほどより素直に指先へ集まった。
「なんで」
視界へ表示が現れる。
《生活特性の発動条件を確認》
《裸族 Lv.1》
私はしばらく、その名前を見ていた。
「嫌」
《質問内容を確認できません》
「いつ取ったの?」
《生活習慣の蓄積によって自動獲得しました》
灰の森で暮らしていた頃、まともな服はほとんどなかった。
水場では裸になる。
寝る時も、火の前でも、何も身につけないことが多かった。
誰もいないから気にしなかった。
その生活が、技能として定着したらしい。
「消せる?」
《生活特性の削除機能は確認できません》
「効果は?」
《裸族 Lv.1》
《発動条件》
《身体の大部分を衣類で覆っていない状態》
《身体を締めつける下着類を着用していない状態》
《効果》
《身体制御補助》
《感覚阻害の軽減》
《血液および魔力操作の微補助》
《長時間活動時の疲労軽減》
《補助効果――小》
強力な能力ではなかった。
服を着たら戦えなくなるわけでもない。
裸になれば急激に強くなるわけでもなかった。
身体と血の扱いが、少し楽になる程度の効果だった。
その程度で少し安心する。
しかし、名前は嫌だった。
「裸族」
改めて口にすると、さらに嫌だった。
洗浄区画には、全身を映す鏡はない。
代わりに、磨かれた金属板と水面へ自分の姿が映る。
私は何も着ていない自分を見る。
この身体で目覚めたばかりの頃は、胸や腰を見るたびに違和感があった。
今は、毎日洗い、傷を確かめ、服を着せている身体だった。
完全に慣れたわけではない。
それでも、知らない誰かの身体という感覚は薄くなっている。
肌は白い。
黒い髪は濡れると背中や胸元へ貼りつき、腰より下まで伸びている。
身体の線は細いが、胸と腰の差ははっきりしていた。
灰森主を押し返した力が、この見た目のどこにあるのかは今でも分からない。
水面へ映る自分を見て、少し首を傾げる。
「きれいではある」
自分で言うのは変だった。
けれど、事実としてそう見えた。
元の自分とはまったく違う。
赤い目と白い肌のせいで、人間離れしている。
それでも、見た目だけなら、かなり整った若い女だった。
自分の胸へ一度視線を落とし、すぐに顔へ戻す。
「私なんだけど」
まだ時々、他人を見ているような感覚になる。
そこへ縫工守が入ってきた。
私は反射的に身体を隠そうとして、途中で止めた。
相手は機械だった。
服を持っている。
洗浄区画の外へ置いていたものを、運んできたらしい。
「今、いらない」
縫工守は服を差し出したまま動かない。
裸の私を見ても、頭部の光に変化はない。
胸にも脚にも興味を示さず、服を受け取るのを待っている。
「気にする方が変か」
服を受け取り、実験を続けることにした。
全裸。
《裸族――発動中》
上着だけ。
裾が腰まであるため、身体の半分近くが覆われる。
《裸族――発動中》
ズボンだけ。
《裸族――発動中》
上下を着る。
《裸族――効果停止》
下着だけを着ける。
《裸族――効果停止》
「下着が一番駄目なんだ」
身体を締めつけるものが、この身体の感覚や血の流れを僅かに阻害するらしい。
科学的なのか、魔法的なのかは分からない。
服を着たい。
それでも、家の中で常に上下を揃えて着る必要があるかと聞かれれば、ない。
ここには人間がいない。
作業個体も気にしない。
戦闘へ出る時は、枝や爪から身体を守るために服を着ればいい。
家の中では、動きやすい格好をすればいい。
「でも、全裸は少し飽きた」
以前は平気だった。
今は縫工守が服を作れる。
選べるのなら、何かは着たい。
私は炭と布を持ってきて、縫工守へ簡単な絵を見せた。
元の世界で知っている、男性用の白いシャツ。
長い袖。
前を留める形。
丈は、普通のものより少し長くする。
「これを作って」
縫工守が絵を見る。
線が歪んでいる。
襟の形も、袖の位置もかなり怪しい。
それでも、縫工守は布を測り始めた。
私の肩幅。
腕の長さ。
胸元。
腰。
太腿までの距離。
作業腕が身体の近くへ来るたび、少しくすぐったい。
採寸のためだと分かっている。
それでも、元男性だった記憶のせいか、胸元へ機械の腕が近づくと少しだけ落ち着かなかった。
「そこは必要?」
縫工守は答えない。
必要だから測っているのだと思う。
完成を待つ間に、身体を洗った。
温かい水を止め、長い髪の水分を布で取る。
肌にはまだ小さな水滴が残っていた。
縫工守が完成した服を持って戻ってくる。
白に近い色をした、長袖のシャツだった。
前を小さな留め具で閉じられる。
丈は太腿の上まである。
私はその場で袖を通した。
濡れた肌の上へ布が触れる。
少し冷たい。
前を閉じる。
胸元は隠れた。
腰も隠れている。
立っているだけなら、裾が脚の付け根より少し下まで届いていた。
下着も、ズボンも着けていない。
それでも完全な裸ではない。
《裸族――発動中》
腕を上げる。
裾が僅かに持ち上がる。
身体を屈めると、さらに短くなる。
人前で着るにはかなり危ない。
今は見る者がいなかった。
「彼シャツみたい」
元の世界で聞いた言葉を思い出す。
恋人の大きなシャツを借り、女性が一枚だけ着る格好。
水面へ映った姿は、まさにそれに近かった。
長い濡れた黒髪。
白いシャツ。
赤い目。
布の下から伸びる白い脚。
濡れた布が胸や腰の形を僅かに拾っている。
「彼氏はいないけど」
そもそも、このシャツは私の身体へ合わせて作られている。
借り物ですらない。
それでも、見た目だけなら彼シャツだった。
血糸を伸ばす。
操作に問題はない。
血針も、何も着ていない時とほとんど変わらなかった。
通路を軽く走ってみる。
裾が脚へまとわりつかず、動きやすい。
袖は少し長く、指先まで隠れそうになる。
それも嫌ではなかった。
「これがいい」
縫工守へ振り返る。
当然、返事はない。
私は袖口を軽く引き、もう一度水面を見る。
服を着ている。
身体の感覚も邪魔しない。
それに、思っていたより似合っていた。
「同じの、もう一枚」
洗っている間に着るものが必要だった。
縫工守は残っている布を確認し、二着目の作業を始めた。
それから、施設の中では白いシャツ一枚で過ごすことが増えた。
調理する時も。
作業個体の修理を見る時も。
寝る時も。
温かい水で身体を洗ったあと、乾かしたシャツへ袖を通す。
下着は着けない。
ズボンも履かない。
裾が捲れそうになっても、誰も見ていないので気にしない。
搬工守は荷物しか見ない。
管路守は配管しか見ない。
炉工守は熱源しか見ない。
縫工守だけは服の状態を確認するため近づいてくるが、私の身体そのものに反応している様子はなかった。
「誰もいないし」
何度も使った言葉を、また口にする。
この時の私は、本当にそう思っていた。
この家へ人間が来ることなどない。
突然、知らない誰かが目の前へ現れることもない。
だから、白いシャツ一枚で暮らすことに何の問題もなかった。
後になって、この判断を少し後悔することになる。
今の私は、もちろん知らなかった。
その夜、白いシャツのまま中央分岐の柱を見上げる。
《第七管理領域》
《暫定稼働作業個体――4》
《休眠作業個体――180》
施設の大部分は、今も暗い。
水が出る場所は一部だけ。
照明はほとんど停止している。
開かない扉も多い。
私には、相変わらず正式な権限がなかった。
それでも、少しずつ暮らせる場所が増えている。
食事を作る。
身体を洗う。
服を洗う。
眠る。
壊れたものを直す。
作業個体と一緒に、次の日のための準備をする。
私はシャツの長い袖をまくり、床へ手を触れた。
《領域同化》を使う。
以前は石棺の部屋でしか、うまく使えなかった。
今は、生活区画にも少しずつ自分の気配を広げられる。
調理区画。
洗浄区画。
寝床。
縫工守が止まっている壁際。
毎日歩く通路。
暮らした時間が増えるほど、この場所へ馴染んでいく。
「私、ここに住む」
柱は答えない。
「だから、もっと使わせて」
反応はなかった。
それでも、施設が完全に拒んでいるようには思えなかった。
入口を開けた。
水を出した。
作業個体の暫定稼働も許可した。
正式な管理者ではない。
けれど、侵入者として排除されてもいない。
私は床へ広げた感覚を、少しだけ遠くまで伸ばした。
「家にする」
それは願いではなかった。
ここへ住み続けるという、自分で決めたことだった。
しばらくして、柱の表面へ細い光が走る。
《継続的居住行動を確認》
《暫定内部者情報を更新》
表示はすぐに消えた。
何が変わったのかは分からない。
それでも、初めて施設の方から、私がここで暮らしていることを認められた気がした。




