第三話 《百八十四》
朝と呼んでいる時間に目を覚ますと、私はまだ石棺の中にいた。
施設側にも布を敷いた寝床はある。
けれど、平らな床へ布を重ねただけのものより、石棺の中へ乾いた草と獣皮を詰めた寝床の方が眠りやすかった。
身体を起こし、長い黒髪を背中へ払う。
火は消えている。
乾いた繊維へ火種を移し、細い枝を重ねる。炎が安定してから、昨夜の残りの肉を平らな石へ載せた。
石の器には水を入れ、薄く切った白い根と肉の端を加える。
味つけに使えるものは、まだ香りの強い葉しか見つけていない。
一枚だけ千切って入れる。
二枚入れると苦くなることは、既に試して分かっていた。
「今日は普通」
何を基準に普通と呼んでいるのかは分からない。
塩も味噌も醤油もない。
肉と根を煮ただけの汁だ。
それでも、焼いた肉を噛み続けるよりは、温かいものを飲める方がよかった。
煮込みを食べ終え、施設側の洗浄区画へ移動する。
服を脱ぎ、温かい水を出す。
火を起こしてから来たため、髪や肌には薄く煙の臭いがついていた。
肩から水を受け、腕、胸、腹、脚の順に洗っていく。最後に黒髪を濡らし、指を通して灰や汚れを落とした。
元の水場で冷たい水を浴びていた頃と比べれば、かなり楽だった。
それでも、身体を洗うこと自体は機械へ任せられない。
自分の手で水を浴び、汚れが落ちたことを確かめる。
そういう時間は嫌いではなかった。
身体を拭き、縫工守が作った服を着る。
生活区画へ戻ると、縫工守は昨夜と同じ壁際で停止していた。
私が近づくと、頭部の光が少しだけ強くなる。
「おはよう」
返事はない。
挨拶を理解しているのかも分からない。
それでも、毎日起きた時に言うことにしていた。
中央分岐の柱へ移動する。
昨日から表示されている数字は変わっていない。
《第七管理領域》
《暫定稼働作業個体――1》
《休眠作業個体――183》
「百八十三」
縫工守一体だけで、服や水袋の状態はかなり改善した。
同じような機械が、ほかに百八十三体も眠っている。
すべてが無事とは限らない。
用途も分からない。
完全に壊れているものもいるだろう。
それでも、何があるのか確かめたかった。
「休眠個体はどこにいる?」
《位置情報の参照権限――不足》
「一番近い個体だけ」
《位置情報の参照権限――不足》
「修理したいだけなんだけど」
返事は変わらなかった。
「面倒」
壁の仕組みは、私を攻撃しない。
最低限の設備も使わせてくれる。
それでも、重要な情報へ触れようとすると、すぐに権限不足と表示する。
私は縫工守を見る。
「ほかの作業個体を探せる?」
縫工守は動かなかった。
言葉が複雑すぎるのかもしれない。
少し考え、短くする。
「休眠個体へ案内して」
頭部の光が一度だけ明るくなった。
縫工守は身体の向きを変え、保守区画へ歩き始める。
「分かるんだ」
私は《影蔵》へ水と保存肉を入れ、そのあとを追った。
縫工守は速くない。
稼働率は三割ほどで、左後ろの脚には僅かな遅れが残っている。
それでも、道に迷う様子はなかった。
中央分岐から外縁保守区へ入り、太い配管の並ぶ通路を進む。
途中で別の分岐へ入り、緩やかな坂を下った。
人工区画は、思っていた以上に広かった。
中央分岐から左右へ延びていたのは、大きな施設の入口部分にすぎない。
現代日本でたとえるなら、地下駅の改札から、巨大な工場や病院の裏側へ入り込んでいくような構造だった。
人や物を通すための広い主通路。
配管や機械を直すための狭い保守通路。
作業個体だけが通るらしい低い通路もある。
すべてが同じ高さや幅ではない。
縫工守が通れる隙間へ、私が入れない場所もあった。
「広すぎる」
同じような壁と扉が続く。
一人で歩けば、どこから来たのか分からなくなりそうだった。
私は分岐へ血糸を短く結び、帰る方向が分かるようにする。
以前は石で壁へ傷をつけていた。
今は、細い血糸を目印として残せる。
時間が経てば崩れるため、永久には残らない。
それでも、今日の探索には十分だった。
《鑑定》を使い続けていると、視界へ通知が出た。
《鑑定 Lv.1》
《鑑定 Lv.2》
壁を見る。
《外縁保守通路》
近くの扉。
《作業個体第一待機区画》
以前なら、人工物としか表示されなかった。
少しずつ、場所の役割まで分かるようになっている。
「ここ?」
縫工守が扉の前で止まった。
扉は開かない。
手を触れる。
《区画動力――停止》
《手動開放機構――固着》
「押せば開く?」
縫工守は扉の端へ細い作業腕を入れた。
押す。
僅かに音がしたが、扉は動かなかった。
私も横へ並び、左右へ分かれている扉の片側へ手をかける。
「一緒にやる?」
縫工守は返事をしない。
それでも、作業腕へ力を入れている。
「せーの」
全身で押す。
重い。
普通の扉ではない。
壁と同じ厚さを持つ、隔壁に近いものだった。
それでも、少しだけ動いた。
生じた隙間へ指を入れ、さらに力をかける。
縫工守も反対側から押している。
扉は低い音を立てながら、少しずつ開いた。
私が横向きになれば通れるだけの隙間ができる。
「入れる」
先に縫工守が中へ入る。
私も血針を浮かべたまま続いた。
部屋の中は、広い倉庫のようになっていた。
壁際に、作業個体が何列も並んでいる。
座った姿勢で止まっているもの。
四本の脚を折り畳んでいるもの。
箱のような胴体を持つもの。
人間より大きなものもいた。
一体。
二体。
五体。
十体。
暗闇の奥まで、同じような影が続いている。
血液感知には何も映らない。
それでも、大勢に見られているような感覚がした。
「ここだけで、何体いるの」
返事はない。
一番近くにいた作業個体を《鑑定》する。
《休眠作業個体》
《主要損傷――軽微》
《供給経路の再接続により復帰可能》
「これなら直せる?」
縫工守がその個体へ近づいた。
外装の一部を開く。
中へ作業腕を入れ、細い部品を一本抜いた。
別の場所へ差し直す。
何かを回し、外れていた管をつなぐ。
私は横から覗いたが、何をしているのかほとんど分からなかった。
縫工守には、同じ作業個体の構造が分かるらしい。
数分後、近くの壁へ光が灯った。
《簡易復帰可能》
《外部補助を伴う暫定稼働を開始しますか》
「開始する」
低い駆動音が響く。
停止していた作業個体の頭部へ、二つの光が入った。
ゆっくり立ち上がる。
縫工守より大きい。
胴体は太く、腕も長い。
背中には、荷物を固定するための枠のようなものがついていた。
私は少し距離を取る。
《個体識別――搬工守》
「運ぶための個体?」
試しに、床へ落ちていた大きな板を指差す。
「それを持って」
搬工守が板へ近づく。
両腕で掴み、持ち上げた。
私が両手で持っても苦労しそうな大きさだったが、搬工守はほとんど揺れない。
「すごい」
指示を出さなければ、板を持ったまま動かない。
「置いて」
板を床へ戻す。
「もう一度持って」
持ち上げる。
「そのまま待って」
搬工守は静止した。
単純な指示なら、縫工守より正確に理解しているようだった。
「便利」
最初に考えたのは、灰森主の角だった。
巨大な死体は、今も森の奥へ残っている。
私一人では、角や厚い外殻を運べなかった。
搬工守なら運べるかもしれない。
けれど、その場ですぐ森へ向かうことはしなかった。
まずは、施設内の生活を整える。
搬工守の動作が安定していることも確かめる必要があった。
その日は、もう一体だけ復帰させた。
細長い胴体の周囲へ、何本もの管と作業腕を巻きつけている個体だった。
《個体識別――管路守》
「配管を直す?」
管路守を、生活補助区の給水設備へ連れていく。
調理区画の奥には、触っても水が出ない場所がいくつかあった。
「ここ」
管路守が壁へ接近する。
床の一部を開き、中の管を調べ始めた。
一本を外す。
詰まっていた黒い塊を取り除く。
別の管へつなぎ直す。
私は隣へ座って作業を見ていた。
途中で保存肉を食べ、水を飲む。
管路守は三時間近く動き続けた。
やがて、これまで反応しなかった給水口から細い水が出た。
手を入れる。
「出た」
冷たい。
それでも、水場から運ばなくても調理区画で水を使えるようになった。
管路守は何も答えない。
私は水が流れ続ける様子をしばらく見ていた。
それだけで、かなり嬉しかった。
生活区画へ戻る時、何度も後ろを振り返った。
縫工守。
搬工守。
管路守。
三体の作業個体が、一定の間隔を空けてついてくる。
誰も話さない。
けれど、一人で歩いていた時とは音が違う。
小さな駆動音。
硬い脚が床へ触れる音。
部品の僅かな擦れる音。
通路が、完全な静寂ではなくなった。
「増えた」
それだけ口にした。
その日の食事は、調理区画で作った。
管路守が復旧させた水を石の器へ入れ、加熱調理板へ置く。
肉と白い根を煮る。
縫工守は壁際。
搬工守は、運ぶものがないため動かない。
管路守は調理区画の給水設備を何度も確認している。
一人で食べていることは変わらない。
それでも、以前より部屋が賑やかに感じられた。
翌日、搬工守を連れて灰の森へ向かった。
入口近くで停止させるつもりだったが、簡単な命令であれば森の中でもついてくる。
灰森主を倒した場所へ近づくと、死体はかなり崩れていた。
肉の多くは小型魔物に食べられ、硬い外殻と骨、巨大な角が残っている。
周辺の血液反応を確かめる。
危険な大きさの魔物はいない。
私は血針を浮かべたまま、搬工守へ角を指差した。
「これを運んで」
搬工守が角の根元を掴む。
持ち上げようとする。
一度では動かなかった。
姿勢を変え、背中の枠へ角を固定する。
今度は、ゆっくりと持ち上がった。
「本当に持てるんだ」
角のすべてを持ち帰るのは難しい。
搬工守の動きも大きく鈍る。
途中で折れていた一本と、厚い外殻を数枚だけ回収した。
全部を欲張って危険を増やすつもりはなかった。
死体の前で、僅かに頭を下げる。
「使うから」
灰森主が答えることはない。
それでも、自分の生活圏を支配していた相手だった。
倒したあと、肉も骨も使わず放置するよりはよかった。
施設へ戻ると、搬工守が角と外殻を保守区画へ運んだ。
縫工守は外殻の縁を調べ、管路守は興味を示さない。
作業個体ごとに、役割がはっきり分かれている。
それから数日間、休眠個体の復帰と施設の修理を続けた。
ただし、一日に使える時間のすべてを修理へ回したわけではない。
血を使えば、狩りへ行く必要がある。
肉が減れば、保存食を作る。
身体を洗う。
服を洗う。
眠る。
新しい設備が増えても、生活そのものが消えるわけではなかった。
第四の作業個体として選んだのは、胴体の中央に熱を発する構造を持つ個体だった。
《個体識別――炉工守》
炉工守を調理区画へ連れていく。
第十二章で見つけた加熱調理板は使えるが、出力が低く、湯を沸かすだけでも時間がかかっていた。
「これを直せる?」
炉工守が設備へ接近する。
内部へ細い作業腕を入れ、熱の流れを調整し始めた。
数時間後、調理板の表示が変わる。
《加熱出力――安定》
《低温調理》
《煮沸》
《高温焼成》
「増えた」
石の器へ水を入れ、煮沸を選ぶ。
以前より短い時間で泡が上がり始めた。
平らな耐熱板へ肉を置けば、煙をほとんど出さずに焼ける。
「楽」
火を一から起こした時のことを忘れたわけではない。
自分で火を作れた時、本当に嬉しかった。
けれど、毎回苦労する必要はなかった。
便利なものがあるなら使えばいい。
その夜は、灰森主の骨の一部を長く煮た。
骨から僅かに脂と味が出る。
肉と根を加えると、これまでの薄い湯より、少しだけスープらしくなった。
現代日本でいうなら、塩を一切入れていない豚汁に近い。
見た目はそれなりだが、味はかなり足りない。
「塩があれば」
それでも、今まで作った中では一番おいしかった。
《人間性――微増》
《調理工程の改善を確認》
作業個体が四体になったところで、施設から警告が出た。
《暫定稼働作業個体――4》
《低出力環境における同時稼働推奨上限へ到達》
《追加起動時、生活維持系統の停止リスクあり》
「これ以上は駄目?」
完全に不可能ではない。
けれど、一体増やす代わりに、給水や洗浄設備が止まる可能性がある。
今は四体で十分だった。
服を直す縫工守。
重いものを運ぶ搬工守。
水と排水を直す管路守。
熱と調理設備を整える炉工守。
一体増えるたびに、私が直接しなければならない作業は減っていった。
そこで、少し不安になった。
水は管路守が用意してくれる。
火は炉工守が整える。
服は縫工守が直す。
重いものは搬工守が運ぶ。
私は食べて、血を飲み、眠るだけでも暮らせるようになり始めていた。
「便利なのは、駄目?」
《利便性の向上は、人間性の直接的低下要因ではありません》
「何もしなくなったら?」
《自発的生活行動の著しい消失を確認した場合、人間性が低下する可能性があります》
「やっぱり」
作業個体を止める必要はない。
便利さを捨てる理由もない。
ただ、すべてを任せ、自分が生きるための行動すらしなくなるのは違う。
その日の食事は、自分で作った。
炉工守には調理設備の温度だけを維持させる。
肉を切る。
根を洗う。
鍋へ入れる。
味を確かめる。
使った器も自分で洗った。
服の破れは縫工守へ任せたが、汚れた服は自分で水へ浸し、手で揉んだ。
縫工守に手伝わせれば、もっと早く終わる。
それでも、一緒に作業した。
効率は悪かった。
《人間性――微増》
表示を見て、少し笑う。
「そういうこと」
機械に全部任せないことが重要なのではない。
便利なものを使いながらも、自分の意思で暮らす。
それでいいらしい。
数週間後、中央分岐の表示はこうなっていた。
《第七管理領域》
《暫定稼働作業個体――4》
《休眠作業個体――180》
「まだ百八十」
最初に見た百八十三という数字は、ほとんど減っていない。
それでも、急ぐ必要はなかった。
眠っているものをすべて起こしたいわけではない。
必要になった時に、必要な役割を持つ個体を探す。
今の四体を、できるだけ壊れない状態へ直す。
それだけでも、することは多かった。
縫工守を見る。
「最初の子」
搬工守が灰森主の角を移動させる。
管路守が床下の管を調べている。
炉工守は調理区画で静止していた。
話す者はいない。
それでも、私はもう一人で施設を直しているわけではなかった。
軍隊を作りたいわけでもない。
大勢を起こして従わせたいわけでもなかった。
ただ、ここで暮らせるようにしたい。
そのために必要なものを、一つずつ目覚めさせていた。




