第一話 《扉の向こう》
振り返れば、扉は開いたままになっている。
通路の向こうには、火を置いた石棺の部屋が見えた。
帰れる。
それを確認してから、さらに進んだ。
入口の短い通路を抜けると、広い場所へ出た。
左右と正面へ、三本の通路が延びている。
中央には低い柱のような設備があり、その周囲だけ床の色が少し違った。
規模は、家というより大型施設だった。
幅だけなら、大きな駅の地下通路に近い。左右の壁の間を、荷車や自動車が数台並んで通れそうだった。
天井も高い。
私が灰森主を倒した角を立てても、まだ余裕がありそうだった。
「大きい」
石棺の部屋が何十個あっても足りない。
中央の柱へ近づくと、表面へ薄い光が灯った。
《帰還対象を確認》
《第七管理領域・外縁区》
《限定待機状態》
《主要動力――停止》
《生活維持系統――低出力稼働》
第七管理領域。
帰還対象。
分からない言葉は増えたが、少なくとも、この場所が完全に死んでいるわけではなかった。
柱の上へ、簡単な図が浮かぶ。
入口から続く短い通路。
今立っている中央分岐。
左側には、複数の小部屋が並ぶ区画。
右側には、細い通路と大きな部屋。
正面は途中から赤く表示され、その先が塗り潰されていた。
《現在接続区画》
《帰還前室》
《生活補助区》
《外縁保守区》
《内側管理区画――閉鎖》
「左が生活?」
《応答権限を確認できません》
壁の設備から返ってきたのは、それだけだった。
質問には答えてくれない。
それでも、図があれば歩く順番を決められる。
最初は左側。
水や生活に関係する場所があるらしい。
その前に、残していたSPを使うことにした。
《保有SP――1》
《取得候補》
《鑑定――1SP》
《微火――1SP》
《血刃――1SP》
《闇幕――2SP》
今までは《血刃》が欲しかった。
解体にも戦闘にも使える。
ただ、目の前には知らない設備が多すぎた。
壁。
扉。
床。
照明。
触っていいものと、触らない方がいいものも分からない。
「《鑑定》を取る」
《SPを1消費》
《保有SP――0》
《技能取得》
《鑑定 Lv.1》
すぐに近くの壁を見る。
《人工構造材》
《分類――高耐久複合材》
《詳細組成――解析不能》
完全に分かったわけではない。
それでも、ただ《材質不明》と出るよりはましだった。
石、金属、魔力を通す別の素材を混ぜた、建物用の頑丈な材料らしい。
日本で見たものにたとえるなら、コンクリートと金属製の壁を一つにしたようなものだった。
床を見る。
《耐摩耗床材》
《排水および清掃運用に対応》
「水を流しても平気なんだ」
次に入口の扉。
《高耐久隔壁》
《状態――限定稼働》
《緊急帰還経路として開放中》
天井の細長い板。
《区画照明設備》
《状態――停止》
《部分復旧可能》
《鑑定》だけでは、照明を点灯させる方法までは分からない。
それでも、それぞれが何のために作られたものかは判断できるようになった。
「前より使える」
取得したばかりなので、詳細までは分からない。
使っていけば、少しずつ見える情報も増えるのだと思う。
私は左側の通路へ進んだ。
数メートルおきに、同じ形をした扉が並んでいる。
最初の扉へ近づくと、中央から左右へ音もなく開いた。
自動ドアに近い。
ただし、透明なガラスではなく、壁と同じ灰白色の板だった。
「勝手に開くんだ」
中を覗く。
小さな部屋だった。
壁際に、腰ほどの高さの設備が置かれている。床の一部には排水口らしい溝があり、奥には座るための形をした白い器があった。
私はしばらく見た。
「トイレ?」
元の世界の便器と同じ形ではない。
背後に水の入ったタンクもなく、蓋もない。
それでも、座る場所と排水する場所が分かれているため、用途はすぐに理解できた。
《鑑定》を使う。
《個人用衛生設備》
《状態――待機》
《給排水系統――低出力稼働》
「使える?」
設備は答えない。
念のため周囲を見てから座ってみる。
足元に弱い光が走った。
《利用者を確認》
《簡易衛生処理を開始》
使用後、器の内側へ水が流れた。
汚れが見えなくなるまで洗浄され、その水も音を立てずに排水されていく。
臭いもほとんど残らない。
私は座ったまま、しばらく動かなかった。
これまでは、石を使って土を掘った。
水場や寝床から離れた場所を選び、使った後は土を戻した。
定期的に別の穴を掘り、臭いや虫にも気をつけなければならなかった。
今は座るだけで水が流れる。
「すごい」
壁の一部へ手を近づけると、細い水が出た。
完全な温水ではないが、冷たくもない。
人肌より少し低い程度の水だった。
手を洗う。
指の間まで流す。
「文明」
これまで火を起こした時にも、簡易浴槽を作った時にも同じことを言った。
今度こそ、元の世界で使っていた意味に近かった。
《人間性――上昇》
《衛生環境の大幅な改善を確認》
「これは分かる」
一人でも、トイレは重要だった。
むしろ、一人だからこそ、自分で全部管理しなければならない。
私はもう一度手を洗った。
ただ水が流れることが、かなり嬉しかった。
隣の扉も開いた。
今度の部屋は、トイレより広い。
床全体が僅かに傾いており、水が中央の排水口へ流れるようになっている。
壁にはいくつかの細い穴と、手を置けそうな操作部があった。
《洗浄区画》
《用途――生体表面の洗浄および簡易除染》
《給水――低出力》
《加温――限定稼働》
「シャワー?」
風呂ではない。
形は、工場や病院にある緊急洗浄用のシャワールームに近いのだと思う。
それでも、身体を洗うための水が出て、使った水をそのまま流せる。
今の私には十分だった。
獣皮の服を脱ぎ、壁の操作部へ触れる。
頭上と壁から水が出た。
最初は冷たかった。
数秒後、少しずつ温度が上がる。
熱い湯ではない。
それでも、水場の冷水とはまったく違った。
肩へ水を受ける。
「温かい」
目を閉じた。
水場で身体を洗ったばかりだったが、もう一度、髪から足先まで洗う。
狩りと解体で肌へ染みついていた血の臭いも、灰の細かな粉も流れていった。
長い黒髪へ指を通す。
水を運ぶ必要がない。
石を火で温める必要もない。
割れる石を警戒することもない。
「楽」
簡易浴槽を作った時の苦労が無駄になったわけではない。
あれは、自分で生活を取り戻した最初の風呂だった。
だから大事だった。
それでも、毎回あの作業をするより、ここで洗う方が遥かに楽だった。
《人間性――微増》
《生活衛生習慣の継続を確認》
水を止め、布で身体と髪を拭く。
髪が完全に乾くまでには時間がかかりそうだったが、今までより清潔に洗えた。
私は濡れた髪をまとめながら、洗浄区画の外へ出た。
「ここ、家にしたい」
トイレがある。
水も出る。
身体を温かい水で洗える。
近くには、使っていない小部屋もいくつかあった。
正体の分からない巨大施設ではある。
閉ざされた区画もあり、危険がないとは言い切れない。
それでも、生活する場所としては、石棺の部屋より遥かに便利だった。
その日のうちに、すべての荷物を移すことはしなかった。
まずは中央分岐と生活補助区だけを調べる。
扉の向こうに魔物はいないか。
給水が急に止まらないか。
入口の隔壁が勝手に閉じないか。
何度か石棺の部屋と往復し、問題が起きないことを確かめた。
最初に運んだのは、水袋と保存肉だった。
次に、布、皮、石の器。
血糸で作った網。
灰森主の素材は大きいため、持ち運べるものだけを選んだ。
石棺そのものは運べなかった。
私の力なら持ち上げることはできても、入口の通路を通らない。
布と草を敷いた石棺を見る。
長い間使ったベッドだった。
「置いていくの、嫌かも」
新しい場所へ移るからといって、ここを捨てる必要はない。
水場も、簡易浴槽も、壁へ描いた地図も残っている。
「ここも家」
新しい場所が増えるだけだった。
石棺の中の布を整え直す。
「また来る」
誰に言うわけでもない。
それから、少しずつ新しい生活区画へ物を運んだ。
壁に描いた絵だけは持っていけなかった。
火の近くに描いた、似ていないドラ○もん。
新しい部屋の壁へ、炭でもう一度描く。
丸い頭。
大きな目。
短い手足。
腹の前の袋。
完成したものは、前よりも似ていなかった。
下へ文字を書く。
ドラ○もん。
たぶん。
「同じ」
同じではない。
それでも、前の家と新しい家がつながったような気がした。
新しく選んだ部屋は、生活補助区の入口に近い小部屋だった。
小部屋といっても、石棺の部屋より少し広い。
元の世界なら、何も置かれていない十畳ほどの部屋に近かった。
ただ、今は床と壁しかない。
椅子もない。
食卓もない。
寝台もない。
火を使っていい場所も分からない。
床へ布を重ねて横になる。
硬い。
石棺より寝心地が悪かった。
「戻りたい」
その日は石棺の部屋へ戻って眠った。
翌日は新しい部屋で過ごし、夜だけ古い家へ戻る。
その次の日は、新しい部屋に布と乾いた草を増やした。
少しずつ滞在時間を長くする。
一度にすべてを変えるのではなく、暮らせる形へ整えてから移ることにした。
広くて、冷たい。
まだ家と呼ぶには何も足りない。
それでも、トイレがあり、温かい水が出る。
私が手を加えれば、もっと住みやすくできる。
そう思い始めた頃、生活補助区の奥から音が聞こえた。
金属同士を、ゆっくり擦り合わせたような音だった。
私は壁に描いたドラ○もんから顔を上げた。
《血液感知》には何も映らない。
「生き物じゃない?」
もう一度、音がした。
今度は少し近かった。
私は血針を作り、生活区画の奥へ向かった。




