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第8話「炎の覚悟」

 南の部屋に差し込む朝の光が、眠る青年の横顔を静かに照らしていた。


 サラはベッドの傍らに座り、彼の手の甲にそっと自らの手を重ねた。

 燃えるような高熱は引き、荒かった呼吸も今は規則的で穏やかなものへと変わっている。


「……熱が、下がってきたな」


 ぽつりとこぼしたサラの声に、わずかな安堵が滲む。

 彼が回復に向かっている。その事実だけが、今の彼女にとって唯一の救いだった。


 だが、彼が目を覚ますのをゆっくりと待っている猶予は、今の神殿には残されていない。

 サラは眠る青年の額にそっと手を添えた。


「……すまぬ。今は、我が守る。だから、もう少しだけ休んでおれ」


 サラは瞳を伏せ、ゆっくりと立ち上がる。


「……目覚めた時には、ちゃんと帰ってこよう」


 狼の耳を伏せ、小さくそう呟くと、彼女は静かに部屋を後にした。




 灰色の雲が広がり始めた昼下がり。

 重苦しい沈黙が支配する執務室で、サラの低く掠れた声が響いた。


「……西の森の魔物たちは、明日、北の霊山へ移送する。子供たちのうち、年長者には街の工房へ事情を話し、受け入れを頼んでくれ」


 神官たちは暗い顔で頷き、羊皮紙に書き留めていく。


 すべてを救うことはできない。


 彼が身を削って繋ぎ止めていた理想は限界を迎えた。

 残された命を明日へ繋ぐため、血を吐くような思いで『切り捨てる順番』を決めていく。


 その時だった。


『ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――』


 神殿の外から、地響きのような音が近づいてくる。

 無数の、統率された重い軍靴の音。金属の鎧が擦れ合う、冷たい不協和音。

 異変に気づいた若い神官が窓の外を見下ろし、悲鳴のような声を上げた。


「サ、サラ様ッ! 外に、軍が……兵団が、神殿を囲んでいます!」


 サラは窓辺に歩み寄った。

 神殿の正門を、黒金の鎧に身を包んだ数百の重武装の兵士たちが、隙間なく包囲していた。抜かれた剣先が、鈍い光を放っている。

 その陣形の中心に、豪奢な外套を羽織った隣領の貴族が馬に跨り、見下すように神殿を睨みつけていた。


「どういうことだ……。返事の猶予は与えられていたはず」


 サラの呟きを遮るように、魔力で増幅された貴族の冷酷な声が、神殿全体に響き渡った。


『火の柱殿! もはや返答を待つまでもないと判断した! そちらの機能は完全に停止している。これ以上の不法な保護施設の運営は、領主として看過できん!』


 中庭にいた子供たちが、林立する刃の群れを見て泣き叫び始める。動物たちが怯えて身を寄せ合い、神官たちはあまりの光景に絶望して膝をついた。


『ただちに神殿の扉を開け、子供と魔物を引き渡せ! 抵抗するならば、武力による施設の強制解体を執行する!』


 それは、最後通告だった。

 圧倒的な数の暴力。話し合いや猶予など、最初から与えるつもりなどなかったのだ。


「サラ、様……っ。どうすれば……っ」

 泣きすがる子供を抱きしめ、神官が震える声で助けを求める。

 今にも、重い破城槌が神殿の扉を打ち破ろうとしていた。


 サラは、静かに振り返った。

 回廊の奥、南の部屋。

 あの部屋のベッドで、彼が今も眠っている。


(あやつが目を覚ました時……帰る場所がなくなっていては、ならぬ)


 帳簿と、巧みな交渉と、己の命をすり減らすことによって、彼がどれほどこの『暴力的な現実』から、自分たちを遠ざけてくれていたのかを、今になって痛いほど思い知る。


 彼がいない今、誰がこの理不尽から皆を守るのか。

 答えは、一つしかなかった。


「……子供たちを、奥の部屋へ。誰も外へ出すな」


 サラは静かに告げると、一人で回廊を歩き出した。

 すれ違う神官たちが、その異様な気配に息を呑んで道を空ける。


 『火』が司るは、“再生”と――そして、“破壊”。


 彼女は命を慈しむ。

 だが、その本質は、かつて世界を脅かす脅威を単機で焼き尽くしてきた、文字通りの『戦力』なのだ。

 平和な神殿を築くため、ずっと心の奥底に封印し続けてきた、暴力の象徴。


 重い木製の両開き扉の前に立ち、サラはゆっくりと息を吸い込んだ。

 そして――


『ドガァァァァァンッ!!』


 扉を押し開けるのではない。

 吹き荒れる爆炎と共に、強固な正門の扉そのものが、内側から粉々に吹き飛ばされた。


「な、なんだッ!?」


 突如として弾け飛んだ扉と熱風に、前列の兵士たちが悲鳴を上げて後ずさる。


 もうもうと立ち込める黒煙の中。

 サラは、ゆっくりと石段を下り、兵団の眼前に姿を現した。


「……何用だ」


 静かな声だった。

 だが、その声が発せられた瞬間、周囲の空気が一気に歪んだ。


「ひっ……!」


 兵士の一人が、手にした剣を取り落とした。

 熱い。息ができない。

 サラの全身から、陽炎のように目に見える高密度の魔力が立ち昇っている。

 足元の石畳が、彼女が歩みを進めるたびに高熱でジュッと音を立てて黒く焦げていく。


 それは怒りですらなかった。

 背に守るべき命がある。

 ただそれだけの理由で、火の柱は立っていた。


「た、たかが女一人だ! 槍を構えろ! 囲めッ!」


 貴族の号令に、恐怖で足を震わせながらも、数十人の兵士がサラを取り囲み、鋭い槍先を一斉に突きつけた。


 だが、サラは足を止めない。


「……退()け」


 サラの切れ長の瞳が、赫々と燃える紅蓮の色に染まった。

 その瞬間、突きつけられていた数十本の鋼の槍先が、まるで飴細工のように真っ赤に熱せられ、ドロドロに溶け落ちた。


「うわぁぁッ!?」

(あつ)ッ! 武器が、溶け……ッ!」


 刃を失い、手のひらを焼かれた兵士たちが、恐怖に顔を歪めて次々と尻餅をつく。


 サラは、馬上で顔を青ざめさせている貴族を、静かに見据えた。

 その視線だけで、貴族の乗る軍馬が恐慌状態に陥り、いななきながら後ろへ下がろうとする。


「……本来ならば、この力は人へ向けぬと誓っていた」


「強大すぎる力は、時に取り返しのつかぬ過ちを起こす……。だが――」


「ここは命を繋ぐ場所。……土足で踏み荒らす輩を、我は許さぬ」


 サラの周囲に、巨大な炎の渦が顕現し、竜のように天高くうねりを上げた。

 周囲の空気がすべて焼き尽くされ、兵士たちが呼吸困難に陥り、次々とその場に倒れ伏していく。


「一歩でも踏み入れば、灰にする」


 炎の暴風の中、瞳に紅蓮を宿した火の柱は、ただ一人で数百の軍勢を前に、圧倒的な死の宣告を突きつけた。




「……帰ってこよう、って……」


 掠れた声が、静かな部屋に落ちた。


「……勝手に決めないでくださいよ……」


 閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。


 ぼやける視界。

 まだ身体の節々は鉛のように重いが、彼を縛り付けていた高熱は確かに引き始めている。

 だが、彼が意識を取り戻した理由は、熱が下がったからではなかった。


「……なんだ、この……熱気は……」


 閉ざされた窓ガラスがビリビリと震え、神殿全体を包み込むような異様な魔力の波動と、外から聞こえる兵士たちの悲鳴。

 それは、彼が知る穏やかな『火の神殿』の空気ではなかった。


「サラ、様……?」


 この圧倒的な気配の心当たりを、彼は一人しか知らない。

 ウシオは掠れた声を漏らし、軋む身体に鞭打つようにして、ベッドからゆっくりと身を起こした。


 彼女が、また一人で戦おうとしている。

 その事実だけが、重い身体を引きずるように前へと突き動かしていた。

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