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第7話「理想の代償」

 ウシオが倒れてから、二日が経った。

 火の神殿は、泥沼のような混乱の渦中にあった。


 指示を出す者がいないことで、備蓄の配分は滞った。


「薬草がありません! 熱が下がらないんです!」

「こっちは麦が足りません! 今日の夕食はどうするんですか!?」

「待って、あの子を止めて! 南の部屋の魔物が――!」


 泣き叫ぶ孤児の声。

 怯えて暴れる火トカゲの幼体。

 疲弊した神官たちの怒声。


 誰も悪くないはずなのに、誰もが余裕を失い始めていた。


「……もう、無理だ……」


 誰かの掠れた呟きが、騒音の中に溶けて消えた。


 サラは不眠不休で魔物を宥め、子供たちを抱きしめ、底を見せ始めた麦の計算をしようとしていた。

 だが、羊皮紙に並ぶ無機質な数字は、彼女の慈愛を容易く跳ね返す。


 そんな限界を迎えた神殿の玄関に、冷たく重い靴音が響いた。


「……随分と、凄惨な有様だな」


 豪奢な外套を羽織った隣領の貴族が、数名の従者を連れて立っていた。

 以前のような余裕を含んだ笑みはない。冷酷に弱った獲物の喉首を狙う、狩人の目だった。


「聞いたぞ。有能な書記官が倒れたそうだな。柱殿も、立っているのがやっとのように見えるが」

「……何用だ。今は、来客の相手をしている暇は――」

「神殿への『保護施設』としての認可を、取り消す手続きに入らせてもらった」


 サラの言葉を遮り、貴族は一枚の羊皮紙を突きつけた。


「神殿はあくまで宗教を司る場所だ。勝手に魔物や孤児を際限なく囲い込む権限などない。それに、衛生面での問題や、夜鳴きによる近隣住民からの苦情も、すでに我慢の限界を超えている」


 突きつけられたのは、反論の余地もない『正論』だった。


「これ以上、街の安寧を脅かすというのであれば、領主として兵を動かし、施設を解体せざるを得ない」


 貴族が傍らに従えた兵士を横目で見やる。


「弱者を救うというのは結構だ。だがな、それは余裕のある者の道楽でもある」


 貴族は肩を竦めた。


「採算の取れぬ善意は、いずれ周囲を巻き込んで沈む。ならば最初から、救う相手を選ぶべきだ」

「……」

「それが統治というものだよ。火の柱殿」


 サラは唇を噛み締めた。

 彼の言う通りだ。

 命を救いたいという己の理想だけで突っ走った結果が、この崩壊寸前の現状なのだから。


「今ならまだ、私の提案を受け入れる余地は残してある。私が後ろ盾となれば、認可の問題も資金も、すべて丸く収まるぞ」


 貴族が去った後、冷たい風が吹き抜ける回廊には、重苦しい沈黙だけが残された。


「……サラ様」


 ふらつく足取りで歩み寄ってきた若い神官が、血走った目で懇願するように口を開いた。


「もう、限界です……。怪我人の手当ても、子供たちの食事の準備も……これ以上は、私たちが倒れてしまいます……」


 そのひどく切実な声が、サラの胸を刃のように貫いた。


(我の理想は……本当に、誰も救っていなかったのか――)


 命に優劣はない。すべてを救いたい。

 その願いが、一人の青年を倒れさせ、神官たちをすり減らし、結果的に子供たちや動物たちをも路頭に迷わせようとしている。

 強固なはずの信念が、現実の重圧に耐えきれず、今まさに音を立てて砕け散ろうとしていた。




 気づけば、サラの足は執務室へと向かっていた。


 主のいない、静かな部屋。

 彼が座っていた机の上には、未処理の書類が乱雑に積まれ、インクの乾いた羽ペンが置きっぱなしになっている。


 いつも、ここで猫背になりながら帳簿と睨み合っていた銀髪の青年の姿が脳裏をよぎる。


『全部を救うのは無理です』

『だから……順番を、変えます』


 かつて彼が、困ったように笑いながら言っていた言葉。


「……ずるいではないか」


 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


「そんな大切なことを……なぜ、もっと早く我に言わなんだ」


 返事はない。

 執務室には、インクの乾いた羽ペンだけが残されていた。


 あの時は、ただ「そうか」と聞き流してしまっていた。

 だが、今なら痛いほど分かる。


 彼は、サラの綺麗事を叶えるために、削れるはずのない命の『順番』を、己の睡眠や食事を犠牲にして強引に組み替えてくれていたのだ。


「……おぬしは、どうしておったのだ? 我は……何を見ていた――こんなにも、近くにおったというのに」


 ぽつりと零れた呟きは、静かな部屋に吸い込まれていった。


 すべてを救おうとすれば、すべてが共倒れになる――


 サラはゆっくりと、執務室の入り口に集まってきた神官たちを振り返った。

 彼らもまた、柱である彼女の決定を、すがるような目で待っている。

 威厳ある決断を下さなければならない。彼らを導く、絶対的な存在として。


 だが――


「……我には」


 ひび割れた、掠れた声だった。


「……我には、分からぬ」


 酷く掠れた声だった。


「命に優劣はないと、ずっとそう信じてきた。誰も見捨てたくなかった。だが……我が誰も見捨てたくなかったからこそ、おぬしたちを追い詰めたのなら……」


 サラは拳を握り締めた。


「……我は、何を守っていたのだ」


 静まり返った執務室で、狼の耳が力なく伏せられる。


「教えてくれ」


 若い神官がおずおずと一歩前に出る。


「……食料が、足りません。子供たちの明日の食事が……っ、足りないのです」


 その一言を口火に、他の神官たちからも次々と声が上がる。


「薬草も、底をつきそうです」

「動物たちの藁も欲しい……!」

「私たちにも、休息を……っ」


 その声に、サラの狼の耳が真っ直ぐ、静かに、空を仰ぐ。


 そんなサラの袖を引っ張る小さな手――


「サラさまぁ、明日もご飯ある?」


 子供の一人が、心配そうにサラの顔を見上げた。

 その姿に周りの神官たちもどよめき立つ。

 言葉に詰まる者。服の裾で涙を拭う者――


 サラは震える手でその子を抱き寄せると、虚空にひとつ、息が溢れた。


「……我々は今、何を優先すべきなのだ」


 それは、柱としての完全な敗北だったのかもしれない。

 だが同時に、己の無力さを知り、初めて他者の声に耳を傾けようとする――彼女が、真に皆を導く者へと踏み出した、確かな『成長』の一歩でもあった。

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