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第6話「一番近くの悲鳴」

「ウシオさん。南区の支援申請、また増えてしまって……これ、どう調整しましょう」

「ああ、ここに置いておいてください。あとで俺が見ておきます」

「すみません。ウシオさんなら、大丈夫ですよね」

「はは。まあ……」


 執務室の片隅で交わされる、いつものやり取り。

 神殿の裏方を一人で背負う彼は、誰もが頼る『何でも背負ってくれる頼もしい人』だった。

 彼に任せておけば、神殿は回る。

 誰もがそう思い込み、当然のように彼に寄りかかっていた。


 サラもまた、その中の一人だった。


「……ウシオ。少し、顔色が悪いぞ」


 昼下がり、山積みの書類から顔を上げた彼にサラが声をかける。目の下には濃い隈が落ち、頬はあきらかにこけていた。

 だが、長い前髪の下からウシオはいつものように少し困ったような笑顔を貼り付ける。


「大丈夫です。少し寝不足なだけで」

「……」

「それに、まだ終わっていない仕事があるので」


 笑って、彼は再び羽ペンを握る。

 サラは狼の耳を微かに伏せながらも、その笑顔を前にすると、それ以上踏み込むことができなかった。




 その日の夕暮れ。

 サラは、西の教区から届いた急報を手に執務室に戻ってきた。


「ウシオ。西の村で大規模な土砂崩れが起きた。冬越しの備蓄の半分を直ちに支援に回し、我も救護に向かう。数日は戻れぬゆえ、後のことは——」


「……どうしてですか」


 静かな、けれどひどく冷たい声が、サラの言葉を遮った。


 羽ペンを止めたウシオが、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳は、いつもの穏やかなものではなく、限界まで張り詰めたガラスのように危うく揺れていた。


「ウシオ?」

「備蓄を半分も回せば、ここで保護している子供たちや動物たちが冬を越せなくなります。サラ様が数日不在になれば、残された結界の維持もままならない。……それは、分かっていますよね?」

「……分かっておる」


 サラは静かに頷いた。


「だが、あちらにも今すぐ救うべき命がある。我らの食事をさらに削れば、少しは保つだろう」

「……そうですよね」


 ウシオは俯いた。


「サラ様なら、そう言うと思いました」

「ウシオ?」

「備蓄の再計算をします。西の村へ回せる分も考えます。神官たちの配置も組み直します」

「……」

「だから、せめて――」


 羽ペンを握る指先が、小さく震えた。


「せめてサラ様だけでも、休んでください」

「我は柱だ」

「……」

「ここで休むわけにはいかぬ」

「……そうですか」


 ウシオは震える手で羽ペンを置いた。


「……どうしてですか――」


 そして、うつむいたまま、両の拳を強く握り込んだ。


「どうして……全部抱え込もうとするんですか!」


 不意に張り上げられた声に、サラは目を見開いた。


 ウシオがガタッと音を立てて立ち上がる。

 その異様な気迫に、執務室にいた他の神官たちも凍りついたように動きを止めた。


「サラ様は昨夜も一睡もせず、魔物の保護区の修繕をしていましたよね。食事も、自分の分を子供たちに分け与えてばかりだ。……そんな体で、数日も不眠不休の救護活動なんて、できるわけがない!」

「……我は、柱なのでな」

「だから! なぜもっと早く限界だと言わないんですか!」


 初めて向けられた、彼の激しい怒声。

 あまりのことに硬直したサラは、無意識のうちに反論を口にしていた。


「……おぬしこそ――」

「え?」

「おぬしこそ、限界ならばなぜ言わぬ! 我にどうしろと言うのだ! 目の前で助けを求める者を、見捨てよと!?」


 サラの顔にはいつもの流麗さなど微塵もなく、ただ苦悶に歪んでいた。


「我には、それができぬ! できぬのだ……!」


 その言葉に、ウシオはひどく悲痛な顔で笑った。


「……何度も言おうと思ったんです。でも、そのたびにサラ様は誰かを助けていて……。だから俺の方が我慢すればいいって……俺が頑張れば、なんとかなるって……」


 胸を鋭い刃で抉られたような衝撃に、サラは息を呑んだ。


「サラ様は……誰のことも見捨てない……でも――」


 ウシオは両手で机の端を強く握りしめ、震える声で叫んだ。


「自分を見捨ててるじゃないですか!」

「ウシオ……」

「俺たちのことも……!」

「……っ!」


「俺は……」


「あなたが壊れるところなんて……見たくないんです」


 執務室が静まり返った。

 誰も、何も言えなかった。


「……ウシオ?」


 ウシオは何かを言いかけるように唇を動かした。


「あ……」


 その声は最後まで形にならない。


 ぐらり、と――


「ウシオッ!」


 机に突っ伏し、そのまま糸が切れたように床へと倒れ伏す。

 サラが駆け寄って抱き起こすが、彼はすでに完全に意識を失っていた。燃えるような高熱が、彼の体を支配している。


 怪我をした動物の気配には、誰よりも早く気づける。

 孤児の微かな泣き声も、すぐに拾い上げることができる。

 命に優劣はないと、そう言い切っていたはずだった。


 なのに――


 一番近くで、必死に自分を支えてくれていた命の悲鳴にだけは、今の今まで気づけなかったのだ。


(ああ……)


『ウシオさんなら大丈夫』


 自分もまた、他の者たちと同じように、彼を『限界を知らない頼もしい存在』という便利な役割に押し込めていたのだと、サラは初めて思い知った。




 夜の静寂が降りた南の部屋。

 ベッドで苦しげな呼吸を繰り返すウシオの傍らで、サラはただ一人、彼の熱い手を両手で握りしめていた。


「我は、誰よりも命を尊いと言いながら……」


 静かな部屋に、掠れた声が落ちる。


「……一番近くにおった、おぬしの苦しみに、気づいてやれなかった」


 彼が笑って「俺がやります」と言うたびに、それに甘えていた。

 彼の笑顔の裏でどれほどの血が滲んでいたのかを、見ようとしなかった。

 彼が自分の理想を守るために、己の命を削ってくれていたことに、気づいてやれなかったのだ。


「……すまぬ」


 サラの切れ長の瞳から、熱い雫がこぼれ落ちる。


 自らの手で拾い上げた小さな命たちを護るため、気高く振る舞ってきた最初の『火の柱』。

 狼の耳を伏せ、尾を震わせながら、サラはただ彼の手を握り続けた。


「……どうか……」


 彼の手を自身の額に押し当て、サラは祈るように震える声を絞り出す。


「どうか……目を覚ましてくれ、ウシオ……」


 返事はなかった。


 熱に浮かされた寝息だけが、静かな部屋に、そしてサラの良心に響いていた。

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