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第5話「不在の輪郭」

 冷気を帯びだした北風が、今日も騒がしい火の神殿を吹き抜けていく。


 回廊を駆け回る子供たちの笑い声と、中庭で餌をねだる動物たちの鳴き声。

 その中心で、サラは腕まくりをして迷い犬の毛を梳いていた。


「サラ様。昼から少し、外回りに行ってきますね」


 背後から声をかけられ、サラは振り返った。

 ウシオが分厚い帳簿と麻袋を抱え、少しだけ眠そうな目を擦りながら立っている。


「南区の税務の確認と、市場で冬物の毛布を買い付けてきます。夕方には戻りますから」

「うむ。気をつけてな」

「はい。留守中の書類は、机の右に積んである分だけ署名をお願いしますね」


 ウシオは軽く頭を下げると、足早に神殿を出ていった。


 サラは犬の頭を撫でながら、その後ろ姿を静かに見送った。

 数時間いないだけだ。特に何が変わるわけでもない。


 そう、思っていたのだが――




「……ウシオ。この西教区からの書類は、どこへ回せばよいのだ?」


 執務室で羊皮紙を手に振り返ったサラは、隣の机が空であることに気づいて口をつぐんだ。


「あ、サラ様。それは私が引き取ります」


 別の神官が駆け寄り、書類を受け取っていく。


「南の部屋の子が、少し熱を出したぞ。……ウシオ、薬草の発注は」

「先日、ウシオさんが手配してくれていた分があります。私が煎じますね」


「中庭の柵を直さねばならんな。……ウシオ?」

「業者なら、明日の朝に来るよう手配済みだそうです!」


「…………」


 神殿は、きちんと回っていた。

 優秀な神官たちもいる。彼が数時間不在にしたところで、火の神殿の機能が停止するわけではない。


 それなのに――

 何か問題が起きるたび、分からないことがあるたび、サラは無意識に振り返り、その名前を呼ぼうとしてしまう。


 彼ならどうするか。彼ならどう手配したか。

 隣にあの少し猫背で、困ったように笑う青年がいないだけで、いつも通りの神殿が、どうしようもなく不便で、ひどく広く感じられた。


「……ウシオは――」


 夕暮れが近づく回廊で、サラはぽつりとこぼした。


「まだ、戻らぬのか」

「夕方には戻ると申しておりましたが……」

「そうか……。そうだったな……」


 サラは中庭の空を見上げた。

 茜色に染まり始めた雲の隙間から、行き場をなくしたような風が迷い込んできた。




 日が落ちかけ、神殿に薄暗い影が伸び始めた頃。

 玄関の重い扉が、ギイッと音を立てて開いた。


 両手で抱えきれないほどの毛布の束を持ったウシオが、疲労で少し肩を落としながら入ってくる。


「……遅かったな」


 玄関ホールで腕を組んで待っていたサラが声をかけると、ウシオはビクッと肩を跳ねさせた。毛布の隙間から覗く顔は、少しだけ青白い。


「す、すみません。市場の交渉が長引いちゃって……」


 ウシオはいつものように、困ったような、少し無理をした笑顔を浮かべた。

 サラは無言のまま歩み寄り、彼が抱えていた毛布の束を半ば強引に奪い取った。


「えっ、サラ様?」

「……」


 腕の中の重みが消え、目を瞬かせる彼を真っ直ぐに見下ろす。


「戻ってきて、よかった」


 サラは、それ以上の意味を持たせたつもりはなかった。

 ただ、胸の奥に張っていたものが、少しだけほどけた気がした。


「え?」


 しかし、ウシオは少しだけ目を丸くして、前髪の奥からサラの顔をじっと見つめた。

 回廊での重いため息も、無理をして貼り付けていた笑顔も、今はもうない。


「おぬしがおらぬと、不便でな」

「……はは」

「何がおかしい」

「いえ。そういうふうに言われたこと、なかったので」

「……?」

「俺、いてもいなくても変わらない人間だと思ってましたから」


 彼が静かに吐き出した息は、夕陽に溶け込むことなく、その場に漂うようだった。


「そんなはずなかろう」

「……なら、よかったです」


 小さく笑ったその声は、少し掠れていた。


「初めてなので。誰かに帰りを待たれてるのって」

「……そうなのか?」

「はい。だから、なんだか変な気分です」


 茜色の光が差し込む玄関ホール。

 ウシオの足音は確かに疲労を引きずっていたが、毛布を抱えて前を歩くサラの背中を見つめるその足取りは、ほんの少しだけ、温かな響きを持っていた。

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