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第4話「視えない傷」

 豪奢な外套を翻し、貴族は執務室の扉の前で振り返った。


「ならば、じっくりと考えさせてもらおう。また来るぞ、火の柱殿」


 不敵な笑みを残し、靴音を響かせて去っていく。


 静寂が戻った執務室で、サラは膝の上で固く握っていた拳をゆっくりと解いた。

 そして、隣に立つ書記官を見上げ、真顔のまま口を開く。


「……ウシオ。予算とは、具体的に何を削ればよいのだ」

「はい」

「この子らを減らすという話なら、聞かぬぞ」

「はい」

「動物も駄目だ。食事の質を落とすのもならん」


 無茶苦茶な要求である。

 だが、ウシオは手元の帳簿をパタンと閉じ、いつものように少し困ったような、けれど穏やかな笑顔を向けた。


「……分かってます」




 その言葉の裏で、ウシオの日常は泥沼のような忙しさの中にあった。


 朝靄がまだ晴れない薄暗い市場。

 彼は一番乗りで商人の前に立ち、頭を下げて冬越しの麦を少しでも安く買い付けていた。


 日が昇れば神殿へ戻り、不満を漏らす神官たちを宥めすかし、仕事を割り振る。


 回廊で喧嘩を始めた孤児たちの仲裁に入り、泥だらけになった手当をし、昼食もそこそこに貴族への角の立たない返書の文面を捻り出す。


 そして夜の静寂が降りる頃、蝋燭の灯りだけを頼りに、削れるはずのない予算の帳簿と夜明けまで睨み合う。




 数日後の、夕暮れ時。

 赤く染まった誰もいない回廊を、ウシオは重い足取りで歩いていた。


 不意に、彼の足が止まる。

 石壁にドサリと寄りかかり、ずるずると肩を落とした。


「……はぁ」


 静かな空間に落ちた、深く、ひどく重い溜息。


 普段の穏やかな笑顔は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、疲労にすり減った等身大の青年が俯いているだけだった。


 回廊の角。物陰から、サラはその光景をじっと見つめていた。


 怪我をした動物の気配なら、すぐに察知できる。

 なのに、いつも隣にいる彼の異常には、今の今まで気づけなかった。

 サラは狼の耳を伏せ、そっと声をかけようと足を踏み出した。


 だが――


 パン、と。ウシオは両手で自身の頬を軽く叩いた。

 顔を上げた時には、あの重い溜め息は消え去り、いつもの穏やかな表情がしっかりと貼り付けられている。


 サラは、踏み出した足を思わず引っ込めてしまった。




 夜の執務室。

 ランプの灯りの下で、ウシオは山積みの書類に向かい、羽ペンを走らせていた。

 サラは自分の机から、その横顔を静かに見つめる。


「ウシオ」

「はい。なんですか?」


 顔を上げた彼は、先ほど回廊で見せた疲労など微塵も感じさせない、いつもの笑顔だった。


「……今日は、もう休め」

「いえ、まだ仕事があるので」

「命は尊いのだろう?」


 サラは少しだけ声を張った。


「自らをすり減らしては元も子もない。休むのも仕事のうちだ」


 ウシオは目を丸くし、それから少しだけ悪戯っぽく笑った。


「……サラ様が守ろうとしてる命の中に、俺も入ってますか?」

「当たり前であろう」


 サラが真顔で即答すると、ウシオは嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます。でも……俺、丈夫なんで」

「……丈夫、という顔ではなかったがな」

「え?」

「……」

「……サラ様?」

「獣は、倒れる前ほど平気な顔をすることがある」

「……」

「だから少し、気になっただけだ」

「はは、獣ですか。でも本当、大丈夫です」

「そうか」


 壁に手をつき、倒れそうになっていた彼の姿を、サラは確かに見た。

 だが、あまりにも自然なその笑顔を、サラは信じたくなってしまう。


「……ならば、よいが。無理はするなよ」


 引き下がってくれたサラに、ウシオは「はい」と短く応え、再び帳簿へと視線を落とした。


 ランプの灯りが揺れるたび、ウシオの影は少しだけ細く見えた。

 それに気づきながら、サラは何も言えなかった。


 羽ペンの音だけが静かな執務室に響く。

 その音は規則正しく続いていた。

 けれど、インク壺へ伸びる指先だけが、誰にも気付かれぬほど微かに震えていた。

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