第3話「理想の対価」
窓の外から、中庭を駆け回る子供たちの声と、犬の鳴き声が聞こえてくる。
執務室には、豪奢な服に身を包んだ恰幅の良い男――隣領の貴族が、不敵な笑みを浮かべて長椅子に腰を下ろしていた。
彼の足元には、先日サラが保護して手紙を出した、純血種の猟犬が大人しく伏せている。
「迷い犬を保護していただいたこと、感謝するよ。……だが、随分と騒々しく、そして貧相な神殿だな」
貴族は執務室の簡素な調度品や、目の下に濃い隈を作って壁際に並ぶ神官たちを値踏みするように見回した。
サラは正面に座り、凛とした顔を崩さない。横には書記官のウシオが控え、手元の帳簿に静かに目を落としている。
「ここは命を繋ぐ場所だ。飾るための金はない」
「だろうな。聞いたぞ、魔物まで囲って食糧庫が底を尽きかけているそうじゃないか。使用人の給金も遅配気味だと」
神官たちの肩が、ビクリと震えた。
貴族は身を乗り出し、サラの切れ長の瞳、薄紫の髪、そしてその整った顔をまっすぐに見つめた。
「そこでだ、火の柱殿。私から合理的な提案がある。私に嫁ぎ、庇護下に入らないか。もちろん、悪いようにはしない」
「……何?」
「神殿への一切の干渉を取り下げ、十分な資金援助を約束しよう。そうだな、今の予算の三倍は出そうじゃないか」
ざわっ、と。
背後に控えていた神官たちの中で、明らかに空気が揺れた。
貴族の言葉は続く。
「その金があれば、孤児たちに毎日肉の入った温かい麦粥を食わせてやれる。毛布も新しいものを揃えられる。職員たちの給金も倍にしよう。休息も取れる。……君の言う『すべての命を救う』という崇高な理想は、金がないと維持できない」
暴力ではない。純然たる、圧倒的に魅力的で合理的な価値の提示。
「君ほど慈悲深い人なら、この提案が最善だと分かるだろう」
街行く男を振り向かせ、頬を赤らめさせるほど均整のとれたサラの全身を、貴族は値踏みするように眺める。
サラは眉を寄せ、静かに口を開こうとした。
「我は、身を売ってまで――」
「サラ様」
背後から、ひどく掠れた声がそれを遮った。
振り返ると、若い神官が、震える両手で自身の衣服を握りしめていた。
「……もし、本当にそれだけの予算が下りるなら……」
「おい、何を言っているんだ!?」
別の神官が咎める。だが、若い神官の瞳からは涙がこぼれ落ちた。
「だって……もう限界なんです! 子供たちは可愛いし、助けたい。でも、毎日睡眠は三時間、自分の食事を削って怪我人や魔物の世話をして……いつか誰かが倒れます! サラ様の理想は素晴らしいです。でも……私たちは、神様じゃないんです……っ」
その痛切な叫びに、咎めようとした神官も言葉を詰まらせ、深く下を向いた。
彼らもまた、限界擦れ擦れのところで立っていたのだ。
サラは、息を呑んだ。
自分の強烈な慈愛。命を救うという正しいはずの理想。
それが、現場で働く普通の人間たちをどれほど縛り付け、すり減らしていたのか。
サラの頭上の狼耳が、力なく垂れ下がる。
命に優劣はない。
だが、その理想は、彼らの生活と痛みを犠牲にして成り立っていた。
貴族の提案を受け入れれば、彼らは救われる。
自分の身一つを差し出すだけで、子供たちも、動物たちも、神官たちも、豊かな環境で明日を迎えられる。
サラは、膝の上で固く拳を握りしめた。
「……我一人が、己を曲げれば……皆が、救われるというのか」
揺れた。
絶対に折れるはずのなかった気高き柱の心が、逃げ場のない現実の重さの前に軋みを上げた。
貴族が勝利を確信し、満足げに笑みを深めた、その時だった。
「――お言葉ですが、閣下」
静かな声が、執務室に響いた。
ウシオだった。
彼は猫背気味の姿勢のまま、手元の帳簿から顔を上げずに羽ペンを動かしている。
「給金を倍にしていただく提案は大変魅力的ですが、計算が合いません」
「……なんだと? たかが書記官の分際で――」
「閣下の領地の税収と、昨今の不作の状況を鑑みるに、神殿の予算の三倍を『継続的』に支援することは不可能です。一時的な寄付ならともかく、恒久的な運営資金としては破綻しています」
ウシオは顔を上げ、貴族を真っ直ぐに見据えた。
「それに、サラ様がこの神殿を去れば、ここに残るのはただの『保護施設』です。火の柱という後ろ盾を失った施設に、閣下がいつまでも無償の援助を続けるという保証が、この契約のどこにも明記されていません」
「貴様……!」
「神官を限界まで働かせているのは、我々の管理不足です。それは、これから俺が徹夜で帳簿を叩き直して解決します。……ですから――」
ウシオはパタンと帳簿を閉じ、サラの横にすっと立った。
「うちの柱を、金で買えると思わないでください」
静かだが、一歩も引かない毅然とした態度。
だが、羽ペンを握る指先は、かすかに震えていた。
長い前髪の奥で、ごくり、と喉が上下する。
サラは目を見開き、隣に立つ青年の横顔を見上げた。
「……ウシオ」
「サラ様」
ウシオは困ったように、けれどどこか温かい目で彼女を見た。
「あなたは理想だけ語っていてください。……現実は、俺がなんとかしますから」
その声は震え、手のひらにはびっしょりと汗をかいていた。
サラはそれを見て、知らずに耳を少しだけ震わせた。




