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第2話「慈愛と算盤」

 『火の柱』の就任から、わずか三週間。

 火の神殿は、早くも深刻な機能不全の危機に陥っていた。


「あれぇ? サラさまはぁ? お留守ぅ?」

「こら! 廊下を走らないで、転ぶぞ!」

「あははは! 待てー!」

「うわぁっ、ちょっと待って! そこの毛布の山には怪我をした鹿が寝ているんだ、踏まないでくれ!」


 厳かなはずの神殿の回廊を、十数人の孤児たちが笑い声を上げて駆け抜けていく。

 中庭や空き部屋には、羽の折れた鳥や、脚を引きずる猪、迷子の犬猫が所狭しとひしめき合い、さながら巨大な治療所のような有様であった。


「毛布が足りません!」

「薬草も底をつきそうです!」


 悲鳴を上げる神官たちの中、長めの前髪を掻き上げた一人の書記官の青年が、抱えきれないほどの毛布と薬草を持って走り回っている。

 彼は手元の帳簿をめくりながら、目まぐるしく指示を飛ばしていた。


「戻ったぞ」


 重い扉が開き、薄紫色の髪を揺らしてサラが帰還した。


 待ちわびたとばかりに子供たちは飛びつき、あっという間にサラの周りには人垣ができあがる。


「サラさま、おかえりなさーい!」

「ああ、ただいま。よい子にしておったか?」

「サラさまぁ、今日もご飯ある?」

「おお、あるぞあるぞ! たぁんと食え」


 いつもと変わらぬ、穏やかな顔。

 だが、青年や神官たちは彼女の腕の中を見て、一斉に顔を引きつらせた。


「サ、サラ様……? その右腕に抱えられているのは……?」

「うむ。西の森で手負いになっておったのでな」


 サラの右腕には、鋭い牙と鱗を持つ、明らかに敵対的な魔物――火トカゲの幼体がぐったりと抱えられていた。


「ま、魔物の子ではないですか!? 結界内に持ち込むなんて……!」

「左腕の犬も……それ、隣領の貴族様が血眼になって探していた純血種の猟犬では!? 首輪がついておりますよ!」

「道端で震えておったのだ。見捨てるわけにはいかんだろう」

「窃盗になります!」


 頭を抱える職員たちをよそに、サラは真顔で首を傾げ、頭上の狼耳をぴくりと揺らした。


「なぜ騒ぐ。これも命だ。等しく尊いものに、人間も魔物も、貴族の所有物もなかろう」

「い、いや、そういう問題ではなく……!」

「命に優先順位はない」


 凛とした、微塵の迷いもない声だった。

 平然と言い放つサラに、神官たちが絶句した、その時だった――


「……南の空き部屋、使っていない祭具を移せば、魔物用の囲いが置けます」


 静かな声が、騒ぎをぴたりと止めた。

 あの前髪の長い青年だった。

 彼は猫背気味の姿勢のまま、手元の帳簿にすらすらと羽ペンを走らせている。

 サラの耳がさり気にピンと上を向く。


「猟犬は一時保護として、神殿から貴族へ『無事に保護いたしました』と恩を売る手紙を書きましょう。食料と毛布は……俺が冬の祭事用の予算を削って、今すぐ街で買い付けてきます」

「し、しかし……!」

「魔物と人間で通る道を分けます。皆さんは南の部屋の掃除を」


 青年は顔を上げ、目を細くして微笑んでいるサラを見た。

 そして、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、収容する場所を増やしましょうか。サラ様」


 その言葉に、サラの切れ長の瞳が見開かれ、背後の豊かな尻尾が『ばさっ』と大きく揺れた。




 その日の午後。

 神殿の裏手で、小さな異変が起きた。


「……麦が、足りません」


 神官の声は、静かだった。

 だが、その静けさは限界の証だった。


「毛布も、薬草も、予備が尽きかけています」


 誰もサラを責めない。

 ただ、現実だけが積み上がる。

 サラは一瞬だけ沈黙し、こう言う。


「ならば、我の食事を減らせばよい」


 当然のように。


 その瞬間、書記官の青年の手が止まった。


「……それは違います」


 初めての、明確な否定だった。

 神殿の空気が揺れる。


 青年は一度だけサラを見ると、すぐ帳簿に視線を戻す。


「サラ様が減らしても、明日は来ます。問題は消えません」

「では、どうする?」

「順番を変えます」


 その言葉に、サラの耳がわずかに動く。

 青年は淡々と続けた。


「全部を救うのは無理です。でも、“今死ぬもの”から救います」

「……」

「そして、“救ったあとも維持できる数”だけ残します」


 理屈だ。

 冷たいようでいて、極めて現実的な理屈。


 サラは少しだけ沈黙したあと、小さく息を吐いた。


「……我は、そういう計算は不得手だ」

「知っています」


 彼は少しだけ笑う。


「だから俺がいます」



 陽が落ち、夜の帷が落ち始める頃。

 増設された南の部屋で、魔物の幼体に包帯を巻き終えたサラの元へ、青年が温かい茶を持ってきた。


「ご苦労であったな。……すまぬ。我が無茶を言うばかりに」


 湯気越しに、サラが少しだけ申し訳なさそうに耳を伏せる。

 その、英雄らしからぬ素直な弱さに、青年は首を横に振った。


「いいんです。サラ様が救った命が、こうしてここで息をしている。それだけで、俺が帳簿と睨み合った意味がありますから」

「……」


 サラは目を瞬かせ、やがて、フッと柔らかく微笑んだ。


「我の無茶を、皆がこうして現実に変えてくれる……」


 薄紫色の髪が夜風に揺れ、朱を引いた瞼が、彼を真っ直ぐに見据える。


「……おぬし、名は?」


「ウシオです。しがない書記官ですよ」


 ウシオは少しだけ照れくさそうに頭を掻き、空になったお盆を抱え直した。


「ウシオ、か」


 サラはその響きを舌の上で転がし、もう一度、深く微笑んだ。


「頼りにしておるぞ、ウシオ」


 静かな夜風が、真新しい神殿を吹き抜けていく。

 命を見捨てられない不器用な火の柱と、彼女の理想を支える書記官。

 二人の騒がしくも温かい日常は、こうして静かに輪郭を結び始めたのである。

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