第1話「初代火の柱」
――静寂。
晩秋の涼やかな風が、真新しい石造りの神殿を吹き抜けていく。
ダイタニアの世界を支える四つの属性を司る神殿。
その一つ、『火の神殿』の最奥にて、一人の女性が静かに跪いていた。
薄紫色の長い髪が、床に広がる。
緩急ある長身を包むのは、異界の『着物』を模したしなやかな和装。
頭上にはピンと立つ狼の耳、そして背後には豊かな尻尾が静かに横たわっている。
目の上に引かれた朱のアイラインが、切れ長の涼やかな瞳に、凛とした武士のような威厳を与えていた。
不意に、彼女の頭上から、機械的でありながらどこか慈愛を含んだ不思議な声が響き渡る。
『火が司るは“破壊”と“再生”――故に、命の重さと尊さを知る者でないと、“柱”の役目は任せられない』
姿なき世界の管理者、《天照》。
その声を受け、サラは深く頭を垂れた。
『本日より、あなたを初代『火の柱』に任命するわ』
「……初代」
『ええ』
「我は、前例のない役職に就くということだな」
『簡単に言えばそうね』
「簡単に言うでない」
厳かな儀式の場であるはずなのだが、サラの頭上の獣耳が「ぴくっ」と微かな疑問符を描いて傾いた。
『ちなみに、仕事量は多いわ』
「ほう」
サラは涼しい顔を崩さなかった。
かつて己の命を賭して戦ったこともある身だ。少々の荒事など恐れるに足らない。
『民の相談』
「うむ」
『他神殿との調整』
「うむ」
『祭事への出席』
「うむ」
『魔物討伐』
「うむ!」
ここまでは想定の範囲内だ。
戦力であり、宗教的象徴でもある以上、当然の務めと言えよう。
サラの背後で、尻尾が誇らしげに揺れる。
『孤児の保護』
「……うむ?」
福祉事業。
少し毛色が違う気もするが、命を尊ぶ彼女にとってはむしろ望むところでもある。
尻尾の揺れが、少しだけゆっくりになった。
『税務確認』
「……待たれよ」
『貴族対応』
「待たれよ」
『予算編成』
「待たれよ!」
行政と事務作業の多重層。
冷静を貫くサラの顔面は微塵も動いていないが、背後の尻尾は完全に動きを止め、頭上の獣耳は「へにょん」と情けなく垂れ下がっていた。
『じゃあ、この羊皮紙に署名を頂戴』
「待たれよ!!」
静寂の神殿に、初代火の柱の切実な声が響き渡る。
「……話が違うではないか! 我は剣を振るうことはできても、算盤を弾くような真似は不得手だ! それに貴族の相手など、最も向いておらんぞ!」
『心配いらないわ。もう優秀な神官や書記官たちを神殿に配属してあるから。あなたは彼らを束ね、最終的な決断を下せばいいだけよ』
「む。……裏方はおるのだな?」
『ええ』
それを聞き、サラの耳が少しだけピンと持ち直す。
「……まあ、それならば……やれぬこともない、か」
『はい、じゃあ、改めて署名を、ね』
「承知した」
サラはすらすらと羽ペンを走らせ、羊皮紙に己の名を刻んだ。
この瞬間、正式にダイタニアの世界を護る四柱の一角、『火の柱』が誕生したのである。
『期待してるわ、サラ』
「うむ。我が身、この命尽きるまで、人々の安寧のために尽くそう」
就任式から、わずか数時間後。
「……」
サラは、自らの執務机の前に座り、ぽかんと口を半開きにしていた。
頭上の狼耳が、分かりやすくペタンと頭に張り付いている。
目の前には、彼女の座高を優に超えるほどの書類の山が築かれていた。
「失礼します。本日の書類です」
書類の山の向こうから現れたのは、ひょろりとした中背の青年だった。
銀色の前髪は長く、顔は隠れ、猫背気味で、どこか頼りない。
だが、書類を抱える手つきだけは妙に慣れていて――
「……そこへ頼む」
「はい」
机に積まれた羊皮紙の束が、ぴたりと綺麗に揃えられる。
(……几帳面な男だな)
『南区・孤児の保護申請』
『冬の収穫祭・予算捻出の件』
『畑を荒らす魔物(小型)の苦情』
『西教区における税の未納問題』
『隣領貴族からの表敬訪問の受け入れについて』
裏方がいるとは聞いた。確かにいた。
だが、その裏方たちが処理した書類の「最終確認と署名」という名の決裁印を押す作業が、これほどの分量になるとは誰が想像しただろうか。
「……つまり、雑務全部乗せということではないか」
誰もいない執務室で、サラは静かな顔のまま書類をめくった。
「……天照め。騙しおったな……」
ぽつりとこぼした彼女の呟きは、誰に届くこともなく、ただうず高く積まれた紙の山に吸い込まれていった。
「失礼します……追加の書類です……」
「……そこへ置いておけ……」
『ドン』
書類の塔が更にうず高くそびえ立つ。
「…………」
「…………」
「……すまぬ」
「はい?」
「この『予算編成』とは、何をすればよいのだ?」
青年は長い前髪の奥で少しだけ目を丸くした。
「予算編成ですか? そうですね……神士団や医療団など、神殿職務に関する資金繰りなどです」
「むう……。詳しいのだな」
「えっと、俺、こういうのしか取り柄なくて」
「……取り柄?」
「剣も魔法も全然なんで。だから、事務くらいしか……。柱様でも、分からないことってあるんですね」
「当たり前であろう」
サラは真顔で言った。
「我は神ではない。ただの獣人だ」
「……」
「不得手なことくらい、ある……」
青年は、小さく吹き出した。
「じゃあ、一緒にやりましょうか」
「……助かる」
「いえ。俺も早く帰れますし」
青年は困ったように笑った。
「……そうだな」
サラは片耳をぴくりと揺らした。
ほんの少しだけ、書類の山が先ほどより低く見えた。




