第10話「現実の答え」
黒金の鎧の列が遠ざかり、火の神殿に静寂が戻った。
割れた窓ガラスから冷たい秋風が吹き込む執務室。
ウシオは机に向かい、山積みの羊皮紙に素早く羽ペンを走らせていた。
「……ウシオ。まだ休まぬのか。熱は下がったとはいえ、無茶が過ぎる」
瓦礫の片付けを終えたサラが、呆れたように声をかける。
「平気ですよ。あの人に『一年』と約束してしまったでしょう?」
ウシオは手を止めず、ふっと笑った。
「神殿の規模の縮小。成獣に近い魔物の、北の霊山への移送手配。自立可能な年齢の孤児たちを街の工房へ見習いとして斡旋する手続き……そして、幼い子たちの里親制度の構築」
ウシオは書き上げたばかりの羊皮紙を、サラへ向けてそっと差し出した。
「……たぶん、回せます」
「たぶん?」
「正直、分かりません。でも今ある人員と予算で計算したら、一番長く持つ形がこれでした。近隣の商人から寄付を募る仕組みも整えれば、あの厄介な貴族の監査も何とか越えられるはずです」
それは、泥に塗れながらもこの場所を明日へ繋ぐための、地に足のついた現実的な計画だった。
サラは羊皮紙を受け取り、そこに並ぶ文字を静かに目で追う。
やがて、狼の耳を力なく伏せ、ポツリとこぼした。
「……これは、我があの時……命を切り捨てるために下した指示ではないか」
兵団が来る直前。すべてを救うことはできないと悟り、血を吐く思いで下した決断。
「おぬしは、我の冷酷な案を……」
「これは俺が倒れる前から少しずつ考えていた案でもあります。それに、切り捨てるためじゃありません」
ウシオは静かに、けれど強く否定した。
「サラ様が皆を明日へ生かすために、一人で背負って下した『原案』です」
「……」
「俺は、あなたのその覚悟を数字と計画に落とし込んだだけです。……俺たち全員で出した、現実の答えですよ」
サラは目を瞬かせ、手元の羊皮紙と、青白い顔で微笑む青年を交互に見つめた。
胸の奥でつかえていた重い塊が、彼の言葉でゆっくりと溶けていくのを感じていた。
その日の夜。
壊れた正門には仮の板が打ち付けられたが、神殿の中は不思議と温かい空気に満ちていた。
冷たい床の上で、毛布を分け合って眠る子供たち。その寝顔を優しく見守る神官たち。
回廊の片隅で、サラは石柱に背を預けて座り込んでいた。
隣には、温かいお茶の入った木杯を手にしたウシオがいる。
「……我は」
夜の暗がりに、サラのぽつりとした呟きが落ちた。
「我は、ずっと……柱、失格だと思っていた」
すべてを救うことはできなかった。自分の強すぎる力は周囲を壊し、結局は皆に重荷を背負わせてしまった。
絶対的な神として皆を導く存在には、到底なれなかった。
その自嘲気味な言葉に、ウシオは木杯に息を吹きかけながら、くすっと小さく笑った。
「……そうですか?」
「?」
「今日のサラ様、皆に聞いていたでしょう?」
「……聞いたな」
「前のサラ様なら、一人で決めていました」
サラは顔を上げ、横に座る彼を見つめた。
ウシオは中庭で寄り添って眠る皆の姿を愛おしそうに眺め、真っ直ぐにサラの瞳を見つめ返す。
『今日のサラ様、皆に聞いていたでしょう?』
その言葉に、サラの胸の奥で何かが静かに響いた。
ウシオは木杯を両手で包みながら、小さく笑う。
「一本の柱だけじゃ、家は支えられません」
「……」
「どんなに立派な柱でも、一本に重さを集めすぎたら折れてしまう」
そう言って、彼は中庭で眠る子供たちへ視線を向けた。
「だから皆で支えるんです」
ウシオの穏やかな声が、冷たい夜の空気に温かく溶けていく。
誰のことも見捨てない、完璧な神様はいなくなった。
代わりに生まれたのは、迷い、間違え、それでも皆と共に明日への道を探す、一人の等身大の長。
サラは、しばらく何も言えなかった。
狼の耳がゆっくりと伏せられる。
ずっと、自分は柱でなければならないと思っていた。
弱さを見せてはならない。
迷ってはならない。
誰かに支えられてはならない。
そう思い続けてきた。
だが――
「……そうか」
ぽつりと零れた声は、どこか力が抜けていた。
張り詰めていた糸が、ようやく解けたような。
サラは小さく目を伏せる。
「我は……ずっと、一人で立たねばならぬと思っておった……。我はもっと……おぬしたちを頼らねばならんな」
そう言って笑ったサラを見て、ウシオも安堵したように肩の力を抜いた。
その横顔を見ながら、サラはふと思う。
この男が倒れるまで気づけなかった。
自分が支えられていたことにも。
守られていたことにも。
そして――
「……おぬしに、助けられてばかりだな」
「お互い様ですよ」
「どこがだ」
「俺、一人だったらとっくに辞めてました」
壊れた正門はまだ塞がれたままだった。
冬も、資金不足も、何一つ終わってはいない。
それでも今だけは――この神殿には確かに、人の温もりがあった。




