2-1・希望と不安
禁書庫の暗闇の奥では、あの黒衣の亡霊……、もとい『メラ』が、本を整理していた。昼間の図書館職員と同じく、埃を払い、先の騒動で崩れてしまった本を直し、淡々と。
「また来たのか。」
「はい。」
ミラの声に、亡霊の手が止まる。
「懲りないな、あのような目に遭っておいて。」
漆黒の目がミラを見下ろす。
「怖くないのか。ここも、私も。」
「……、えっと……。」
ミラは目を合わせずに応える。
「あなたは、わたしを助けて下さいましたし……、それに、この子たちを守っているんでしょう?」
亡霊は苦笑する。
「本を子供のように扱うのか。」
「わたしにとっては……、いつでも別世界へ連れ立ってくれる、たいせつな友達です。」
ミラは本が大好きだが、禁書庫の書架に並べられた本たちを読もうとは、ちっとも思っていない。先日、鎧に襲われたことを考慮していたのもあったが……、本を『メラのものだから』と感じたからだ。彼の家の棚を漁るような気にすらなって、本を勝手に開くのは盗人と同罪である、と。
汚れや埃は重力に従って落ちてゆく。ゆえに掃除をするときは、天井にほど近い最上部から行うものだ。ミラは掃除用具を携え、古びた本棚に備え付けられているスライダー式の梯子に手足をかけて登る。本棚同様に梯子も相当古いものだったが、ちっとも軋まなかった。
「埃が落ちますよ。離れていて下さい。」
「構わない。」
そう言われても、真下に居る恩人に埃を被せるわけにはいかない。はたきと布巾を手に戸惑っていると、亡霊は何を言うでもなく、その場から一歩、二歩と離れ、禁書庫の暗闇に溶けるように消え失せた。
(あ……。気を悪くしてしまったかしら……。)
彼の領域に、侵入してきたのは自分だ。自己満足に振り回してしまったことを、せめて、掃除という誠意で償おう。今の自分にできることは、これしかない。
連なる本棚の最上部の埃を、ミラが手際よくはたきで落としてゆく。
僅かなランタンの灯に照らされ、舞い落ちる埃たちは、真下から見れば夜の雪のようでもあった。生きている人間であれば、マスクや口当て無しでは、たまらずくしゃみか咳が止まらなくなっただろう。あいにく、幽霊はその生理現象とは久しく無縁であった。
黒衣の亡霊は、梯子のてっぺんで作業を進めるミラを見上げる。
雪降る禁書庫を、静寂が包んでいた。
王立図書館・午前。
館内はいつもよりざわついている。新しい『臨時職員』の噂で持ち切りだった。ただの職員であれば何てことは無い。だが、その臨時職員の『肩書』が、噂の広まる速度に拍車をかけていた。
ミラはいつものように埃を払いつつ、職員たちの噂話を耳にする。
「貴族お抱えの『魂の研究者』なんだって。」
「まぁ、流行の。それじゃあきっと、すごいお金持ちね!」
「胡散臭いわねぇ。図書館の貸し会議室でも、交霊会なんかやってる人、けっこう見かけるわよ。」
昨今、巷では身分を問わず『心霊主義』……、スピリチュアリズムが流行っている。人は躰と魂からなり、躰が消滅しても魂は存在し、現世の人間が死者の霊魂と交信できるとする思想、信仰、哲学、実践の総称だ。
戦争、災害、恐慌、貧富の差……あらゆる不安定が、人々に『死後への希望』を齎した。特に『死者との交流』、亡くなった大切な家族や友人と話したいという切実な願いは、誰しもが持っていた。戦争で多くが戦死し、故人と交流したいと願う遺族が『交霊会』に足を運ぶようになり、スピリチュアリズムは現代の文化として栄えていた。
そこに、産業革命による急激な科学的進歩が後押しし、『魂を科学で研究/解明する』と豪語する科学者が現れ始める。貧困層から中流家庭、貴族、知識人……幅広い層から、信仰にも似た支持が得られた。
その『魂の研究者』が、臨時職員として配属されるのだという。
そんな話を聞きながら、ミラは複雑な面持ちだった。件の研究者は、禁書庫の亡霊の噂を聞きつけて、調べにきたのかもしれない。
メラの存在が知れたら、彼はどうなってしまうのだろうか?
暗くて静かな禁書庫が、踏み荒らされてしまうのだろうか?
図書館の許可が降りているならば、それを止める権利は自分には無い。だけれど、きっと、メラは、良くは思わないだろう。
昼の業務を放り出して、ミラは禁書庫へと向かった。




