1-2・噂と埃
数か月後。
王立図書館・早朝。
まだ外は薄暗く、館内に灯る明かりはわずか。職員たちが慌ただしく出勤する中、ミラはひとり、黙々と埃を払っている。彼女は、本を傷つけないように埃を払うことを、何より大切にしていた。
彼女は『清掃担当の臨時職員』という役割を手に入れていた。ミラが誰かと雑談することはほとんどなかったが、それでも彼女は、図書館が好きだった。
本の匂い、読書灯、沈黙。
家柄や財産を失っても、書物と静かな場所が好き。
そんな女性だった。
清掃職員の女たちが掃除の手を止め、軽口を叩き合う。
「今日も早いねぇ。……でも禁書庫の掃除はやめときなよ?」
「禁書庫って……。」
「ほら、例の『亡霊』……。」
「そう。地下の最奥にあるあの部屋。うちのお婆さんが若い頃から、亡霊が出るって有名なんだ。」
「手足が虫みたいに長くって、ひん剥いた目で睨みつけてきて、禁書庫に立ち入った職員や利用者を、暗闇に引きずり込むって……。ほら、こうやって!」
きゃあ、こわい!驚かさないでよ!と、噂話は盛り上がる。
ミラは、貸し出しの少ない本棚の埃をふき取りながら会話を聞いていた。軽く笑ってごまかす。
「子供じゃあるまいし。そんな迷信、信じませんよ。」
だが、その微笑みはどこか寂しげだった。
恐ろしい亡霊の噂よりも、『誰も足を踏み入れない禁書庫の本たち』が気がかりであった。
(……誰にも読まれないまま、埃に埋もれた本たちが可哀想。)
(放っておけないな……。)
夕方。
勤務が終わり、職員たちは我が家や寮へ帰っていく。
ミラはひとり、ランタンと掃除道具を抱え、地下の禁書庫へ向かっていた。無機質な石の階段を下り、重い扉をくぐる。長年動いていない空間特有の、重苦しい静寂と、埃で濁った空気。
「ほんとうに、誰も来ていないのね。」
本棚の列を見渡す。
どれも厚い埃を被り、あちこちに蜘蛛の巣が張り、灯りはひとつもついていない。それはまるで、背高い木の幹が立ち並ぶ深く暗い不気味な森のようでもあった。彼女はおもむろに、持参したランタンに火を灯す。広大な暗闇を照らすには弱すぎる灯が小さく揺れ、長い影を床に落とす。
「きゃっ……!」
突如として人影が現れ、ミラは声を上げる。
人影の正体は『鎧』であった。
幾数体も、等間隔で通路に並べられている。ランタンの光を鈍く反射する銀色の躰は、幼き日に何度も読んだおとぎ話に出てくる騎士のようだ。『彼ら』を囲む本棚と同じく、埃と蜘蛛の巣をかぶっている。
「ああ、おどろいた。」
胸を撫でおろす。
「どうして、禁書庫に鎧が……? 装飾にしては……。」
仰々しい。
ランタンを掲げ、改めて、本の森を見渡した。
「一晩じゃ、とうてい終わらないな。毎日、少しずつ掃除しないと……。」
その時、かすかに何かが動く音がした。
棚の奥の、そのまた奥。
吸い込まれるような、まったくの暗闇。
誰かの気配。
「……どなたか、いらっしゃるんですか?」
返事はない。
しかし、次の瞬間、背後から、低く乾いた男の声がした。
「貴様、どうやってここに入ってきた。」




