心情
夜。 廊下は静かだった。
窓の外には、黒く沈んだ庭が広がっている。 風が木々を揺らすたび、葉擦れの音だけが小さく響いた。
シオは窓際へ立ちながら、ぼんやりと夜空に浮かんだ月を反射して光っている湖を見下ろしていた。
最近、眠れない。
目を閉じるたび。 過去の記憶が浮かぶ。
花畑。 赤、青、黄色。 陽の匂い。 小さな笑い声。
柔らかな手が、自分の指を掴んで引っ張っていく感覚。
──“お姉さま、お兄さま”
あの声が、耳から離れない。
「…ミア様」
低く零れた声は、夜に溶けた。
分からない。
けれど。 思い出しかけるたび、胸の奥が苦しくなる。
懐かしい。
そう思うのに。
同時に、酷く怖かった。
まるで。 “思い出してはいけないもの”へ触れているみたいに。
シオはゆっくり目を閉じる。
するとまた、断片が浮かんだ。
小さな少女。 花で編んだ冠。 笑う声。
『できました!』
無邪気な声。
その隣で。 少女が、少し困ったような顔をしている。
さらにもう一人。 背の高い誰か。
けれど。
そこだけ、黒い靄がかかったみたいに見えなかった。
「……っ」
鋭い痛みが頭を貫く。
シオは咄嗟に壁へ手をついた。
呼吸が乱れる。
まただ。
思い出そうとすると、頭痛が走る。
ミア様の事は思い出せたのに。もう1人が分からない。
まるで世界そのものが、記憶へ蓋をしているみたいに。
「……何なんだ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
その時。
廊下の奥から、小さな足音が聞こえた。
執事見習いだ。
「シオ様」
若い執事見習いが頭を下げる。
「王宮から、侯爵家宛に届け物が」
シオの瞳が僅かに揺れた。
胸の奥で、嫌な予感がする。
使用人の手には、深紅の封蝋が押された白い封筒があった。
王家の紋章。
シオはそれを見下ろす。
そして。
静かに息を吐いた。
「来たか」
(…。)
少し間を空けてから。
「分かりました。鴻様に伝えます」
二週間と三日後。
ついに。 仮面舞踏会の招待状が届いた。
朝。
屋敷の空気は、ひどく重かった。
使用人たちは普段通り動いている。
掃除。 食事の準備。 廊下を行き交う足音。
けれど。 そこには妙な緊張や雰囲気が混じっていた。
「玲様にも届いたそうですよ」
ひそひそ声で。
「仮面舞踏会に?」
「ですが……」
声が少し落ちる。
「大丈夫なのでしょうか」
「また何か起こさなければいいのですが……」
玲の名が出るたび、空気が濁る。
誰も明確な悪事を語れない。
なのに。
“玲は危険だ”
その認識だけが、綺麗に共有されていた。
まるで。 最初からそうだったかのように。
シオは廊下の角で立ち止まる。
その会話を聞いていた。
拳が、無意識に強く握られる。
(…違う)
即座にそう思った。
だが。
何が違うのかを、上手く言葉にできなかった。
記憶が曖昧だ。
霞がかかったみたいに。
それでも。
玲様が、こんな風に恐れられる人間じゃなかったことだけは、何故だか分かる。
「…シオ様?」
使用人が不思議そうにこちらを見る。
シオはゆっくり目を伏せた。
「……仕事へ戻れ」
低い声でそう言った。
使用人たちは慌てて散っていく。
静寂。
廊下へ、赤い朝日だけが差し込んでいた。
シオは視線を落とす。
最近。 玲様を見るたび、胸の奥が軋む。
思い出さなければいけない。
そんな感覚が、どんどん強くなっていた。
部屋。
私は机の上に置かれた封筒を見つめていた。
深紅の封蝋。
王家の紋章。
仮面舞踏会の招待状。
「……本当に届いた」
ぽつり、と呟く。
カイの言った通りだった。
それが少し嫌だった。
あの男は、知りすぎている。
情報網と言っていたが。
まるで。 未来を知っているみたいに。
私は指先で封筒をなぞる。
硬い紙の感触。
現実感だけが妙にあった。
窓の外では風で木々が揺れている。
空は薄曇りだった。
「……仮面舞踏会、ね」
口の中で転がす。
原作でも、確か夜。
貴族。 王族。 聖女。
色んな思惑が渦巻く場所。
そして、確か原作でも転機になる夜だった。
“世界”に最も近い場所。
私はゆっくり椅子へ背を預けた。
ふと。
鏡が目に入る。
そこに映るのは、自分の顔。
整った顔立ち。 深い青の瞳。 片目を隠す髪。
悪役令嬢。
原作では、そういう役だった。
けれど。
「……私、何してるんだろうな」
小さく笑う。
乾いた声だった。
世界を壊すとか。
原作を変えるとか。
そんなことを口にしておいて。
実際は、何をすればいいのか分からない。
ただ流されるみたいに、気がつくとここまで来てしまった。
ミアを失って。
記憶を思い出して。
世界の歪みに気づいて。
気づけば、怪しい男と手を組んでいた。
「……意味分からない」
自分で言って、自分で少し納得する。
(変な感じ)
でも。
止まれなかった。
止まったら、多分。
全部、“なかったこと”にされる気がしたから。
もしかしたら、元の玲の時、改変、消されていたとしたら。
(いや、余計な推測はやめとこ。)
ミアも。
記憶も。
違和感も。
全部。
私はゆっくりと目を閉じる。
脳裏に浮かぶ。
白銀にグレーの仮面。
淡い青の硝子細工。
凍った涙みたいだった。
仮面をつければ、顔は隠れる。
誰にも分からない。
誰が誰か。
誰が敵か。
誰が壊れているのか。
全部、曖昧になる。
「…案外」
小さく呟く。
「今の私には、ちょうどいいかもしれないな」
(それに今は舞踏会に集中だ。)
窓の外で、風がビューと鳴った。
まるで。
何かが始まる前触れみたいに。




