準備
その瞬間――。
店の奥で、ガシャン、と音が響いた。
誰かが皿を落とした。
皿は割れ、空気が一瞬だけ止まった。
店員が慌てて駆け寄る。
「す、すみません……!」
若い店員だった。顔は青ざめ、床には白い皿の破片が散らばる。
だが、私は気づいた。
店員の視線が、一瞬だけこちらを見ていたことを。
まるで――“後ろ”を見たような目だった。
カイは静かに目を細める。
「…偶然だと思うか?」
私は答えず、代わりにゆっくりと立ち上がった。
しゃがみ込み、床に散った破片を拾う。
「お、お客様…」
店員の声が止まる。
私の指先が、白い破片に触れたその瞬間――
ぴし、と。
まだ床に残っていた皿の欠片に細い亀裂が走った。
私の手が止まる。
店員は息を呑む。
カイだけが、妙に静かな顔をしていた。
「……なるほどな」
その後、カイと別れ、屋敷へ帰った。
(使用人達の会話)
「玲様が庭師を突き飛ばしたらしい」
「えぇ……」
「でも、見た人が――」
誰も答えられない。
見たはずなのに、思い出せないのだ。
噂だけが広がり、残るのは“事実”だけだった。
部屋。
私は自室に戻った。
仮面舞踏会の件、承諾したがおかしくないか?情報網って言ってはいたが。
次の日
私は仮面舞踏会に必要なものを買いに出かけた。
店はガラス張りで、ところどころに植物や仮面が飾られている。
中に入ると思ったより広く、ガラスケースに豪奢な仮面が並んでいた。
金箔、羽根、宝石――笑うような装飾の数々。
だが、私の視線はそれらには止まらない。
店の奥、光の届きにくい場所に、ひとつだけ静かな仮面があった。
白銀に少しグレーが混ざった仮面。
陶器のように滑らかな表面。
片側だけ、淡い青の硝子細工が埋め込まれている。
まるで、凍った涙のようだった。
私はそっと手に取る。
冷たい。
それなのに、不思議なほど指先に馴染む感覚があった。
「それにされますか?」
店主が問う。
私はしばらく黙った。
仮面越しに鏡の中の自分を見る。
顔は隠れているのに、なぜか、今までより“自分らしい”ように見えた。
「…これにします」
屋敷に戻ると、部屋は静まり返っていた。
最近、シオは以前ほど私の前に現れなくなっていた。
必要最低限の報告だけ。
護衛も最小限。
視線もどこか避けているようだった。
最初は気にしていなかった。
だが、廊下ですれ違った瞬間――
ほんの一瞬、シオの顔が苦しそうに歪んだ。
まるで、“何か”を思い出すかのように。
「……シオ?」
思わず呼ぶ。
その瞬間、シオは弾かれたように目を伏せた。
「失礼します」
低い声だけを残して、去っていく。
私はその背中を見つめたままだった。
(シオ視点)
胸の奥が、少し痛む。
玲様の近くへ行くたび、頭の奥で誰かの笑い声が響く。
花畑。
小さな手。
“お兄さま”――優しい声。
懐かしくなって、泣きたくなる。
だが、思い出しかけるたび、頭痛が走る。
だから、シオは最近、玲から距離を置いていた。
避けたいわけではない。
むしろ逆だった。
近づけば、何かを思い出せる気がする。
でも、その先へ踏み込むのが、少し怖かった。




