紅の増援
【メルローズ】
列車は、日が傾く頃に湖畔の駅で停まった。
メルローズ。南部の保養地だ。補給に三十分かかると、車掌が触れて回った。
ホームに降りると、湿った風に水の匂いが混ざっていた。柵の向こうに、白いパラソルの並ぶ湖岸が見える。水着の子供たちが桟橋から飛び込み、氷菓子売りの鈴が鳴り、どこかで楽団が音を合わせていた。
「うっそ、なにここ。天国じゃない」
リズが柵に張りついた。
「北じゃスープが凍ってたのよ? 同じ国とは思えないんだけど」
黒い軍服の一団がホームに降りると、休暇客たちの視線がちらちらと集まった。珍しいものを見る目。それだけだった。
氷菓子を買いに走ったリズの袖を、麦わら帽子の男の子が引いた。
「ねえ、軍人さん? どこ行くの?」
「んー……ちょっと、お仕事」
「かっこいい! がんばってね!」
男の子は手を振って、母親の方へ駆けていった。
発車の汽笛が鳴る。
窓の外を、湖の白いパラソルが流れて、消えていった。
この国は、広すぎる。南の楽園と南の戦場は、同じ路線の上に並んでいる。
【ルーメル河】
翌朝、ルーメル河畔の前線基地。
河は、海かと思った。
対岸が霞むほどの川幅。泥の色をした水が、緩慢に、それでいて膨大な量で流れていく。岸に打ちつけられた杭に、褐色の泡が溜まっていた。
その中洲に、要塞ロデルが灰色の島のように浮かんでいる。
桟橋の脇で、カラムが木箱の上に地図を広げた。
「二週間前、この水上検問で帝国船籍の商船が武装拿捕された。グロリア号。乗員二十八名、安否不明。政府はこれを主権侵害と断じて、報復作戦を発動――」
カラムは、そこで一度顔を上げた。
「以上が、表向きの話だ」
視線が、リヴィアで止まった。一秒。それだけで足りた。
「目標は、そこの水門要塞ロデル。セルバの喉元だ。ここを落とせば、河の水運はまるごと帝国のものになる」
「あ、ルーメル河って、巡礼の河よね」
リズが地図を覗き込む。
「ずーっと下ると、聖都レムナスに着くって聞いたことある。信者さんが船で下るんでしょ」
「……ま、今は軍艦が下る河になりそうだがな」
「質問。な、なんで火力特化の紅蓮掌と、突破特化のうちが、両方なんですか」
ネロが手を挙げた。
「上の考えじゃ、『速攻で落としたい』らしい。派手な火力で門を焼き切って、うちが中をこじ開ける。……ま、絵に描いたような力押しだ」
カラムは地図を巻いて、脇に挟んだ。
「攻勢は明朝〇五三〇。それまでに――」
言葉が、途中で止まった。基地の空気が、ざわりと動いたからだ。
【紅の五人】
河沿いの道を、五つの影が歩いてくる。
黒い軍服。その肩から、深紅のマントが湿った風に揺れていた。
先頭は長身の男だった。白髪の交じった黒髪を後ろで結い、古傷の刻まれた顔。歩いているだけなのに、周囲の兵が自然と道を空ける。
紅蓮掌隊長、リュウ・ファン。
「――カラム。老けたな」
「お互いにな、リュウの旦那」
二人は短く拳を合わせた。
「え、え、なんで隊長と知り合い……?」
リズの小声に、カラムはあっさり答えた。
「昔、少佐が世話になった隊だからな。……グレイは、元・紅蓮掌だ」
「「「えっ」」」
リズとネロと、そしてアシュの声が重なった。
「……マジかよ。聞いてねえぞ」
「言ってねえからな」
その間に、紅蓮掌の四人がそれぞれ勝手に動き出していた。
「ね、ね、それ短剣!? 投げるの!? 風で!?」
赤いマフラーの小柄な娘が、目を輝かせてリズに飛びついた。
「そうよ。ブーメランみたいに戻ってくるの」
「かっこいい~~!! あたしミン・シア! 十八! 紅蓮掌の最年少!」
「リズ。黒翼の最年少……は、ネロだけど、まあ似たようなもんよ。あんたのそのマフラー、最っ高ね」
「でしょ!?」
出会って十秒で、二人は友達になった。
その横で、ポニーテールの女がアシュの前に立った。シェン・レイリン。副長。値踏みする目で、アシュの二丁の銃を眺める。
「へえ。黒翼の『火』って、あんた?」
「……だったら?」
「ふうん。銃越しの火ねえ」
レイリンは、にっと笑った。
「うちの国じゃ、手ェ汚さない火は、火って言わないのよ」
「……上等だ。合同訓練で吠え面かかせて――」
「はいはい、そこまで」
カラムがアシュの襟首を掴んで引き戻した。
ネロはといえば、いつの間にか背後に立っていた切れ長の目の女――ラン・ファに端末を覗き込まれて硬直していた。
「……いい計器」
「ひっ、あ、ありがとう、ございます……」
最後の一人、前髪で片目を隠したボブの女は、無言で小さく顎を引いた。
「グイは喋らないの! でも今の、『よろしく』って意味!」
ミン・シアが通訳した。
リュウ・ファンが、リヴィアの前で足を止めた。
深い、火の色の目だった。
「……お前が、グレイの拾い物か」
「……拾い物」
「腰のそれ、見せてみろ」
リヴィアがレイピアを鞘ごと差し出すと、リュウは刃を数センチだけ抜き、黒曜色の刀身を眺めて、すぐに戻した。
「いい剣だ。あいつが図を引いたな」
「……はい」
「変わらんな、あいつは」
リュウは剣を返し、それから独り言のように言った。
「その、変わらん男が――現場を捨てて、何年になる」
「……え?」
「五年、俺の隊にいた。一番の跳ねっ返りで、一番強くなった男だ。それが、ある日を境に前線へ立たなくなった」
リュウの目は、リヴィアを通り越して、どこか遠くを見ていた。
「……あいつが最後に立った戦場も、南だったな」
「南……」
「ま、いい。戦場で分かることもある」
それだけ言って、彼は背を向けた。
出撃前、リヴィアはそれを見た。
河岸の隅で、紅蓮掌の五人が一本の線香に火を点けていた。
東の空へ向けて、五人が黙って手を合わせる。十秒ほどの沈黙のあと、リュウが指先で火を摘まんで消した。
「――征こう」
五つの紅いマントが翻る。
リヴィアの視線に気づいたミン・シアが、駆け寄ってきて笑った。
「故郷への挨拶。……あたしは、行ったことない国だけどね!」
明るい声だった。明るい声のまま、ずいぶん重いことを言う子だった。
(……滅んだ国の、生き残り)
同じ形をしたものが、自分の中にもある。それに触られた気がして、リヴィアは河の方へ目を逸らした。
【ヴェイル】
攻勢は、翌朝〇五三〇に始まった。
河霧の中、渡河部隊の舟艇が一斉に岸を離れる。薄紅色の朝焼けが、泥の河を淡く染めていた。
最初の異変は、五分後に起きた。
先頭の機関艇の下で、河の色がすっと濃くなった。長い影が、水中を滑る。
「――機雷!! 左舷か……」
言い終わる前に、水柱が立った。
一隻。二隻。機関音を響かせていた舟から順に、河が牙を剥いていく。
「機関を切れ!! 全艇、機関停止!! 櫂で漕げ!!」
セルバ戦線の古参らしい下士官が、割れた声で叫んだ。
「あいつら音に寄ってくる! 魔導機関の音だ! ――こっちじゃ『屍伸』って呼んでる!」
機関が止まり、何百本もの櫂が水を掻き始める。
沈黙の河を、舟の群れが櫂の音だけで要塞へ這っていった。
要塞の壁から、魔導砲と大型弩の応射が降り始める。
「――紅蓮掌、前へ」
先頭の平底船で、リュウ・ファンが立ち上がった。
両の拳を腰だめに引き、息を深く落とす。
彼の全身から、炎が立ち上った。
「炎帝拳――」
突き出された掌から、紅蓮の奔流が迸る。
それは河面すれすれを走りながらみるみる形を変え、一体の巨大な火の龍になった。
龍は水面を焦がしながら要塞へ奔り、城壁の砲座に喰らいつく。
朝霧が、真紅に染まった。
「うっわ、すご……」
後方の督戦位置で、リズが呆然と呟いた。
工兵の延ばす浮橋の上を、レイリンの炎走が疾り、橋板を乾かしながら道を照らす。舟の舳先ではミン・シアが拳を連打し、飛来する弩の矢を花火のような火弾で片端から撃ち落としていた。ラン・ファの指先から伸びた無数の火の糸が、味方の頭上に降る矢だけを正確に焼き切っていく。
火力は、圧倒していた。
要塞の奥で、鐘が鳴った。
低く、長く、河の底まで響くような鐘の音。
河が――立ち上がった。
要塞を囲む水面が盛り上がり、幾筋もの水の柱が城壁を駆け登る。柱は壁の頂で結び合い、広がり、垂れ下がり――
数十秒の後、要塞ロデルは、流れ続ける水の膜に丸ごと包まれていた。
朝陽が透けて、それは巨大な硝子の聖堂のように見えた。
「な……」
「撃ち方やめ! 全艇停止!」
命令より早く、リュウの二撃目の火龍が水の膜に激突した。
世界が、白く爆ぜた。
水蒸気の爆発だった。膨れ上がった白い雲が河面を叩き、熱い霧と沸いた飛沫が雨になって降り注ぐ。衝撃波で舟艇が煽られ、何隻もが横転した。
「うわあっ……!」
「落ちた奴がいる! 救助! 救助ぉ!!」
「――行くっ!」
リズが督戦位置から飛び出した。風を纏って水面を蹴り、沈みかけた兵の襟首を掴んで岸まで運ぶ。二人。三人。
「リヴィア、そっち! 舟が流れてる!」
叫ばれた方を見た。
櫂を失った小舟が一隻、兵を三人乗せたまま、河の流れに引かれて中洲へ――水の膜へと押されていく。
リヴィアは近くの平底船に飛び移り、船首から手を伸ばした。届かない。膜との距離が、五十、四十と縮んでいく。
抜刀した。
闇を纏った切っ先で舫綱を絡め取り、力任せに引く。小舟が半回転して舳先を上流へ向けた。兵たちが、手で必死に水を掻く。
その動作の終わり際、リヴィアの刃の先端が、膜の外側に立つ霧をかすめた。
――じゅ、とは鳴らなかった。
アシュの火弾も、リュウの龍も、そこに触れれば白い蒸気になって消えた。彼女の刃が触れた場所は、蒸発しなかった。
止まった。
膜の表面に、掌ほどの、流れていない一点が生まれる。水が動くのをやめ、そこだけが凪いだ硝子のようになり――
半秒。
周囲から流れ込んだ水が、その穴を塗り潰した。
「リヴィア! 下がって! 次の波来る!」
リズの声に、体が勝手に後ろへ跳んだ。
退却の角笛が、湿った空気を震わせる。
初回攻勢は、一時間ももたずに終わった。
【湯気の河】
昼になっても、河には湯気が漂っていた。
岸に引き上げられた舟艇の残骸。毛布にくるまる、火傷と半溺れの兵たち。
水の膜は、まだそこにあった。中洲の要塞を包んだまま、陽を透かして、絶え間なく流れ続けている。
美しかった。腹が立つほど。
「……妙だな」
双眼鏡を下ろして、カラムが呟いた。
「機雷の位置だ。昨日の偵察と、半分以上ズレてる。……一晩で全部打ち直してやがる。こっちの渡河点を、読んでたみたいにな」
「セルバの兵に、そんな芸当が……?」
「さあな。……報告書には書くなよ、今のは」
その隣で、リュウ・ファンが腕を組んで水の膜を睨んでいた。焦げ跡ひとつない紅のマントが、川風に揺れる。
「……火は、届かん」
低い声だった。
「炎はあの水に、ただ喰われる。撃てば撃つほど、湯気で味方が茹だるだけだ」
彼は振り向いて、黒翼の五人を順に見た。
「相性は最悪。上の連中がそれを知ってて俺らを先に出したなら大した性格だが――ま、答えは単純だ」
火の色の目が、最後にリヴィアで止まる。
「火で破れん壁だから、お前らが呼ばれた。……黒翼の嬢ちゃん。あの壁、どう見える」
リヴィアは、河の向こうの水の膜をじっと見つめた。
流れ続ける水。うねる光。一見、継ぎ目のない一枚の壁。
目を凝らす。
――見えた。
水流と水流の重なり。膜を編み上げている、幾千の流れの結び目。その結び目が、ごくわずかに、規則正しく揺れている。
朝、切っ先が触れた場所は、蒸発しなかった。止まった。
(……あれは、水でできた壁じゃない)
流れそのものが、壁なのだ。
「……見えます」
リヴィアは、河から目を離さずに言った。
「あの壁にも――縫い目が」




