白の塔
【南下】
軍用列車は、朝から南へ走り続けていた。
北へ向かった時と、景色の変わり方が逆だった。白が茶になり、茶が緑になる。窓を細く開けると、湿った風が入ってきた。土と、草と、水の匂い。
車両は黒翼の五人で貸し切りだ。カラムは新聞を顔に被せて寝ている。アシュは足を組んだまま銃を分解し、ネロは端末を抱えて船を漕いでいた。
「ねえ、リヴィア」
向かいの席で、リズが窓に頬杖をついたまま言った。
「エルデナって、どんなとこだったの?」
なんの気なしの質問だった。表彰の記録に「元エルデナの魔導士」と書かれている以上、いつか聞かれる質問でもあった。
リヴィアは、窓の外を見た。
「……白かった」
「白い?」
「……白かったの」
それ以上が、出てこなかった。十年、一度も口に出さずに来たものは、いざとなると形にならない。
「ふーん」
リズはそれきり聞かず、鞄から菓子を出して齧り始めた。追及されなかったことに、少しほっとして、少しだけ、寂しかった。
窓の外を、名前も知らない南の町が流れていく。線路脇の畑で、誰かが手を止めてこちらを見上げていた。
目を閉じる。
――白かった。
それは、間違いではなかった。
【聖リナリア孤児院】
その日、リヴィアは井戸の裏で膝を抱えていた。
聖リナリア孤児院。エルデナ王国首都の南の郊外。白い漆喰の壁に、蔦の絡んだ古い建物。裏庭には井戸と洗濯場と、痩せた林檎の木が一本だけ生えている。
十一歳の彼女は、その木の根元が好きだった。ここなら、誰も来ない。
「――リヴィア! リヴィアはどこ!?」
院長のマーサの、少し慌てた声が響いた。
行きたくなかった。行かないともっと面倒になることも、この歳でもう知っていた。膝の埃を払って、リヴィアは玄関へ向かった。
玄関の間には、見慣れない人が二人立っていた。
一人は背の高い、白髪の混じった女性。深い緑のローブに、銀の縁飾り。もう一人は若い男性で、革の書類鞄を抱えて、しきりに眼鏡を押し上げている。
女性の胸元で、銀の徽章が光っていた。白い樹と、その枝を囲む六つの星。エルデナの、国の紋。
「あなたが、リヴィア・ノクスさんね」
女性は屈んで目線を合わせた。
「私はマーガレット。エルデナ王立魔法学院の者です。……六歳の時の、魔力適性検査を覚えているかしら」
覚えていた。村の集会所に集められて、水晶玉みたいな装置に手を置かされた。あの時、装置の中で何かが弾ける音がして、大人たちが慌てて彼女を部屋から出したのだ。
「あの装置ね、壊れたの」
マーガレットは、少し可笑しそうに言った。
「五年に一度あるかないかの故障よ。……原因を調べるのに、五年もかかってしまった。あの日、あなたが流し込んだ魔力が、測定域を超えていたの」
リヴィアは意味がよく分からずに、黙っていた。
「王立学院には『特級課程』があります。国中から選ばれた子たちが、幼い頃から寮で共に暮らして学ぶための課程」
女性は、まっすぐに彼女を見た。
「――あなたを、そこに迎えたい」
背後で、マーサ院長が息を詰める音がした。
「学費も、寮費も、食費も、すべて国が持ちます。卒業後の進路も、国が支えます」
書類鞄の男性が、慌てて分厚い書面を差し出す。マーサの手が震えていた。
「……リヴィア。あんた、すごいことなんだよ、これは」
リヴィアは書面を見なかった。代わりに、自分の左手を見ていた。
いつも通りの、何の変哲もない小さな手だ。時々――怖い夢を見た朝に、指先が黒い煙みたいなものを纏っていることがあった。誰にも言ったことはない。
「……なぜ、私なんですか」
小さな声だった。
「私……うまく喋れません」
マーガレットは、笑わなかった。
「そう。……それは、これから覚えればいいことね」
「魔法は、覚えられますか」
「――ええ。あなたなら、きっと」
その夜、リヴィアは荷物をまとめた。小さな鞄ひとつで十分だった。着替えが二枚と、履き古した靴と、それから――胸元の、銀のペンダント。
物心ついた時から、首にかかっていたもの。院に来た時からずっとあったのだと、マーサは言った。見たこともない紋様が刻まれている。院の誰も、近所の細工師も、その意味を知らなかった。
「持っていきなさいね」
出発の朝、マーサはリヴィアの襟元を直しながら言った。
「あんたが、どこの誰であっても。それだけは、あんたのものだから」
【白樹の都】
馬車が丘を越えた時、リヴィアは思わず腰を浮かせた。
首都エルデナが、眼下に広がっていた。
白かった。白い石畳。白い壁。緩やかな丘に沿って重なる白い屋根。街のあちこちを澄んだ水路が銀の糸のように走り、水面が朝の光を跳ね返している。
街の中心に、巨大な白い樹が立っていた。
「……なに、あれ」
「エルデ樹よ」
向かいの席のマーガレットが微笑んだ。
「この国の名前の由来。千年前から、あそこに立っているの」
白銀の幹は、街のどの建物より太かった。枝は都の空を覆うほど広がり、葉は淡い光を宿して、風に揺れるたび、光の粒がふわふわと舞い落ちている。
街に入ると、リヴィアの目は忙しくなった。
広場では辻魔術師が子供たちを集めて、光の蝶を飛ばしていた。パン屋の窯には火の魔石が仕込まれ、焼き上がりを知らせる鈴が鳴る。水路には小さな水の精が跳ね、洗濯物を干す女たちが風の初歩魔法で服を乾かしている。軒先の籠には、淡く光る花が積まれていた。
「あれは?」
「魔光花。灯りの代わりになるのよ。……夕方に摘むのが決まりね」
「朝じゃ、だめなんですか」
「朝の花は、まだ光を溜めてないの。日が傾く頃に摘むのが、一番長く光る」
――そういう知恵が、この街には当たり前に転がっていた。
通りの角では、老人が石畳に膝をついて、割れた敷石を直していた。鏝で継ぎ目に泥を塗り、短い詠唱をひとつ。泥が硬化し、石が元の位置に収まる。
誰も、それを見物しなかった。この街では、それは魔法ではなく、ただの左官仕事だった。
馬車は、エルデ樹の袂を通った。
樹の下は小さな広場になっていて、人々が枝に白い布切れを結んでいる。無数の布が、風に揺れていた。
「あれは、願いの布よ。年に一度、みんなが願い事を書いて結ぶの」
「……叶うんですか」
「さあ、どうかしら」
マーガレットは樹を見上げた。
「でも千年、この国の人はずっと結んできた。……叶うかどうかより、願いを言葉にすることが大事なんでしょうね」
やがて馬車は丘の上へ登っていった。
そこに、それは立っていた。
白の塔。王立魔法学院の本塔だ。白い石を積み上げた尖塔がいくつも空へ伸び、ステンドグラスの窓が朝日を虹に散らしている。
――ここが、これからの家になる。
リヴィアは、鞄の紐をぎゅっと握りしめた。
【白翼学級】
特級課程――通称、白翼学級。学院の東翼の、一番上の階。国中から選ばれた二十人ほどの子供たちが、六歳から寮で暮らし、学び続けている。
「――みんな、席に着いて。今日から新しい仲間が加わります」
教室の扉が開いた時、リヴィアは全身が固まるのを感じた。二十対の目が、一斉にこちらを向く。
教室は思っていたより明るかった。白い壁。大きな窓。天井には星座を模した魔導灯。壁一面の本棚に、ぎっしりと魔導書。生徒たちは全員、揃いの紺のブレザーを着ていた。胸に、白樹と六星の校章。
「自己紹介、できるかしら」
マーガレットに促されて、リヴィアは口を開いた。声が、うまく出なかった。
「……リヴィア・ノクスです」
それだけ言って、下を向いた。
「ノクス? どこの家?」
「聞いたことないわ」
「孤児院から来たって」
「うそ、この課程に?」
囁きは、悪意というより純粋な戸惑いだった。この教室の子供たちは全員、六歳から一緒に育ってきた。そこへ十一歳の見知らぬ子が、途中から入ってくる。
それだけのことだ。それだけのことが、リヴィアにはとてつもなく高い壁に見えた。
「席は、あの窓際が空いてるわ。……ルーカス、案内をお願いね」
「はい、先生」
立ち上がったのは、きっちりと制服を着た、生真面目そうな少年だった。
「ルーカス・グレンだ。学級委員長をしている。時間割と寮の規則は、あとで書き写して渡す。……質問があれば、遠慮なく」
事務的で、けれど親切だった。リヴィアは頷いて、窓際の席に座った。
その日一日、彼女は誰とも喋らなかった。昼食も一人だった。午後の実技も組む相手が見つからず、結局教官の補助についた。
寮は塔の北棟にあった。二人部屋が基本だが、途中入学のリヴィアには空いていた一人部屋があてがわれた。寝台と、机と、書棚がひとつ。孤児院で八人と分け合っていた部屋より、ずっと広い。
廊下では消灯前の子供たちが騒いでいた。誰かが風呂の順番で揉め、誰かが明日の課題を写させろと交渉し、誰かが飼っている魔法生物が逃げたと言って走り回っている。その全部が、扉一枚の向こう側の出来事だった。
夕方、寮の自室の窓から、リヴィアは白い都を見下ろした。街には灯りがともり始めている。魔光花の柔らかな橙が、家々の窓に一つ、また一つ。
(……間違えたかもしれない)
あの孤児院の井戸の裏の方が、まだ息がしやすかった。
【太陽】
三日目の昼休みだった。
リヴィアはいつも通り本を抱えて、中庭の隅の階段に座っていた。教室の喧騒から一番遠い場所。この学院に来て、彼女が見つけた「井戸の裏」だった。
「なあ!」
真上から、声が降ってきた。
顔を上げると、階段の上から少年が身を乗り出してこちらを覗き込んでいた。淡い金色の髪。びっくりするほど青い目。ブレザーのボタンは半分外れていて、ネクタイは緩んでいる。
笑っていた。
「お前、リヴィアだろ!」
「……えっ」
「三日も一人でメシ食ってるだろ。見てたぞ」
少年は返事を待たずに階段を駆け下りてきて、彼女の隣にどすんと座った。距離が、近い。
「セリウス・クレイド! よろしくな!」
「……あの」
「なあ、なんで一人なんだ?」
あまりに直球で、リヴィアは言葉に詰まった。
「……みんな、六歳から、一緒だから」
「うん」
「私だけ、後から来たから。……話す、こと、ないし」
「あー」
セリウスは、なるほどなあ、という顔で頷いて、けろりと言った。
「じゃあ、これから作ればいいじゃん」
「……え?」
「話すこと。これから作ればいいだろ」
少年は、当たり前のことみたいに言った。
「六歳から一緒だって、毎日新しい話してんだぞ。昨日の飯がまずかったとか、ルーカスの説教が長いとか。お前も明日から入ってこいよ」
「……そんな、簡単に」
「簡単だって」
セリウスは立ち上がり、彼女に手を差し出した。
「まず、飯だ。うちのテーブル、一つ空いてる」
リヴィアは、その手を見つめた。
誰かに手を差し出されるのが、いつ以来なのか、思い出せなかった。
「――おい、セリウス!! 実技の課題どうした! お前まだ提出してないだろ!」
中庭の向こうから、別の声が飛んできた。黒髪の少年が書類の束を抱えて、呆れ顔で歩いてくる。
「うわ、グレイだ。逃げるぞ」
「逃げるな。……ああ、君が、リヴィアか」
黒髪の少年はリヴィアの前で足を止めた。灰色の、落ち着いた目だった。
「グレイ・アークライト。……こいつがうるさくして悪いな」
「うるさくねえよ! 誘ってんだよ!」
「誘い方が下手だと言ってるんだ」
二人のやりとりを、リヴィアはぽかんと見上げていた。
グレイが、ふと彼女の方を見た。
「……ノクス。座学の教科書、まだ揃ってないだろう。俺の予備を貸す。あとで寮に届ける」
「え、あ……」
「返さなくていい。どうせ二冊ある」
素っ気ない声だった。その手には既に、彼女の分の教科書が抱えられていた。
この二人は、たぶん最初から気づいていた。教室の隅で、一人でいる子のことに。
「……ほら、行くぞリヴィア! 昼休み終わっちゃうだろ!」
セリウスの手が、まだ差し出されたままだった。
リヴィアは、おそるおそる、その手を取った。
引き上げられた瞬間、少年が太陽みたいに笑った。
【教室】
その日から、リヴィアの世界には音が増えた。
「あんた、あのセリウスに捕まったのね。ご愁傷様」
昼食の席で真っ先に口を開いたのは、赤毛を三つ編みにした少女だった。
「ティナ・ヴェルミリア。……ま、悪い奴じゃないわよ。うるさいだけで」
「聞こえてるぞティナ!」
「聞こえるように言ってるの」
隣で、大人しそうな少女がくすくすと笑った。
「ウィノナ・アシュフィールドです。……リヴィアさん、座学で分からないところがあったら、いつでも聞いてね」
「私の講義の方が分かりやすいわよ」
「ティナは説明が雑だから駄目です」
「ちょっと」
テーブルの向かいでは、赤茶の髪の少年がパンを頬張りながら手を振っていた。
「カイル・ドレイク! セリウスの親友な!」
「悪友だろ」
「同じだろ!」
少し離れた席では、黒髪をきっちり結った少女が優雅にスープを飲んでいた。
「……セラフィナ・ロウよ」
彼女はリヴィアを一瞥した。
「あなた、ノクスって家名、聞いたことがないのだけど。どちらの領地のお生まれ?」
テーブルの音が、少し止まった。
「――孤児院だ」
答えたのは、セリウスだった。
「それが?」
「……別に。ただ聞いただけよ」
セラフィナは、つんと顔を背けた。
その隣で、寡黙な少年が黙々と食事をしている。
「あれはトバイアス・フェン。実技の化け物。喋らないけど、いい奴」
「……よろしく」
トバイアスはそれだけ言って、また食事に戻った。
医務室から遅れてやってきた細身の少女が、息を切らして席に着く。
「ごめんなさい、遅れました……リゼル・サーシャです。治癒の担当をしています。怪我をしたら、いつでも来てくださいね」
その他にも、名前と顔が次々と流れ込んできた。実技バカのダリオ。図書委員で内気なエルナ。食堂の献立を毎日暗記しているコリン。
うるさい。情報が多すぎて、頭が追いつかない。
その夜、寮の自室で、リヴィアは初めて机に向かい、名前を書き出してみた。
ティナ。ウィノナ。カイル。ルーカス。セラフィナ。トバイアス。リゼル。グレイ。
一番上に、セリウス。
書き終えて、彼女はしばらくその紙を眺めていた。
(……覚えなきゃ)
明日、話しかけられた時に、名前を呼べるように。
【学びの国】
白翼学級の一日は長かった。
朝六時、起床の鐘。午前は座学――魔法理論、古代語、歴史、算術、天文。午後は実技――魔力操作、詠唱、実戦形式の演習。夕方に自習、夜に課題。
「――魔法は、力ではありません」
初日の座学。若い女性教師のアイリーン・メイフィールドは、教壇に着くなり生徒たちを見渡した。
「魔法は、学問です。世界の理を読み解き、言葉にし、他人に伝えられる形にする。それがエルデナの魔法です」
彼女は黒板に、一文を書いた。
『力は一代で失われる。理は千年、受け継がれる』
「……これが、我が国の礎です」
エルデナは千年、戦争をしていない国だった。永世中立。どの国とも同盟を結ばず、どの国とも敵対しない。その代わりに魔法の知を世界へ開き、諸国の学者を受け入れ、書物を贈り続けてきた。
「……戦わないで、大丈夫なんですか」
休み時間、リヴィアはウィノナに聞いてみた。
「大丈夫、というより……戦わないことが、この国の武器なの」
ウィノナは少し得意げに眼鏡を直した。
「エルデナの魔導書は、世界中の学院で使われてるのよ。ディナシア帝国の軍学校でも、レムナスの神学校でもね。……この国を潰したら、世界中が困るの。だから、誰も手を出さない」
「なるほど」
「王様も言ってるわ。『我が国の城壁は、書物でできている』って」
教室の窓から、エルデ樹の白い枝が見えた。
その日の午後、実技の教官が生徒たちを塔の外へ連れ出した。主任教官のヴァレンスは、白髪を短く刈った厳しい顔の男だった。
街を抜け、丘を越えると、そこは光の海だった。夕暮れの草原一面に、淡く光る花が風に揺れている。摘み取る村人たちが、籠を背負って歩いていた。
「――なぜ、夕方に摘むか分かるか」
ヴァレンスの問いに、セリウスが真っ先に手を挙げた。
「はい! 朝の花はまだ光を溜めてないからです!」
「正解だ。……ではノクス。なぜ、溜まるのか」
突然の指名に、リヴィアは固まった。
「え……」
「答えなくていい。誰も知らんからだ。千年、誰も解明しておらん」
教官は光る草原を見渡した。
「魔法とは、そういうものだ。我々は世界の理を、まだ一割も知らん。……知らんから、学ぶ。それだけのことだ」
その夜、寮の窓辺で、リヴィアは摘んできた魔光花を一輪、瓶に挿した。部屋がぼんやりと明るくなる。
孤児院の部屋は、いつも暗かった。油が高いから、日が暮れたら寝るのが決まりだったから。
光る花を眺めながら、彼女は思った。
(……もう少し、頑張ってみようかな)
【測定】
入学から二週間後、魔力適性の測定が行われた。特級課程では年に二度、全員の魔力量を測る。成長期の変化を記録するためだ。
「――順番に並べ。台座に手を置き、力を流せ。無理に絞り出すな」
実技棟の測定室。中央に、大きな水晶の台座。生徒たちが順に手を置いていく。水晶が青く光り、傍らの記録板に数値が浮かぶ。
「グレン、六八。……安定しているな」
「アシュフィールド、五九」
「ドレイク、七一。伸びたな」
「ロウ、七四」
「フェン、九二」
どよめきが起きた。
「トバイアスすげえ!」
「今年も実技首席か……」
「クレイド、九六」
「よっしゃあ!」
セリウスが拳を突き上げた。教室のあちこちから歓声と、ため息が漏れる。
「アークライト、八八。……座学首席が実技もこれか。器用な奴だ」
「まだ足りません」
グレイは淡々と台座を降りた。
「――ノクス」
リヴィアの番だった。
台座の前に立つ。冷たい水晶に、手を置く。
(……力を、流す)
まだ、うまくやり方が分からない。体の中の何かを、手のひらへ押し出す感覚。
水晶が青く光った。記録板の数値が上がっていく。
五十。六十。七十。
教室が静かになった。
八十。九十。
九十六を、超えた。
「……なっ」
ヴァレンス教官の眉が跳ね上がる。
百。
水晶の光が、青から――白へ変わった。
「――止めろ、ノクス!!」
教官の声が飛んだ。
パキン、と。
台座の水晶の表面に、細い罅が走った。
リヴィアは弾かれたように手を離した。
「……あ、あの、私」
測定室は、しんと静まり返っていた。記録板の数値は罅と同時に消えて、空白になっている。
ヴァレンスが水晶に近づいて、罅を指でなぞった。それから、リヴィアを見た。
その目には、生徒を見る目とは少し違う色があった。
「……測定、中止だ。ノクスの記録は、保留とする」
教室に、囁きが戻ってきた。
「今の、なに……」
「水晶が割れるなんて聞いたことない」
「あの子、孤児院から来たんじゃなかった?」
リヴィアは自分の手を見下ろした。震えていた。
自分の体の中に、自分でも底が見えない何かがあることを――彼女はこの日、初めて自覚した。
その日の放課後。
リヴィアはまた中庭の階段に座っていた。みんなの顔を、見られなかった。
「――おい」
声が降ってきた。
振り向くと、セリウスとグレイが立っていた。セリウスの手には、なぜかパンが二つ握られている。
「なんで一人なんだよ」
「……だって」
「水晶割ったから?」
あっけらかんとした声だった。
「すげえじゃん」
「……すごく、ないよ。壊しただけ」
「壊せるやつ、他にいないだろ」
セリウスはパンを一つ押しつけてきた。
「機械の方が悪いんだよ。お前を測れないなんて、欠陥品だ」
「……そんな言い方」
「事実だろ」
グレイが隣に腰を下ろした。
「教官も言ってた。あの型の測定器は、上限が百二十だと」
「……つまり」
「つまり、お前は少なくとも百二十以上だ。数字が出なかったのは、お前のせいじゃない」
グレイはそこで一度、言葉を切った。
「……ただし。制御を覚えないと、いずれお前自身を壊すぞ」
「グレイ、そこは黙っとけよ」
「事実だ」
「お前も事実ばっか言うな!」
二人の言い合いを聞きながら、リヴィアはパンを一口齧った。冷めていて、少し硬かった。
喉の奥が、熱くなった。
誰も、逃げなかった。水晶を割った子の隣に、当たり前みたいに二人が座っている。
「……あの」
「ん?」
「……ありがとう」
小さな声だった。
セリウスは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「なあリヴィア。俺、決めたぞ」
「なにを」
「お前を、この学校で一番の魔法使いにする」
あまりに突然で、脈絡がなかった。
「……なんで、あなたが決めるの」
「なんとなく!」
「なんとなくって」
「あ、笑った」
セリウスが嬉しそうに指を差した。
「お前、初めて笑ったな」
リヴィアは慌てて口元を押さえた。
夕陽が、白い塔の壁を橙色に染めていた。
【願いの布】
その週末、学級の全員でエルデ樹の広場へ行くことになった。
年に一度の、願いの日。白い布切れを買い、思い思いの願いを書いて、枝に結ぶ。
「私は『座学首席』!」
「ティナ、あんた去年もそれ書いてたわよね」
「今年こそはよ!」
「僕は……『家族が健康でありますように』」
「ウィノナが真面目すぎる」
「俺は『毎日肉が食える食堂になりますように』」
「カイル、あんたそれ願いに使うの?」
わいわいと騒ぎながら、生徒たちが枝に布を結んでいく。
セリウスは何やら真剣な顔で、長々と書いていた。
「お前、何書いてんだよ」
「秘密」
「見せろ」
「やだ!」
グレイは短く一行だけ書いて、さっさと結んでいた。リヴィアが覗こうとすると、さりげなく手で隠された。
「……リヴィアは、書かないの?」
ティナに聞かれて、リヴィアは白い布を握ったまま迷っていた。
願い事なんて、これまで考えたこともなかった。孤児院では、願う前に諦めるのが賢い生き方だったから。
彼女は白樹を見上げた。千年、この街を見下ろしてきた樹。無数の願いの布が、枝で風に揺れている。
少し考えて、リヴィアは短く書いた。
『ずっと、みんなといられますように』
背伸びをして、届く限りの高さの枝に結ぶ。
振り返ると、セリウスがこちらを見ていた。
「なんて書いた?」
「……秘密」
「ずるい!」
「あなたも秘密でしょう」
「あ」
夕暮れの風が吹いて、白い布がいっせいに揺れた。光の粒が、樹の枝から舞い落ちてくる。
【南へ】
列車の揺れで、目が覚めた。
窓の外は、もう夕方だった。北の白ではなく、南の緑。水を張った田が地平まで続いて、傾いた日を鏡のように返している。
向かいの席では、リズが窓に頬杖をついたまま、菓子の袋を膝に載せて眠っていた。アシュは組み直した銃を膝に置いて腕を組み、ネロは端末を抱えたまま口を半分開けている。カラムの新聞は、床に落ちていた。
リヴィアは、その四人をしばらく眺めていた。
「……ん、起きた?」
リズが薄目を開けた。
「よだれ出てるわよ」
「出てない」
「あ、ちぇ」
しばらく、車輪の音だけが続いた。
「リズ」
「んー?」
「……水路が、あったの。街じゅうに。銀の糸みたいに」
リズは目をぱちくりさせて、それから笑った。
「なにそれ。すごい綺麗じゃない」
「……うん」
それだけの会話だった。それだけを言うのに、十年かかった。
リヴィアは窓の外へ視線を戻した。
――ずっと、みんなといられますように。
十一歳の字で書いた布は、あの樹ごと燃えた。
同じことを、また願いそうになって、やめた。
列車は南へ走り続けていた。




