初任給
【夢を見なかった朝】
目が覚めて、リヴィアは天井を見た。
雨漏りの染みが、ない。白い、継ぎ目の通った軍用の天井板。それを数秒眺めてから、ようやく、ここが下層区のアパートではないことを思い出した。
帝国中央軍施設、東翼・女子宿舎三階、三〇六号室。黒翼に入って、ひと月と少し。この天井にも、だいぶ慣れた。
(……そういえば)
布団の中で、彼女は気づいた。
夢を、見なかった。
焦げた鉄の匂いも、燃える王都も、崩れる白の塔も。最後に来るはずの、あの温かい風も。十年間、ほとんど毎晩通っていた場所に、昨夜は行かなかった。
いいことなのか悪いことなのか分からないまま、リヴィアは体を起こした。
部屋は六畳ほどの広さだった。鉄枠のベッド。作りつけの机と椅子。縦長のロッカーがひとつ。壁際には蒸気の通る鉄管が走っていて、朝方になるとカン、コン、と目覚ましみたいな音を立てる。
旧いアパートと違って、床は三歩目で鳴らないし、隣の生活音も壁に染みてこない。そのかわり、この建物には、この建物の音があった。
五時半、最初の軍靴の音が廊下の下を通る。六時、練兵場から号令と、揃った足音。六時十五分、格納庫の方でエンジンの試運転――たぶん、ジンだ。あの整備音には癖がある。
旧い部屋の音は、隣人の孤独が壁越しに漏れてくる音だった。ここの音は、たくさんの人間が同じ朝を生きている音だ。
どちらが好きかと聞かれたら――たぶん、こっちだと思う。
机の上には、蜂蜜色の飴の缶。その横の剣架に、銀のレイピア。ロッカーには黒の軍服が二着と、訓練着。一番下の段には、表彰式の賞状が筒に入ったまま突っ込んである。
持ち物は、それでほとんど全部だった。
壁には、まだ何も貼っていない。写真は、一枚もない。
――それは、旧い部屋と同じだった。
コン、コン、コン。
壁が三回鳴った。隣室からの、モールス代わりの合図。
「リヴィアー、起きてるー? 朝ごはん行こー」
リズの声。
「……起きてる。五分」
「三分で来て! 今日、揚げパンの日だから! すぐなくなるんだからね!」
廊下を駆けていく足音。
リヴィアは小さく息を吐いて、洗面台に向かった。共同の洗面所では、他の部隊の女性兵たちが寝癖と戦っている。
「おはよ」「おはようございます」
挨拶が、普通に返ってくる。十年間、朝に誰かと言葉を交わすことなんて、なかったのに。
食堂は、戦場だった。湯気。トレーのぶつかる音。何百人分の話し声。揚げパンの列は、すでに折り返している。
「ほら言ったじゃない! ……あ、ネロ発見。ネロー! 場所取っといてー!」
列の向こうで、ネロがびくりと肩を跳ねさせ、こくこくと頷いた。
窓際の長机に、黒い軍服が集まっていく。カラムは新聞を広げ、アシュは黙々と山盛りの飯を片付け、ジンは油の染みた指でパンを摑んで、パイドに何か熱弁していた。
「――で、今日の午後だがな」
新聞をめくりながら、カラムが言った。
「休暇明けの体慣らしだ。模擬戦、やるぞ」
アシュの箸が、止まった。顔を上げ、リヴィアを見る。
「……約束、覚えてるよな」
「三枚楯の借り、でしょ」
「返すぞ、今日」
「はいはい、ごちそうさま」
リズが揚げパンを齧りながら、ひらひらと手を振った。
【模擬戦】
午後の訓練場には、なぜか観客がいた。
「さあさあ張った張った! 黒閃の新星か、火力の暴れ馬か! オッズはアシュの一・八倍だ!」
ジンが、砲弾の空き箱を台にしてチョコレートの賭けを仕切っている。
「ジンさん、それ賭博では……」
「菓子のやり取りは文化って言うんだよ、ネロ。で、お前どっちに張る」
「え、えっと……ぼ、僕は、その……ア、アシュさんに……」
「ネロてめえ!?」
訓練場の中央で、アシュが吼えた。
「あ、味方したのに!?」
「そういう意味じゃねえよ!!」
ルールは単純だった。武器は訓練用。魔法は減衰装置の範囲内で自由。有効打一本、または戦闘不能で終了。
審判のカラムが手を上げる。
「――始め」
開幕、アシュは撃たなかった。
後ろへ跳んで距離を取りながら、二丁の銃口を床へ向け、二発、三発。着弾点で小さな火が、じわりと床材に残る。
(撃ち損じ……じゃない)
リヴィアは踏み込みかけた足を、寸前で止めた。
直後、彼女が踏むはずだった床が、ぼんっ、と爆ぜた。
「……っ!」
「学習したろ。バルドアでよ」
アシュが口の端を上げる。
「派手に撃つだけが、火力じゃねえんだわ」
置き火。遅延爆発。三枚楯を正面から抜けなかった男は、正面から行くのをやめていた。
床のあちこちに火種を蒔きながら、アシュは訓練場の照明の陰、資材の裏と、リヴィアの視界を削るように動く。撃つ。爆ぜる。動く。撃つ。包囲の輪が、じわじわと狭まっていった。
(……上手くなってる)
悔しさより先に、それが来た。だから彼女も、素直に応えることにした。
次の置き火を踏む――と見せて、リヴィアはその爆発の風圧に、自分から乗った。
「なっ」
爆風で加速した体が、アシュの想定より半拍早く、射線の内側へ潜り込む。
訓練剣の切っ先が、喉元でぴたりと止まった。
「――そこまで!」
カラムの声。
静止したまま、二人は数秒動かなかった。やがてアシュが大きく息を吐いて、銃を下ろした。
「……くっそ。自分の火、使われた」
「最後の一発、掠ってたわよ」
リヴィアは自分の左袖を見せた。訓練弾の塗料が、布地を細く裂くように掠めた跡を残している。
「あと五センチ内側なら、あなたの勝ちだった」
「…………」
アシュはその袖を見て、それから、ふいっと横を向いた。
「……次は、勝つ」
「うん。次も受けるわ」
「よーし配当だ配当! カラムさん一人勝ちかよ、渋いとこ突くなあ!」
「経験の差だ、若いの」
【連携三型】
模擬戦のあとは、隊全体の連携訓練だった。
「バルドアの反省会だ。あの夜襲、個々はよく動いた。……が、全員バラバラに強かっただけだ。次はもっと面倒な相手とやる。だから――型を作る」
カラムが、床にチョークで図を引く。
「連携三型。ネロの感知で標的を割り出す。リズの風が道を作る。アシュの火がその道を走る。仕上げは嬢ちゃんの剣だ。……ネロ、頼む」
「は、はいっ。えっと、僕の感知情報を、みなさんに同時に飛ばします。目印、行きますね」
ネロが指を組むと、訓練場の奥の標的に淡い光の輪が浮かんだ。同じ輪が、リヴィアの視界の端にもうっすらと重なって見える。
「わ……便利ね、これ」
「リズさん、風、お願いしますっ」
「まっかせて!」
リズが短剣を振ると、床の砂埃が左右に割れ、標的までまっすぐな「風の廊下」が生まれた。
「アシュさん!」
「おうよ――走れっ!」
アシュの火弾が廊下に飛び込む。風に乗った炎は勢いを喰って膨らみながら廊下を駆け抜け――途中で廊下の壁を突き破って、あさっての方向へ吹き飛んだ。
ぼんっ。
「「「……」」」
「……ちょっとアシュ!? 私の毛先!! 焦げてる!! 毛先焦げてるんだけど!?」
「お前の風がヨレたんだろうが!」
「あんたの火が太すぎんのよ! 廊下のサイズ考えて!」
「けんか、しないでください……っ、ぼ、僕の計算だと、風速をあと二割落として、火弾を三割絞れば……」
三回失敗して、四回目。
風の廊下を、絞られた炎が矢のように走り抜け、標的の手前で弾けて視界を白く焼いた。
その白の中を、リヴィアの黒閃が一直線に貫く。
標的の中心が、音もなく両断された。
一瞬の静寂のあと、リズが「――今の! 今のよ!!」と跳びはね、アシュが無言で拳だけを突き出し、ネロがそれに恐る恐る自分の拳を合わせた。
「……ま、形にはなったな」
カラムは腕を組んだまま、標的の断面を眺めた。
「実戦で使えるかは五分五分ってとこだ。覚えとけ、訓練場で百点の型は、戦場じゃ六十点から始まる」
片付けの途中、ネロがおずおずと端末を差し出した。
「あ、あの、リヴィアさん。……これ、さっきの黒閃の波形なんですけど」
画面には、二本のグラフが並んでいた。
「上が、アシュさんの火弾です。魔力が体から出て、外へ広がって、消える。……ふ、普通は、みんなこの形なんです。花火みたいに」
「下が、リヴィアさんの黒閃で……」
下のグラフは、逆向きだった。
「……逆流、してるんです。放ってるのに、波形だけ見ると、その……周りの何かを、内側に吸い込んでるみたいな」
「吸い込んでる?」
「は、はい。こんな波形、教本にも、バルドアの計測記録にも、どこにもなくて……あ、いえっ、悪いって意味じゃなくてですね! 珍しいなって、それだけで……!」
ネロは慌てて端末を引っ込めた。
リヴィアは、自分の右手を見下ろした。手の甲に、うっすらと魔力を灯す。四本の線。
あの夜、鉄の骨組みには、抵抗がなかった。押し上げたという感触が、なかった。ただ、そこにあったはずの重さが消えた。
(……吸い込んでる)
胸元のペンダントが、服の下でひやりと冷たかった。
【街へ】
その週の終わり、給料日が来た。
「リヴィア・ノクス伍長。今月分だ」
経理窓口で渡されたのは、ずしりと重い封筒だった。
中を見て、リヴィアは二度数え直した。基本給。特務手当。戦地手当。危険任務加算。工場の事務員だった頃の四か月分が、そこにあった。
「……何よこれ」
「命の値段よ、命の」
後ろに並んでいたリズが、自分の封筒で肩を叩いた。
「さ、というわけで! 行くわよリヴィア。給料日の街に!」
「私、別に買うものは」
「あるの! あんたにはあるの! その上着!」
リズがびしりと指差したのは、リヴィアの私服――十年物の、色の褪せたコートだった。
「休暇のたびにそれ着てるでしょ。何年物? 正直に言いなさい」
「……たぶん、九年」
「連行します」
休日の中央区は、光と音で溢れていた。
路面電車の鈴。呼び込みの声。焼き栗の屋台の煙。ショーウィンドウには春物のコートが並び、魔導灯の下を着飾った人々が流れていく。
十年間、リヴィアはこの街を透明な存在として歩いてきた。誰の目にも留まらないように。誰の記憶にも残らないように。
今日は、隣でリズが騒いでいる。
「これ! 絶対これ似合う! ちょっと着てみて――ほらぁ!! 言ったじゃない!!」
試着室の鏡の中に、濃紺のコートを着た女が立っていた。少し、背筋が伸びて見えた。
「……高いわよ、これ」
「給料袋、さっき四回数えてたくせに。買います。はい決定」
旧いコートは店で処分を勧められたが、リヴィアは畳んで紙袋にしまった。
「まだ着れるから」
「物持ちいいわねえ……ま、いっか。あ、そうだ!」
店を出たリズが、通りの向かいを指差した。小さな写真館の前に、『記念写真、その場でお渡し』の看板。
「撮ろ! 新しいコートの記念!」
「え、いい。私はいい」
「即答禁止! ほら行くわよ!」
まばゆい魔導フラッシュが、二回焚かれた。
一枚はリズが取り、一枚はリヴィアの手に押しつけられた。
写真の中では、満面の笑みのリズの隣で、濃紺のコートの女が、口の端だけじゃなく――ちゃんと目まで、少し笑っていた。
【二〇三号室】
午後、リヴィアはひとりで下層区へ向かった。
旧いアパートの、部屋の引き払い。最後の手続きが残っていた。
高架を降りるにつれ、空気に煤の匂いが戻ってくる。工場の汽笛。路地の洗濯物。パンの焼ける匂い。何も変わっていなかった。変わったのは、歩いている自分の方だった。
鉄の外階段は、今日も三段目だけ音が高い。
カン、カン、キィン、カン。
二〇三号室の扉を開けると、空っぽの部屋が待っていた。家具はもうない。雨漏りの染みの地図と、三歩目で鳴る床板と、隙間風の入る窓だけが、そのままだった。
リヴィアは部屋の真ん中に立った。
ここで、十年。鍋ひとつと皿二枚で、写真の一枚もなく、一日の言葉が両手の指で足りる生活を、十年。
あの頃は、それが「安全」だと思っていた。息を潜めて、透明になって、何も失わないように生きるのが。
(……違ったわね)
目をつぶっていても、大切なものは奪われる。それをこの部屋で知って、この部屋から、彼女は歩き出したのだ。
「――あら、来たね」
振り向くと、戸口に大家のばあさんが立っていた。十年間、家賃の受け渡しのとき以外、ほとんど話したこともない人だった。
「敷金、返すよ。……あんた、部屋を綺麗に使うから、ほとんどそのまんまだ」
「……ありがとうございます」
「軍人さんになったんだってね。掲示板の号外で見たよ、名前」
ばあさんは鍵を受け取りながら、しみじみとリヴィアを眺めた。
「あんた、十年いて、一度も人を連れてこなかったろ。夜中に泣いてる声が、たまーに聞こえてさ。……声かけようか、いつも迷ってたんだよ」
「…………」
「いい顔になったじゃないか。それだけ言いたくてね」
ばあさんはそれだけ言うと、よっこらせと階段を降りていった。三段目が、キィン、と鳴いた。
リヴィアは空っぽの部屋にもう一度だけ頭を下げて、扉を閉めた。
【ふたつのケーキ】
中央区の外れに、その店はあった。白い庇に、金文字の看板。ショーケースの中で、苺が三つ乗ったケーキが宝石みたいに並んでいる。
「……これを、ふたつ。持ち帰りで」
箱を提げて、リヴィアは共同墓地へ向かった。
雪の残る墓地には、先客がいた。エマの母だった。墓石の前にしゃがんで、枯れた花を新しいものに替えている。
「……あら」
母親はリヴィアと、その手の白い箱を見て、目を丸くした。
「毎週、来てらっしゃるんですか」
「ええ。……あなた、見違えたわね。なんだか、背筋がしゃんとして」
二人は墓の前のベンチに並んで座った。箱を開ける。苺が三つ乗ったケーキが、ふたつ。
「エマが、ずっと言ってたんです。給料日に、これを食べるんだって。……私も誘われてたのに、断ってばかりで」
「知ってるわ。『絶対いつか連れてく』って、家で息巻いてたもの」
母親はふふ、と笑って、それから少しだけ洟をすすった。
「……じゃあ、今日が、その日ね」
冬の名残の空気の中で、ふたりはケーキを食べた。冷たくて、甘くて、苺は少しだけ酸っぱかった。
「病院の人がね、苦しまなかったって言ってくれたの」
母親が、フォークの先で苺をつつきながら言った。
「最後に、あなたが傍にいてくれたから。……それが、せめてもの救いだって」
リヴィアは、フォークを皿に置いた。
冷たい皿の縁を、指でなぞる。何か言うべきだと分かっていた。言うべきでないことも、分かっていた。
結局、風の音が二人のあいだを通り過ぎていくのを、そのままにした。
「私ね」
しばらくして、母親が言った。
「先月から、パン屋で働き始めたの。お菓子も置いてる店。……あの子、自分のお菓子屋さんをやるのが夢だったでしょう。だから、ほんの少しだけ、代わりにね」
「……エマ、喜んでます。絶対」
「あなたは? いいことあった?」
リヴィアは少し考えて、墓石に目をやった。磨かれた石の表面に、雲の流れる空が映っている。
「……お給料が、出ました。あなたの言ってたケーキ、ちゃんと買えるくらい」
「それから――友達が、できました」
言ってから、白い息と一緒に続けた。
「毛先が焦げたって騒ぐ子と、次は勝つって言い張る人と、波形がどうとかって謝ってばかりの子と……あと、砂糖入りの白湯をくれる、おじさん」
「あら、賑やかそう」
「賑やかです。……あなたの職場みたいに」
風が墓地の木々を揺らした。春の匂いの混ざり始めた、柔らかい風だった。
【南へ】
夕方、宿舎に戻ると、隊舎の前にカラムが立っていた。その手に、見慣れた封筒と、夕刊。
「――お帰り。ちょうどいい、全員呼べ」
食堂の隅に集まった黒翼の前で、カラムは夕刊を机に放った。一面に、太い活字。
『セルバ共和国、帝国商船ヲ拿捕――政府、断固タル対応ヲ表明』
「せ、セルバ……南方の、河川国家ですね。水運の要所で、国土のほとんどが河のデルタで……」
ネロが記憶を辿るように言う。
「船盗っ人の退治かよ。まあ、南はあったけえだろうし、歓迎だ」
アシュが椅子の背にもたれる。
リヴィアだけが、記事の一行目をじっと見ていた。
(……拿捕)
バルドアの時も、始まりは「襲撃」だった。そして山には、三週間前に発送された削岩機が待っていた。
(今度の始まりも――「向こうから」だ)
喉まで出かかった言葉を、彼女は飲み込んだ。
カラムと、一瞬だけ目が合う。彼は新聞を畳んで、机の端に寄せた。
「出立は三日後。任務は渡河作戦の支援――例によって、詰まった戦線のこじ開けだ」
カラムは封筒を叩いて、付け加えた。
「ああ、それとな。今回はうちだけじゃねえ。相棒がつく」
「相棒?」
「特務課の、もう一枚看板だよ。――『紅蓮掌』。火力なら軍でうちと双璧の、赤マントの連中だ」
リズが「わ、本物見るの初めて」と目を輝かせ、アシュが「……火力なら、だろ」と対抗心を隠しもせずに呟いた。
その夜。
三〇六号室の机の上には、給料袋の残りと、飴の缶と、ケーキ屋の箱の畳んだ包み紙。
リヴィアは鞄に荷物を詰めながら、ふと手を止めた。
昼間の写真を取り出す。濃紺のコートの自分と、ピースサインのリズ。
少し迷ってから、彼女はそれを机の上の壁に、画鋲でとめた。
この部屋には、写真が一枚――ある。
画鋲を押し込みながら、ふと思った。十年前は、こんなものがいくらでもあった。壁が埋まるほど。誰が写っているのかを、一枚ずつ説明できるほど。
あれは全部、どこへ行ったのだろう。
――燃えた。知っている。
窓の外、南の夜空は晴れていた。




