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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
連合軍反撃編

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彷徨い

【止まった風】


 六日目の夜だった。


 ――風が、止んだ。


 北の氷原で、風が止むことは、まずない。


 極寒の空気は、常に南へ流れている。天幕の布は、一日じゅう同じ方向へ膨らんでいて、住人はその音を聞かずに眠る。


 ――だから、彼らは、すぐに気づいた。


 音が、なくなったからだ。


「……止まったね」


 配給の鍋を洗っていた老婆の手が、止まった。


「何がですか。……あたし、何も聞こえませんけど」


 リズが、顔を上げる。


「それだよ。風が止まったんだ。……ほら、天幕が、鳴ってないだろう」


 ――老婆の顔が、北を向いた。


 リズは、耳を澄ませた。


 ――確かに、無音だった。


 いつも、布を叩いていた音が、消えていた。


 その代わりに、遠くで氷の軋む音が聞こえた。いつもは、風に消されている音だった。


「……珍しいんですか、これ」


「珍しいよ。十四年で、三回目だ」


「――で、その三回とも、同じことが起きた」


 鍋が、雪の上に置かれた。


 その手が、震えていた。


「……なにが、起きたんですか」


「来たんだよ、北から。……三回とも、風が止まった晩だった」


 老婆は、鍋を置いたまま立ち上がった。


「――鐘を、鳴らしてくる。あんたも、火を消しな」


【灯りを消せ】


 ――集落の鐘が、鳴った。


 乱打だった。


「――灯りを消せェ!! 全部だ! 火も、蝋燭も、残らず消せ!!」


 誰かが、叫んだ。


「息も殺せ! 子供は、口を押さえてやれ!!」


 ――住人たちが、一斉に動いた。


 訓練された動きだった。


 焚き火に雪をかけ、蝋燭を吹き消し、天幕の入口を閉じ、中で身を寄せ合う。


 ――三十秒で、集落から光が消えた。


 最後に消えたのは、配給所の炉の火だった。雪をかけられて、じゅう、と鳴って、それきりだった。


「――なにこれ! 何が起きてるんですか!」


 リズが、老婆に掴みかかった。


「静かに。……音を出すんじゃない」


 しわだらけの手が、彼女の口を塞いだ。


 その手は、魚の匂いがした。


「あいつらはね、光と音に寄ってくるんだ。それだけを、追ってくる」


「あいつら、って」


「――彷徨い、と呼んでる」


 リヴィアは、その騒ぎで、小屋から飛び出した。


 ――集落が、闇に沈んでいた。


 六千四百人が、息を殺している。


 誰も、動かない。


 これだけの人間がいて、足音一つしなかった。


「――何があったの、アシュ」


「北から何か来てるらしい。……それ以上は、俺にも分からん」


 彼が、闇の中から現れた。


「住人が、全員、震えてる。……あの婆さんまでな」


【最初の一体】


 ――そして、彼らは、それを見た。


 氷原の向こうから。


 ――影が、歩いてきた。


 一つ。


 ――背丈は、三メートルほどあった。人の形をしていた。


 肩があり、腰があり、膝が正しい向きに曲がっていた。


 だが、腕が四本あった。


 左右に二本ずつ。上の二本が長く、下の二本が短い。


 ――そして、頭がなかった。


 いや。


 ――首から上が、闇だった。


 輪郭は、ある。頭の形に、そこが黒い。


 だが、その中が、何もなかった。


 ――雪の白の上で、そこだけが、穴のように見えた。


「……なに、あれ。……人、ですか」


 ミーナレイの声が、震えた。


「――違うわ。人じゃない」


 リヴィアの右手が、胸元を押さえた。


 ――彼女の中の闇が、動いていた。


 喰おうとしている。


 ――いや。


(……違う)


(――近づこうと、してる)


 同族に、寄っていく動きだった。


 ――その影は、緩慢に歩いていた。


 目的地があるようには、見えなかった。


 三歩進んで、二歩の間隔が空く。時々、立ち止まって、首の闇を左右へ向ける。


 ――そして、また歩き出す。


「……彷徨ってる、って言ってましたよね。……本当に、迷子みたいですね」


 ――ミーナレイのその言葉が、正確だった。


「――音を、出すんじゃないよ」


 老婆が、囁いた。


「あれは、目が見えん。音と、光だけを追う。……だから、じっとしてれば、通り過ぎる」


「それだけで、いいんですか」


「それだけだ。十四年、そうしてきた」


 彼女の肩が、少しだけ緩んだ。


 ――影は、集落の三百メートル手前を、通り過ぎようとしていた。


 誰も、動かなかった。


 六千四百人が、息を止めていた。


 ――そして。


「……っ、あ」


 小さな声が、した。


 ――子供の声だった。


 どこかの天幕で。


 母親が、慌てて口を塞いだ。


 ――だが。


 影の動きが、止まった。


 ――首の闇が、こちらを向いた。


 顔がないのに、向いたと分かった。


「…………」


 ――そして、走り出した。


 三メートルの巨体が、氷の上を、恐ろしい速度で。


 足音が、しなかった。


「――来る!!」


【ルールが、ない】


「――アシュ、撃って!」


「撃つ! 伏せてろ!」


 二丁の銃が、抜かれた。


 ――そして、放たれた。


 強化された火弾が、二発。


 影の胴体に、着弾した。


 ――そして。


「――は?」


 弾が、消えた。


 爆発しなかった。跳ね返りもしなかった。


 ――影の中に、吸い込まれた。


 着弾した場所の闇が、一瞬だけ濃くなって、すぐに元に戻った。


「なんだよ、それ! どこ行った、俺の弾は!」


「――リズ、右腕!」


「風、行くわよ!」


 三日月の刃が、走った。


 ――影の右腕が、二本まとめて断たれた。


 黒い霧が、噴き出した。


「――効いた!」


 だが。


 ――断たれた腕が、元に戻った。


 噴き出した霧が、地面に落ちる前に渦を巻いて、腕の形になって、肩に繋がった。


 三秒も、かからなかった。


「――嘘でしょ、今の!」


「――水膜、張ります!」


 ミーナレイが、前へ出た。


 水の膜が、張られた。


 ――影の腕が、それを叩いた。


 膜は、逸らした。


 ――正しく、逸らした。


 だが。


「――っ、あ!?」


 彼女の膜が、溶けた。


 水が、黒く濁って、地面に落ちた。落ちた雪が、そこだけ灰色になった。


「当たってません! 触れてないのに、腐りました!」


 ――リヴィアの目が、細くなった。


(……分からない)


(――こいつの、ルールが、分からない)


 火は、吸い込まれる。


 風は、切れるが、戻る。


 水は、触れずに、腐る。


(――何が、効くの)


「――全員、下がって! 集落を背にしないで、横へ逃げて!」


 彼女の腕が、横に払われた。


 ――レイピアが、抜かれた。


「――黒閃」


 黒い線が、走った。


 影の胴を、断った。


 ――そして。


 彼女の中に、何かが、流れ込んできた。


「……っ!」


 ――冷たかった。


 いや、冷たいのではない。


 ――濁っていた。


 喰った魔力が、いつもと違った。


 泥水を飲んだような、不快な感触。喉ではなく、腹の底に直接落ちてきた。


 彼女の膝が、氷についた。


「――隊長!」


「……大丈夫。でも、これ、味が」


 彼女は、顔を上げた。


 断たれた影が。


 ――二つに、なっていた。


「……嘘」


 二体の影が、立ち上がった。


 それぞれ、腕が二本ずつ。


 背丈は、半分になっていた。


 ――そして、また、こちらへ歩き始めた。


「――斬ったら、増えるってことですか!?」


「そんなのアリかよ、ふざけんな!」


【一族の長】


 ――そして。


 北の氷原に、新たな影が、現れた。


 一つではなかった。五つ、十、二十と増えて、数えている途中で四十を超えた。


 どれも、形が違った。腕の数も、背丈も。共通しているのは、首から上が闇であることだけだった。


「……嘘でしょ。数えられない」


 リズの声が、掠れた。


「――そして、後ろだ」


 アシュの銃口が、震えた。


「――でかいのが、いる」


 ――その群れの、後方。


 一つの影が、歩いていた。


 背丈、五メートル。


 ――他とは、違った。


 首から上に、闇はなかった。


 ――顔が、あった。


 人の顔だった。


 男の顔。深い皺の刻まれた、五十がらみの顔。


 ――そして、その額から、二本の角が生えていた。


 根元が太く、先が後方へ反っていた。


 ――彼は、歩いていた。


 緩慢に。


 周囲の影たちが、彼を避けるように、道を空けていた。


 命じられたのではない。近づくと、勝手に逸れていく。そういう避け方だった。


 彼の手には、何もなかった。


 ――武器も、鎧も。


 ただ、黒い布を、腰に巻いているだけだった。


 その布が、氷原の風のない空気の中で、揺れていた。


 リヴィアの喉が、鳴った。


「……あれだけ、違う。――知性が、ある」


【ゼルグ】


 ――その男は、集落の二百メートル手前で、足を止めた。


 周囲を、見回した。


 それから、口を開いた。


「――ここは、どこだ」


 言葉だった。


 人間の、言葉だった。


 訛りも、古さもなかった。


 集落が、凍りついた。


「……喋りましたよ、今」


「――誰か、答えろ! 俺に、答えてくれ!」


 誰も、応じなかった。


 ――そして、男の口が、また動いた。


「――帰り道を、知らないか。……北でも、南でもいい。どこでもいいから、教えてくれ」


 リヴィアが、前へ出た。


「――隊長!?」


「――待って。あれは、話が通じる」


 彼女の声が、闇の中を通った。


「――どこへ、帰りたいんですか」


 男の視線が、彼女を捉えた。


「……ほう。言葉が、通じるか」


 その角が、少しだけ傾いた。


「通じます。……あなたの言葉は、分かります」


「――久しいな。二百年ぶりだ」


 彼の顔が、わずかに上を向いた。


「……二百年」


「――二百年、歩いている。……帰り道が、分からん」


 その声には、感情がなかった。


 疲れも、怒りも、悲しみも。


 ――ただ、事実を並べているだけの口調だった。


「あなたは、何者ですか」


「――ゼルグ。魔獣族の長だった男だ。……二百年前までは、な」


 彼の視線が、氷原へ向いた。


「なぜ、こちらへ来たんですか。……境界を越えたんですか」


「落ちたのだ。渡ったのではない」


 あっさりとした一言だった。


「境界が、薄い場所がある。北の、ずっと先だ。……そこで、足を滑らせた」


 彼の指が、北を差して、下りた。


「――それだけのことだ」


 リヴィアの胸が、痛んだ。


(……足を、滑らせた)


(――それで、二百年)


「――で、ここはどこだ。……人間界なのは、分かっている」


 ゼルグの視線が、戻った。


「――どこの、人間界だ。北か、南か。東か、西か」


「……北です。それも、北の果てです。ここより先は、氷原しかありません」


 ゼルグは、しばらく黙っていた。


「……そうか。――逆だったのか」


「逆、というのは」


「――俺は、二百年、逆へ歩いていた」


 ――そして。


 彼の顔が、初めて、歪んだ。


「二百年。……ずっと、逆へ」


 その角が、震えた。


【壊れる】


 ――彼が、叫んだ。


 言葉ではなかった。


 ――音だった。


 空気が、震えた。


 氷が、割れた。集落の南の斜面で、リヴィアが三日かけて掘った溝が、その一声で崩れた。


 ――集落の天幕が、一斉に吹き飛んだ。


 布が、夜空へ舞い上がった。何十枚も。


「――うわあああ!!」


「――伏せろ!!」


 ――周囲の影たちが、一斉に動いた。


 四十体が。


 ――集落へ向かって、走り出した。


「――来るぞ! 防衛線を張れ!!」


 リバースオーダーの隊員が、叫んだ。


 ――だが。


 彼らは、この敵を知らなかった。


 ――ルールが、分からない敵を。


 最初の十秒で、十二人が死んだ。


 ――魔法が、効かなかった。


 斬れば増える。撃てば吸われる。水は腐る。


 ――そして、彼らの腕が触れた者は。


 灰になった。


 悲鳴も、上げずに。


 服だけが、形を保ったまま、雪の上に落ちた。


「――嘘だろ! 触られたら終わりかよ!」


 アシュが、後退した。


「――ミーナレイ! 膜を厚く張って!」


「やってます! でも、張る端から腐るんです!」


 彼女の水膜が、次々と腐っていく。


 張っても、張っても。


「――保ちません、これ!」


 ――防衛線が、崩れた。


 影たちが、集落へ雪崩れ込む。


 天幕が、潰される。


 ――そして、その中には、人がいた。


「――やめて!! そこ、子供がいるの!!」


 リズが、叫んだ。


【使う】


 ――リヴィアの拳が、握られた。


(……使えば)


(――止められる)


 絶空。斑。轟。


 ――どれでも、この群れは止められる。


 ――だが。


(……使えば)


 彼女の視線が、自分の右手に落ちた。


(――また、黒くなる)


 ――三ヶ月前の記憶が、蘇る。


 艦隊を消した後、指先が黒くなった。


 ――そして、彼女は、気持ちいいと感じた。


 その感覚が、忘れられなかった。


(……あれを、また味わったら)


(――私は、どうなるの)


「――隊長!!」


 ミーナレイの声が、飛んだ。


 彼女の膜が、破れていた。


 影の腕が、彼女に迫っていた。


 あと、一歩。


「――ミーナレイ!!」


 リヴィアは、走った。


 ――距離が、四十メートル。


(――間に合わない)


 ――彼女の指が、剣の柄にかかった。


(……ごめん)


(――私は)


(――私が、止めなきゃ)


【解放】


 ――彼女は、蓋を外した。


 空気が、変わった。


 ――集落の周囲から、光が消えた。


 雪の白が、灰色になった。


 闇が、地面を這った。


 ――そして、彼女を中心に、円が広がった。


 円の外では、まだ月光が雪を照らしていた。円の内側だけが、夜の底の色をしていた。


「――黒閃・斑」


 十二の陣が、展開した。


 ――だが、それは、いつもの斑ではなかった。


 陣が、影たちの足元に展開した。


 ――上からではない。下から。


「――え?」


 黒い閃光が、地面から噴き上がった。


 ――十二体が、同時に。


 消えた。


「……嘘だろ」


 アシュの銃口が、下がった。


 ――斬っていない。


 断っていない。


 ――存在ごと、喰った。


 だから、増えなかった。


 黒い霧も、残らなかった。


「――ミーナレイ、伏せて!」


「――はいっ!」


 彼女が、地面に伏せた。


 その真上を。


 ――黒い斬撃が、走った。


「――絶空」


 幅二十メートルの闇が、影の群れを横薙ぎにした。


 ――十八体が、消えた。


 増えなかった。


 残らなかった。


 斬撃が通った後、雪の上に、幅二十メートルの帯が残った。そこだけ、雪が消えて、剥き出しの氷が出ていた。


 ――リヴィアは、走った。


 闇を纏って。


 ――そして、彼女は、視ていた。


(……見えた)


(――こいつらの、正体)


 ――カイゼンの言葉が、蘇る。


 ――魔族は、淀んだ魔素が形を取ったものだ。


(――魔素の、塊)


(だから、斬れば分かれる)


(撃てば吸う)


(――でも)


(――喰えば、消える)


【ゼルグ】


 ――残ったのは、ゼルグだけだった。


 彼は、動いていなかった。


 ただ、リヴィアを見ていた。


 ――五メートルの巨体が。


 彼女を、見下ろしていた。


「……ほう。――喰うのか、お前は」


 その角が、傾いた。


「――帰りなさい。北へ行けば、境界があるんでしょう」


 リヴィアの剣先が、北を指した。


「――帰り方が、分からんと言っている」


「なら、探しなさい。私も探します」


「――二百年、探した」


 彼の腕が、上がった。


「――もう、いい」


 ――腕が、振り下ろされた。


 風も、光も、音もなかった。


 ――ただ、地面が、消えた。


 彼女の立っていた場所を中心に、直径三十メートルが。


 抉れた。


 抉れた縁で、氷の断面が、きれいな垂直になっていた。層が、七つ数えられた。


「――隊長!!」


 リヴィアは、跳んでいた。


 ――かろうじて。


 左の脇腹が、削れていた。


 服が裂け、皮膚が抉れ、血が噴き出した。


「……っ、あ」


 彼女は、着地して、片膝をついた。


 血が、雪に落ちた。落ちた場所から、雪が溶けて、赤く沈んだ。


(……重い)


(――こいつは、他と違う)


 魔素の塊ではない。


 ――意志を持った、魔素の塊だった。


 制御されている。


 ――だから、強い。


「――もう一度、聞く。帰り道は、どこだ」


 ゼルグの声が、降ってきた。


「――北です。それしか、言えません」


「――嘘だ」


「嘘じゃありません!」


「――なら、なぜ、俺は帰れない!」


 その叫びが、氷原を揺らした。


 初めて、感情が乗っていた。


「二百年、歩いた! 北へも行った、南へも行った!」


「……」


「東の海も渡った! 西の砂も歩いた!」


 その顔が、歪んだ。


「――どこにも、なかった!!」


 ――リヴィアは、理解した。


(……この人)


(――壊れてる)


 二百年。


 言葉を交わす相手もなく、帰り道も分からず。


 ――正気を、保てるはずがなかった。


「――ゼルグ。今から、私が探します」


「……なんだと」


「境界を、です。この北のどこかにあるはずでしょう。……人を出して、地図を作って、探します」


 彼女が、立ち上がった。


「時間はかかります。……でも、あなたが二百年かけたことなら、私が引き継ぎます」


「――だから、待ってください」


 ゼルグは、しばらく黙っていた。


「――遅い。二百年、遅いのだ。……お前が今日探し始めて、見つけるのは何年後だ」


 両手が、上がった。


「――もう、何も要らん」


 彼の周囲に、黒い渦が、生まれた。


 ――集落全体を、覆うほどの。


 渦は、音を立てなかった。ただ、そこにある雪が、渦の側へ吸われて消えていった。


「――やめて!!」


 リヴィアは、走った。


 ――だが、間に合わない。


 渦が、収束していく。


 あの一撃が、集落へ落ちる。


 ――六千四百人が、消える。


(――止める)


(――全部、使う)


【肩まで】


 ――剣が、地面に突き立てられた。


「――黒葬」


 闇が、地面を這った。


 ――だが、それは、いつもの黒葬ではなかった。


 沼ではない。


 ――壁だった。


 闇が、集落とゼルグの間に、垂直に立ち上がった。


 高さ、五十メートル。


 幅、二百メートル。


 ――集落の、正面を、全部覆った。


 ――渦が、放たれた。


 黒い奔流が、闇の壁に激突した。


 ――音は、しなかった。


 壁が、たわんだ。中央が、二メートルほど、内側へ膨らんだ。


「――っ、ぐ……!」


 リヴィアの腕が、軋んだ。


 ――喰う。


 彼女の闇が、その奔流を、喰い始めた。


 ――だが、量が、多すぎた。


(……喰いきれない)


(――なら)


 彼女は、循環を、回した。


 喰う。増やす。壁を厚くする。喰う。


 ――加速していく。


 彼女の中で、何かが、回り始めた。


 ――速く。


 もっと速く。


 一周ごとに、間隔が短くなっていった。


 ――そして、彼女は、感じた。


 右手が、熱い。


 いや。


 ――指が、ない。


 感覚が、なかった。


 柄を握っているはずなのに、握っている実感がなかった。


 彼女は、それを見なかった。


 見る余裕が、なかった。


「――返す!!」


 ――壁が、押された。


 喰った全部を、乗せて。


 闇の壁が、崩れた。


 ――いや、崩れたのではない。


 倒れた。


 五十メートルの闇が、ゼルグへ向かって。


 ――それは、津波だった。


 黒い津波が、氷原を走った。


 通った後の氷が、跡形もなくなっていた。抉れたのではない。そこにあった氷が、なくなっていた。


 ゼルグの体が、その中に呑まれた。


「――ぐ、お……」


 彼の巨体が、軋んだ。


 ――そして。


 彼の腕が、消えた。次に、脚が。


 ――そして、胴が。


 ――闇が、引いた。


 後には、何も残らなかった。


 ――いや。


 一つだけ、残っていた。


 黒い、小さな塊。


 ――人の、上半身だった。


【帰り道】


 ――リヴィアは、そこへ歩いた。


 足元が、覚束なかった。三歩に一度、体が傾いた。


 ――そして、その前に、膝をついた。


「……ゼルグさん」


「……喰われたな、ほとんど。……こんな喰われ方は、初めてだ」


 彼は、まだ、生きていた。


 顔だけが、無事だった。


「……ごめんなさい」


「――なぜ、謝る。俺は、楽になったのだ」


「え?」


「二百年、重かった。……ようやく、下ろせた」


 その目が、少しだけ、細くなった。


 リヴィアは、応じられなかった。


「……娘。お前は、なんだ。……人間ではあるまい」


「人間です。……そう、思って生きてきました」


「――嘘だな。人間の闇は、そんな喰い方をせん」


 その角が、わずかに動いた。


「……」


「あれは、こちら側の喰い方だ。……上から吸うのではない。下から、丸ごと引く」


 彼の目が、細くなった。


 それから、リヴィアの顔を、じっと見た。


 ――そして。


 その表情が、変わった。


「…………」


「……どうしたんですか」


「――その顔。……知っている」


 ――彼の残った体が、崩れ始めた。


「――待って! 知ってるって、何をですか! 誰をですか!」


 リヴィアが、叫んだ。


「答えてください! お願いだから!」


 ゼルグの唇が、最後に動いた。


「――ノクティルム」


⸻


 リヴィアの息が、止まった。


「……今、なんて」


「――お前は、ノクティルム家の血だ。あの家の顔をしている」


 その顔が、霧に溶け始めた。


「……なぜ、地上にいる」


⸻


 ――そして、彼は、消えた。


 黒い霧が、風に散った。


 ――風が、また、吹き始めた。


 北から、南へ。


 いつも通りに。


 ――霧は、その風に乗って、北へ流れていった。


【黒】


 ――集落は、無事だった。


 いや、無事ではなかった。


 天幕の半分が、吹き飛んでいた。


 死者、三十七人。


 ――だが、六千三百人以上が、生き残った。


「――隊長!! 無事ですか、脇腹から血が!」


 ミーナレイが、駆け寄ってきた。


「……大丈夫。深くない」


「大丈夫じゃないです、色が変わってます!」


「――大丈夫だから」


 リヴィアが、立ち上がろうとして――


 膝が、崩れた。


「――隊長!」


「……っ」


 彼女の手が、雪をついた。


 ――そして、見てしまった。


 右手が。


 ――手首まで、黒かった。


 手袋の下ではない。


 手袋が、破れていた。


 その下の皮膚が。


 ――墨のように、黒かった。


「……」


 彼女は、慌てて、その手を隠した。


 左手で、握り込んだ。


「――隊長? 今、手が」


「……なんでもない」


「でも、今、黒く」


「――なんでもないって言ってるでしょう!」


 その叫びに、ミーナレイの肩が跳ねた。


 リヴィアの声が、落ちた。


「……ごめん。疲れてるだけなの。……悪かったわ、怒鳴って」


 ――彼女は、自分の天幕へ戻った。


 天幕は、半分が破れていた。それでも、風は入らない側だった。


 それから、蝋燭を灯して、右手を見た。


 ――手首まで、黒かった。


 指だけではない。掌も、甲も、手首までの全部が、同じ色をしていた。


 境目は、手首の骨の出っ張りのところで、線のように鋭かった。


「……」


 彼女は、その手を、擦った。


 ――落ちなかった。


 当たり前だった。


 彼女は、しばらく、それを見ていた。


 ――一時間。二時間。


 ――戻らなかった。


(……戻らない)


(――前は、一時間で戻ったのに)


 彼女の指が、握られた。


 ――感覚は、あった。


 動くし、物も掴める。蝋燭の熱も、ちゃんと分かる。


 ――だが、自分の手ではないような気が、した。


 他人の手を借りて動かしているような、薄い距離があった。


 ――そして。


 彼女は、もう一つのことに気づいた。


(……気持ちいい)


 ――そこで、背筋が震えた。


(――また、これだ)


 あれだけの魔素を喰った。


 ――そして、彼女の中の何かが、満たされている。


 空腹が、満たされた時のような。


 ――いや。


 もっと、深いところで。


(もっと、喰いたい)


「……っ」


 両手が、口を押さえた。


 ――そして、吐いた。


 何も出なかった。


 ――彼女は、そのまま、うずくまった。


(……ムラサメ殿)


 ――老人の言葉が、蘇る。


 ――いずれ、出すより先に、喰い始める。


 ――その時、最初に喰われるのは、お主自身だ。


(……近づいてる)


(――確実に)


 ――彼女は、荷物から、長い手袋を出した。


 肘まである、革の手袋。


 北の寒さのために、住人から譲られたものだった。


 ――それを、はめた。


 黒い手首が、隠れた。


 彼女は、割れた鏡の破片を、目の前に持ち上げた。


 ――何も、見えなかった。


 いつも通りの、自分がいた。


 その呟きが、天幕の中に落ちた。


「……大丈夫。まだ、大丈夫よ」


 誰も、聞いていなかった。


 ――翌朝。


 彼女は、いつも通りに、点呼を執った。


 いつも通りに、指示を出した。


 いつも通りに、氷を掘った。


 ――誰も、彼女の手袋が長くなったことに、気づかなかった。


 北の氷原には、また、風が吹いていた。

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