彷徨い
【止まった風】
六日目の夜だった。
――風が、止んだ。
北の氷原で、風が止むことは、まずない。
極寒の空気は、常に南へ流れている。天幕の布は、一日じゅう同じ方向へ膨らんでいて、住人はその音を聞かずに眠る。
――だから、彼らは、すぐに気づいた。
音が、なくなったからだ。
「……止まったね」
配給の鍋を洗っていた老婆の手が、止まった。
「何がですか。……あたし、何も聞こえませんけど」
リズが、顔を上げる。
「それだよ。風が止まったんだ。……ほら、天幕が、鳴ってないだろう」
――老婆の顔が、北を向いた。
リズは、耳を澄ませた。
――確かに、無音だった。
いつも、布を叩いていた音が、消えていた。
その代わりに、遠くで氷の軋む音が聞こえた。いつもは、風に消されている音だった。
「……珍しいんですか、これ」
「珍しいよ。十四年で、三回目だ」
「――で、その三回とも、同じことが起きた」
鍋が、雪の上に置かれた。
その手が、震えていた。
「……なにが、起きたんですか」
「来たんだよ、北から。……三回とも、風が止まった晩だった」
老婆は、鍋を置いたまま立ち上がった。
「――鐘を、鳴らしてくる。あんたも、火を消しな」
【灯りを消せ】
――集落の鐘が、鳴った。
乱打だった。
「――灯りを消せェ!! 全部だ! 火も、蝋燭も、残らず消せ!!」
誰かが、叫んだ。
「息も殺せ! 子供は、口を押さえてやれ!!」
――住人たちが、一斉に動いた。
訓練された動きだった。
焚き火に雪をかけ、蝋燭を吹き消し、天幕の入口を閉じ、中で身を寄せ合う。
――三十秒で、集落から光が消えた。
最後に消えたのは、配給所の炉の火だった。雪をかけられて、じゅう、と鳴って、それきりだった。
「――なにこれ! 何が起きてるんですか!」
リズが、老婆に掴みかかった。
「静かに。……音を出すんじゃない」
しわだらけの手が、彼女の口を塞いだ。
その手は、魚の匂いがした。
「あいつらはね、光と音に寄ってくるんだ。それだけを、追ってくる」
「あいつら、って」
「――彷徨い、と呼んでる」
リヴィアは、その騒ぎで、小屋から飛び出した。
――集落が、闇に沈んでいた。
六千四百人が、息を殺している。
誰も、動かない。
これだけの人間がいて、足音一つしなかった。
「――何があったの、アシュ」
「北から何か来てるらしい。……それ以上は、俺にも分からん」
彼が、闇の中から現れた。
「住人が、全員、震えてる。……あの婆さんまでな」
【最初の一体】
――そして、彼らは、それを見た。
氷原の向こうから。
――影が、歩いてきた。
一つ。
――背丈は、三メートルほどあった。人の形をしていた。
肩があり、腰があり、膝が正しい向きに曲がっていた。
だが、腕が四本あった。
左右に二本ずつ。上の二本が長く、下の二本が短い。
――そして、頭がなかった。
いや。
――首から上が、闇だった。
輪郭は、ある。頭の形に、そこが黒い。
だが、その中が、何もなかった。
――雪の白の上で、そこだけが、穴のように見えた。
「……なに、あれ。……人、ですか」
ミーナレイの声が、震えた。
「――違うわ。人じゃない」
リヴィアの右手が、胸元を押さえた。
――彼女の中の闇が、動いていた。
喰おうとしている。
――いや。
(……違う)
(――近づこうと、してる)
同族に、寄っていく動きだった。
――その影は、緩慢に歩いていた。
目的地があるようには、見えなかった。
三歩進んで、二歩の間隔が空く。時々、立ち止まって、首の闇を左右へ向ける。
――そして、また歩き出す。
「……彷徨ってる、って言ってましたよね。……本当に、迷子みたいですね」
――ミーナレイのその言葉が、正確だった。
「――音を、出すんじゃないよ」
老婆が、囁いた。
「あれは、目が見えん。音と、光だけを追う。……だから、じっとしてれば、通り過ぎる」
「それだけで、いいんですか」
「それだけだ。十四年、そうしてきた」
彼女の肩が、少しだけ緩んだ。
――影は、集落の三百メートル手前を、通り過ぎようとしていた。
誰も、動かなかった。
六千四百人が、息を止めていた。
――そして。
「……っ、あ」
小さな声が、した。
――子供の声だった。
どこかの天幕で。
母親が、慌てて口を塞いだ。
――だが。
影の動きが、止まった。
――首の闇が、こちらを向いた。
顔がないのに、向いたと分かった。
「…………」
――そして、走り出した。
三メートルの巨体が、氷の上を、恐ろしい速度で。
足音が、しなかった。
「――来る!!」
【ルールが、ない】
「――アシュ、撃って!」
「撃つ! 伏せてろ!」
二丁の銃が、抜かれた。
――そして、放たれた。
強化された火弾が、二発。
影の胴体に、着弾した。
――そして。
「――は?」
弾が、消えた。
爆発しなかった。跳ね返りもしなかった。
――影の中に、吸い込まれた。
着弾した場所の闇が、一瞬だけ濃くなって、すぐに元に戻った。
「なんだよ、それ! どこ行った、俺の弾は!」
「――リズ、右腕!」
「風、行くわよ!」
三日月の刃が、走った。
――影の右腕が、二本まとめて断たれた。
黒い霧が、噴き出した。
「――効いた!」
だが。
――断たれた腕が、元に戻った。
噴き出した霧が、地面に落ちる前に渦を巻いて、腕の形になって、肩に繋がった。
三秒も、かからなかった。
「――嘘でしょ、今の!」
「――水膜、張ります!」
ミーナレイが、前へ出た。
水の膜が、張られた。
――影の腕が、それを叩いた。
膜は、逸らした。
――正しく、逸らした。
だが。
「――っ、あ!?」
彼女の膜が、溶けた。
水が、黒く濁って、地面に落ちた。落ちた雪が、そこだけ灰色になった。
「当たってません! 触れてないのに、腐りました!」
――リヴィアの目が、細くなった。
(……分からない)
(――こいつの、ルールが、分からない)
火は、吸い込まれる。
風は、切れるが、戻る。
水は、触れずに、腐る。
(――何が、効くの)
「――全員、下がって! 集落を背にしないで、横へ逃げて!」
彼女の腕が、横に払われた。
――レイピアが、抜かれた。
「――黒閃」
黒い線が、走った。
影の胴を、断った。
――そして。
彼女の中に、何かが、流れ込んできた。
「……っ!」
――冷たかった。
いや、冷たいのではない。
――濁っていた。
喰った魔力が、いつもと違った。
泥水を飲んだような、不快な感触。喉ではなく、腹の底に直接落ちてきた。
彼女の膝が、氷についた。
「――隊長!」
「……大丈夫。でも、これ、味が」
彼女は、顔を上げた。
断たれた影が。
――二つに、なっていた。
「……嘘」
二体の影が、立ち上がった。
それぞれ、腕が二本ずつ。
背丈は、半分になっていた。
――そして、また、こちらへ歩き始めた。
「――斬ったら、増えるってことですか!?」
「そんなのアリかよ、ふざけんな!」
【一族の長】
――そして。
北の氷原に、新たな影が、現れた。
一つではなかった。五つ、十、二十と増えて、数えている途中で四十を超えた。
どれも、形が違った。腕の数も、背丈も。共通しているのは、首から上が闇であることだけだった。
「……嘘でしょ。数えられない」
リズの声が、掠れた。
「――そして、後ろだ」
アシュの銃口が、震えた。
「――でかいのが、いる」
――その群れの、後方。
一つの影が、歩いていた。
背丈、五メートル。
――他とは、違った。
首から上に、闇はなかった。
――顔が、あった。
人の顔だった。
男の顔。深い皺の刻まれた、五十がらみの顔。
――そして、その額から、二本の角が生えていた。
根元が太く、先が後方へ反っていた。
――彼は、歩いていた。
緩慢に。
周囲の影たちが、彼を避けるように、道を空けていた。
命じられたのではない。近づくと、勝手に逸れていく。そういう避け方だった。
彼の手には、何もなかった。
――武器も、鎧も。
ただ、黒い布を、腰に巻いているだけだった。
その布が、氷原の風のない空気の中で、揺れていた。
リヴィアの喉が、鳴った。
「……あれだけ、違う。――知性が、ある」
【ゼルグ】
――その男は、集落の二百メートル手前で、足を止めた。
周囲を、見回した。
それから、口を開いた。
「――ここは、どこだ」
言葉だった。
人間の、言葉だった。
訛りも、古さもなかった。
集落が、凍りついた。
「……喋りましたよ、今」
「――誰か、答えろ! 俺に、答えてくれ!」
誰も、応じなかった。
――そして、男の口が、また動いた。
「――帰り道を、知らないか。……北でも、南でもいい。どこでもいいから、教えてくれ」
リヴィアが、前へ出た。
「――隊長!?」
「――待って。あれは、話が通じる」
彼女の声が、闇の中を通った。
「――どこへ、帰りたいんですか」
男の視線が、彼女を捉えた。
「……ほう。言葉が、通じるか」
その角が、少しだけ傾いた。
「通じます。……あなたの言葉は、分かります」
「――久しいな。二百年ぶりだ」
彼の顔が、わずかに上を向いた。
「……二百年」
「――二百年、歩いている。……帰り道が、分からん」
その声には、感情がなかった。
疲れも、怒りも、悲しみも。
――ただ、事実を並べているだけの口調だった。
「あなたは、何者ですか」
「――ゼルグ。魔獣族の長だった男だ。……二百年前までは、な」
彼の視線が、氷原へ向いた。
「なぜ、こちらへ来たんですか。……境界を越えたんですか」
「落ちたのだ。渡ったのではない」
あっさりとした一言だった。
「境界が、薄い場所がある。北の、ずっと先だ。……そこで、足を滑らせた」
彼の指が、北を差して、下りた。
「――それだけのことだ」
リヴィアの胸が、痛んだ。
(……足を、滑らせた)
(――それで、二百年)
「――で、ここはどこだ。……人間界なのは、分かっている」
ゼルグの視線が、戻った。
「――どこの、人間界だ。北か、南か。東か、西か」
「……北です。それも、北の果てです。ここより先は、氷原しかありません」
ゼルグは、しばらく黙っていた。
「……そうか。――逆だったのか」
「逆、というのは」
「――俺は、二百年、逆へ歩いていた」
――そして。
彼の顔が、初めて、歪んだ。
「二百年。……ずっと、逆へ」
その角が、震えた。
【壊れる】
――彼が、叫んだ。
言葉ではなかった。
――音だった。
空気が、震えた。
氷が、割れた。集落の南の斜面で、リヴィアが三日かけて掘った溝が、その一声で崩れた。
――集落の天幕が、一斉に吹き飛んだ。
布が、夜空へ舞い上がった。何十枚も。
「――うわあああ!!」
「――伏せろ!!」
――周囲の影たちが、一斉に動いた。
四十体が。
――集落へ向かって、走り出した。
「――来るぞ! 防衛線を張れ!!」
リバースオーダーの隊員が、叫んだ。
――だが。
彼らは、この敵を知らなかった。
――ルールが、分からない敵を。
最初の十秒で、十二人が死んだ。
――魔法が、効かなかった。
斬れば増える。撃てば吸われる。水は腐る。
――そして、彼らの腕が触れた者は。
灰になった。
悲鳴も、上げずに。
服だけが、形を保ったまま、雪の上に落ちた。
「――嘘だろ! 触られたら終わりかよ!」
アシュが、後退した。
「――ミーナレイ! 膜を厚く張って!」
「やってます! でも、張る端から腐るんです!」
彼女の水膜が、次々と腐っていく。
張っても、張っても。
「――保ちません、これ!」
――防衛線が、崩れた。
影たちが、集落へ雪崩れ込む。
天幕が、潰される。
――そして、その中には、人がいた。
「――やめて!! そこ、子供がいるの!!」
リズが、叫んだ。
【使う】
――リヴィアの拳が、握られた。
(……使えば)
(――止められる)
絶空。斑。轟。
――どれでも、この群れは止められる。
――だが。
(……使えば)
彼女の視線が、自分の右手に落ちた。
(――また、黒くなる)
――三ヶ月前の記憶が、蘇る。
艦隊を消した後、指先が黒くなった。
――そして、彼女は、気持ちいいと感じた。
その感覚が、忘れられなかった。
(……あれを、また味わったら)
(――私は、どうなるの)
「――隊長!!」
ミーナレイの声が、飛んだ。
彼女の膜が、破れていた。
影の腕が、彼女に迫っていた。
あと、一歩。
「――ミーナレイ!!」
リヴィアは、走った。
――距離が、四十メートル。
(――間に合わない)
――彼女の指が、剣の柄にかかった。
(……ごめん)
(――私は)
(――私が、止めなきゃ)
【解放】
――彼女は、蓋を外した。
空気が、変わった。
――集落の周囲から、光が消えた。
雪の白が、灰色になった。
闇が、地面を這った。
――そして、彼女を中心に、円が広がった。
円の外では、まだ月光が雪を照らしていた。円の内側だけが、夜の底の色をしていた。
「――黒閃・斑」
十二の陣が、展開した。
――だが、それは、いつもの斑ではなかった。
陣が、影たちの足元に展開した。
――上からではない。下から。
「――え?」
黒い閃光が、地面から噴き上がった。
――十二体が、同時に。
消えた。
「……嘘だろ」
アシュの銃口が、下がった。
――斬っていない。
断っていない。
――存在ごと、喰った。
だから、増えなかった。
黒い霧も、残らなかった。
「――ミーナレイ、伏せて!」
「――はいっ!」
彼女が、地面に伏せた。
その真上を。
――黒い斬撃が、走った。
「――絶空」
幅二十メートルの闇が、影の群れを横薙ぎにした。
――十八体が、消えた。
増えなかった。
残らなかった。
斬撃が通った後、雪の上に、幅二十メートルの帯が残った。そこだけ、雪が消えて、剥き出しの氷が出ていた。
――リヴィアは、走った。
闇を纏って。
――そして、彼女は、視ていた。
(……見えた)
(――こいつらの、正体)
――カイゼンの言葉が、蘇る。
――魔族は、淀んだ魔素が形を取ったものだ。
(――魔素の、塊)
(だから、斬れば分かれる)
(撃てば吸う)
(――でも)
(――喰えば、消える)
【ゼルグ】
――残ったのは、ゼルグだけだった。
彼は、動いていなかった。
ただ、リヴィアを見ていた。
――五メートルの巨体が。
彼女を、見下ろしていた。
「……ほう。――喰うのか、お前は」
その角が、傾いた。
「――帰りなさい。北へ行けば、境界があるんでしょう」
リヴィアの剣先が、北を指した。
「――帰り方が、分からんと言っている」
「なら、探しなさい。私も探します」
「――二百年、探した」
彼の腕が、上がった。
「――もう、いい」
――腕が、振り下ろされた。
風も、光も、音もなかった。
――ただ、地面が、消えた。
彼女の立っていた場所を中心に、直径三十メートルが。
抉れた。
抉れた縁で、氷の断面が、きれいな垂直になっていた。層が、七つ数えられた。
「――隊長!!」
リヴィアは、跳んでいた。
――かろうじて。
左の脇腹が、削れていた。
服が裂け、皮膚が抉れ、血が噴き出した。
「……っ、あ」
彼女は、着地して、片膝をついた。
血が、雪に落ちた。落ちた場所から、雪が溶けて、赤く沈んだ。
(……重い)
(――こいつは、他と違う)
魔素の塊ではない。
――意志を持った、魔素の塊だった。
制御されている。
――だから、強い。
「――もう一度、聞く。帰り道は、どこだ」
ゼルグの声が、降ってきた。
「――北です。それしか、言えません」
「――嘘だ」
「嘘じゃありません!」
「――なら、なぜ、俺は帰れない!」
その叫びが、氷原を揺らした。
初めて、感情が乗っていた。
「二百年、歩いた! 北へも行った、南へも行った!」
「……」
「東の海も渡った! 西の砂も歩いた!」
その顔が、歪んだ。
「――どこにも、なかった!!」
――リヴィアは、理解した。
(……この人)
(――壊れてる)
二百年。
言葉を交わす相手もなく、帰り道も分からず。
――正気を、保てるはずがなかった。
「――ゼルグ。今から、私が探します」
「……なんだと」
「境界を、です。この北のどこかにあるはずでしょう。……人を出して、地図を作って、探します」
彼女が、立ち上がった。
「時間はかかります。……でも、あなたが二百年かけたことなら、私が引き継ぎます」
「――だから、待ってください」
ゼルグは、しばらく黙っていた。
「――遅い。二百年、遅いのだ。……お前が今日探し始めて、見つけるのは何年後だ」
両手が、上がった。
「――もう、何も要らん」
彼の周囲に、黒い渦が、生まれた。
――集落全体を、覆うほどの。
渦は、音を立てなかった。ただ、そこにある雪が、渦の側へ吸われて消えていった。
「――やめて!!」
リヴィアは、走った。
――だが、間に合わない。
渦が、収束していく。
あの一撃が、集落へ落ちる。
――六千四百人が、消える。
(――止める)
(――全部、使う)
【肩まで】
――剣が、地面に突き立てられた。
「――黒葬」
闇が、地面を這った。
――だが、それは、いつもの黒葬ではなかった。
沼ではない。
――壁だった。
闇が、集落とゼルグの間に、垂直に立ち上がった。
高さ、五十メートル。
幅、二百メートル。
――集落の、正面を、全部覆った。
――渦が、放たれた。
黒い奔流が、闇の壁に激突した。
――音は、しなかった。
壁が、たわんだ。中央が、二メートルほど、内側へ膨らんだ。
「――っ、ぐ……!」
リヴィアの腕が、軋んだ。
――喰う。
彼女の闇が、その奔流を、喰い始めた。
――だが、量が、多すぎた。
(……喰いきれない)
(――なら)
彼女は、循環を、回した。
喰う。増やす。壁を厚くする。喰う。
――加速していく。
彼女の中で、何かが、回り始めた。
――速く。
もっと速く。
一周ごとに、間隔が短くなっていった。
――そして、彼女は、感じた。
右手が、熱い。
いや。
――指が、ない。
感覚が、なかった。
柄を握っているはずなのに、握っている実感がなかった。
彼女は、それを見なかった。
見る余裕が、なかった。
「――返す!!」
――壁が、押された。
喰った全部を、乗せて。
闇の壁が、崩れた。
――いや、崩れたのではない。
倒れた。
五十メートルの闇が、ゼルグへ向かって。
――それは、津波だった。
黒い津波が、氷原を走った。
通った後の氷が、跡形もなくなっていた。抉れたのではない。そこにあった氷が、なくなっていた。
ゼルグの体が、その中に呑まれた。
「――ぐ、お……」
彼の巨体が、軋んだ。
――そして。
彼の腕が、消えた。次に、脚が。
――そして、胴が。
――闇が、引いた。
後には、何も残らなかった。
――いや。
一つだけ、残っていた。
黒い、小さな塊。
――人の、上半身だった。
【帰り道】
――リヴィアは、そこへ歩いた。
足元が、覚束なかった。三歩に一度、体が傾いた。
――そして、その前に、膝をついた。
「……ゼルグさん」
「……喰われたな、ほとんど。……こんな喰われ方は、初めてだ」
彼は、まだ、生きていた。
顔だけが、無事だった。
「……ごめんなさい」
「――なぜ、謝る。俺は、楽になったのだ」
「え?」
「二百年、重かった。……ようやく、下ろせた」
その目が、少しだけ、細くなった。
リヴィアは、応じられなかった。
「……娘。お前は、なんだ。……人間ではあるまい」
「人間です。……そう、思って生きてきました」
「――嘘だな。人間の闇は、そんな喰い方をせん」
その角が、わずかに動いた。
「……」
「あれは、こちら側の喰い方だ。……上から吸うのではない。下から、丸ごと引く」
彼の目が、細くなった。
それから、リヴィアの顔を、じっと見た。
――そして。
その表情が、変わった。
「…………」
「……どうしたんですか」
「――その顔。……知っている」
――彼の残った体が、崩れ始めた。
「――待って! 知ってるって、何をですか! 誰をですか!」
リヴィアが、叫んだ。
「答えてください! お願いだから!」
ゼルグの唇が、最後に動いた。
「――ノクティルム」
⸻
リヴィアの息が、止まった。
「……今、なんて」
「――お前は、ノクティルム家の血だ。あの家の顔をしている」
その顔が、霧に溶け始めた。
「……なぜ、地上にいる」
⸻
――そして、彼は、消えた。
黒い霧が、風に散った。
――風が、また、吹き始めた。
北から、南へ。
いつも通りに。
――霧は、その風に乗って、北へ流れていった。
【黒】
――集落は、無事だった。
いや、無事ではなかった。
天幕の半分が、吹き飛んでいた。
死者、三十七人。
――だが、六千三百人以上が、生き残った。
「――隊長!! 無事ですか、脇腹から血が!」
ミーナレイが、駆け寄ってきた。
「……大丈夫。深くない」
「大丈夫じゃないです、色が変わってます!」
「――大丈夫だから」
リヴィアが、立ち上がろうとして――
膝が、崩れた。
「――隊長!」
「……っ」
彼女の手が、雪をついた。
――そして、見てしまった。
右手が。
――手首まで、黒かった。
手袋の下ではない。
手袋が、破れていた。
その下の皮膚が。
――墨のように、黒かった。
「……」
彼女は、慌てて、その手を隠した。
左手で、握り込んだ。
「――隊長? 今、手が」
「……なんでもない」
「でも、今、黒く」
「――なんでもないって言ってるでしょう!」
その叫びに、ミーナレイの肩が跳ねた。
リヴィアの声が、落ちた。
「……ごめん。疲れてるだけなの。……悪かったわ、怒鳴って」
――彼女は、自分の天幕へ戻った。
天幕は、半分が破れていた。それでも、風は入らない側だった。
それから、蝋燭を灯して、右手を見た。
――手首まで、黒かった。
指だけではない。掌も、甲も、手首までの全部が、同じ色をしていた。
境目は、手首の骨の出っ張りのところで、線のように鋭かった。
「……」
彼女は、その手を、擦った。
――落ちなかった。
当たり前だった。
彼女は、しばらく、それを見ていた。
――一時間。二時間。
――戻らなかった。
(……戻らない)
(――前は、一時間で戻ったのに)
彼女の指が、握られた。
――感覚は、あった。
動くし、物も掴める。蝋燭の熱も、ちゃんと分かる。
――だが、自分の手ではないような気が、した。
他人の手を借りて動かしているような、薄い距離があった。
――そして。
彼女は、もう一つのことに気づいた。
(……気持ちいい)
――そこで、背筋が震えた。
(――また、これだ)
あれだけの魔素を喰った。
――そして、彼女の中の何かが、満たされている。
空腹が、満たされた時のような。
――いや。
もっと、深いところで。
(もっと、喰いたい)
「……っ」
両手が、口を押さえた。
――そして、吐いた。
何も出なかった。
――彼女は、そのまま、うずくまった。
(……ムラサメ殿)
――老人の言葉が、蘇る。
――いずれ、出すより先に、喰い始める。
――その時、最初に喰われるのは、お主自身だ。
(……近づいてる)
(――確実に)
――彼女は、荷物から、長い手袋を出した。
肘まである、革の手袋。
北の寒さのために、住人から譲られたものだった。
――それを、はめた。
黒い手首が、隠れた。
彼女は、割れた鏡の破片を、目の前に持ち上げた。
――何も、見えなかった。
いつも通りの、自分がいた。
その呟きが、天幕の中に落ちた。
「……大丈夫。まだ、大丈夫よ」
誰も、聞いていなかった。
――翌朝。
彼女は、いつも通りに、点呼を執った。
いつも通りに、指示を出した。
いつも通りに、氷を掘った。
――誰も、彼女の手袋が長くなったことに、気づかなかった。
北の氷原には、また、風が吹いていた。




