世界の縁
【六千四百人】
終灯の朝は、灰色から始まる。
日が昇らないからだ。
正確には、昇る。だが、地平線をわずかに舐めるだけで、また沈む。
冬の北端では、太陽は三時間しか働かない。
その三時間も、影が異様に長い。人の影が、十歩ぶん先まで伸びる。
「配給、開始します!」
リズの声が、氷の広場に響いた。
列が、できていた。
二百メートル。
六千四百人が、順番を待っている。
列は、風上を避けて、集落の石壁に沿って曲がっていた。壁のこちら側と向こう側で、体感の温度が違うからだ。壁際に立った者は、三十分に一度、前の者と場所を替わっていた。誰かが決めた規則ではなかった。二日目に、誰かが自然にそうして、三日目には全員がそうしていた。
「一人、麦粥一杯! 子供は二杯! 押さないでください、鍋は逃げませんから!」
二ヶ月前まで、彼女は特殊工作部隊の隊員だった。
今は、配給の責任者だった。
「足りるのか、これ」
アシュが、鍋を覗き込んだ。
「足りるわけないでしょ。今日でもう、一日二食に落としてるの。……それも、一杯の量は前の半分よ」
彼女は、杓子で鍋の底を掻いた。
底が、見えていた。
「あと、五十日ね」
杓子が、鍋の縁を叩いた。
「五十日で、備蓄が全部尽きる。……そこから先は、何も出せない」
終灯は、貧しい集落だった。
元の住人は、二百人。
彼らは、氷の海で魚を獲り、短い夏に麦を育て、それで生きてきた。夏は、二ヶ月しかない。その二ヶ月で、一年ぶんの麦を作る。だから、種を蒔く日が一日ずれると、その年は餓える。
そこへ、六千二百人が来た。
備蓄は、二百人が冬を越すためのものだった。
三十倍の人間が、それを食べている。
アシュが、鍋から目を離した。
「……なあ、リズ。これ、俺たちが来たせいで、元の住人が先に死ぬんじゃねえのか。……口には出さねえけどな、あいつら」
リズは、応じなかった。
彼女も、同じことを考えていた。
杓子を持つ手だけが、動き続けていた。
「そんなことは、ないよ」
背後から、声が飛んだ。
振り返ると、老婆が立っていた。
終灯の、住人だった。
六十過ぎ。厚い毛皮を着込んでいる。毛皮は、継ぎ接ぎだった。獣の種類が、三つ混ざっていた。
「あんたら、そう思ってるんだろう。……いいさ、思っといてくれ。その方が、こっちも言いやすいからね」
彼女の口の端が、上がった。
「――で、言わせてもらうがね」
「あたしらは、十四年前から、ここにいる。……なんでだと思う」
「……分かりません」
「追われたからだよ」
彼女の指が、自分を差した。
「あたしは、帝国の農民だった。税が払えなくなって、逃げた。……それだけだ」
その指が、集落の家々をなぞった。
「あそこの爺さんは、脱走兵だよ。あっちの女は、娼館から逃げてきた。……その隣は、聞いてない」
そして、指が下りた。
「みんな、逃げてきたんだ。一人残らずね」
「……そうですか」
「で、あの男が言ったんだ。『ここは、世界の縁だ』ってね」
彼女の視線が、集落の中央の旗へ向いた。
「『縁には、誰も来ない。だから、ここが一番安全だ』……そう言って、旗を一本、立てていった」
しわだらけの頬が、緩んだ。
「変な男だったよ。挨拶より先に、井戸の水を舐めてた」
「その人は、今どこに」
「いなくなったよ。十四年前に、旗だけ立てて、行っちまった」
彼女の視線が、旗から離れた。
「たまに帰ってきてね。三日か四日、飯を食って、寝て、また行く。……で、次はいつ来るとも言わずに、出ていくんだ」
少し、遠い目になった。
「最後に来たのは、三年前だ」
アシュが、杓子を持つ手を止めた。
「……それで、なんで俺たちを受け入れたんだ。六千人だぞ。……追い返したって、誰も文句は言わねえ」
老婆が、彼を見た。
「逆に聞くがね。逃げてきた人間が、逃げてきた人間を、追い返すかい?」
彼女は、鍋の方へ歩き出した。
「そりゃ、無理だろう。……理屈じゃないんだよ、こういうのは」
彼女は、袖をまくった。腕が、思ったより太かった。
「手伝うよ。粥の煮方は、こっちの方が上手いからね。……あんた、火が強すぎる」
「……そうですか?」
「焦げてる。底の方が、もう」
【掘る】
同じ頃。
集落の南の斜面で、リヴィアは、土を掘っていた。
正確には、氷を掘っていた。
斜面は、南に向いている。この集落で、太陽が一番長く当たる場所だった。
三時間だけ。
その三時間のあいだ、斜面の氷の表面が、ほんの少しだけ濡れる。日が沈むと、また凍る。それを、何百年も繰り返してきた氷だった。層になっていて、鶴嘴を入れると、層の境目で割れた。
鶴嘴が、振り下ろされた。
カン、と乾いた音が響いた。金属を石に当てた音に近かった。
五センチ。
それだけ、削れた。
「隊長、これ、無理ですよ。地面じゃなくて、氷です」
ミーナレイが、隣で自分の鶴嘴を見た。刃先が、既に丸くなっていた。
「知ってる。……それでも、掘る」
「掘っても、畑になりません。春まで、この深さは溶けないと思います」
「それも知ってる。……でも、掘らないと、何も始まらないでしょう」
また、鶴嘴が振り下ろされた。
五センチ。
また、五センチ。
二時間で、深さ一メートル、幅二メートル。
それだけだった。
削り出した氷は、脇に積んだ。積まないと、また埋まる。
「……何人分の畑が要るんですか、これ」
「六千四百人分よ。この斜面を全部掘っても、たぶん足りない」
ミーナレイは、その斜面を、上から下まで目で追った。
「――だから、今日のうちに、五センチでも進めておくの」
――彼女の手袋の中で、指が痺れていた。
寒さのせいではなかった。
(……まだ、少し黒い)
三ヶ月前、艦隊を消した時の名残が、まだ、抜けきっていなかった。
いや。
正確には、抜けている。
――だが、時々、痺れる。
朝、目が覚めた直後が、一番はっきりしていた。
(……使わなければ、進まない)
(――だから、使わない)
「――隊長は、魔法を使わないんですか。……絶空で氷を斬れば、一瞬じゃないですか」
鶴嘴が、止まった。
「あたし、水魔法で溶かそうかとも思ったんですけど、それだと駄目ですかね」
「駄目よ。溶かしたら、また凍るから」
即答だった。
「氷は、掘って、外へ出さないと意味がないの。融かした水は、その場で凍って、前より厚くなるだけよ」
「……なるほど。それは、考えてませんでした」
「それに、魔法を使えば疲れるでしょう。……ここでは、疲れたら死ぬのよ」
嘘だった。
半分は、本当だった。
だが、半分は。
(――使いたく、ない)
黒くなった指を、思い出すたびに。
(……あの感覚を、また味わうのが、怖い)
【小屋】
三日目の午後。
リヴィアは、集落の外れで、それを見つけた。
小さな小屋だった。
石積みの、粗末な建物。屋根は、板の上に石を並べて押さえてある。
だが、扉に鍵がかかっていた。
鉄の錠が、一つ。
この集落で、錠のかかっている建物は、それだけだった。他の家は、扉に閂すらない。
彼女は、その錠に触れた。
「ああ、それかい。あの男の小屋だよ」
通りかかった老婆が、足を止めた。
「あの男、というと」
「旗を立てた男さ。十四年、あそこに何かを溜め込んでた」
彼女の顎が、扉を示した。
「何を、溜め込んでたんですか」
「知らないよ。開けたこともない。……頼まれてないからね」
肩が、すくめられた。
「その鍵は、どこにあるんですか」
「持ってるよ。ここに、ずっとね」
彼女の手が、懐に入った。
リヴィアの背筋が、伸びた。
「預かってたんだ。『いつか、誰かが来る。その時、渡してくれ』ってね」
鍵が、差し出された。錠と同じ鉄で、擦れて先が細くなっていた。
「……誰か、というのは」
「知らないよ。あの男も言わなかった」
彼女の目が、細くなった。
「でも、あんただろう」
「……なぜ、そう思うんですか」
「勘さ。六十年も生きてるとね、そういうのが分かるようになるんだよ」
鍵が、リヴィアの手に落ちた。
冷たかった。
【十四年】
扉を開けると、埃の匂いがした。
三年、誰も入っていない匂いだった。
小屋の中は、狭かった。四歩で、端から端まで届く。床は、板ではなく踏み固めた土だった。中央に、机が一つ。椅子が一脚。それだけで、もう歩く場所がない。机の上には、乾ききったインク壺と、羽根ペンが三本。ペンは、どれも先が割れていた。
――だが、壁一面が、棚だった。
床から天井まで、六段。
――その棚に。
ぎっしりと、冊子が並んでいた。
「……なに、これ」
リヴィアは、一冊を取った。
表紙に、日付が書いてあった。
十四年前。
彼女は、次を取った。
十三年前。
その次。
十二年前。
背表紙の日付は、右から左へ、年ごとに並んでいた。
全部で、百六十冊以上あった。
彼女は、その一冊を開いた。
几帳面な文字が、隙間なく並んでいた。行間が、ない。余白も、ない。紙が惜しかったのか、書くことが多すぎたのか、その両方か。頁の端まで書いて、続きは裏へ回っていた。
図。数式。走り書き。
――そして、その全部が、一つの問いに向かっていた。
『問い』
最初の頁に、そう書いてあった。
『なぜ、魔素は存在するのか』
リヴィアは、それを読み進めた。
――半分も、理解できなかった。
術式理論。魔素密度の計算。地層の分析。
――だが、要旨は、繰り返し書かれていた。
同じ結論が、何度も、少しずつ言い方を変えて。
『魔素は、天界で生成される』
『――これは、確定的である』
『人間界には、生成機構が存在しない』
『我々は、天界からの流入に、完全に依存している』
『――使用された魔素は、どこへ行くか』
『消えるのではない。……沈む』
『重くなり、下へ落ちる』
『――魔界へ』
『魔界とは、地獄ではない』
『――沈殿層である』
リヴィアの指が、その頁で止まった。
「……沈殿層」
――ミラの言葉が、蘇る。
上に、天界。下に、魔界。真ん中に、ここ。
――これは、比喩じゃないの。本当に、そういう造りになっているのよ。
泉の水が、三つに分かれた光景。
底の水は、指が入る前に止まるほど、重かった。
彼女は、頁をめくった。
『淀んだ魔素は、変質する』
『――そして、生命の形を取る』
『魔族と呼ばれる存在は、そこから生まれている』
『――彼らは、悪ではない』
『沈殿物である』
【神樹】
彼女は、読み続けた。
三時間。
日が、とっくに沈んでいた。
彼女は、蝋燭を灯して、読み続けた。
小屋には、火の気がなかった。息が、白かった。指が、頁をめくるたびに引っかかるようになった。感覚が、鈍ってきていた。
それでも、手を止めなかった。
八十冊目あたりで、それを見つけた。
『仮説』
『魔素の循環は、一方通行である』
『天界で生まれ、人間界で使われ、魔界へ沈む』
『――戻らない』
『ゆえに、いずれ枯渇する』
『では、なぜ、まだ枯渇していないのか』
『――天界が、生成し続けているからである』
『では、天界が生成をやめたら』
『――人間界は、死ぬ』
リヴィアの背筋が、凍った。
(……天界が、蛇口)
(――そして、誰も、その蛇口を握っていない)
彼女は、頁をめくった。
――そして、その先に。
『――だが』
『太古、人間界にも、生成機構があった形跡がある』
『――植物である』
リヴィアの手が、止まった。
『各地の古文書に、同一の記述が散見される』
『「光を放つ樹」』
『「実を結ばぬ樹」』
『「千年枯れぬ樹」』
『――これらは、同一の存在を指している可能性が高い』
『私は、これを仮に神樹と呼ぶ』
『――魔素を、生成する樹である』
『では、なぜ、失われたか』
『――不明である』
『三界大戦の際に、失われた可能性が高い』
『あるいは――誰かが、切った』
リヴィアは、その頁を、何度も読み返した。
(……魔素を、生む樹)
(――そんなものが)
最後の頁に。
走り書きが、あった。
それまでの几帳面な文字とは違う、乱れた筆跡だった。
インクの色も、違っていた。何年か後に、書き足したものだった。
『結論』
『天界からの独立は、可能である』
『神樹を、再び作れば』
『三界は、分かれている必要がなくなる』
『天界も、魔界も、要らない』
『――だが、方法が、分からない』
『樹は、種から生えるものではない』
『――何かが、なる必要がある』
『何が』
『――分からない』
『時間が、足りない』
そこで、記述は、途切れていた。
その下は、白紙だった。頁は、まだ二十枚ほど残っていた。
【霊】
――リヴィアは、その冊子を閉じた。
蝋燭が、揺れた。
彼女は、しばらく動けなかった。
(……この人)
(――ヴァルグレイスと、同じことを考えてた)
三界を、一つにする。
――だが、方法が、違った。
(あの人は、殺して統一しようとした)
(――この人は、樹を作ろうとした)
その時。
蝋燭の炎が、揺れずに、止まった。
「……え?」
彼女は、顔を上げた。
――空気中の埃が、宙で静止していた。
金色に、光っていた。
――そして。
「――やあ。ずいぶん、根を詰めて読んでくれたな」
声が、した。
小屋の隅に、男が立っていた。
白髪の交じった黒髪。古びた学者風の外套。
腰から下がる、いくつもの懐中時計。
――カイゼン・アドラー。
外套の裾が、床に触れていなかった。指二本ぶん、浮いていた。
リヴィアは、椅子を鳴らして立ち上がった。
「――読んでくれたか。三年待った甲斐があった」
「生きて、いるんですか」
「いや。三年前に死んでいる。……そこは、ごまかしても仕方がないな」
彼の肩が、すくめられた。
「……じゃあ、これは」
「亡霊術というやつだ。……いや、正確に言えば、記録だな。私という人間の思考を、生前に、この部屋へ仕込んでおいた」
彼の指が、こめかみを叩いた。
「この記録を、誰かが最後まで読んだ時。……その時にだけ、私が現れるようにしてある」
「……なぜ、そんなことを」
「私の字は、汚い。おまけに、書いていないことが多くてな」
彼の口の端が、上がった。
「――口で言った方が、早い。三十年ぶんの走り書きを、他人に読ませるのは酷だろう」
【説明】
「さて。どこから聞きたい」
彼が、椅子に腰を下ろした。
――椅子は、実体だった。
彼が座っても、軋まなかった。座面が、沈みもしなかった。
「……全部、聞かせてください」
「そうか。では、順に話そう。……時間は、あまりないがな」
「まず、魔素の循環からだ。天界で生まれ、ここで使われ、魔界へ沈む。……これは事実で、疑う余地はない」
彼は、指を三本立てた。
「そして、この構造には、致命的な欠陥がある」
その三本のうち、真ん中の一本が、折られた。
「人間界には、何もない。生成もできなければ、回収もできん」
「我々は、上から降ってくるものを使って、下へ捨てているだけだ。……それを、『世界』と呼んでいる」
彼の手が、下がった。
「便利な言い方だと、私は思うがね」
「……天界は、なぜ生成できるんですか」
「分からん。三十年考えたが、そこだけは、どうしても分からなかった」
即答だった。
彼の視線が、天井へ向いた。
「行けないからな、あそこには。……行けない場所のことは、いくら考えても、推測にしかならん」
「では、魔族というのは」
「沈殿物だ。淀んだ魔素が、長い時間をかけて、形を取ったものだよ」
「……生物では、ないんですか」
「生物だとも。……生まれ方が違うだけだ」
彼の目が、少しだけ細くなった。
「君らは、母の腹から出てくる。彼らは、沈殿の底から立ち上がってくる。……どちらも、生まれてから後は、腹が減るし、寒がるし、寂しがる」
「――だから、私は、彼らを憎まない」
「……」
「彼らは、我々の捨てたものから生まれた。……言うなれば、我々の子だ。親が子を憎んでどうする」
彼の声が、低くなった。
リヴィアの胸を、何かが刺した。
(……私の、母)
(――魔族、だった?)
オルドは、母を「ルシェリア・ノクティルム」と呼んだ。
――だが、それ以上は、語らなかった。
「……あの、一つ伺ってもいいですか」
「なんだね」
「私の母は、魔族なんですか」
カイゼンは、しばらく黙っていた。
「――それは、君の父上が言うべきことだ。私が横から言っていいことではない」
「……父のことは、ご存じですか」
「知っている。風の男が、どうなったかも」
彼の視線が、床へ落ちた。
「――すまなかった。私は、間に合わなかった」
彼の頭が、下がった。
【立った】
「さて。君が一番聞きたいのは、これだろう」
彼が、顔を上げた。指が、最後の冊子を差した。
「神樹の話だな」
「はい。……そこだけは、何度読んでも分かりませんでした」
「太古、人間界には、魔素を生む樹があった。……これは、ほぼ確定的だと思っている」
「なぜ、そう言えるんですか」
「地層だ。千年より前の地層は、魔素の密度が高い。……しかも、地上から滲みているんだ」
彼の指が、床を叩いた。
「上から降ってきたなら、上の層が濃い。下から湧いたなら、下が濃い。……ところが、地上の層が一番濃かった。つまり、地面の上に、供給源があった」
「……それが、樹」
「そういうことだ」
「なぜ、なくなったんですか」
「分からん。三界大戦で焼けたか、あるいは……誰かが、切ったか」
彼が、少し黙った。
「……誰か、というのは」
「天界だ」
あっさりとした一言だった。
「……天界が、切ったんですか」
「――考えてみたまえ。人間界が、自分で魔素を作れるようになったら」
指が、上を差した。
「天界は、何のために存在する? ……蛇口を持っているから、上にいられるのだろう」
リヴィアの背筋が、凍った。
リヴィアは、その先を言葉にできなかった。
「あくまで、仮説だ。証拠はない」
彼の肩が、また、すくめられた。
「――だが、三十年考えて、これ以上もっともらしい説明が思いつかなかった」
「――で、本題だ。神樹は、作れるか」
「……作れるんですか」
「分からん。種はない。苗もない。……三十年探して、この世に一片も残っていなかった」
彼が、首を振った。
「――ただ、一つだけ、分かったことがある」
「なんでしょうか」
「樹というのは、生えるものではない。……何かが、なるのだ」
リヴィアの背中を、寒気が走った。
「……なる、というのは」
「言葉通りだよ。古文書には、こう書いてある」
彼の視線が、遠くなった。
「――『樹は、植えられたのではない』。『立ったのだ』と」
小屋の音が、落ちた。
蝋燭の炎だけが、揺れた。
「……立った、というのは」
「そのままの意味だ。誰かが、そこに立って、樹になった。……私は、そう読んでいる」
彼の目が、細くなった。
「馬鹿げていると思うだろう。……私も、最初はそう思った。三十年、別の解釈を探し続けたよ」
その笑みが、消えた。
「――だが、他に読みようがなかった」
リヴィアの声が、掠れた。
「……誰が、樹になるんですか」
カイゼンは、しばらく彼女を見ていた。
「分からん。……だが、条件は、たぶん一つだ」
「……なんですか」
「両方を持つ者だ」
指が、二本立った。
「魔素は、天で生まれ、魔で沈む。……循環させるには、上と下の両方が要る」
その二本が、一つに合わさった。
「その両方を、一つの体に持つ者が」
リヴィアは、動けなかった。
――彼女の手が、自分の胸に当たった。
そこには。
理と、魔があった。
混ざらないものが、一つの体に入っていた。
声が、掠れた。
「……私、ですか」
カイゼンは、応じなかった。
彼が、立ち上がった。
「もう、時間だ。この術は、長く保たん。……一度きりでな」
彼の輪郭が、少しだけ、薄れた。
「待ってください!」
リヴィアが、叫んだ。
「教えてください、はっきり! 私なんですか、そうじゃないんですか!」
「――教えられん」
「なぜ、教えられないんですか!」
「知れば、迷うからだ」
彼は、そう言い切った。
「答えを先に持っている者は、そこへ向かって歩いてしまう。……それは、選んだことにならん」
「君は、今、いくつになる」
「三十一です」
「そうか。……若いな。私が最初の一冊を書いた歳より、まだ若い」
彼の口元が、緩んだ。
「まだ、生きるべきだ。……私が言えるのは、それだけだよ」
その笑みが、少しだけ、寂しくなった。
彼の輪郭が、さらに薄れた。
「ああ、そうだ。一つ、伝言がある」
「誰から、ですか」
「私からだ。……あの三刻の男に、伝えてくれ」
彼の視線が、遠くなった。
「――『あの夜の五分は、返しきれなかった』と」
リヴィアの喉が、鳴った。
「……あの人は、二年前に」
「知っている。見ていたよ」
彼の目が、伏せられた。
「――それでも、言いたかったのだ。伝わらんと分かっていても、言い残しておきたいことはある」
彼の姿が、消えかけた。
「ああ、娘さん。もう一つだけ」
「はい」
「君の父上はな。私が知る中で、最も逃げ足の速い男だった」
彼の口元が、緩んだ。
「千年、逃げ続けた男だ。……天からも、地からも、人からも」
その笑みが、深くなった。
「その男が、最後に、逃げなかった」
「それは」
――彼の姿が、光の粒になった。
「誇っていい」
――そして、彼は、消えた。
止まっていた埃が、動き出した。金色は、すぐに消えた。ただの埃に戻って、蝋燭の光の中を落ちていった。
炎が、揺れた。
小屋には、リヴィアだけが残された。
彼が座っていた椅子は、座面が沈んだ跡もなく、そこにあった。
冊子の頁が、一枚だけ、風もないのにめくれた。
【夜】
――彼女は、しばらく、そこに座っていた。
それから、冊子を抱えて、外へ出た。
――北の空に、緑の光が揺れていた。
極光だった。
帯になって、南から北へ、音もなく流れている。緑の中に、時々、薄い赤が混ざった。
音は、しなかった。
あれだけの大きさのものが動いているのに、無音だった。
リヴィアは、それを見上げた。
(……神樹)
(――何かが、立って、樹になる)
彼女の視線が、自分の右手に落ちた。
手袋の中の、指先。
(――両方を、持つ者)
(……私は)
(――何になるんだろう)
極光が、揺れていた。
――そして、その光の下で。
彼女は、まだ気づいていなかった。
北の氷原の、さらに向こう。
――そこに、境界があることを。
そこから。
何かが、こちらへ歩いてきていることを。




