↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
連合軍反撃編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/59

占領された山

【麦の値段】


 ――帝国中部、レンハイム州。


 帝都から、馬車で四日。


 麦畑と、牧草地と、点々と散らばる農村。


 その一つ、ヴァルデン村。


 人口、三百二十七人。


 ――地図に載っていない、小さな村だった。


 ハウエル家の朝は、六時に始まる。


 土間の竈に火が入り、その煙が、天井の梁を伝って屋根の隙間から抜けていく。三十年、同じ場所を通っているせいで、その一本の梁だけが黒かった。


 窓は、東側に一つ。硝子は入っていない。板戸を開けると、麦畑が見えた。


「今年の値段な」


 朝の食卓で、男がパンを齧った。


 トマス・ハウエル、三十四歳。


 日に焼けた顔。太い指。麦の匂いの染みついた作業着。


「なによ」


 竈の前から、妻が振り返る。


 アンナ・ハウエル、三十一歳。


 髪を布で包んで、鍋をかき混ぜている。


「――去年の、六割だとよ」


「六割」


「役場に、貼り紙が出てた」


 彼の顎が、動いた。


「『戦時特別買上価格』だとさ」


 アンナは、しばらく黙っていた。


 それから、スープを椀に注いだ。


「……去年も、そう言ってたわね」


「ああ」


「一昨年も」


「言ってた」


 トマスが、頷く。


「で、毎年、下がる」


「あら」


 彼女の眉が、上がった。


「じゃあ、来年は、ただでくれてやるのかしら」


「言うなよ」


「そりゃあ言うわよ」


 椀が、机に置かれた。


「で、鍬の値段は?」


「……上がった」


「いくら」


「――去年の、倍だ」


 アンナの手が、止まった。


「……倍」


「鉄が、足りんらしい」


 トマスは、椀を引き寄せた。


「全部、南へ持ってかれてるんだと」


「――かあさん」


 小さな声が、割り込んだ。


 テーブルの端に、少年が座っている。


 十歳。


 ハウエル家の、次男。


 エリク・ハウエル。


「なによ、エリク」


「砂糖、ないの?」


「ないわよ」


 鍋をかき混ぜる手は、止まらなかった。


「なんでないの」


「売ってないの」


「なんで」


「――知らないわよ」


 彼女の手が伸びて、少年の頭を軽く叩いた。


「二年前からないでしょう。……いい加減、覚えなさい」


「……忘れちゃう」


「毎回言ってるじゃない」


「だって、あった頃を覚えてるもん」


 トマスの口の端が、少し上がった。


「お前、四歳の時の話だぞ」


「覚えてるよ」


「嘘つけよ」


「蜂蜜のやつ」


 少年の目が、真剣だった。


「白い壺に入ってた。蓋が、木だった」


 彼は、両手で壺の大きさを作った。


「かあさんが、パンに塗ってくれた」


 ――アンナの手が、止まった。


 鍋の中で、湯気が立っていた。


「……あんた、そんなことを」


「覚えてる」


「そう」


 それだけだった。


 彼女は、少年の椀に、スープを足した。


 いつもより、多かった。


 ――この子は、そういう子だった。


 村の誰も覚えていないことを、覚えている。


 三年前に死んだ隣家の犬の名前を、まだ言える。


 去年、村を通った行商人が売っていた飴の色を、まだ言える。


 ――そして、兄の声を、まだ覚えている。


 誰も、そのことを口に出さなかった。


 テーブルには、四人分の椀があった。


 ――だが、座っているのは三人だけだった。


 四つ目の椀は、置かれたままだった。


 誰も、それに触れなかった。


 ――彼らの長男は、十七歳だった。


 二年前、徴兵された。


 最初の一年は、手紙が来た。


 「元気です」「飯は不味いです」「南は暑いです」


 ――そういう、他愛のない手紙が。


 二年目から、来なくなった。


 役場に問い合わせても、「所属不明」としか言われなかった。


 ――村では、そういう家が、七軒あった。


「……あのね」


 アンナが、鍋から目を離さずに口を開いた。


「なんだ」


「――昨日、ミルドレッドさんとこの婆さんが」


 彼女の背中は、こちらを向いたままだった。


「息子さんの遺骨が、帰ってきたって」


 トマスの咀嚼が、止まった。


「……そうか」


「箱だけだったって」


 鍋をかき混ぜる音が、少し乱れた。


「中は、砂だったって」


 部屋の音が、落ちた。


「…………」


「婆さん、それでも喜んでた」


 彼女は、まだ振り返らない。


「『帰ってきた』って」


 竈の火が、爆ぜた。


「――砂なのに」


 トマスは、パンを口へ運びかけて――途中で、止めた。


 それを、皿に戻した。


「……エリク」


「なに」


「今日、畑に来るか」


「行きたい」


「まだ十だぞ」


「行く」


 少年は、既に椅子から降りていた。


「穴掘りなら、できる」


「穴掘りな」


 トマスの肩が、揺れた。


「――上等だ」


 彼は、立ち上がった。


「行ってくる」


「気をつけてね」


「おう」


「エリク、上着」


「いらない」


「いるの」


 アンナが、少年を捕まえて、上着を着せた。


 袖が、指の先まで余っていた。二年前に長男が着ていたものだった。


「……重い」


「重くていいの」


 彼女の手が、袖を直した。


 ――そして、その肩を、一瞬だけ強く掴んだ。


 少年は、気づかなかった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」



 二人が出ていった後。


 アンナは、しばらく扉を見ていた。


 それから、テーブルへ戻った。


 四つ目の椀に、スープを注いだ。


 湯気が、立った。


 彼女は、それを見ていた。


 ――しばらくしてから。


 そのスープを、鍋に戻した。


 毎朝、同じことをしていた。




 朝の光が、麦畑を照らしていた。


 風が、穂を揺らしていた。畑の向こうの端まで、一続きの波になって渡っていく。


 ――何十年も、変わらない光景だった。


 この村では、大きなことは何も起きない。


 畑を耕し、麦を刈り、冬を越す。


 ――それだけだった。


 新聞は、月に一度しか来ない。行商人が、ついでに持ってくる。


 その新聞に、時々、南の戦の話が載っている。


 ――勝った、という話ばかりだった。


 だから、彼らは思っていた。


 ――戦争は、遠くでやっているのだと。




 同じ頃。


 大陸の北の果てで。


 一つの国が、燃えていた。



【北の山】


 ――大陸北方、グラルド国境。


 セリウス・クレイドは、山道を登っていた。


 彼の後ろに、二百人。


 リバースオーダーの精鋭と、船乗りたち。


 港に、二十隻を残してきていた。


 山道は、細かった。石を組んで階段にした場所が、何十年ぶんも崩れている。左手は岩壁、右手は谷。谷底から、川の音が上がってきていた。


「……セリウスさん」


 カリンが、隣に並んだ。


「……ああ」


「煙が」


 彼女の指が、稜線を指す。


 セリウスは、顔を上げた。


 山の向こうから、煙が上がっていた。


 一本ではない。


 三本。五本。


 十本以上。


 風がないので、どれもまっすぐに上がって、上の方で横に流れていた。


「……村か」


「たぶん」


 彼の拳が、握られた。


「急ぐぞ」


 峠を越えたのは、正午前だった。


 ――そして、彼らは、それを見た。


 眼下に、谷が広がっていた。


 その谷の底に、村があった。


 いや。


 村が、あった場所があった。


「…………」


 二百人が、足を止めた。


 誰も、声を出さなかった。


 石造りの家々が、黒く焼け焦げていた。


 屋根は落ち、壁は崩れ、道は瓦礫で埋まっていた。


 そして、煙が。


 まだ、燻っていた。


「……いつ、だ」


 セリウスの声が、掠れていた。


「煙の色から見て」


 ヴォルクが、目を細める。


「昨日か、一昨日だ」


 谷を降りた。


 村に入ると、匂いがした。


 焦げた木の匂い。


 ――そして、別の匂いも。


「……セリウスさん」


 カリンが、彼の袖を掴んだ。


「見ない方が」


「いや」


 彼は、その手を、指を開いて外した。


「見る」


 彼は、瓦礫の間を歩いた。


 倒れているものが、あった。


 いくつも。


 彼は、一つ一つ、確かめた。


 顔を、見た。


 ――そして、その全部を、記憶した。


 三十七人いた。


 彼は、数えなかった。数えるのは、後で誰かがやることだ。


「……セリウスさん」


「……名前は、分からないな」


 彼の視線は、地面に落ちたままだった。


「でも、顔は、覚える」


 彼は、次の瓦礫へ歩き出した。


「それしか、できることがない」


【生存者】


 ――村の外れで、声がした。


「誰かいる!」


 隊員が、叫んだ。


 瓦礫の下に、空間があった。


 地下の貯蔵庫だった。


 入口が、崩れた壁で塞がれていた。石が三つ、扉の前に重なって落ちている。


「どけろ! 急げ!」


 十人がかりで、瓦礫をどけた。


 中から、人が出てきた。



 子供が、四人。


 老人が、二人。


 女が、三人。


 九人だった。


 全員が、痩せていた。


 三日、そこにいたのだ。


 貯蔵庫には、漬けた根菜の樽が二つあった。それを、九人で食べていた。


「……あんたら」


 老人の一人が、光に目を細めた。


「……帝国か」


「違う」


「じゃあ、誰だ」


「逃がしに来た」


 老人は、しばらくセリウスを見ていた。


 それから、崩れ落ちた。


「……遅い」


 彼の指が、瓦礫を掻いた。


「遅いんだよ、あんたら」


 その肩が、震えた。


「あと3日早かったら…。」


 セリウスは、応じなかった。


 彼は、その老人の前に、膝をついた。


 それから、頭を下げた。


「すまない」


 老人は、それ以上、口を開かなかった。


【七日】


 ――それから、七日間。


 セリウスたちは、山を歩き続けた。


 村を回り、生存者を探し、港へ運ぶ。


 その繰り返しだった。



 訪れた村は、十六。


 そのうち、無事だったのは、二つだった。


 残りは、全部、焼けていた。


 生存者は、合計で、四百三十七人。


 グラルドの人口は、およそ三万だった。




「……セリウスさん」


 七日目の夜、カリンが岩に腰を下ろした。


 眼下に、焼けた谷が見える。


 まだ、三箇所で火が残っていた。


「……ああ」


「――寝てないでしょう」


「…………」


「数日寝てないですよ。」


「……そうか」


 彼は、自分の顔に手を当てた。


「気づかなかった」


 カリンは、彼の隣で膝を抱えた。


「……あの」


「なんだ」


「――四百三十七人です」


「え?」


「助けた人の数」


 彼女の視線は、谷に向いていた。


「少ないと思ってるでしょう」


「…………」


「でも、四百三十七人です」


 彼女は、そこで初めて彼を見た。


「あなたが来なかったら、ゼロでした」


 セリウスは、応じなかった。


 彼は、谷を見ていた。


「……カリン」


「はい」


「――俺が、もっと早く来ていたら」


「…………」


「三日、早ければ」


 その声が、掠れた。


「――あの村は…」


「やめてください」


 カリンの声が、遮った。


「え?」


「その考え方、やめてください」


「……なぜ」


「私が、それをやったからです」


 彼女は、また膝を抱え直した。


「去年」


「……ああ」


「バルドアで、一人失くしました」


 彼女の顎が、膝に乗った。


「同じ孤児院の子です。私より、三つ下」


「…………」


「あの時、私が三十秒早く着いてれば、助かってました」


「…………」


「三十秒です」


 声が、震えた。


「私、それを半年、毎晩考えました」


 セリウスが、彼女を見た。


「……知らなかった」


「言ってませんから」


「…………」


「――で、半年考えて、分かったんです」


「なんだ」


「――考えても、あの子は帰ってこない」




 彼女の拳が、膝の上で握られた。


「三十秒、早ければ。……そう考えてる間、私は何もしてませんでした」


「…………」


「その半年で、私、誰も助けてません」


「…………」


「だから、やめました」


 彼女が、顔を上げた。


「今は、次の三十秒のことを考えてます」




 セリウスは、しばらく黙っていた。


「……お前」


「――強いな」


「…………」


 カリンは、応じなかった。


 ――彼女の耳が、少し赤くなった。


「強くありません」


 彼女の視線が、逸れた。


「……そうか」


「ただ」


「…………」


「あなたに、同じ半年を過ごしてほしくないだけです」




 セリウスの口元が、わずかに緩んだ。


「……ありがとう」


「……はい」


「じゃあ、寝るか」


「はい」


 彼は、岩に背を預けた。


 三分で、寝息を立て始めた。


 七日ぶりの、睡眠だった。


 カリンは、その寝顔を、しばらく見ていた。


 それから、自分の外套を脱いで、彼にかけた。


 自分は、腕を組んで、寒さを我慢していた。


【雷の跡】


 八日目。


 彼らは、山の奥へ入った。


 ――ボルガンドラークを、探すためだった。


 だが。


「……なんだ、これ」


 先頭の隊員が、足を止めた。


 彼らの目の前に、峡谷があった。


 ――いや。


 峡谷だった場所があった。


 山が、抉れていた。


 幅、二キロ。深さ、二百メートル以上。


 地形が、変わっていた。


 岩肌が、黒く焦げている。


 ――ガラス化していた。


 高熱で、岩が溶けて、固まったのだ。


 その面は、鏡だった。


 二百人が、その黒い面に映って、彼ら自身を見上げていた。


「……これ、雷か」


「――たぶん」


 ヴォルクが、断面に手を当てた。


「一発じゃない。……何百発だ」


 彼らは、その谷を降りた。


 そして、痕跡を見つけた。


 帝国軍の装備が、散乱していた。


 大量に。


 銃身が、溶けて曲がっていた。兜が、内側から膨らんで裂けていた。


「……数、数えられるか」


「無理です」


 隊員が、首を振った。


「多すぎます」


 彼は、周囲を見回した。


「たぶん、一万は超えてます」


 そして、彼らは、谷の底で、それを見つけた。


 巨大な、拳の跡。


 岩に、深く食い込んだ、人の拳の形。


 直径、五十センチ。


 指の関節の形まで、残っていた。


「……ボルガンさんか」


「たぶん」


 セリウスは、その跡に触れた。


 ――冷たかった。


 もう、何日も経っている。


「探せ」


「はい」


 彼らは、谷を探した。


 半日。


 何も、見つからなかった。


 遺体も、装備も、血の跡も。


 何も。


「……セリウスさん」


「……ああ」


「――いません」


「そうだな」


「――でも」


 カリンが、谷底を見渡した。


「遺体も、ありません」


 セリウスは、その言葉を、しばらく考えた。


「……そうだな」


「逃げた可能性は」


「あると思うが…」


 彼の拳が、握られた。


「――だが、負けた可能性も、ある」


 彼は、谷を見渡した。


 一万人以上を焼いた跡。


 それでも、彼は、この場所を離れた。


 あるいは。


 連れて行かれた。


「……報告は」


「――『安否不明』だ」


 彼は、背を向けた。


「それ以上は、書くな」


【港】


 十日目。


 船が、出た。


 ――四百三十七人を乗せて。


 二十隻の船は、明らかに、空いていた。


 船倉の半分以上に、藁だけが敷いてあった。


「……四千人、乗せられる船なんだけどな」


 船長が、舵を握ったまま呟いた。


 誰も、応じなかった。


 セリウスは、船尾に立っていた。


 ――遠ざかる山を、見ていた。


 煙が、まだ上がっていた。


「……セリウスさん」


「……ああ」


「――北です」


 カリンが、彼の隣で手すりを掴んだ。


「え?」


「リヴィアさんたちは、北の未開拓地へ向かったと」


「…………」


「終灯、という場所です」


 セリウスの動きが、止まった。


「……終灯」


「はい」


「――知ってるのか」


「私は、行ったことないです」


 彼女は、海に目を戻した。


「でも、名前は知ってます」


「…………」


「カイゼンさんが、最初に旗を立てた場所です」


 セリウスは、しばらく黙っていた。


 やがて、頷いた。


「……行くか」


「はい」


 ――だが、その足は、動かなかった。


(……リヴィア)


 三ヶ月前、灯りの海で。


 彼は、彼女に「終わったら言う」と告げた。


 そして、何も言わずに、出航した。


(……それで、また会うのか)


 彼は、自分の掌を見た。


 ――村で見た、いくつもの顔が、そこに浮かんでいた。


(――俺は、また、間に合わなかった)


「……セリウスさん」


「顔、ひどいです」


「……そうか」


「洗ってきてください」


「…………」


「会うんでしょう」


 その語尾が、少しだけ尖っていた。


「……お前な」


「なんですか」


「――嫌味か」


「――嫌味です」


 彼女は、あっさり認めて、船室へ戻っていった。


 セリウスは、しばらく、その場に立っていた。


 それから、少し笑った。


「……変わったな、あいつも」


 二年前の彼女なら、口も開かなかった。


 開けなかった。


(……強くなった)


 彼は、海風で顔を拭った。


【北へ】


 ――船団は、北へ向かった。


 海が、少しずつ、色を変えていく。


 青から、灰色へ。


 そして、空気が、冷たくなっていった。


 三日目には、白い息が出るようになった。


 五日目には、甲板が凍った。朝、綱を掴むと、掌に張りついた。


「……寒い」


 カリンが、両手をこすった。


「お前、氷使いだろ」


「氷の魔法を使うだけで普通に寒いのは寒いですよ」


 彼女は、白い息を吐いた。


「嫌いなんですよ、寒いの」


「……そうなのか」


「はい」


「アルジェンナは、雪の国でした」


 彼女の視線が、遠くなった。


「一年の半分、雪です」


「…………」


「だから、氷魔法を覚えました」


「…………」


「食べ物がない冬に、氷で狼を追い払ったんです」


「……いくつの時だ」


「――七歳です」


 セリウスは、応じなかった。


「その二年後に、国が滅びました」


 あっさりとした口調だった。


「――で、あなたに拾われました」


「……ああ」


「十一歳でした」


 彼女の指が、手すりをなぞった。凍った金属に、指の形の跡が残った。


「――九年、経ちました」


「……あの時」


「なんだ」


「あなた、何も聞かなかったですね」


「…………」


「名前も、歳も、どこから来たかも」


「…………」


「――ただ、『腹減ってるか』って」


「……そうだったか」


「そうでした」


 彼女の口元が、少し緩んだ。


「で、私が頷いたら、パンをくれました」


 彼女の視線が、海に落ちた。


「あれ、あなたの分でしたよね」


「……知ってたのか」


「後で知りました」


「…………」


「三日、何も食べてなかったって」


「…………」


「――なんで、くれたんですか」


 セリウスは、しばらく黙っていた。


「……覚えてない」


「嘘」


「嘘だ」


「……なんでですか」


「お前が」


 彼の視線が、海へ逸れた。


「――誰かに似てたからだ」


 カリンの動きが、止まった。


「……誰に」


「…………」


 セリウスは、応じなかった。


 ――だが、カリンには、分かった。


 分かって、しまった。


「……そうですか」


 その声は、低かった。


「……悪い」


「いえ」


 彼女は、手すりを握り直した。


「でも」


「…………」


「――私は、パンをもらいました」


 彼女の指が、白くなった。


「あの人じゃなくて、私が」


「…………」


「それだけは、事実です」


 彼女は、船室へ戻っていった。


 セリウスは、その背中を見送った。


 しばらく、動かなかった。


(……悪いことをした)


 だが、嘘は、つけなかった。


【氷の海】


 八日目。


 ――海が、白くなった。


 流氷が、浮き始めた。


 船腹に当たるたび、船倉まで届く低い音がした。


「……船長」


「ここまでだな」


 船長が、舵から手を離した。


「これ以上は、船が持たん」


「岸まで、どのくらいだ」


「――半日だ」


 彼の顎が、氷原を指した。


「歩けば、な」



 彼らは、氷上に降りた。


 四百三十七人と、二百人。


 全員で、氷の上を歩いた。


 子供を背負い、老人を支えて。


 氷は、場所によって色が違った。青いところは厚く、白いところは薄い。船乗りの一人が先頭を歩いて、杖で叩きながら道を選んだ。


 ――半日。


 丘の上に、それが見えた。


 柵に囲まれた、小さな集落。


 ――煙突から、煙が上がっていた。


 三十本ほど。氷原の白の中で、それだけが動いていた。


 その中央に、旗が立っていた。


 色褪せた、黒い旗。


 三日月と、鍵の紋章。


 布の下端が、風で裂けていた。十四年ぶんの裂け方だった。


「――終灯だ」


 誰かが、呟いた。


 セリウスは、その旗を見上げた。


 ――十四年前、一人の男が立てた旗。


(……カイゼンさん)


(――ここが、始まりだったのか)


 ――そして、集落の門が、開いた。


 中から、人が出てきた。


 ――黒い軍服。


 長い黒髪が、風に流れていた。


「セリウス!!」


 声が、氷原に響いた。


 遮るものが何もないので、その声は、驚くほど遠くまで届いた。


 セリウスの足が、止まった。


 三ヶ月ぶりの声だった。


 彼は、深く息を吸った。


 やがて。


「――リヴィア」




 ――彼女は、走ってきた。


 氷の上を、転びそうになりながら。


 二度、実際に滑った。二度とも、手をついて起き上がって、また走った。


 彼の前で、止まった。


 ――肩で、息をしていた。


「……遅い」


「……悪かった」


「三ヶ月も」


「ああ」


「三ヶ月よ!!」


 彼女の拳が、彼の胸を叩いた。


 一度。二度。


「――手紙も来ない! 連絡もない!」


「……悪い」


「死んだかと思った!!」


 その拳が、また落ちた。


「――何回も、思った!」




 セリウスは、応じなかった。


 彼は、ただ、立っていた。


 ――そして。


 彼女の手が、止まった。


 彼女は、彼の顔を見た。


 ――そして、気づいた。


「……あなた」


「…………」


「――何を、見てきたの」




 セリウスは、応じられなかった。


「…………」


「……セリウス」


「――四百三十七人だ」


「え?」


「――助けたのは、四百三十七人」


 彼の視線が、地面に落ちた。


「グラルドの人口は、三万だった」


 リヴィアの息が、止まった。


「…………」


「――間に合わなかった」


「…………」


「三日、遅かった」


 ――リヴィアは、しばらく黙っていた。


 ――そして、彼女は、彼を抱きしめた。


「……っ」


「――生きて帰ってきた」


「え?」


「――あなたが、生きて帰ってきた」


 彼女の腕に、力がこもった。


「――それだけで、十分よ」


 セリウスは、動けなかった。


 ――そして、彼の肩が、震えた。


 彼は、彼女の肩に、額を預けた。


 ――誰にも、顔を見せないように。




 ――少し離れた場所で。


 カリンが、それを見ていた。


 ――そして、目を逸らした。


 彼女は、白い息を吐いた。


「……寒い」


 それから、集落へ向かって歩き出した。


 途中で、一度だけ振り返って、また前を向いた。


【終灯】


 ――集落は、小さかった。


 石と木で組まれた家が、三十軒ほど。


 どれも、屋根が低かった。雪の重みに耐えるために、そう建ててある。壁は二重で、その間に苔と土が詰めてあった。


 ――そして、その周りに、無数の天幕。


 六千人が、そこで冬を越そうとしていた。


「狭いわよ」


 リズが、帳簿を突き出した。


 帳簿は、紙が足りないので、両面に細かく書かれていた。


「食糧も、あと二ヶ月」


「…………」


「――で、そこに四百三十七人、増えたの」


 彼女の指が、帳簿を叩いた。


「――どうすんのよ」


「――増やすしかないでしょう」


「畑は?」


「凍ってる」


「…………」


「でも、掘る」


 リヴィアの視線が、南の斜面へ向いた。


「凍ってても、掘る」




 そして、その夜。


 集落の中央で、火が焚かれた。


 六千四百人が、その周りに集まった。


 全員は、入りきらなかった。外側の者は、内側の者の背中しか見えなかった。


 ――誰かが、歌い始めた。


 ネフィラの歌だった。


 ――そして、別の誰かが、別の歌を歌った。


 グラルドの歌だった。


 ――やがて、二つの歌が、混ざった。


 旋律は、合わなかった。拍も、合わなかった。


 ――それでも、途切れなかった。




 リヴィアは、その光景を見ていた。


「……ねえ、グレイ」


「なんだ」


「これ、なんだと思う?」


 彼女の手が、火を囲む人々を指した。


「国じゃないでしょう」


「そうだな」


「軍でもない」


「――そうだな」


 グレイの視線が、炎に落ちた。


「だが」


「…………」


「ここに、六千四百人いる」


 彼は、火の粉を目で追った。


「――今はそれだけだ」


 ――火の粉が、夜空へ舞い上がった。


 北の空に、星が出ていた。


 この緯度では、星の位置が、帝都と違った。


 北極星が、頭の真上に近い場所にあった。


 ――そして。


 その北の、さらに向こう。


 氷原の果てに。


 ――何かが、いた。


 誰も、まだ気づいていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。