占領された山
【麦の値段】
――帝国中部、レンハイム州。
帝都から、馬車で四日。
麦畑と、牧草地と、点々と散らばる農村。
その一つ、ヴァルデン村。
人口、三百二十七人。
――地図に載っていない、小さな村だった。
ハウエル家の朝は、六時に始まる。
土間の竈に火が入り、その煙が、天井の梁を伝って屋根の隙間から抜けていく。三十年、同じ場所を通っているせいで、その一本の梁だけが黒かった。
窓は、東側に一つ。硝子は入っていない。板戸を開けると、麦畑が見えた。
「今年の値段な」
朝の食卓で、男がパンを齧った。
トマス・ハウエル、三十四歳。
日に焼けた顔。太い指。麦の匂いの染みついた作業着。
「なによ」
竈の前から、妻が振り返る。
アンナ・ハウエル、三十一歳。
髪を布で包んで、鍋をかき混ぜている。
「――去年の、六割だとよ」
「六割」
「役場に、貼り紙が出てた」
彼の顎が、動いた。
「『戦時特別買上価格』だとさ」
アンナは、しばらく黙っていた。
それから、スープを椀に注いだ。
「……去年も、そう言ってたわね」
「ああ」
「一昨年も」
「言ってた」
トマスが、頷く。
「で、毎年、下がる」
「あら」
彼女の眉が、上がった。
「じゃあ、来年は、ただでくれてやるのかしら」
「言うなよ」
「そりゃあ言うわよ」
椀が、机に置かれた。
「で、鍬の値段は?」
「……上がった」
「いくら」
「――去年の、倍だ」
アンナの手が、止まった。
「……倍」
「鉄が、足りんらしい」
トマスは、椀を引き寄せた。
「全部、南へ持ってかれてるんだと」
「――かあさん」
小さな声が、割り込んだ。
テーブルの端に、少年が座っている。
十歳。
ハウエル家の、次男。
エリク・ハウエル。
「なによ、エリク」
「砂糖、ないの?」
「ないわよ」
鍋をかき混ぜる手は、止まらなかった。
「なんでないの」
「売ってないの」
「なんで」
「――知らないわよ」
彼女の手が伸びて、少年の頭を軽く叩いた。
「二年前からないでしょう。……いい加減、覚えなさい」
「……忘れちゃう」
「毎回言ってるじゃない」
「だって、あった頃を覚えてるもん」
トマスの口の端が、少し上がった。
「お前、四歳の時の話だぞ」
「覚えてるよ」
「嘘つけよ」
「蜂蜜のやつ」
少年の目が、真剣だった。
「白い壺に入ってた。蓋が、木だった」
彼は、両手で壺の大きさを作った。
「かあさんが、パンに塗ってくれた」
――アンナの手が、止まった。
鍋の中で、湯気が立っていた。
「……あんた、そんなことを」
「覚えてる」
「そう」
それだけだった。
彼女は、少年の椀に、スープを足した。
いつもより、多かった。
――この子は、そういう子だった。
村の誰も覚えていないことを、覚えている。
三年前に死んだ隣家の犬の名前を、まだ言える。
去年、村を通った行商人が売っていた飴の色を、まだ言える。
――そして、兄の声を、まだ覚えている。
誰も、そのことを口に出さなかった。
テーブルには、四人分の椀があった。
――だが、座っているのは三人だけだった。
四つ目の椀は、置かれたままだった。
誰も、それに触れなかった。
――彼らの長男は、十七歳だった。
二年前、徴兵された。
最初の一年は、手紙が来た。
「元気です」「飯は不味いです」「南は暑いです」
――そういう、他愛のない手紙が。
二年目から、来なくなった。
役場に問い合わせても、「所属不明」としか言われなかった。
――村では、そういう家が、七軒あった。
「……あのね」
アンナが、鍋から目を離さずに口を開いた。
「なんだ」
「――昨日、ミルドレッドさんとこの婆さんが」
彼女の背中は、こちらを向いたままだった。
「息子さんの遺骨が、帰ってきたって」
トマスの咀嚼が、止まった。
「……そうか」
「箱だけだったって」
鍋をかき混ぜる音が、少し乱れた。
「中は、砂だったって」
部屋の音が、落ちた。
「…………」
「婆さん、それでも喜んでた」
彼女は、まだ振り返らない。
「『帰ってきた』って」
竈の火が、爆ぜた。
「――砂なのに」
トマスは、パンを口へ運びかけて――途中で、止めた。
それを、皿に戻した。
「……エリク」
「なに」
「今日、畑に来るか」
「行きたい」
「まだ十だぞ」
「行く」
少年は、既に椅子から降りていた。
「穴掘りなら、できる」
「穴掘りな」
トマスの肩が、揺れた。
「――上等だ」
彼は、立ち上がった。
「行ってくる」
「気をつけてね」
「おう」
「エリク、上着」
「いらない」
「いるの」
アンナが、少年を捕まえて、上着を着せた。
袖が、指の先まで余っていた。二年前に長男が着ていたものだった。
「……重い」
「重くていいの」
彼女の手が、袖を直した。
――そして、その肩を、一瞬だけ強く掴んだ。
少年は、気づかなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人が出ていった後。
アンナは、しばらく扉を見ていた。
それから、テーブルへ戻った。
四つ目の椀に、スープを注いだ。
湯気が、立った。
彼女は、それを見ていた。
――しばらくしてから。
そのスープを、鍋に戻した。
毎朝、同じことをしていた。
朝の光が、麦畑を照らしていた。
風が、穂を揺らしていた。畑の向こうの端まで、一続きの波になって渡っていく。
――何十年も、変わらない光景だった。
この村では、大きなことは何も起きない。
畑を耕し、麦を刈り、冬を越す。
――それだけだった。
新聞は、月に一度しか来ない。行商人が、ついでに持ってくる。
その新聞に、時々、南の戦の話が載っている。
――勝った、という話ばかりだった。
だから、彼らは思っていた。
――戦争は、遠くでやっているのだと。
同じ頃。
大陸の北の果てで。
一つの国が、燃えていた。
【北の山】
――大陸北方、グラルド国境。
セリウス・クレイドは、山道を登っていた。
彼の後ろに、二百人。
リバースオーダーの精鋭と、船乗りたち。
港に、二十隻を残してきていた。
山道は、細かった。石を組んで階段にした場所が、何十年ぶんも崩れている。左手は岩壁、右手は谷。谷底から、川の音が上がってきていた。
「……セリウスさん」
カリンが、隣に並んだ。
「……ああ」
「煙が」
彼女の指が、稜線を指す。
セリウスは、顔を上げた。
山の向こうから、煙が上がっていた。
一本ではない。
三本。五本。
十本以上。
風がないので、どれもまっすぐに上がって、上の方で横に流れていた。
「……村か」
「たぶん」
彼の拳が、握られた。
「急ぐぞ」
峠を越えたのは、正午前だった。
――そして、彼らは、それを見た。
眼下に、谷が広がっていた。
その谷の底に、村があった。
いや。
村が、あった場所があった。
「…………」
二百人が、足を止めた。
誰も、声を出さなかった。
石造りの家々が、黒く焼け焦げていた。
屋根は落ち、壁は崩れ、道は瓦礫で埋まっていた。
そして、煙が。
まだ、燻っていた。
「……いつ、だ」
セリウスの声が、掠れていた。
「煙の色から見て」
ヴォルクが、目を細める。
「昨日か、一昨日だ」
谷を降りた。
村に入ると、匂いがした。
焦げた木の匂い。
――そして、別の匂いも。
「……セリウスさん」
カリンが、彼の袖を掴んだ。
「見ない方が」
「いや」
彼は、その手を、指を開いて外した。
「見る」
彼は、瓦礫の間を歩いた。
倒れているものが、あった。
いくつも。
彼は、一つ一つ、確かめた。
顔を、見た。
――そして、その全部を、記憶した。
三十七人いた。
彼は、数えなかった。数えるのは、後で誰かがやることだ。
「……セリウスさん」
「……名前は、分からないな」
彼の視線は、地面に落ちたままだった。
「でも、顔は、覚える」
彼は、次の瓦礫へ歩き出した。
「それしか、できることがない」
【生存者】
――村の外れで、声がした。
「誰かいる!」
隊員が、叫んだ。
瓦礫の下に、空間があった。
地下の貯蔵庫だった。
入口が、崩れた壁で塞がれていた。石が三つ、扉の前に重なって落ちている。
「どけろ! 急げ!」
十人がかりで、瓦礫をどけた。
中から、人が出てきた。
子供が、四人。
老人が、二人。
女が、三人。
九人だった。
全員が、痩せていた。
三日、そこにいたのだ。
貯蔵庫には、漬けた根菜の樽が二つあった。それを、九人で食べていた。
「……あんたら」
老人の一人が、光に目を細めた。
「……帝国か」
「違う」
「じゃあ、誰だ」
「逃がしに来た」
老人は、しばらくセリウスを見ていた。
それから、崩れ落ちた。
「……遅い」
彼の指が、瓦礫を掻いた。
「遅いんだよ、あんたら」
その肩が、震えた。
「あと3日早かったら…。」
セリウスは、応じなかった。
彼は、その老人の前に、膝をついた。
それから、頭を下げた。
「すまない」
老人は、それ以上、口を開かなかった。
【七日】
――それから、七日間。
セリウスたちは、山を歩き続けた。
村を回り、生存者を探し、港へ運ぶ。
その繰り返しだった。
訪れた村は、十六。
そのうち、無事だったのは、二つだった。
残りは、全部、焼けていた。
生存者は、合計で、四百三十七人。
グラルドの人口は、およそ三万だった。
「……セリウスさん」
七日目の夜、カリンが岩に腰を下ろした。
眼下に、焼けた谷が見える。
まだ、三箇所で火が残っていた。
「……ああ」
「――寝てないでしょう」
「…………」
「数日寝てないですよ。」
「……そうか」
彼は、自分の顔に手を当てた。
「気づかなかった」
カリンは、彼の隣で膝を抱えた。
「……あの」
「なんだ」
「――四百三十七人です」
「え?」
「助けた人の数」
彼女の視線は、谷に向いていた。
「少ないと思ってるでしょう」
「…………」
「でも、四百三十七人です」
彼女は、そこで初めて彼を見た。
「あなたが来なかったら、ゼロでした」
セリウスは、応じなかった。
彼は、谷を見ていた。
「……カリン」
「はい」
「――俺が、もっと早く来ていたら」
「…………」
「三日、早ければ」
その声が、掠れた。
「――あの村は…」
「やめてください」
カリンの声が、遮った。
「え?」
「その考え方、やめてください」
「……なぜ」
「私が、それをやったからです」
彼女は、また膝を抱え直した。
「去年」
「……ああ」
「バルドアで、一人失くしました」
彼女の顎が、膝に乗った。
「同じ孤児院の子です。私より、三つ下」
「…………」
「あの時、私が三十秒早く着いてれば、助かってました」
「…………」
「三十秒です」
声が、震えた。
「私、それを半年、毎晩考えました」
セリウスが、彼女を見た。
「……知らなかった」
「言ってませんから」
「…………」
「――で、半年考えて、分かったんです」
「なんだ」
「――考えても、あの子は帰ってこない」
彼女の拳が、膝の上で握られた。
「三十秒、早ければ。……そう考えてる間、私は何もしてませんでした」
「…………」
「その半年で、私、誰も助けてません」
「…………」
「だから、やめました」
彼女が、顔を上げた。
「今は、次の三十秒のことを考えてます」
セリウスは、しばらく黙っていた。
「……お前」
「――強いな」
「…………」
カリンは、応じなかった。
――彼女の耳が、少し赤くなった。
「強くありません」
彼女の視線が、逸れた。
「……そうか」
「ただ」
「…………」
「あなたに、同じ半年を過ごしてほしくないだけです」
セリウスの口元が、わずかに緩んだ。
「……ありがとう」
「……はい」
「じゃあ、寝るか」
「はい」
彼は、岩に背を預けた。
三分で、寝息を立て始めた。
七日ぶりの、睡眠だった。
カリンは、その寝顔を、しばらく見ていた。
それから、自分の外套を脱いで、彼にかけた。
自分は、腕を組んで、寒さを我慢していた。
【雷の跡】
八日目。
彼らは、山の奥へ入った。
――ボルガンドラークを、探すためだった。
だが。
「……なんだ、これ」
先頭の隊員が、足を止めた。
彼らの目の前に、峡谷があった。
――いや。
峡谷だった場所があった。
山が、抉れていた。
幅、二キロ。深さ、二百メートル以上。
地形が、変わっていた。
岩肌が、黒く焦げている。
――ガラス化していた。
高熱で、岩が溶けて、固まったのだ。
その面は、鏡だった。
二百人が、その黒い面に映って、彼ら自身を見上げていた。
「……これ、雷か」
「――たぶん」
ヴォルクが、断面に手を当てた。
「一発じゃない。……何百発だ」
彼らは、その谷を降りた。
そして、痕跡を見つけた。
帝国軍の装備が、散乱していた。
大量に。
銃身が、溶けて曲がっていた。兜が、内側から膨らんで裂けていた。
「……数、数えられるか」
「無理です」
隊員が、首を振った。
「多すぎます」
彼は、周囲を見回した。
「たぶん、一万は超えてます」
そして、彼らは、谷の底で、それを見つけた。
巨大な、拳の跡。
岩に、深く食い込んだ、人の拳の形。
直径、五十センチ。
指の関節の形まで、残っていた。
「……ボルガンさんか」
「たぶん」
セリウスは、その跡に触れた。
――冷たかった。
もう、何日も経っている。
「探せ」
「はい」
彼らは、谷を探した。
半日。
何も、見つからなかった。
遺体も、装備も、血の跡も。
何も。
「……セリウスさん」
「……ああ」
「――いません」
「そうだな」
「――でも」
カリンが、谷底を見渡した。
「遺体も、ありません」
セリウスは、その言葉を、しばらく考えた。
「……そうだな」
「逃げた可能性は」
「あると思うが…」
彼の拳が、握られた。
「――だが、負けた可能性も、ある」
彼は、谷を見渡した。
一万人以上を焼いた跡。
それでも、彼は、この場所を離れた。
あるいは。
連れて行かれた。
「……報告は」
「――『安否不明』だ」
彼は、背を向けた。
「それ以上は、書くな」
【港】
十日目。
船が、出た。
――四百三十七人を乗せて。
二十隻の船は、明らかに、空いていた。
船倉の半分以上に、藁だけが敷いてあった。
「……四千人、乗せられる船なんだけどな」
船長が、舵を握ったまま呟いた。
誰も、応じなかった。
セリウスは、船尾に立っていた。
――遠ざかる山を、見ていた。
煙が、まだ上がっていた。
「……セリウスさん」
「……ああ」
「――北です」
カリンが、彼の隣で手すりを掴んだ。
「え?」
「リヴィアさんたちは、北の未開拓地へ向かったと」
「…………」
「終灯、という場所です」
セリウスの動きが、止まった。
「……終灯」
「はい」
「――知ってるのか」
「私は、行ったことないです」
彼女は、海に目を戻した。
「でも、名前は知ってます」
「…………」
「カイゼンさんが、最初に旗を立てた場所です」
セリウスは、しばらく黙っていた。
やがて、頷いた。
「……行くか」
「はい」
――だが、その足は、動かなかった。
(……リヴィア)
三ヶ月前、灯りの海で。
彼は、彼女に「終わったら言う」と告げた。
そして、何も言わずに、出航した。
(……それで、また会うのか)
彼は、自分の掌を見た。
――村で見た、いくつもの顔が、そこに浮かんでいた。
(――俺は、また、間に合わなかった)
「……セリウスさん」
「顔、ひどいです」
「……そうか」
「洗ってきてください」
「…………」
「会うんでしょう」
その語尾が、少しだけ尖っていた。
「……お前な」
「なんですか」
「――嫌味か」
「――嫌味です」
彼女は、あっさり認めて、船室へ戻っていった。
セリウスは、しばらく、その場に立っていた。
それから、少し笑った。
「……変わったな、あいつも」
二年前の彼女なら、口も開かなかった。
開けなかった。
(……強くなった)
彼は、海風で顔を拭った。
【北へ】
――船団は、北へ向かった。
海が、少しずつ、色を変えていく。
青から、灰色へ。
そして、空気が、冷たくなっていった。
三日目には、白い息が出るようになった。
五日目には、甲板が凍った。朝、綱を掴むと、掌に張りついた。
「……寒い」
カリンが、両手をこすった。
「お前、氷使いだろ」
「氷の魔法を使うだけで普通に寒いのは寒いですよ」
彼女は、白い息を吐いた。
「嫌いなんですよ、寒いの」
「……そうなのか」
「はい」
「アルジェンナは、雪の国でした」
彼女の視線が、遠くなった。
「一年の半分、雪です」
「…………」
「だから、氷魔法を覚えました」
「…………」
「食べ物がない冬に、氷で狼を追い払ったんです」
「……いくつの時だ」
「――七歳です」
セリウスは、応じなかった。
「その二年後に、国が滅びました」
あっさりとした口調だった。
「――で、あなたに拾われました」
「……ああ」
「十一歳でした」
彼女の指が、手すりをなぞった。凍った金属に、指の形の跡が残った。
「――九年、経ちました」
「……あの時」
「なんだ」
「あなた、何も聞かなかったですね」
「…………」
「名前も、歳も、どこから来たかも」
「…………」
「――ただ、『腹減ってるか』って」
「……そうだったか」
「そうでした」
彼女の口元が、少し緩んだ。
「で、私が頷いたら、パンをくれました」
彼女の視線が、海に落ちた。
「あれ、あなたの分でしたよね」
「……知ってたのか」
「後で知りました」
「…………」
「三日、何も食べてなかったって」
「…………」
「――なんで、くれたんですか」
セリウスは、しばらく黙っていた。
「……覚えてない」
「嘘」
「嘘だ」
「……なんでですか」
「お前が」
彼の視線が、海へ逸れた。
「――誰かに似てたからだ」
カリンの動きが、止まった。
「……誰に」
「…………」
セリウスは、応じなかった。
――だが、カリンには、分かった。
分かって、しまった。
「……そうですか」
その声は、低かった。
「……悪い」
「いえ」
彼女は、手すりを握り直した。
「でも」
「…………」
「――私は、パンをもらいました」
彼女の指が、白くなった。
「あの人じゃなくて、私が」
「…………」
「それだけは、事実です」
彼女は、船室へ戻っていった。
セリウスは、その背中を見送った。
しばらく、動かなかった。
(……悪いことをした)
だが、嘘は、つけなかった。
【氷の海】
八日目。
――海が、白くなった。
流氷が、浮き始めた。
船腹に当たるたび、船倉まで届く低い音がした。
「……船長」
「ここまでだな」
船長が、舵から手を離した。
「これ以上は、船が持たん」
「岸まで、どのくらいだ」
「――半日だ」
彼の顎が、氷原を指した。
「歩けば、な」
彼らは、氷上に降りた。
四百三十七人と、二百人。
全員で、氷の上を歩いた。
子供を背負い、老人を支えて。
氷は、場所によって色が違った。青いところは厚く、白いところは薄い。船乗りの一人が先頭を歩いて、杖で叩きながら道を選んだ。
――半日。
丘の上に、それが見えた。
柵に囲まれた、小さな集落。
――煙突から、煙が上がっていた。
三十本ほど。氷原の白の中で、それだけが動いていた。
その中央に、旗が立っていた。
色褪せた、黒い旗。
三日月と、鍵の紋章。
布の下端が、風で裂けていた。十四年ぶんの裂け方だった。
「――終灯だ」
誰かが、呟いた。
セリウスは、その旗を見上げた。
――十四年前、一人の男が立てた旗。
(……カイゼンさん)
(――ここが、始まりだったのか)
――そして、集落の門が、開いた。
中から、人が出てきた。
――黒い軍服。
長い黒髪が、風に流れていた。
「セリウス!!」
声が、氷原に響いた。
遮るものが何もないので、その声は、驚くほど遠くまで届いた。
セリウスの足が、止まった。
三ヶ月ぶりの声だった。
彼は、深く息を吸った。
やがて。
「――リヴィア」
――彼女は、走ってきた。
氷の上を、転びそうになりながら。
二度、実際に滑った。二度とも、手をついて起き上がって、また走った。
彼の前で、止まった。
――肩で、息をしていた。
「……遅い」
「……悪かった」
「三ヶ月も」
「ああ」
「三ヶ月よ!!」
彼女の拳が、彼の胸を叩いた。
一度。二度。
「――手紙も来ない! 連絡もない!」
「……悪い」
「死んだかと思った!!」
その拳が、また落ちた。
「――何回も、思った!」
セリウスは、応じなかった。
彼は、ただ、立っていた。
――そして。
彼女の手が、止まった。
彼女は、彼の顔を見た。
――そして、気づいた。
「……あなた」
「…………」
「――何を、見てきたの」
セリウスは、応じられなかった。
「…………」
「……セリウス」
「――四百三十七人だ」
「え?」
「――助けたのは、四百三十七人」
彼の視線が、地面に落ちた。
「グラルドの人口は、三万だった」
リヴィアの息が、止まった。
「…………」
「――間に合わなかった」
「…………」
「三日、遅かった」
――リヴィアは、しばらく黙っていた。
――そして、彼女は、彼を抱きしめた。
「……っ」
「――生きて帰ってきた」
「え?」
「――あなたが、生きて帰ってきた」
彼女の腕に、力がこもった。
「――それだけで、十分よ」
セリウスは、動けなかった。
――そして、彼の肩が、震えた。
彼は、彼女の肩に、額を預けた。
――誰にも、顔を見せないように。
――少し離れた場所で。
カリンが、それを見ていた。
――そして、目を逸らした。
彼女は、白い息を吐いた。
「……寒い」
それから、集落へ向かって歩き出した。
途中で、一度だけ振り返って、また前を向いた。
【終灯】
――集落は、小さかった。
石と木で組まれた家が、三十軒ほど。
どれも、屋根が低かった。雪の重みに耐えるために、そう建ててある。壁は二重で、その間に苔と土が詰めてあった。
――そして、その周りに、無数の天幕。
六千人が、そこで冬を越そうとしていた。
「狭いわよ」
リズが、帳簿を突き出した。
帳簿は、紙が足りないので、両面に細かく書かれていた。
「食糧も、あと二ヶ月」
「…………」
「――で、そこに四百三十七人、増えたの」
彼女の指が、帳簿を叩いた。
「――どうすんのよ」
「――増やすしかないでしょう」
「畑は?」
「凍ってる」
「…………」
「でも、掘る」
リヴィアの視線が、南の斜面へ向いた。
「凍ってても、掘る」
そして、その夜。
集落の中央で、火が焚かれた。
六千四百人が、その周りに集まった。
全員は、入りきらなかった。外側の者は、内側の者の背中しか見えなかった。
――誰かが、歌い始めた。
ネフィラの歌だった。
――そして、別の誰かが、別の歌を歌った。
グラルドの歌だった。
――やがて、二つの歌が、混ざった。
旋律は、合わなかった。拍も、合わなかった。
――それでも、途切れなかった。
リヴィアは、その光景を見ていた。
「……ねえ、グレイ」
「なんだ」
「これ、なんだと思う?」
彼女の手が、火を囲む人々を指した。
「国じゃないでしょう」
「そうだな」
「軍でもない」
「――そうだな」
グレイの視線が、炎に落ちた。
「だが」
「…………」
「ここに、六千四百人いる」
彼は、火の粉を目で追った。
「――今はそれだけだ」
――火の粉が、夜空へ舞い上がった。
北の空に、星が出ていた。
この緯度では、星の位置が、帝都と違った。
北極星が、頭の真上に近い場所にあった。
――そして。
その北の、さらに向こう。
氷原の果てに。
――何かが、いた。
誰も、まだ気づいていなかった。




