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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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轟

【二十四隻】


 ――風が、止んで、二時間後だった。


 十二隻の船団は、東の海を進んでいた。


 ――誰も、喋らなかった。


 甲板で、船乗りたちが黙々と綱を引いている。声を出すのは、必要な時だけだった。索を締める掛け声すら、いつもより低かった。


 船倉には、避難民が詰め込まれていた。


 ――四千人。


 アスレオンにいた四万二千のうち、乗せられたのは、それだけだった。


 残りの三万八千は、島にいた。


 ――島は、もう、なかった。




 リヴィアは、船尾に立っていた。


 ――西の水平線を、見ていた。


 もう、島は見えなかった。


 白い光も、もう瞬いていなかった。


「……隊長」


 リズが、隣に来た。


「…………」


「――少し、休んで」


「……ええ」


「休んでない」


 リズが言った。


「二時間、そこに立ってる」


「…………」


 リヴィアは、応じなかった。


 彼女は、まだ、待っていた。


 ――風が、また吹くのを。


 あの、温かい風が。


 ――吹かなかった。


 海面は、鏡のようだった。帆が、力なく垂れていた。




「――前方!!」


 見張りが、叫んだ。


「前方に、船影!!」


 甲板が、動いた。


「数は!?」


「――多数!! 十……いえ、二十以上!!」


 リヴィアは、船首へ走った。


 ――そして、それを見た。


 東の水平線に、黒い影が、並んでいた。


 等間隔だった。ぴたりと、同じ距離で。


 鋼鉄の艦影。


 ――帝国海軍。




「――二十四隻」


 グレイが、望遠鏡を下ろした。


「第三艦隊だ。……主力の一つだ」


「なんで、こんな場所に」


「――待ってたんだろう」


 彼は言った。


「あの男が、島を潰す。……そして、逃げた者を、海で待つ」


 彼は、望遠鏡を握りしめた。


「――最初から、そういう作戦だ」




「……逃げられますか」


「無理だ」


 彼は、あっさり言った。


「向こうは軍艦、こちらは商船だ。……速度が違う」


「――突破する」


 彼は言った。


「他に、道はない」


「隊長」


 ミーナレイが、望遠鏡を覗いていた。


「あの、真ん中の四隻」


「なに」


「――甲板に、何か載ってます」


 リヴィアは、望遠鏡を受け取った。


 ――そして、喉が詰まった。


 黒い、鐘のような装置。


 鋼の枠に、黒い鉱石が幾層にも嵌め込まれている。


 ――朝の光の中で、そこだけが夜の色をしていた。


 アンチマギナ。


「……四基」


「はい」


「――やられる」


 グレイが、拳を握った。


「あれが起動すれば、こちらの魔法は死ぬ」


 彼は言った。


「そして、商船十二隻が、砲撃で沈む」


 ――甲板が、静まり返った。


 誰も、口を開かなかった。


 船倉には、四千人がいる。


 子供が。老人が。女が。


 ――ネフィラから、三ヶ月かけて逃がした人々が。


 二百回、往復して運んだ人々が。


「…………」


 リヴィアは、望遠鏡を下ろした。


 ――そして、低い声で言った。


「――時間を、ください」


「え?」


「五分」


 彼女は言った。


「五分、稼いでください」


「――お前、何をする気だ」


「……分かりません」


 彼女は、正直に答えた。


「え?」


「――でも、たぶん、できる」


 彼女は言った。


 その目が、いつもと違った。


 瞳孔が、開いていた。恐怖でも、興奮でもない開き方だった。


「……リヴィア」


「グレイ」


「なんだ」


「――あなたも、全力を出して」


 彼女は言った。


「二年前から、あなた、手を抜いてるでしょう」


 グレイの動きが、止まった。


「…………」


「島で見たわ」


 彼女は言った。


「あなたの炎、あんなものじゃない」




 ――グレイは、しばらく黙っていた。


 やがて、言った。


「……知ってたのか」


「もちろん知ってた」


「――なぜ、言わなかった」


「言えなかったからでしょう」


 彼女は言った。


「――五年前のことがあるから」


 グレイの拳が、握られた。


「…………」


「でも、今日は」


 彼女は、彼を見た。


「――今日は、守るために使って」


 グレイは、しばらく動かなかった。


 それから、深く息を吸った。


「……分かった」


 彼は言った。


「――五分だな」


「はい」


「――七分、稼ぐ」


 彼は、そう言って、船首へ歩いた。


【七分】


 ――交戦が、始まった。


 帝国艦隊が、砲門を開いた。


 二十四隻の、片舷斉射。


 ――音は、遅れて来た。


 最初に見えたのは、光だった。二十四隻の舷側に、橙の点が一斉に灯る。


 次に、白い煙が湧いた。


 ――そして、四秒後に、音が届いた。


 腹に来る音だった。連続していなかった。二十四隻ぶんの発砲が、少しずつずれて、途切れずに続いた。


 ――数百発の砲弾が、空を埋めた。


「――張ります!!」


 ミーナレイが、両手を上げた。


 ――水の膜が、船団の上に広がった。


 彼女の水膜は、二年前とは別物だった。


 厚くはない。むしろ、薄い。紙一枚ぶんの水が、船団十二隻を覆っていた。


 ――だが、着弾の角度に合わせて、傾いた。


 砲弾が、次々と逸れた。


 膜に触れるたび、そこだけが少しだけ傾いて、砲弾を滑らせる。


 海面へ。


 水柱が、船団の周囲に林立した。


 三十本。五十本。数えきれなくなった。


「――保ちます! 三分は!」


「上等!!」


 アシュが、船縁から身を乗り出した。


 ――二丁の銃。


 彼は、狙いをつけた。


 ――砲門ではなかった。


 装填手の、足元だった。


「――爆ぜろ」


 遠隔発火。


 敵艦の甲板で、火薬が誘爆した。


 一隻。二隻。


 ――装填の列が、崩れた。


 崩れた列は、すぐには戻らなかった。人が、逃げるからだ。


「――風、通すわよ!!」


 リズが、跳んだ。


 ――彼女は、船から離れた。


 空中に、立っていた。


 自分の風ではない。


 ――海上の風に、乗っていた。


 彼女は、その風を、束ねた。


 ――帝国艦隊の、帆へ向けて。


 突風が、走った。


 海面が、その通り道だけ、白く泡立った。


 ――四隻の帆が、裂けた。


 縦に、上から下まで。


 艦が、進路を失って、蛇行した。


「――隊列が崩れた!!」


 ――そして。


 グレイが、船首に立った。


 彼は、外套を脱いだ。


 両手を、上げた。


「…………」


 彼は、目を閉じた。


 ――五年前の記憶が、蘇る。


 三本の橋。貯水施設。二つの通信塔。


 ――そして、燃えた救護所。


 瓦礫は、一週間後には片付けられていた。名簿は、なかった。


(……あの日から)


(俺は、この炎を、憎んできた)


 彼は、拳を握った。


(――だが)


 彼は、目を開けた。


(――今日は、違う)


「――焼き払え」


 彼は言った。


 ――そして、炎が、生まれた。


 ――それは、火の壁ではなかった。


 海面に、火が、走った。


 ――海が、燃えた。


 いや、燃えたのは海ではない。


 彼は、海面の上に、炎の道を敷いた。


 高さは、水面から一メートル。幅は、三メートル。


 ――そして、その道が、走った。


 帝国艦隊へ向かって。


 一本。二本。四本。八本。


 ――炎の道が、艦隊の間を、縫った。


 道が通った後、海面から白い蒸気が上がった。蒸気は、道の形のまま、しばらく空に残った。


「な――なんだあれは!!」


 帝国艦隊の甲板で、悲鳴が上がった。


 炎が、艦と艦の間を走り抜けていく。


 ――そして、通り過ぎた後。


 艦の側面が、溶けていた。


 鋼が、飴のように垂れていた。


 垂れた鋼が、海面に触れて、じゅう、と鳴った。


「――防火壁! 防火壁を張れ!!」


「――間に合いません!」


 ――三分で、六隻が航行不能になった。


 だが。


「――中央! アンチマギナ、起動します!!」


 ミーナレイが、叫んだ。


 ――四基の装置が、同時に光った。


 ――魔素が、消えた。


「――っ!」


 ミーナレイの水膜が、消えた。


 紙一枚ぶんの水が、そのまま海へ落ちた。船団の上に、一瞬だけ、細かい雨が降った。


 リズが、空中から落ちた。海に落ちる寸前で、船縁に掴まった。


 アシュの銃が、ただの銃になった。


 ――そして。


 グレイの炎の道が、途切れた。


 八本の炎が、根元から順に消えていった。海面の蒸気だけが、道の形を残して漂っていた。


「……くそ」


 彼は、膝をついた。


「――七分、保たなかったか」


 ――砲門が、再び開いた。


 今度は、防ぐものがない。


 二十四隻のうち、動けるのは十八隻。


 その十八隻が、無防備な商船団を狙った。


「――隊長!!」


 リズが、叫んだ。


「――間に合わない!!」


【三つ】


 ――リヴィアは、船尾に立っていた。


 目を、閉じていた。


 ――彼女は、聞いていなかった。


 砲声も、悲鳴も、届いていなかった。


(……ミラ殿)


 彼女は、思っていた。


(あなたは、言いました)


 ――魔法は、消費ではありません。創造です。


 ――生み出した魔法を、次の材料にする。


 豆粒の火が、五度で、泉のほとりを真昼にした光景。


 彼女は、掌を開いた。


(――循環)


(……ムラサメ殿)


 彼女は、思っていた。


(あなたは、言いました)


 ――斬るとは、断つことではない。


 ――こちらとあちらの間に、線を引くことだ。


 ――お主の闇は、線を知らん。


 断面のない、二枚の落ち葉。


 彼女は、指を伸ばした。


(――線)


(……お父さん)


 彼女は、思っていた。


(あなたは、言いました)


 ――風は、空間だ。


 ――こっちからあっちへ、風を送ったんじゃない。あっちで、風を吹かせた。


 ――距離ってのはな、思い込みだ。


 ――ここと、あそこの間に、線を引いてるのは、自分だ。


 十メートル先で、葉が三十枚、散った光景。


 間の空気は、動いていなかった。


 彼女は、目を開けた。


(――距離)


 三つが、繋がった。


 ――彼女は、自分の中を、視た。


 二十八年、蓋をしてきたもの。


 十一歳で水晶を割り、無刻と偽り、四刻と登録し。


 ――ずっと、隠してきたもの。


(……私は)


(――私は、オルド・ノクスと、ルシェリア・ノクティルムの娘だ)


 その言葉を、初めて、自分に言った。


(理と、魔が、混ざってる)


(――混ざらないものが、この体に入ってる)


 彼女は、拳を握った。


(――怖かった)


(ずっと、怖かった)


(――でも)


 ――彼女は、蓋を、外した。


【轟】


 ――最初に、海が、暗くなった。


 船団の周囲、半径数百メートルの海面が。


 ――光を、失った。


 太陽は、出ていた。


 なのに、そこだけ、影になった。


 境目は、はっきりしていた。明るい海と、暗い海の間に、線が一本、走っていた。


「……なに」


 誰かが、呟いた。


 ――そして、空に、それが現れた。


 漆黒の紋章。


 直径、五メートル。


 ――一つ。


 二つ。


 四つ。


 ――十六。


 増えていく。


 空を、埋めていく。


 現れる時、音はしなかった。ただ、空のその位置から、色が消えた。


「……嘘」


 リズが、呟いた。


 ――五十。


 ――百。


 ――二百。


 帝国艦隊の頭上に。


 黒い紋章が、空を覆い尽くしていた。


 ――数えることに、意味がなくなった。


 艦隊の甲板から、空が見えなくなった。


 真昼だった。


 ――なのに、十八隻の艦の上だけ、夜だった。


「――なんだ、あれは!!」


 帝国艦隊の甲板で、悲鳴が上がった。


「上だ! 上を見ろ!!」


「――撃て! 撃ち落とせ!!」


 対空砲が、火を吹いた。


 ――砲弾が、紋章に触れた。


 ――そして、消えた。


 爆発しなかった。落ちもしなかった。


 ――喰われた。


 触れた場所から、砲弾が、先端から順になくなっていった。


 全部が消えるまで、瞬き一つぶんもかからなかった。


 ――リヴィアは、船尾に立っていた。


 右手を、上げていた。


 その周囲で、闇が渦を巻いている。


 ――彼女の掌の上に、それはあった。


 小さな、黒い球。


 ――先ほど喰った砲弾の、魔力だった。


 彼女は、それを、次の紋章の材料にした。


 ――循環。


 喰う。増やす。展開する。喰う。増やす。


 ――紋章が、増え続けた。


 撃たれるほど、増えた。


(――線を、引く)


(ここまでが、味方)


(――ここから先が、敵)


 彼女は、その線を、意識の中で引いた。


 商船十二隻と、四千人。


 ――それが、こちら側。


 十八隻の軍艦。


 ――それが、あちら側。


(――喰う先を、選ぶ)


(――そして)


 彼女は、空を見上げた。


(距離は、思い込み)


(――ここと、あそこの間に、線を引いてるのは、自分)


(――なら)


 彼女は、右手を、振り下ろした。


(――あそこで、撃つ)


「――黒閃・轟」




 ――音は、なかった。


 最初は。


 空を埋めた数百の紋章から。


 ――黒い閃光が、一斉に、放たれた。


 雨のように。


 いや。


 ――滝のように。




 ――音が、来た。


 ――轟音。


 海が、鳴った。


 空気が、鳴った。


 ――世界が、鳴った。


 船団の甲板の板が、全員の足の裏で震えた。


 救助を待つ避難民が、船倉で悲鳴を上げた。


 その悲鳴が、聞こえなかった。


 音が、大きすぎた。




 黒い光の柱が、帝国艦隊に降り注いだ。


 ――甲板が、消えた。


 マストが、消えた。


 砲塔が、消えた。


 ――そして、艦体が。


 上から順に。


 断面を残さずに。


 艦橋のあった場所が、空になり。


 その下の甲板が、空になり。


 水線から下が、最後まで残って、それも消えた。


 爆発は、起きなかった。


 炎も、上がらなかった。


 ――ただ、消えた。


 十八隻の軍艦が。


 ――三十秒で、海面から、消えた。


 残る六隻は、既に航行不能で、砲を撃っていなかった。


 ――だから、彼女は、喰わなかった。


 ――後には、何も残らなかった。


 残骸も。油も。


 ――ただ、静かな海が、そこにあった。


 空が、戻った。


 黒い紋章が、後ろから順に消えていった。二百。百。五十。


 ――最後の一つが消えた時、真昼の光が、海面に戻った。


【生きている】


 ――甲板の全員が、動けなかった。


 誰も、声を出さなかった。


 ――そして。


「……人が」


 ミーナレイが、掠れた声で言った。


「――人が、浮いてます」


 海面に、無数の頭が浮いていた。


 ――帝国の水兵たちだった。


 艦は消えた。


 ――だが、乗員は、海に浮いていた。


 全員が。


 誰も、傷ついていなかった。


 服も、濡れているだけだった。焦げても、裂けてもいなかった。


「……嘘」


 リズが、呟いた。


「――船だけ、消したの?」


 リヴィアは、船尾に立ったまま、それを見ていた。


 ――彼女は、応じなかった。


 応じる余裕が、なかった。


(……できた)


(――線が、引けた)


 艦は、あちら側。


 人は、どちらでもない。


 ――だから、喰わなかった。


「――救助を!!」


 彼女は、叫んだ。


「え!?」


「敵ですよ!?」


「――救助して」


 彼女は言った。


「乗せられるだけ、乗せて」


「隊長、船倉はもう――」


「――甲板でいい」


 彼女は言った。


「――溺れさせないで」


【代償】


 ――それから、一時間。


 船団は、生存者の救助を続けた。


 二千人以上が、甲板に上げられた。


 ――誰も、抵抗しなかった。


 武器を持っていた者は、自分から海へ捨てた。


 彼らは、震えていた。


 ――目の前で、艦隊が消えるのを見たのだ。


 甲板の上で、帝国の水兵とネフィラの避難民が、隣り合って座っていた。


 どちらも、口を開かなかった。




 その間。


 リヴィアは、船尾の、誰もいない場所にいた。


 ――手すりを、掴んでいた。


 立っているのが、やっとだった。


「……っ、は……ぁ」


 息が、上がっていた。


 ――心臓が、おかしかった。


 速い。速すぎる。


 ――胸の中で、何かが暴れているようだった。


 ――そして、頭が、割れそうだった。


「……ぐ……っ」


 彼女は、額を押さえた。


 ――視界が、明滅した。


 ――彼女は、気づいた。


 ――右手が、痺れている。


 彼女は、手袋を外した。


 ――そして。


 息が、止まった。


 ――指先が、黒かった。


 人差し指の、第一関節から先。


 中指も。薬指も。


 ――墨を塗ったように、黒い。


 いや。


 ――塗ったのではない。


 そういう色に、なっていた。


 爪も、爪の下の肉も、同じ黒だった。境目が、なかった。


「……なに、これ」


 彼女の声が、震えた。


 彼女は、その指を、擦った。


 ――落ちなかった。


 当たり前だった。


 ――汚れでは、ないのだから。


 ――そして、彼女は、もう一つのことに気づいた。


(……気持ちいい)


 ――そして、ぞっとした。


(――なに、今の)


 喰った。


 十八隻の軍艦と、その魔力を。


 ――そして、彼女の中の何かが。


(――満足してる)




 彼女は、両手で口を押さえた。


 ――吐き気が、こみ上げた。


 彼女は、船縁で、吐いた。


 ――何も、出なかった。


 空の胃が、痙攣しただけだった。



「……はぁ……はぁ……」


 彼女は、しばらく、そこにうずくまっていた。


 ――そして。


 彼女は、右手を見た。


 ――黒い指先。


(……ムラサメ殿)


 ――老人の言葉が、蘇る。


 ――いずれ、出すより先に、喰い始める。


 ――その時、最初に喰われるのは、お主自身だ。


(……これが)


(――これが、それ?)


 彼女は、指先を見つめた。


 ――帝都の訓練場で、左手の感覚が三秒消えた。


 ――峠の前の夜、七秒になった。


 ――森の窪地で、右手が、数秒。


 あれは、全部、感覚だった。見た目は、変わらなかった。


 ――今は、色が、変わっている。


 彼女は、そう理解した。


 ――三十分後。


 黒は、薄くなった。


 ――一時間後。


 消えた。


 元の、白い指先に戻った。


「…………」


 彼女は、その指を、じっと見ていた。


 ――そして、手袋をはめた。


 深く。


 ――誰にも、見えないように。


「――隊長?」


 リズの声が、した。


「……なに」


「大丈夫? 顔、真っ青よ」


「……大丈夫」


「嘘つき」


「……本当よ」


 彼女は、立ち上がった。


「――疲れただけ」


 彼女は言った。


「あれだけやったら、疲れるでしょう」


「……そりゃ、そうだけど」


 リズは、彼女の顔を覗き込んだ。


「――ほんとに、大丈夫?」


「大丈夫」


 リヴィアは、微笑んだ。


 ――そして、手袋の中で。


 右手を、握りしめた。


 ――ネロが、二年間そうしていたのと、同じやり方で。


 彼女は、そのことに、気づかなかった。


【北へ】


 ――日が、暮れた。


 船団は、東へ進んでいた。


 ――正確には、北東へ。


 甲板で、グレイが海図を広げていた。


 海図の端が、風でめくれ続けるので、ミーナレイが両手で押さえていた。


「――行き先を、決めた」


 彼は言った。


「どこですか」


「――北だ」


 彼は、海図の端を指した。


 ――そこには、何も描かれていなかった。


 海岸線が、途中で消えていた。線が、途切れているのではない。描いた者が、そこまでしか知らなかったのだ。


「……なにもない」


「未開拓地だ」


 彼は言った。


「大陸の、北端。……氷原の手前」


「そんなところに」


「――あるんだ」




 ――そこへ、ノーチェが来た。


「――あるわよ」


 彼女は言った。


「私たちの、最初の拠点」


「……最初の?」


「そう」


 彼女は、頷いた。


「十四年前、あの人が最初に旗を立てた場所」


 彼女は言った。


「――名前は、『終灯』」


「……終わりの、灯」


「そう」


 彼女は、少し笑った。


「――『世界の縁の、最後の灯り』って意味らしいわ」




「……人は」


「二百人くらい住んでる」


 彼女は言った。


「畑もあるし、井戸もある。……四千人は、無理だけど」


「じゃあ」


「――増やすしかないわね」


 彼女は、あっさり言った。


「土地は、いくらでもあるもの」


 彼女は、海図の白い部分を、指で撫でた。


「――誰も、住んだことがないんだから」


【最後の光】


 ――夜。


 リヴィアは、船尾に立っていた。


 ――西の水平線を、見ていた。


 もう、何も見えなかった。


 島も、光も、風も。


 ――何も。




「……隊長」


 ミーナレイが、隣に来た。


「……なに」


「その」


 彼女は、少し迷ってから言った。


「――オルドさんって、どういう人だったんですか」


 リヴィアの動きが、止まった。


「……どうして」


「あたし、ほとんど話したことなくて」


 彼女は言った。


「でも、あの人、あたしの刀を見て、一回だけ言ったんです」


「なんて?」


「――『いい刀だな。大事にしろ』って」


 彼女は言った。


「それだけです。……でも、なんか、嬉しかったので」




 リヴィアは、しばらく黙っていた。


 それから、言った。


「……酒飲みだった」


「はい」


「三十年、同じ酒場に通って、一度も金を払わなかった」


「……そうなんですか」


「みんなが、払いたがったから」


 彼女は言った。


「――で、料理が上手かった」


「え、意外です」


「私も、意外だった」


 彼女は、少し笑った。


「握り飯が、美味しかった」


「握り飯」


「梅と、魚の身が入ってて」


 彼女は言った。


「――塩加減が、絶妙で」




 彼女の声が、震えた。


「五回、もらったの」


 彼女は言った。


「五回だけ」


「…………」


「六回目に、ありがとうって書いたら」


 彼女の目から、涙が落ちた。


「――四つになった」




 ミーナレイは、口を挟まなかった。


 ただ、隣に立っていた。


「……あの人」


 リヴィアは言った。


「千年、生きてたのに」


 彼女の声が、割れた。


「――毎日会う人が、一人もいなかったって」


 彼女は言った。


「――そう言ってた」




 彼女は、海を見た。


「一ヶ月」


 彼女は言った。


「たった、一ヶ月だった」


 彼女は、手すりを握った。


「――でも」


 彼女は言った。


「――あの一ヶ月、あの人は、毎日、私に会いに来た」




 夜の海に、波の音がしていた。


 ――風は、吹かなかった。


 リヴィアは、しばらく、そこに立っていた。


 ――そして。


 彼女は、右手を見た。


 手袋の中で、指先が、微かに痺れていた。


(……お父さん)


(――私、たぶん)


(――何かに、なりかけてる)


 彼女は、その手を、握った。


(――でも)


 彼女は、顔を上げた。


(――今は、進む)




 船団は、北へ進んでいた。


 ――十二隻の船と、六千人を乗せて。


 四千人の避難民と、二千人の帝国兵。


 昨日まで殺し合っていた者たちが、同じ甲板で、同じ毛布を分けていた。


 行き先は、地図に載っていない場所。


 名前は、終灯。


 ――世界の縁の、最後の灯り。


 その方角に、北極星が出ていた。


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