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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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48/53

光、堕ちる

【空】


 その日は、よく晴れていた。


 ――セリウスの船団が出航して、四日後。


 アスレオン本島の朝は、いつも通り始まった。


 港で、荷役が動いていた。荷を担ぐたびに、同じ掛け声が三度ずつ上がる。


 市場では、避難民の女たちが野菜を並べていた。ネフィラから持ってきた種を、島の土に蒔いて、三ヶ月かけて育てた最初の収穫だった。売り物にするには小さすぎたが、誰も文句を言わなかった。


 丘の学舎で、子供たちの声がしていた。島の子とネフィラの子が、同じ部屋で数を読み上げていた。数え方が違うので、途中で必ずずれた。


 ――そして、迎賓館では。


 リヴィアが、皇帝の護衛についていた。


「――余は、これでよいのか」


 皇帝が、書きかけの文書を見せた。


 紙の上には、書いては消した跡が何箇所もあった。羽根ペンの先が割れかけていて、字の太さが一定していない。


「拝見します」


 リヴィアは、それを覗き込んだ。


『帝国臣民へ告ぐ』


 ――世界へ向けた、正統性の宣言文だった。


「……硬いですね」


「硬いか」


「硬いです」


 彼女は言った。


「陛下、いつも通りに書いてください」


「いつも通り?」


「あの、名前のノートみたいに」


 彼女は言った。


「――あれ、読みやすかったです」


「……あれは、日記だぞ」


「はい」


「……ふむ」


 彼は、ペンを取り直した。割れかけた先を、指で少し整えてから。


「――やってみよう」


 その時。


 ――リヴィアの肌が、粟立った。


「……っ」


 彼女は、顔を上げた。


 窓の外を、見た。


 ――空が、白かった。


【降りる】


 最初に気づいたのは、音だった。


 ――音が、消えた。


 港の喧騒が。市場のざわめきが。子供の声が。


 全部、同時に、止まった。


 止まったのではない。誰も、止めようとして止めたのではなかった。二百メートル四方の人間が、同時に、口を開けたまま声を出さなくなった。


 ――そして、空気の底の音も。


 魔素の唸りが、消えた。


 いや。


 ――かき消された。


 もっと大きな、人の耳では拾えない音の下に、埋もれた。


(――この、感じ)


 リヴィアの膝が、笑った。


(――知ってる)


(二年前、廊下で)


「――陛下! 下がってください!」


 彼女は、叫んだ。


「なんだ、一体――」


「早く!!」


 ――窓の外。


 空が、白く発光していた。


 雲が、消えていた。


 太陽の光ではなかった。太陽は、まだ東の低い位置にある。なのに、影が、消えていた。


 この島の全部が、上から一様に照らされて、影という影が消えていた。


 ――そして。


 その光の中心から、影が一つ、降りてきた。


 落ちてくるのではない。降りてくるのだ。


 速さが、一定だった。




 ――迎賓館の前庭に、それは降り立った。


 着地の音が、しなかった。


 砂利が、跳ねなかった。埃も、立たなかった。


 カーキの元帥服。金モールと飾緒。


 金髪を、きっちりと七三に分けている。


 ――そして、氷のような、青い瞳。


 ヴァルグレイス・ルシオン。




 彼は、周囲を見回した。


 庭の椰子。石畳。花壇。その向こうの、海。


 ――そして、微笑んだ。


「――ああ」


 彼は言った。


「良い島だな」


【君たちだったか】


 迎賓館から、人が飛び出してきた。


 ――警備の兵たちだった。


 アスレオン連合国軍。二十人ほど。


「――止まれ!!」


 彼らは、銃を構えた。


 ――ヴァルグレイスは、それを見た。


 それから、少し困ったような顔をした。


「……いや」


 彼は言った。


「君たちに用はない」


 彼は、手を上げた。


「――下がりなさい」


 その、一言だった。


 ――二十人が、動けなくなった。


 誰も、撃たなかった。


 誰も、逃げなかった。


 ――ただ、立ち尽くしていた。


 銃口が、揃って下を向いていった。誰も、下ろそうと思って下ろしたのではなかった。腕が、持ち上がっていられなくなったのだ。


「……ぁ」


 一人が、声を漏らした。


 膝が、崩れた。


 ――そして、次々と。


 二十人が、その場に座り込んだ。


 誰も、傷ついていなかった。


 ――ただ、立てなくなっただけだった。


「――そこまでにしてもらおうか」


 声が、した。


 迎賓館の玄関から、二つの影が出てきた。


 黒い軍服。


 ――リヴィアと、グレイ。


 ヴァルグレイスは、二人を見た。


 ――そこで。


「――ああ」


 彼は、微笑んだ。


「君たちだったか」


「…………」


「アークライト中佐。……いや、元中佐か」


 彼は言った。


「そして、ノクス大尉」


 彼は、リヴィアを見た。


「――久しいな」


 その口調は、二年前と同じだった。


 穏やかで、丁寧で、親しげだった。


 ――だからこそ、恐ろしかった。


「……閣下」


 グレイが、口を開いた。


「なんだね」


「――なぜ、ご自身で?」


 彼は聞いた。


「軍を動かせば済むことでしょう」


「そうだな」


 ヴァルグレイスは頷いた。


「――だが、動かせば、時間がかかる」


 彼は言った。


「船を集め、兵を運び、上陸させ、制圧する。……一ヶ月はかかるだろう」


 彼は、微笑んだ。


「――私が来れば、一時間だ」


「…………」


「そして」


 彼は、続けた。


「――兵を、死なせずに済む」


 リヴィアの背筋が、こわばった。


「……なんですって」


「私が来れば、私だけで済む」


 彼は、あっさり言った。


「兵は、一人も死なない。……こちらも、そちらもだ」


 彼は言った。


「――合理的だろう」


 リヴィアは、応じられなかった。


 ――この男は、嘘を言っていない。


 二年前の演説と、同じだった。


 全部、本当のことを言っている。


(……それが、一番怖い)


「――さて」


 ヴァルグレイスは、迎賓館を見上げた。


 三階建ての、白い建物。窓が二十四。そのうち三つが、開いていた。


「陛下は、この中かね」


「…………」


「答えなくてもいい」


 彼は、微笑んだ。


「――どこにおられるかは、分かる」


 彼は言った。


「あの方の魔力は、微弱だが、独特だ。……三十年、傍で見てきたのでね」


「――将来に、期待していたのだがね」


 彼は、リヴィアを見た。


「……え?」


「君だよ、ノクス大尉」


 彼は言った。


「二年前、廊下で会った時。……面白いものを持っていた」


 彼の目が、細くなった。


「――底が、見えなかった」


 リヴィアの喉が、鳴った。


「あの時、私は思ったのだ。……この娘は、いずれ、面白いことになる、と」


 彼は言った。


「――だから、放っておいた」


 彼は、少し目を伏せた。


「残念だ」


「――そして、アークライト」


 彼は、グレイを見た。


「君も、惜しい」


「…………」


「三年前、君を参謀本部に引き上げようとしたのは、私だ」


 グレイの動きが、止まった。


「……なぜ」


「良い頭を持っていたからだ」


 彼は言った。


「――そして、良い目を」


 彼は、微笑んだ。


「君は、この国の腐り方を、正確に見ていた」


 彼は言った。


「――私が育てたかった種類の人間だ」


「……お断りします」


「そうだろうな」


 彼は頷いた。


「――だから、こうなった」


 彼は、手を上げた。


「――残念だ」


【一撃】


 ――彼は、何もしなかった。


 詠唱も、構えも、なかった。足の位置さえ、変えなかった。


 ただ、右手を、軽く上げただけだった。


 ――そして。


 彼の周囲に、光が、集まり始めた。


 音は、しなかった。


 風も、吹かなかった。


 ――だが、庭の椰子が、彼の方へ、少しだけ傾いだ。


 葉ではない。幹が、傾いだ。


 地面の砂が、彼の足元へ向かって、細い線になって流れていった。


 ――光が、その一点へ集まっていく。


 小さな球になった。


 拳ほどの、白い球。


 その表面は、動いていなかった。炎のように揺らぐでもなく、水のように波打つでもなく、ただ、そこにあった。


「――伏せろ!!」


 グレイが、叫んだ。


 彼は、リヴィアを突き飛ばした。


 ――そして、両手を上げた。


 炎が、噴き上がった。


 彼の全力だった。五年間、机の上で研ぎ続けて、二年前の雨の日に一度だけ使った、あの精度で。


 庭の端から端まで、高さ十メートルの炎の壁が、一瞬で立ち上がった。


 ――リヴィアも、動いた。


 絶空。


 闇を溜める時間は、二つ数えるぶんもなかった。それでも、彼女は振り下ろした。


 黒い斬撃が、炎の壁を貫いて、光の球へ向かって走った。


 ――ヴァルグレイスは、それを見た。


 それから、少しだけ目を細めた。


「――ほう」


 彼は言った。


「良い技だ」


 彼は、そう言って。


 ――掌を、開いた。


 ――世界が、白くなった。


【更地】


 音は、しなかった。


 衝撃も、なかった。


 熱も、風も、爆発も。


 ――何も、なかった。


 ただ、白い光が、一瞬、視界を埋めて。


 ――消えた。


 リヴィアは、地面に倒れていた。


「……っ」


 彼女は、起き上がった。


 ――そして。


 彼女は、動けなくなった。


 迎賓館が、なかった。


 その周囲の建物も、なかった。


 庭も、木も、石畳も。


 ――何も、なかった。


 半径三百メートル。


 平らな、更地だった。


 彼女が動けなくなったのは、その境目を見たからだった。


 更地は、円かった。


 その縁で、地面が、まっすぐに切れていた。


 円の内側は、土が剥き出しの平面。


 円の外側は、石畳が、椰子が、家々が、そのまま残っている。


 境目に、瓦礫がなかった。


 崩れた跡も、焦げた跡も、なかった。


 ――円の縁の石畳は、半分だけになっていた。


 残った半分の断面が、磨いたように滑らかだった。


 その断面から、砂が一粒も落ちていなかった。


「……嘘」


 彼女の喉から、声が漏れた。


「……嘘でしょう」


 彼女は、周囲を見回した。


 ――そして、気づいた。


 グレイの炎が、消えていた。


 高さ十メートル、幅五十メートルの炎の壁が、跡形もなかった。焦げた地面も、上がった煙も、なかった。


 彼女の絶空も、消えていた。


 ――何も、届いていなかった。


(……防げなかった)


(――いや)


(――存在しなかったことにされた)


 彼女は、立ち上がろうとして――膝をついた。


 全身が、震えていた。


 ――そして、彼女は、周囲を見た。


 人が、いた。


 更地の上に、何十人もの人が、倒れていた。


 建物が消えた場所に、そこにいた人間だけが、床のあった高さから地面まで落ちて、そのまま横たわっていた。


 ――だが。


「……生きてる?」


 彼女は這って、一番近い人に触れた。


 ――息が、あった。


 傷も、なかった。


 彼女は、周囲を見回した。


 ――全員に、薄い光の膜が、張られていた。


 人の形に沿って、指の一本一本まで、隙間なく。


(……なに、これ)


 彼女は、その膜に触れた。


 ――温かかった。


 彼女の闇が、それを喰おうとした。


 ――喰えなかった。


 喰おうとした瞬間、闇が、縮こまった。腹の底へ、一目散に逃げた。


(……この光)


(――守ってる?)


「――そうだ」


 声が、した。


 彼女は、顔を上げた。


 ――ヴァルグレイスが、立っていた。


 更地の中央に。


 その服には、埃一つ、ついていなかった。三百メートルの建物を消して、彼の靴の縁にすら、土がついていなかった。


「一人も、殺していない」


 彼は言った。


「建物は、消した。……人は、残した」


 彼は、微笑んだ。


「――そういうふうに、撃った」


 リヴィアは、その言葉を聞いて。


 ――背筋が、凍った。


(……そんなことが)


(――できるの?)


 三百メートルを更地にして。


 その中の人間だけを、選別して。


 傷一つ、つけずに。


 建物を構成していた石も、木も、硝子も、全部消して、その中にいた人間だけを残す。


 ――一人ずつ、形を測って。


(――そんな、精度)


「――さて」


 彼は、周囲を見回した。


「陛下は、どこかね」


 彼は言った。


「――ああ、あそこか」


 彼は、更地の端を見た。


 円の縁の、外側。半分だけ残った石畳の陰に、影が動いた。


 ――リズと、ミーナレイと、アシュ。


 三人が、皇帝を抱えて、身を伏せていた。


「――逃げて!!」


 リヴィアが、叫んだ。


 ヴァルグレイスは、そちらへ、一歩、踏み出した。


【十二日前】


 ――話は、十二日前に遡る。


 ネフィラ、王都エレフィス。


 城壁の南側の窪みで、トビアス・レンは、また動けなくなっていた。


 伝令として前線を往復していて、砲撃の合間に伏せたら、そこから出られなくなったのだ。


 城壁まで、四十メートル。


 ――彼は、そこで、それを見た。


 その日、空が白くなった。


 彼は、そこで音が消えるのを、初めて経験した。


 二十日以上、砲声と悲鳴と砂の音が途切れたことは一度もなかった。その全部が、一度に、消えた。


 ――空から、影が降りてきた。


 カーキの元帥服の男が、城壁の上に、音もなく降り立った。


 女王の、十歩前に。


 ネフェリスは、城壁の上に立っていた。


 二十日、そこにいた。


 黄金の頭飾りは、砂で曇っていた。白い薄絹は、裾が破れて、膝から下が剥き出しになっている。


 左肩に、雷に灼かれた黒い跡があった。


 髪は、乱れたままだった。


 ――背筋だけが、まっすぐだった。


「――ネフェリス」


 男が言った。


 その声が、トビアスの位置まで届いた。


 風が、止まっていた。だから、聞こえた。


「あら」


 女王は、振り返った。


 ――そして、笑った。


「遅かったわね」


「……そうだな」


「五百年、待ったのよ」


 彼女は言った。


「あなたが来るのを」


 男は、しばらく黙っていた。


「……砂の国を、造ったそうだな」


「ええ」


「見せてもらった」


 彼は言った。


「――良い国だ」


「そうでしょう」


 彼女は、あっさり頷いた。


「三百年かけたもの」


 男は、一歩、前に出た。


「――一緒に、来い」


 トビアスは、その言葉を聞いた。


「私は、天へ還る。……お前が要る」


 彼は言った。


「五人のうち、お前だけが、私の考えを理解していた」


「…………」


「五百年前も、そうだ」


 彼は言った。


「お前だけは、最後まで、私を否定しなかった」


 ――女王は、笑った。


 声を上げて、笑った。


 その笑い声が、砂漠に響いた。二十万の軍勢の前で、彼女は笑っていた。


「……何が可笑しい」


「あなた」


 彼女は言った。


「――五百年、そう思ってたの?」


 彼女は、目尻を拭った。


「わたくしが、あなたを否定しなかったのは」


 彼女は言った。


「――否定しても、聞かないと知っていたからよ」


 男の表情が、初めて、動いた。


「……そうか」


「そうよ」


 彼女は言った。


「だから、抱いたの」


 彼女は、あっさりと言った。


「言葉が通じない人には、体で仕掛けるしかないでしょう」


「…………」


「――ごめんなさいね」


 彼女は言った。


 その声には、詫びの色が、少しもなかった。


「――来い」


 男は、手を差し出した。


「いやよ」


「なぜだ」


「――砂が、待ってるもの」


 彼女は、城壁の下を見た。


 黄金の都。水路。段になった街並み。


 人は、もういない。三ヶ月かけて、全部逃がした。


「あの子たちは、わたくしを神と呼ぶの」


 彼女は言った。


「神が、逃げるわけにはいかないでしょう」


 彼女は、微笑んだ。


「――五百年前、あなたに言われたわ。『お前は、人にこだわりすぎる』と」


 彼女は言った。


「――ええ。そのとおりよ」


 男は、手を下ろした。


 しばらく、動かなかった。


「……そうか」


 彼は言った。


「――残念だ」


 そこから先を、トビアスは、正確には見ていない。


 見たのは、こういうことだった。


 ――男が、右手を、少し上げた。


 ――光が、集まった。


 城壁の白い石から、色が抜けていった。都の水路の水面からは、朝日の反射が一斉に消えた。


 ――女王は、逃げなかった。


 彼女は、両手を広げた。


 その足元から、砂岩の巨人が三体、最後に立ち上がった。


 三体とも、崩れかけていた。腕が片方なかったり、頭がなかったりした。それでも、彼女の前に立って、腕のある方を前へ出した。


 ――そして。


 光が、開いた。


 音は、しなかった。


 トビアスは、目を閉じなかった。閉じられなかった。


 ――白が、視界を埋めた。


 三秒。


 ――そして、消えた。


 城壁の上には、男だけが立っていた。


 三体の巨人は、なかった。


 女王も、なかった。


 ――黄金の頭飾りだけが、城壁の石の上に落ちていた。


 それだけが、残っていた。


 男は、しばらく動かなかった。やがて、彼は城壁の石の上に片膝をついた。


 それを、拾った。


 両手で。


 ――砂を、払った。


 二十日ぶんの砂が、彼の指の間から落ちていった。


 彼は、それを、しばらく見ていた。


 ――トビアスは、四十メートル先から、その顔を見た。


 距離があった。細かい表情までは、見えなかった。それでも、分かった。


 その男は、泣いてはいなかった。


 笑ってもいなかった。


 ――何の、顔もしていなかった。


 顔を作ることを、忘れた人間の顔だった。


 男は、頭飾りを、懐に入れた。


 それから、立ち上がった。


 空へ、上がっていく。


 ――去り際、彼は、一度だけ、都を見下ろした。


 誰もいない、黄金の都を。


 ――そして、消えた。




 トビアスは、その日から、数えるのをやめた。


 数えても、意味がないと分かったからだ。


 ――彼は、その光景を、誰にも話さなかった。


 話しても、信じてもらえないと思ったからだ。それに、話してしまえば、自分が確かに見たことになってしまう。


 ――見たことを、認めたくなかった。


【風】


 ――その時。


 風が、吹いた。


 最初は、微かだった。


 ――更地の砂が、少しだけ、動いた。


 右から左へ、砂粒が数粒、転がった。


 次に、それが二列になった。


 ――そして、突風になった。


 更地の砂が、一斉に持ち上がった。三百メートルぶんの砂が、同時に、同じ高さまで。


 ――そして、突風は、壁になった。


 ヴァルグレイスと、皇帝たちの間に。


 目に見えない空気の壁が、立ち上がった。


 その手前で、舞い上がった砂が、上へ行けずに横へ滑っていった。壁の形が、それで見えた。


 ――幅、五十メートル。厚さ、たぶん一メートルもない。


「……ほう」


 ヴァルグレイスの足が、止まった。


 彼は、顔を上げた。


 ――そして、微笑んだ。


「――久しいな」


 港の方から、足音がした。


 ――一人分。


 のんびりとした、酔っ払いのような足取り。


 豪奢な外套を、めちゃくちゃに着崩した男が、歩いてくる。


 黒い髪。無精髭。三角帽子。


 ――そして、手に、酒瓶を提げて。


 彼が歩くたび、その周囲一メートルの砂が、動かなかった。


「――よお」


 オルド・ノクスは言った。


「五百年ぶりだな、ルシオン」


 ヴァルグレイスの表情が、初めて、動いた。


 ――微笑みが、深くなった。


「……オルド」


 彼は言った。


「変わらんな」


「お前もな」


 オルドは言った。


「――相変わらず、いい服着てやがる」


「君は、相変わらず、着方を知らんようだ」


「うるせえ」


 ――二人は、しばらく、向かい合っていた。


 更地の上で。


 二十メートルの距離を置いて。


 その二十メートルの間で、砂が、どちらへも動かなかった。


「――なあ、ルシオン」


 オルドが言った。


「なんだね」


「――やめとけよ」


 彼は言った。


「なにをだね」


「全部だ」


 彼は、酒瓶を地面に置いた。


 置いた瓶が、倒れなかった。地面は、平らだった。


「――お前、もう、疲れてるだろ」


 ヴァルグレイスの動きが、止まった。


「…………」


「五百年、封の中にいた」


 オルドは言った。


「その前も、二百年、一人で考え込んでた」


 彼は言った。


「――七百年だ」


 彼は、続けた。


「七百年、同じこと考えてるんだろ」


 彼は言った。


「――そろそろ、飽きねえか」


 ――ヴァルグレイスは、すぐには応じなかった。


 彼は、しばらく黙っていた。


 やがて、彼は言った。


「――飽きた」


 その声は、低かった。


「え?」


「飽きたとも」


 彼は言った。


「五百年、封の中で、私は考え続けた」


 彼は言った。


「なぜ、こうなったのか。どこで間違えたのか」


 彼は、少し目を伏せた。


「――そして、答えが出た」


「……なんだ」


「――間違えていなかった」


 彼は言った。


「私は、正しかった。……ただ、遅かっただけだ」


 彼は、顔を上げた。


「もっと早く、もっと徹底的にやっていれば」


 彼の目が、細くなった。


「――誰も、死なずに済んだ」


「……お前」


 オルドの顔から、笑みが消えた。


「――本気で言ってるのか」


「本気だとも」


「――四万人、死んだぞ」


「そうだな」


 彼は頷いた。


「だが、これが最後だ」


 彼は言った。


「一度、全部を一つにすれば、二度と戦争は起きない」


 彼は、微笑んだ。


「――計算してみたまえ。今後千年の戦死者と、今回の死者を」


「――ルシオン」


 オルドが言った。


「なんだね」


「――お前、ネフェリスに会ったか」


 ヴァルグレイスの動きが、止まった。


 ――初めて、完全に、止まった。


 彼の周囲の光が、その一瞬だけ、揺れた。


「…………」


「会ったんだろ」


 オルドは言った。


「なんて言った」


「…………」


「――なんて、言われた」


 長い沈黙が、落ちた。


 更地の上を、風が一度、通り抜けた。今度は、ただの海風だった。


 ――やがて。


 ヴァルグレイスが言った。


「――『遅かったわね』と」


 彼の声は、平坦だった。


「…………」


「『五百年、待ったのよ』と」


 彼は言った。


「――そして、笑った」


 彼は、目を伏せた。


「あの女は、最後まで、笑っていた」


 オルドは、しばらく黙っていた。


 それから、言った。


「……それで」


「うむ?」


「――お前は、どんな顔をした」


 ヴァルグレイスの口は、動かなかった。


 ――一度も、動かなかった。


 その沈黙が、答えだった。


「……そうか」


 オルドは言った。


 それから、外套を脱いだ。


 豪奢な、金の刺繍の入った外套を。


 ――地面に、落とした。


 落ちた外套の上に、砂が、少しずつ積もり始めた。


 その下は、粗末なシャツだった。袖口が、擦り切れていた。


「――リヴィア」


 彼は、背を向けたまま言った。


「……はい」


「――船だ」


 彼は言った。


「港に、十二隻ある。……全部、動く」


「え?」


「三日前から、準備させといた」


 彼は言った。


「――なんとなく、来る気がしてな」


「……オルドさん」


「乗れ」


「――待って!」


「乗れと言っとる」


 彼の声が、初めて、鋭くなった。


「……あなたは」


「――ここに残る」


 彼は言った。


「勝てるんですか」


「――勝てん」


 彼は、あっさり言った。


「五百年前、五人がかりでやっと封じた」


 彼は言った。


「――今は、一人だ」


「じゃあ、なんで!!」


 リヴィアが、叫んだ。


「――逃げましょう! 一緒に!」


「無理だ」


「なんで!」


「――こいつは、追ってくる」


 彼は言った。


「船が全部沈むまで、追ってくる」


 彼は、拳を握った。


「――誰かが、足を止める必要がある」


「じゃあ、私が――」


「お前じゃ無理だ」


 彼は、即答した。


「――一秒も保たん」


 彼は言った。


「俺なら、少しは保つ」


 彼は、少し笑った。


「……たぶんな」


【死なないで】


 リヴィアは、動けなかった。


 ――そして、彼女は、理解した。


 この人は、死ぬ気だ。


 最初から。


(……嫌だ)


(――やっと)


(やっと、会えたのに)


「――嫌です」


 彼女は言った。


「行きません」


「リヴィア」


「――行きません!!」


 彼女は、叫んだ。


「二十八年、待ったんです!!」


 彼女の目から、涙が溢れた。


「一ヶ月ですよ!? まだ、一ヶ月しか!!」


「…………」


「握り飯だって、まだ五回しかもらってない!!」


 オルドの肩が、震えた。


 ――笑ったのだ。


「……そうか」


 彼は言った。


「――五回か」


「はい!」


「――少ないな」


「少ないです!!」


 彼は、しばらく黙っていた。


 それから、言った。


「……すまん」


 彼は言った。


「――俺は、これしかできん」


 彼は言った。


「千年生きて、覚えたのは、これだけだ」


 彼は、拳を握った。


「――誰かの前に、立つことだけだ」


「――行け」


 彼は言った。


「――リヴィア」


「…………」


「――生きろ」


 その時。


 彼の周囲で、風が、渦を巻き始めた。


 ――更地の砂が、螺旋を描いて舞い上がる。


 螺旋は、二重だった。内側が右へ、外側が左へ回っていた。


 空気が、歪んだ。


 彼の向こう側の景色が、水の底を見るように、揺れて、ずれた。


 ――空間が、捻れ始めた。


「――さて」


 ヴァルグレイスが、微笑んだ。


「久しぶりに、本気を出してもらえるかね」


「――おうよ」


 オルドは言った。


「五百年ぶりに、酔いが覚めた」


 リヴィアは、リズに腕を掴まれた。


「――隊長! 行くよ!」


「――嫌!!」


「行くの!!」


 リズが、叫んだ。


 その顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。


「――あの人が、それを望んでるの!!」


 リヴィアは、引きずられた。


 ――港へ。


 十三年前と、同じだった。


 燃えるエルデナで、グレイに引きずられた、あの日と。


 あの時は、腕を掴まれていた。今は、両腕を後ろから抱えられていた。


 ――彼女は、振り返った。


 更地の中央に、背中があった。


 粗末なシャツの、小さな背中が。


「――お父さん!!」


 彼女は、叫んだ。


 その声が、更地に響いた。


 三百メートルの平面には、遮るものが何もなかった。声は、まっすぐに届いた。


「――死なないで!!」


 彼女は、叫んだ。


「お父さん!! 死なないで!!」


 ――オルドは、振り返らなかった。


 彼は、片手を上げた。


 軽く、振った。


「――船だ! 乗れ!!」


 彼は言った。


 それが、彼の答えだった。


 ――そして、彼は、小さく呟いた。


 誰にも聞こえない声で。


「……いい声だな」


 彼は言った。


 ――そして、笑った。


「――ルシェリア」


 彼は、空を見上げた。


「――聞いたか」


【見えない】


 ――戦いが、始まった。


 リヴィアたちは、それを、船の上から見た。


 ――いや。


 見えなかった。


 速すぎて、見えなかった。


 分かるのは、結果だけだった。


 ――島の一部が、消えた。


 更地だった場所が、なくなった。地面ごと、そこにあったものが消失して、海面と同じ高さの穴が開いた。


 ――海が、割れた。


 港の水が、両側へ押しやられて、海底が見えた。


 係留されていた漁船が、五隻、そのまま海底に落ちた。落ちた瞬間に、水が両側から戻って、五隻とも見えなくなった。


 ――そして、空が、捻れた。


 雲が、渦を巻いて、あり得ない形に曲がった。


 その渦の中心が、島の上ではなく、島の斜め上にあった。空が、そこだけ別の場所に繋がっているように見えた。


「……なにあれ」


 ミーナレイが、呆然と呟いた。


「あれが、理の戦いですか」


「…………」


 誰も、応じられなかった。


 ――白い光が、幾度も瞬いた。


 そのたびに、島の形が、変わった。


 北の岬が、なくなった。


 丘の学舎があった場所が、平らになった。


 ――そして、次の光で、その平らな場所が、消えた。


 ――そして。


 船が、沖へ出た頃。


 白い光が、一度だけ、大きく膨れた。


 それまでの光と、質が違った。


 ――島全体が、白く染まった。


 輪郭が、消えた。


 そして。


 ――消えた。


 リヴィアは、船縁を掴んで、それを見ていた。


 白が引いた後、そこには、何もなかった。


 島が、なかった。


 水平線が、繋がっていた。


「…………」


「隊長……」


「……見えない」


 彼女は言った。


「――何も、見えない」


 ――その時。


 風が、吹いた。


 船の帆が、大きく膨らんだ。


 ――追い風だった。


 東から、南東から、真っ直ぐに。


 十二隻の船が、一斉に、速度を上げた。


 どの船も、同じだけ速度が上がった。船足の違う十二隻が、隊列を崩さなかった。


「――風が!」


「船が、走る!」


 船乗りたちが、叫んだ。


「――こんな風、あり得ない!」


 リヴィアは、その風を、頬に受けた。


 ――温かかった。


 海風のはずなのに。


 温かかった。


 ――十年、夢の最後にいつも吹いていた風と、同じ温度だった。


 焦げた鉄の匂いと、溶けた石の匂いと、血の匂いの後で。


 荒れた戦場には似合わない、優しくて、温かい風。


 それが吹くと、目が覚めた。


(……あの風)


(――あなただったの)


「…………」


 彼女は、口を押さえた。


 ――そして、崩れ落ちた。


「……お父さん」


 彼女は言った。


「……お父さん」


 風は、島影が見えなくなるまで、吹き続けた。


 ――そして、ぱたりと、止んだ。


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