光、堕ちる
【空】
その日は、よく晴れていた。
――セリウスの船団が出航して、四日後。
アスレオン本島の朝は、いつも通り始まった。
港で、荷役が動いていた。荷を担ぐたびに、同じ掛け声が三度ずつ上がる。
市場では、避難民の女たちが野菜を並べていた。ネフィラから持ってきた種を、島の土に蒔いて、三ヶ月かけて育てた最初の収穫だった。売り物にするには小さすぎたが、誰も文句を言わなかった。
丘の学舎で、子供たちの声がしていた。島の子とネフィラの子が、同じ部屋で数を読み上げていた。数え方が違うので、途中で必ずずれた。
――そして、迎賓館では。
リヴィアが、皇帝の護衛についていた。
「――余は、これでよいのか」
皇帝が、書きかけの文書を見せた。
紙の上には、書いては消した跡が何箇所もあった。羽根ペンの先が割れかけていて、字の太さが一定していない。
「拝見します」
リヴィアは、それを覗き込んだ。
『帝国臣民へ告ぐ』
――世界へ向けた、正統性の宣言文だった。
「……硬いですね」
「硬いか」
「硬いです」
彼女は言った。
「陛下、いつも通りに書いてください」
「いつも通り?」
「あの、名前のノートみたいに」
彼女は言った。
「――あれ、読みやすかったです」
「……あれは、日記だぞ」
「はい」
「……ふむ」
彼は、ペンを取り直した。割れかけた先を、指で少し整えてから。
「――やってみよう」
その時。
――リヴィアの肌が、粟立った。
「……っ」
彼女は、顔を上げた。
窓の外を、見た。
――空が、白かった。
【降りる】
最初に気づいたのは、音だった。
――音が、消えた。
港の喧騒が。市場のざわめきが。子供の声が。
全部、同時に、止まった。
止まったのではない。誰も、止めようとして止めたのではなかった。二百メートル四方の人間が、同時に、口を開けたまま声を出さなくなった。
――そして、空気の底の音も。
魔素の唸りが、消えた。
いや。
――かき消された。
もっと大きな、人の耳では拾えない音の下に、埋もれた。
(――この、感じ)
リヴィアの膝が、笑った。
(――知ってる)
(二年前、廊下で)
「――陛下! 下がってください!」
彼女は、叫んだ。
「なんだ、一体――」
「早く!!」
――窓の外。
空が、白く発光していた。
雲が、消えていた。
太陽の光ではなかった。太陽は、まだ東の低い位置にある。なのに、影が、消えていた。
この島の全部が、上から一様に照らされて、影という影が消えていた。
――そして。
その光の中心から、影が一つ、降りてきた。
落ちてくるのではない。降りてくるのだ。
速さが、一定だった。
――迎賓館の前庭に、それは降り立った。
着地の音が、しなかった。
砂利が、跳ねなかった。埃も、立たなかった。
カーキの元帥服。金モールと飾緒。
金髪を、きっちりと七三に分けている。
――そして、氷のような、青い瞳。
ヴァルグレイス・ルシオン。
彼は、周囲を見回した。
庭の椰子。石畳。花壇。その向こうの、海。
――そして、微笑んだ。
「――ああ」
彼は言った。
「良い島だな」
【君たちだったか】
迎賓館から、人が飛び出してきた。
――警備の兵たちだった。
アスレオン連合国軍。二十人ほど。
「――止まれ!!」
彼らは、銃を構えた。
――ヴァルグレイスは、それを見た。
それから、少し困ったような顔をした。
「……いや」
彼は言った。
「君たちに用はない」
彼は、手を上げた。
「――下がりなさい」
その、一言だった。
――二十人が、動けなくなった。
誰も、撃たなかった。
誰も、逃げなかった。
――ただ、立ち尽くしていた。
銃口が、揃って下を向いていった。誰も、下ろそうと思って下ろしたのではなかった。腕が、持ち上がっていられなくなったのだ。
「……ぁ」
一人が、声を漏らした。
膝が、崩れた。
――そして、次々と。
二十人が、その場に座り込んだ。
誰も、傷ついていなかった。
――ただ、立てなくなっただけだった。
「――そこまでにしてもらおうか」
声が、した。
迎賓館の玄関から、二つの影が出てきた。
黒い軍服。
――リヴィアと、グレイ。
ヴァルグレイスは、二人を見た。
――そこで。
「――ああ」
彼は、微笑んだ。
「君たちだったか」
「…………」
「アークライト中佐。……いや、元中佐か」
彼は言った。
「そして、ノクス大尉」
彼は、リヴィアを見た。
「――久しいな」
その口調は、二年前と同じだった。
穏やかで、丁寧で、親しげだった。
――だからこそ、恐ろしかった。
「……閣下」
グレイが、口を開いた。
「なんだね」
「――なぜ、ご自身で?」
彼は聞いた。
「軍を動かせば済むことでしょう」
「そうだな」
ヴァルグレイスは頷いた。
「――だが、動かせば、時間がかかる」
彼は言った。
「船を集め、兵を運び、上陸させ、制圧する。……一ヶ月はかかるだろう」
彼は、微笑んだ。
「――私が来れば、一時間だ」
「…………」
「そして」
彼は、続けた。
「――兵を、死なせずに済む」
リヴィアの背筋が、こわばった。
「……なんですって」
「私が来れば、私だけで済む」
彼は、あっさり言った。
「兵は、一人も死なない。……こちらも、そちらもだ」
彼は言った。
「――合理的だろう」
リヴィアは、応じられなかった。
――この男は、嘘を言っていない。
二年前の演説と、同じだった。
全部、本当のことを言っている。
(……それが、一番怖い)
「――さて」
ヴァルグレイスは、迎賓館を見上げた。
三階建ての、白い建物。窓が二十四。そのうち三つが、開いていた。
「陛下は、この中かね」
「…………」
「答えなくてもいい」
彼は、微笑んだ。
「――どこにおられるかは、分かる」
彼は言った。
「あの方の魔力は、微弱だが、独特だ。……三十年、傍で見てきたのでね」
「――将来に、期待していたのだがね」
彼は、リヴィアを見た。
「……え?」
「君だよ、ノクス大尉」
彼は言った。
「二年前、廊下で会った時。……面白いものを持っていた」
彼の目が、細くなった。
「――底が、見えなかった」
リヴィアの喉が、鳴った。
「あの時、私は思ったのだ。……この娘は、いずれ、面白いことになる、と」
彼は言った。
「――だから、放っておいた」
彼は、少し目を伏せた。
「残念だ」
「――そして、アークライト」
彼は、グレイを見た。
「君も、惜しい」
「…………」
「三年前、君を参謀本部に引き上げようとしたのは、私だ」
グレイの動きが、止まった。
「……なぜ」
「良い頭を持っていたからだ」
彼は言った。
「――そして、良い目を」
彼は、微笑んだ。
「君は、この国の腐り方を、正確に見ていた」
彼は言った。
「――私が育てたかった種類の人間だ」
「……お断りします」
「そうだろうな」
彼は頷いた。
「――だから、こうなった」
彼は、手を上げた。
「――残念だ」
【一撃】
――彼は、何もしなかった。
詠唱も、構えも、なかった。足の位置さえ、変えなかった。
ただ、右手を、軽く上げただけだった。
――そして。
彼の周囲に、光が、集まり始めた。
音は、しなかった。
風も、吹かなかった。
――だが、庭の椰子が、彼の方へ、少しだけ傾いだ。
葉ではない。幹が、傾いだ。
地面の砂が、彼の足元へ向かって、細い線になって流れていった。
――光が、その一点へ集まっていく。
小さな球になった。
拳ほどの、白い球。
その表面は、動いていなかった。炎のように揺らぐでもなく、水のように波打つでもなく、ただ、そこにあった。
「――伏せろ!!」
グレイが、叫んだ。
彼は、リヴィアを突き飛ばした。
――そして、両手を上げた。
炎が、噴き上がった。
彼の全力だった。五年間、机の上で研ぎ続けて、二年前の雨の日に一度だけ使った、あの精度で。
庭の端から端まで、高さ十メートルの炎の壁が、一瞬で立ち上がった。
――リヴィアも、動いた。
絶空。
闇を溜める時間は、二つ数えるぶんもなかった。それでも、彼女は振り下ろした。
黒い斬撃が、炎の壁を貫いて、光の球へ向かって走った。
――ヴァルグレイスは、それを見た。
それから、少しだけ目を細めた。
「――ほう」
彼は言った。
「良い技だ」
彼は、そう言って。
――掌を、開いた。
――世界が、白くなった。
【更地】
音は、しなかった。
衝撃も、なかった。
熱も、風も、爆発も。
――何も、なかった。
ただ、白い光が、一瞬、視界を埋めて。
――消えた。
リヴィアは、地面に倒れていた。
「……っ」
彼女は、起き上がった。
――そして。
彼女は、動けなくなった。
迎賓館が、なかった。
その周囲の建物も、なかった。
庭も、木も、石畳も。
――何も、なかった。
半径三百メートル。
平らな、更地だった。
彼女が動けなくなったのは、その境目を見たからだった。
更地は、円かった。
その縁で、地面が、まっすぐに切れていた。
円の内側は、土が剥き出しの平面。
円の外側は、石畳が、椰子が、家々が、そのまま残っている。
境目に、瓦礫がなかった。
崩れた跡も、焦げた跡も、なかった。
――円の縁の石畳は、半分だけになっていた。
残った半分の断面が、磨いたように滑らかだった。
その断面から、砂が一粒も落ちていなかった。
「……嘘」
彼女の喉から、声が漏れた。
「……嘘でしょう」
彼女は、周囲を見回した。
――そして、気づいた。
グレイの炎が、消えていた。
高さ十メートル、幅五十メートルの炎の壁が、跡形もなかった。焦げた地面も、上がった煙も、なかった。
彼女の絶空も、消えていた。
――何も、届いていなかった。
(……防げなかった)
(――いや)
(――存在しなかったことにされた)
彼女は、立ち上がろうとして――膝をついた。
全身が、震えていた。
――そして、彼女は、周囲を見た。
人が、いた。
更地の上に、何十人もの人が、倒れていた。
建物が消えた場所に、そこにいた人間だけが、床のあった高さから地面まで落ちて、そのまま横たわっていた。
――だが。
「……生きてる?」
彼女は這って、一番近い人に触れた。
――息が、あった。
傷も、なかった。
彼女は、周囲を見回した。
――全員に、薄い光の膜が、張られていた。
人の形に沿って、指の一本一本まで、隙間なく。
(……なに、これ)
彼女は、その膜に触れた。
――温かかった。
彼女の闇が、それを喰おうとした。
――喰えなかった。
喰おうとした瞬間、闇が、縮こまった。腹の底へ、一目散に逃げた。
(……この光)
(――守ってる?)
「――そうだ」
声が、した。
彼女は、顔を上げた。
――ヴァルグレイスが、立っていた。
更地の中央に。
その服には、埃一つ、ついていなかった。三百メートルの建物を消して、彼の靴の縁にすら、土がついていなかった。
「一人も、殺していない」
彼は言った。
「建物は、消した。……人は、残した」
彼は、微笑んだ。
「――そういうふうに、撃った」
リヴィアは、その言葉を聞いて。
――背筋が、凍った。
(……そんなことが)
(――できるの?)
三百メートルを更地にして。
その中の人間だけを、選別して。
傷一つ、つけずに。
建物を構成していた石も、木も、硝子も、全部消して、その中にいた人間だけを残す。
――一人ずつ、形を測って。
(――そんな、精度)
「――さて」
彼は、周囲を見回した。
「陛下は、どこかね」
彼は言った。
「――ああ、あそこか」
彼は、更地の端を見た。
円の縁の、外側。半分だけ残った石畳の陰に、影が動いた。
――リズと、ミーナレイと、アシュ。
三人が、皇帝を抱えて、身を伏せていた。
「――逃げて!!」
リヴィアが、叫んだ。
ヴァルグレイスは、そちらへ、一歩、踏み出した。
【十二日前】
――話は、十二日前に遡る。
ネフィラ、王都エレフィス。
城壁の南側の窪みで、トビアス・レンは、また動けなくなっていた。
伝令として前線を往復していて、砲撃の合間に伏せたら、そこから出られなくなったのだ。
城壁まで、四十メートル。
――彼は、そこで、それを見た。
その日、空が白くなった。
彼は、そこで音が消えるのを、初めて経験した。
二十日以上、砲声と悲鳴と砂の音が途切れたことは一度もなかった。その全部が、一度に、消えた。
――空から、影が降りてきた。
カーキの元帥服の男が、城壁の上に、音もなく降り立った。
女王の、十歩前に。
ネフェリスは、城壁の上に立っていた。
二十日、そこにいた。
黄金の頭飾りは、砂で曇っていた。白い薄絹は、裾が破れて、膝から下が剥き出しになっている。
左肩に、雷に灼かれた黒い跡があった。
髪は、乱れたままだった。
――背筋だけが、まっすぐだった。
「――ネフェリス」
男が言った。
その声が、トビアスの位置まで届いた。
風が、止まっていた。だから、聞こえた。
「あら」
女王は、振り返った。
――そして、笑った。
「遅かったわね」
「……そうだな」
「五百年、待ったのよ」
彼女は言った。
「あなたが来るのを」
男は、しばらく黙っていた。
「……砂の国を、造ったそうだな」
「ええ」
「見せてもらった」
彼は言った。
「――良い国だ」
「そうでしょう」
彼女は、あっさり頷いた。
「三百年かけたもの」
男は、一歩、前に出た。
「――一緒に、来い」
トビアスは、その言葉を聞いた。
「私は、天へ還る。……お前が要る」
彼は言った。
「五人のうち、お前だけが、私の考えを理解していた」
「…………」
「五百年前も、そうだ」
彼は言った。
「お前だけは、最後まで、私を否定しなかった」
――女王は、笑った。
声を上げて、笑った。
その笑い声が、砂漠に響いた。二十万の軍勢の前で、彼女は笑っていた。
「……何が可笑しい」
「あなた」
彼女は言った。
「――五百年、そう思ってたの?」
彼女は、目尻を拭った。
「わたくしが、あなたを否定しなかったのは」
彼女は言った。
「――否定しても、聞かないと知っていたからよ」
男の表情が、初めて、動いた。
「……そうか」
「そうよ」
彼女は言った。
「だから、抱いたの」
彼女は、あっさりと言った。
「言葉が通じない人には、体で仕掛けるしかないでしょう」
「…………」
「――ごめんなさいね」
彼女は言った。
その声には、詫びの色が、少しもなかった。
「――来い」
男は、手を差し出した。
「いやよ」
「なぜだ」
「――砂が、待ってるもの」
彼女は、城壁の下を見た。
黄金の都。水路。段になった街並み。
人は、もういない。三ヶ月かけて、全部逃がした。
「あの子たちは、わたくしを神と呼ぶの」
彼女は言った。
「神が、逃げるわけにはいかないでしょう」
彼女は、微笑んだ。
「――五百年前、あなたに言われたわ。『お前は、人にこだわりすぎる』と」
彼女は言った。
「――ええ。そのとおりよ」
男は、手を下ろした。
しばらく、動かなかった。
「……そうか」
彼は言った。
「――残念だ」
そこから先を、トビアスは、正確には見ていない。
見たのは、こういうことだった。
――男が、右手を、少し上げた。
――光が、集まった。
城壁の白い石から、色が抜けていった。都の水路の水面からは、朝日の反射が一斉に消えた。
――女王は、逃げなかった。
彼女は、両手を広げた。
その足元から、砂岩の巨人が三体、最後に立ち上がった。
三体とも、崩れかけていた。腕が片方なかったり、頭がなかったりした。それでも、彼女の前に立って、腕のある方を前へ出した。
――そして。
光が、開いた。
音は、しなかった。
トビアスは、目を閉じなかった。閉じられなかった。
――白が、視界を埋めた。
三秒。
――そして、消えた。
城壁の上には、男だけが立っていた。
三体の巨人は、なかった。
女王も、なかった。
――黄金の頭飾りだけが、城壁の石の上に落ちていた。
それだけが、残っていた。
男は、しばらく動かなかった。やがて、彼は城壁の石の上に片膝をついた。
それを、拾った。
両手で。
――砂を、払った。
二十日ぶんの砂が、彼の指の間から落ちていった。
彼は、それを、しばらく見ていた。
――トビアスは、四十メートル先から、その顔を見た。
距離があった。細かい表情までは、見えなかった。それでも、分かった。
その男は、泣いてはいなかった。
笑ってもいなかった。
――何の、顔もしていなかった。
顔を作ることを、忘れた人間の顔だった。
男は、頭飾りを、懐に入れた。
それから、立ち上がった。
空へ、上がっていく。
――去り際、彼は、一度だけ、都を見下ろした。
誰もいない、黄金の都を。
――そして、消えた。
トビアスは、その日から、数えるのをやめた。
数えても、意味がないと分かったからだ。
――彼は、その光景を、誰にも話さなかった。
話しても、信じてもらえないと思ったからだ。それに、話してしまえば、自分が確かに見たことになってしまう。
――見たことを、認めたくなかった。
【風】
――その時。
風が、吹いた。
最初は、微かだった。
――更地の砂が、少しだけ、動いた。
右から左へ、砂粒が数粒、転がった。
次に、それが二列になった。
――そして、突風になった。
更地の砂が、一斉に持ち上がった。三百メートルぶんの砂が、同時に、同じ高さまで。
――そして、突風は、壁になった。
ヴァルグレイスと、皇帝たちの間に。
目に見えない空気の壁が、立ち上がった。
その手前で、舞い上がった砂が、上へ行けずに横へ滑っていった。壁の形が、それで見えた。
――幅、五十メートル。厚さ、たぶん一メートルもない。
「……ほう」
ヴァルグレイスの足が、止まった。
彼は、顔を上げた。
――そして、微笑んだ。
「――久しいな」
港の方から、足音がした。
――一人分。
のんびりとした、酔っ払いのような足取り。
豪奢な外套を、めちゃくちゃに着崩した男が、歩いてくる。
黒い髪。無精髭。三角帽子。
――そして、手に、酒瓶を提げて。
彼が歩くたび、その周囲一メートルの砂が、動かなかった。
「――よお」
オルド・ノクスは言った。
「五百年ぶりだな、ルシオン」
ヴァルグレイスの表情が、初めて、動いた。
――微笑みが、深くなった。
「……オルド」
彼は言った。
「変わらんな」
「お前もな」
オルドは言った。
「――相変わらず、いい服着てやがる」
「君は、相変わらず、着方を知らんようだ」
「うるせえ」
――二人は、しばらく、向かい合っていた。
更地の上で。
二十メートルの距離を置いて。
その二十メートルの間で、砂が、どちらへも動かなかった。
「――なあ、ルシオン」
オルドが言った。
「なんだね」
「――やめとけよ」
彼は言った。
「なにをだね」
「全部だ」
彼は、酒瓶を地面に置いた。
置いた瓶が、倒れなかった。地面は、平らだった。
「――お前、もう、疲れてるだろ」
ヴァルグレイスの動きが、止まった。
「…………」
「五百年、封の中にいた」
オルドは言った。
「その前も、二百年、一人で考え込んでた」
彼は言った。
「――七百年だ」
彼は、続けた。
「七百年、同じこと考えてるんだろ」
彼は言った。
「――そろそろ、飽きねえか」
――ヴァルグレイスは、すぐには応じなかった。
彼は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「――飽きた」
その声は、低かった。
「え?」
「飽きたとも」
彼は言った。
「五百年、封の中で、私は考え続けた」
彼は言った。
「なぜ、こうなったのか。どこで間違えたのか」
彼は、少し目を伏せた。
「――そして、答えが出た」
「……なんだ」
「――間違えていなかった」
彼は言った。
「私は、正しかった。……ただ、遅かっただけだ」
彼は、顔を上げた。
「もっと早く、もっと徹底的にやっていれば」
彼の目が、細くなった。
「――誰も、死なずに済んだ」
「……お前」
オルドの顔から、笑みが消えた。
「――本気で言ってるのか」
「本気だとも」
「――四万人、死んだぞ」
「そうだな」
彼は頷いた。
「だが、これが最後だ」
彼は言った。
「一度、全部を一つにすれば、二度と戦争は起きない」
彼は、微笑んだ。
「――計算してみたまえ。今後千年の戦死者と、今回の死者を」
「――ルシオン」
オルドが言った。
「なんだね」
「――お前、ネフェリスに会ったか」
ヴァルグレイスの動きが、止まった。
――初めて、完全に、止まった。
彼の周囲の光が、その一瞬だけ、揺れた。
「…………」
「会ったんだろ」
オルドは言った。
「なんて言った」
「…………」
「――なんて、言われた」
長い沈黙が、落ちた。
更地の上を、風が一度、通り抜けた。今度は、ただの海風だった。
――やがて。
ヴァルグレイスが言った。
「――『遅かったわね』と」
彼の声は、平坦だった。
「…………」
「『五百年、待ったのよ』と」
彼は言った。
「――そして、笑った」
彼は、目を伏せた。
「あの女は、最後まで、笑っていた」
オルドは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「……それで」
「うむ?」
「――お前は、どんな顔をした」
ヴァルグレイスの口は、動かなかった。
――一度も、動かなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……そうか」
オルドは言った。
それから、外套を脱いだ。
豪奢な、金の刺繍の入った外套を。
――地面に、落とした。
落ちた外套の上に、砂が、少しずつ積もり始めた。
その下は、粗末なシャツだった。袖口が、擦り切れていた。
「――リヴィア」
彼は、背を向けたまま言った。
「……はい」
「――船だ」
彼は言った。
「港に、十二隻ある。……全部、動く」
「え?」
「三日前から、準備させといた」
彼は言った。
「――なんとなく、来る気がしてな」
「……オルドさん」
「乗れ」
「――待って!」
「乗れと言っとる」
彼の声が、初めて、鋭くなった。
「……あなたは」
「――ここに残る」
彼は言った。
「勝てるんですか」
「――勝てん」
彼は、あっさり言った。
「五百年前、五人がかりでやっと封じた」
彼は言った。
「――今は、一人だ」
「じゃあ、なんで!!」
リヴィアが、叫んだ。
「――逃げましょう! 一緒に!」
「無理だ」
「なんで!」
「――こいつは、追ってくる」
彼は言った。
「船が全部沈むまで、追ってくる」
彼は、拳を握った。
「――誰かが、足を止める必要がある」
「じゃあ、私が――」
「お前じゃ無理だ」
彼は、即答した。
「――一秒も保たん」
彼は言った。
「俺なら、少しは保つ」
彼は、少し笑った。
「……たぶんな」
【死なないで】
リヴィアは、動けなかった。
――そして、彼女は、理解した。
この人は、死ぬ気だ。
最初から。
(……嫌だ)
(――やっと)
(やっと、会えたのに)
「――嫌です」
彼女は言った。
「行きません」
「リヴィア」
「――行きません!!」
彼女は、叫んだ。
「二十八年、待ったんです!!」
彼女の目から、涙が溢れた。
「一ヶ月ですよ!? まだ、一ヶ月しか!!」
「…………」
「握り飯だって、まだ五回しかもらってない!!」
オルドの肩が、震えた。
――笑ったのだ。
「……そうか」
彼は言った。
「――五回か」
「はい!」
「――少ないな」
「少ないです!!」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「……すまん」
彼は言った。
「――俺は、これしかできん」
彼は言った。
「千年生きて、覚えたのは、これだけだ」
彼は、拳を握った。
「――誰かの前に、立つことだけだ」
「――行け」
彼は言った。
「――リヴィア」
「…………」
「――生きろ」
その時。
彼の周囲で、風が、渦を巻き始めた。
――更地の砂が、螺旋を描いて舞い上がる。
螺旋は、二重だった。内側が右へ、外側が左へ回っていた。
空気が、歪んだ。
彼の向こう側の景色が、水の底を見るように、揺れて、ずれた。
――空間が、捻れ始めた。
「――さて」
ヴァルグレイスが、微笑んだ。
「久しぶりに、本気を出してもらえるかね」
「――おうよ」
オルドは言った。
「五百年ぶりに、酔いが覚めた」
リヴィアは、リズに腕を掴まれた。
「――隊長! 行くよ!」
「――嫌!!」
「行くの!!」
リズが、叫んだ。
その顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。
「――あの人が、それを望んでるの!!」
リヴィアは、引きずられた。
――港へ。
十三年前と、同じだった。
燃えるエルデナで、グレイに引きずられた、あの日と。
あの時は、腕を掴まれていた。今は、両腕を後ろから抱えられていた。
――彼女は、振り返った。
更地の中央に、背中があった。
粗末なシャツの、小さな背中が。
「――お父さん!!」
彼女は、叫んだ。
その声が、更地に響いた。
三百メートルの平面には、遮るものが何もなかった。声は、まっすぐに届いた。
「――死なないで!!」
彼女は、叫んだ。
「お父さん!! 死なないで!!」
――オルドは、振り返らなかった。
彼は、片手を上げた。
軽く、振った。
「――船だ! 乗れ!!」
彼は言った。
それが、彼の答えだった。
――そして、彼は、小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「……いい声だな」
彼は言った。
――そして、笑った。
「――ルシェリア」
彼は、空を見上げた。
「――聞いたか」
【見えない】
――戦いが、始まった。
リヴィアたちは、それを、船の上から見た。
――いや。
見えなかった。
速すぎて、見えなかった。
分かるのは、結果だけだった。
――島の一部が、消えた。
更地だった場所が、なくなった。地面ごと、そこにあったものが消失して、海面と同じ高さの穴が開いた。
――海が、割れた。
港の水が、両側へ押しやられて、海底が見えた。
係留されていた漁船が、五隻、そのまま海底に落ちた。落ちた瞬間に、水が両側から戻って、五隻とも見えなくなった。
――そして、空が、捻れた。
雲が、渦を巻いて、あり得ない形に曲がった。
その渦の中心が、島の上ではなく、島の斜め上にあった。空が、そこだけ別の場所に繋がっているように見えた。
「……なにあれ」
ミーナレイが、呆然と呟いた。
「あれが、理の戦いですか」
「…………」
誰も、応じられなかった。
――白い光が、幾度も瞬いた。
そのたびに、島の形が、変わった。
北の岬が、なくなった。
丘の学舎があった場所が、平らになった。
――そして、次の光で、その平らな場所が、消えた。
――そして。
船が、沖へ出た頃。
白い光が、一度だけ、大きく膨れた。
それまでの光と、質が違った。
――島全体が、白く染まった。
輪郭が、消えた。
そして。
――消えた。
リヴィアは、船縁を掴んで、それを見ていた。
白が引いた後、そこには、何もなかった。
島が、なかった。
水平線が、繋がっていた。
「…………」
「隊長……」
「……見えない」
彼女は言った。
「――何も、見えない」
――その時。
風が、吹いた。
船の帆が、大きく膨らんだ。
――追い風だった。
東から、南東から、真っ直ぐに。
十二隻の船が、一斉に、速度を上げた。
どの船も、同じだけ速度が上がった。船足の違う十二隻が、隊列を崩さなかった。
「――風が!」
「船が、走る!」
船乗りたちが、叫んだ。
「――こんな風、あり得ない!」
リヴィアは、その風を、頬に受けた。
――温かかった。
海風のはずなのに。
温かかった。
――十年、夢の最後にいつも吹いていた風と、同じ温度だった。
焦げた鉄の匂いと、溶けた石の匂いと、血の匂いの後で。
荒れた戦場には似合わない、優しくて、温かい風。
それが吹くと、目が覚めた。
(……あの風)
(――あなただったの)
「…………」
彼女は、口を押さえた。
――そして、崩れ落ちた。
「……お父さん」
彼女は言った。
「……お父さん」
風は、島影が見えなくなるまで、吹き続けた。
――そして、ぱたりと、止んだ。




